05
船長室にて――。
新たな息子として乗船することになったアルドの自己紹介を終えた後、隊長達が解散する前に白ひげはラクヨウの名を呼んだ。全く興味が無いのか欠伸をして気怠そうな表情を浮かべながら右手の小指で鼻を穿っていた男が「あァん?」と反応する。
「アルドの配属先は7番隊だ。アルドの世話はラクヨウに任せるぜ」
「へ?」
「「「えェ!?」」」
「お、オヤジ、そりゃあなんの冗談だ?」
「グララララ、おれァ至極真面目だぜ」
隊長達(ラクヨウ含む)は全員揃って驚きの声を上げた。しかし、動揺してざわつく隊長達を前にしても肝心のアルドは表情一つ変えず微動だにもしない。
ラクヨウはそんなアルドを見るなり「まいったぜ! ったく!」と、穿った鼻くそをピンッと跳ね飛ばした。その鼻くそが隣に座っていたジョズの腕にピトッとついた。
「何をする!? 汚ねェだろうが!!」
「いでっ!!」
憤慨したジョズから拳骨を食らったラクヨウは机に突っ伏した。頭にぷくりとたん瘤を作ったラクヨウは面倒だとばかりに愚痴を零していた。
それからラクヨウ一人を残して隊長達が船長室から出て行くと白ひげは電伝虫を手にして船長室に来るように連絡を入れた。
呼び出されたのは船医のナキムとナース婦長のエミリアだ。
千六百人を超える大所帯の中の一人。新たな家族として加わって以降、女であることを隠してやって行くには何かと不都合なことが多々あるだろうと見越してのことだ。
「こいつらには話しても構わねェな?」
「オヤジ様がその方が良いとされるのであれば、おれはそれに従います」
「グララララッ! あァ、良い返事だ」
アルドの了解を得た白ひげは上機嫌に笑うとアルドと浜辺で会ったことやアルドから聞いた話やアルドの素性等を全て三人に伝えた。
あまりにも現実離れした話に三人は思わず驚いて顔を強張らせたまま固まった。船長室が静まり返る中、白ひげは「てめェの好きなように扱え」とだけラクヨウに言い渡し、ラクヨウは皆に聞こえる程の盛大な溜息を吐いて頭をガシガシと掻いた。
「オヤジの指示なら仕方がねェ……。わかった、了解」
諦めたようにそう言って立ち上がったラクヨウは未だに沈黙しているアルドの側に歩み寄った。
「おいアルド」
「……はい」
「おれァ面倒臭ェのが嫌いだ。男だとか女だとか、んなもん関係無くおれの好きなように接するから覚悟しやがれ」
ラクヨウがそう言うとアルドは黙ったまま小さく頷いた。――のだが、
「おい、返事はどうした!?」
ベシンッ!
「!」
ラクヨウに頭を叩かれたアルドは目を丸くした。
「返事だ、へ・ん・じ。てめェのこれはただの飾りか? あ”ァ”ん?」
更にラクヨウはアルドの左頬をグニッと抓って軽く引っ張った。
「ッ!?」
ラクヨウは遠慮ということをしない主義だ(と言うか、遠慮という言葉を知らないと言っても良い)。例え相手が曰く付きの人間だったとしても常にマイペースに接する。分厚い壁を作る相手だろうとドカドカと土足で立ち入ってその壁を無遠慮にぶち壊してくる。
アルドにとってラクヨウの様なタイプの人は初めてで否応なしに困惑した。どう対応してどう話をすれば良いのかわからないようで、驚きと戸惑いに満ちた複雑な表情を浮かべていた。
無表情で無感情だったアルドのその小さな変化に白ひげ、そしてナキムとエミリアの三人は目を丸くすると同時に笑ったのだった。
その後――
最初はなかなか会話という会話を続けることが難しかった。しかし、ラクヨウが事あるごとにアルドの部屋を訪ねては酒を飲んでベロンベロンに酔っ払って絡むを繰り返した。酒を飲めと強要して来ることやベッドにドデンと倒れては自分の部屋みたいに眠りに落ちたり、兎にも角にも無遠慮だ。
そんなラクヨウに呆れたり困惑したりと毎日繰り返している内に、アルドは時々だが微笑を浮かべたり軽口を叩いたりするようになった。そうして更に稀ではあるが自分の思いを言葉にしたりするようにもなっていった。
そして、ある日の事だ――。宴が終わった後、ベロンベロンに酔っ払ったラクヨウがアルドの部屋に押し入ると「最強のマスターアサシンっつってもよ、完璧じゃあねェだろ? 失敗談とか弱みとか色々あるんじゃねェのか」と言い出して全部話せと強要して来た。
話すまで帰らない気だと思ったアルドは『絶対秘密』として仕方が無く過去の失敗とその時の出来事を話した。
「ブッ!? ゴホッ! はァはァ……、おま、なんだそりゃあ!?」
ラクヨウは想定外の内容に思わず酒を噴き出して瞠目した。
「おい、それをあいつは覚えてねェってのか?」
「多分そうだと思います。覚えていなくて当然です。彼にとっては様々な出来事の中のほんの小さな出来事ですから」
「つってもよ……、少なくとも二、三日は面倒を見てんだから流石に覚えてねェってことはねェだろ。話してみたら良いじゃねェか」
「別に良いんです。個人的に恩を感じているだけですから……。まさか再び会えるとは思っていなかったし、元気な姿を見ることができただけで十分です」
「お前ェ、そりゃあ言い換えれば単純に『会いたかった』ってェ感情じゃねェのか?」
「……」
「アルド、……いや、#イルマ#」
「この話は酒の席での話で止めると約束したはずです。口が固い所を買って”仕方が無く”お話したのですから他言は決して無用に願います。もし可能ならどうか忘れてください」
これは白ひげにも話をしていない。アルドの奥底に秘めた『生きる糧』となる話でありラクヨウにだけそれを打ち明けた形となった。
ラクヨウは眉間に皺を寄せると首を振りながら立ち上がってアルドの横に移動した。そして、肩に腕を回して顔を覗き込む。
「本人に話せ」
「話す気は毛頭ありません。きっと覚えてもいないだろうし今更どうしろと言うんですか?」
アルドは決して取り合わずに「他言無用です」と釘を刺すように強めの口調で言った。
アルドにとってこの気持ちはただの『恩』として残っているだけなのだとしか認識していない。故にそれ以上を求めるつもりは一切無かった。恩義を礼でもって返すことが出来ればそれは目的を果たしたようなもので終わりとなる。仇討ちのついでに運良くこれも成すことができたらば、いつでも悔いなく生を終えることができると思っていたというのが本当のところだ。
「もし万が一にでも何か事が起こって、あの人が大事に至るようなことがあれば、”私は”所属に関係無く助けに行きます。必要とあればなんだってしますし、最悪死ぬことだって構わない」
目的があるにも関わらずにそう強く言い切ったことにラクヨウは更に眉間に皺を寄せた。
―― おい、それは『恩義』というよりはもう……。
複雑な心境になりながらラクヨウは酒を呷った。
もう何も言わずに心に止めておくことに努めることにした。万が一にでもあるかもしれない”その時”の為に――。
今の話を決して忘れないように、アルドの奥底にある『真実』を記憶しておく為に――。
たった一夜限りの世迷言――のはずだった。
ラクヨウがこの手の話を好まないことをアルドは認知していた。だから忘れているものだと思っていた。しかし、時々妙なお節介めいたことをするラクヨウにあの話を決して忘れていないのだわかるとほとほと困惑したものだ。
―― 本当に……、とんでもない人がいたものだ。
自分にとっての『天敵』なんて存在しないと思っていたが、ラクヨウのような人間が天敵と言えるのかもしれない。ただ、ラクヨウがあの性格にして意外に義理堅く口が固いことが幸いした。
◇
ふと目が覚めた。少しだけぼ〜っとしていると――コンコンッ!――と、ドアをノックしている音に気付いた。
アルドは覚醒させようと頭を振りながら立ち上がると足早に向かってドアを少しだけ開けた。そこに立っていたのは過去の夢でとんでもない人だと思わしてくれたラクヨウで、「おう」と暢気な一声を上げた。黙ってドアを開けるとアルドはハッとして目を丸くした。
「……!」
「偶にはここで話そうと思ってなァ。おう、入れ」
「よう!」
「失礼するよい」
「へェ、結構良い部屋じゃん」
「寛がせてもらうよ」
「失礼する」
ラクヨウの後に続いて部屋に入って来たのはサッチやマルコにハルタとイゾウとビスタといった面々だ。彼らは部屋に入るなりソファやベッドの縁や机の椅子等に腰を下ろした。
一方、アルドがその場に立ち尽くしたままその様子を黙って見つめているとラクヨウがアルドの頭に手を置いて言った。
「悪ィがおれの部屋って汚ェからよ、暫く借してくれや」
アルドに拒否権は無いとばかりにラクヨウは「ガハハハッ」と笑って部屋に入った。
「……そう…ですか」
アルドはそれだけポツリと言うと軽く頭を下げて部屋を出て行こうとした――が、ガシッと腕を掴まれる感覚に襲われて振り向いた。
「!」
腕を掴んでいたのはマルコだ。
マルコは片眉を上げて笑みを浮かべた。
「出ていくこたァねェよい。なんなら少し付き合え」
「……いえ、隊長方の話に入る気は”更々ありません”ので、おれは席を外します」
抑揚のない声音でそう言ったアルドは自身の腕を掴むマルコの手を反対の手で掴んで離すように促した。しかし、マルコは離すつもりが無いのか掴む手に少しだけ力が込められるのを感じた。アルドは眉間に皺を寄せた。
―― あーあー……。
フードを被っている為に僅かにしか見えない表情。その変化は影に隠れて無表情にしか映ってはいないだろう。だが確実にアルドは少し動揺している。
それに気付いてるのはラクヨウだけ――では無く、ラクヨウの横で座って見ていたサッチもなんとなく察して声を掛けた。
「マルコ、離してやれ。本人が遠慮するって言ってんだから無理に付き合わすこたァねェってんだよ」
サッチが笑ってアルドに助け船を出すとマルコは眉間に皺を寄せた。そして「チッ!」と小さく舌打ちをして掴む手を離した。
―― ……。
僅かに口元を動かしたアルドは少し間を置いてから軽く頭を下げた。「ごゆっくり。失礼します」とだけ告げて足早に出て行った。
「相変わらず愛想が無いなァ」
「悪いことをしたな」
「良かったのかラクヨウ?」
「あ〜良い良い。こうでもしねェとあいつは部屋から出ねェからな。外の空気を吸うには良い機会ってなもんだ」
ハルタ、ビスタ、イゾウの言葉にラクヨウはニヤリと笑みを浮かべてそう答えた。
「なんだかんだ言ってお前も立派な保護者してんだな」
サッチは感心するように言うとラクヨウの持っていた空になったジョッキに酒を注いだ。その傍らでマルコは少し遠慮気味にアルドのベッドに腰を下ろすと腕を組んだまま溜息を吐いて眉間に皺を寄せた不機嫌な表情を浮かべていた。
―― 更々無い…か……。あいつは他人に興味すら持たねェのか。
ハルタやイゾウやビスタもマルコと同様に、それぞれ心内でアルドに対する心象を言葉にせず考えているのだろう。そんな彼らを前にしてラクヨウとサッチはお互いにチラリと目を向けた。
サッチは軽く肩を竦めながら小さくかぶりを振って苦笑を浮かべた。片やラクヨウは鼻から息を吐くと何事も無かったかのように酒を呷って視線を明後日へと向けて小さく舌打ちをした。
―― あいつはなんではっきりと声に出さねェんだ……ったく。
ラクヨウは不満に思っていた。マルコが手を離した時、アルドは口元を僅かに動かした。それは――すみません――と、マルコに向けての言葉だった。しかし、はっきりと声に出さなくては相手に通じない。
あの動揺はきっとアルドとしての心と#イルマ#としての心が鬩ぎ合って混乱が生じた為だろう。頑なな心を抉じ開ける起爆剤としては多少効果があったかもしれない。しかし、強硬して接点を持たせてやろうとして失敗したことに変わりは無い。
ラクヨウにしてはこの時の酒は珍しく美味いと感じることができなかった。
◇
船尾には一段下がった小さなスペースがあった。ここに人が来ることは滅多に無い。アルドにとっては部屋に次いで最も慣れ親しんだ場所でもある。部屋にいない時は大抵この場所で海を眺めていることが多いのだ。
甲板に出たアルドは船尾に向かって気配を消して静かに歩いた。周囲の気配に細心の注意を払って誰も居ないことを確認するとその場所に身を寄せた。
「……」
普段から船内を行動する際は常にそうだ。自ら気配を消し、存在感を薄め、周囲の気配に細心の注意を払って人目のつかないところに身を置いて時間を過ごしていた。故に、敵襲があると先見の明で誰よりも早く感知することができて命令前に既に海に飛び込んで敵艦に忍び込み制圧する。
見張り番の時は特に行動が早い為、敵が攻めて来ても防御一辺倒で事が済むのである。
これについてはラクヨウと7番隊の隊員達にだけカラクリを明かしている。最初こそ7番隊の隊員達もラクヨウもアルドの単独行動を渋ったのだが、事あるごとにアルドがあっさりと事を片付けてしまうことに感嘆し、彼の実力の片鱗を知った彼らは何も言わずに納得してくれたし口外することも無く黙っていてくれた。
だからこそ、この十年もの間で彼の存在は千六百人の中の一隊員としての扱いだけで済んでいたのだ。
「……! ……いる」
海を眺めていたアルドは気配を感知した。モビー・ディック号に向かって敵意を持って近付いて来る船の存在がいることを――。だが、今回の見張りは2番隊である。
―― どうする?
〜〜〜〜〜
「今度、他の隊が見張りの時にもし襲撃があったら、お前ェは船医室で女共を守る配置に就け」
〜〜〜〜〜
数日前の襲撃後にラクヨウからそう指示を受けていたことを思い出した。
―― ここは素直に従っておいた方が良いかもしれないな。
アルドはその場を離れると船医室へ向かうべく船内へと入った。そうして食堂を抜けた所に差し掛かった時、――ドォォン!!――と、大きな着弾音と共に船がガタンと大きく揺れた。
「敵襲だ!!」
「敵襲だァァァ!!」
敵襲を知らせる声が上がると同時に警鐘が慌しく鳴らされた。船内にいた隊員達は武器を手にして慌しく船外の甲板へと目指した。少しして各隊長達も慌しく甲板へと向かって走って行く。
そんな中を真逆に船内奥へと向かうアルドの気配に気付いて足を止めた男がいた。――マルコだ。
「おい、マルコ!」
ラクヨウは咄嗟にマルコの腕を掴むとかぶりを振って「外だ」と顎で示した。しかし、マルコは表情を険しくしてラクヨウの腕を振り払った。
「てめェ何を考えてやがんだ!」
「いい加減にしろよいラクヨウ」
「……あ”?」
マルコはラクヨウを睨み付けて静かにそう言うと船内奥へと足を向けようとした。
「はーい、待った待った! なァに睨み合ってんのよ。仲間内で喧嘩してる場合じゃねェでしょ?」
仲違いをするマルコとラクヨウの間を取り持つようにサッチが割って入った。そして、船内へ向かおうとするマルコの前に立ち塞がって制止した。
「どけよいサッチ!」
「やるべきことをやれってんだよ! まずは敵の排除! 1番隊隊長が行かねェと示しがつかねェだろ!?」
睨み付けるマルコに対してサッチは首を振って怒鳴った。マルコはギリッと奥歯を噛み締めるとラクヨウに目を向けた。
「ラクヨウ、今回の見張りは2番隊だ。だがこれがもし7番隊だったとしたら、こんな敵襲は起きる前に既に制圧してんじゃねェのか?」
「!」
マルコの言葉にサッチは思わず目を丸くしてラクヨウへと顔を向けた。
「ガハハハッ! あーったりめェだ! 7番隊を舐めんなよマルコ!」
ラクヨウはそう言うと甲板に向けて走り出した。
「おいラクヨウ!」
「おれはやるべきことをやりに行くぜ!」
「くっ……!」
欲しかった答えでは無かった。またしてもラクヨウにはぐらかされる形となったことにマルコは「くそっ!」と言葉を吐き捨てた。そして、自分を押し留めたサッチの手を払って睨み付けた。
サッチは片眉を上げて溜息を吐くと「やれやれ」といった態度を示して軽く笑った。
「てめェ……、何故邪魔をしやがんだよい」
「なんのこと?」
「白を切る気か?」
「なァマルコ……、アルドのことをなんで今更になって気にし始めてんだ?」
「……不審に思った。……そう言ったら納得するか?」
「は? おいおい、待てって。十年も同じ船に乗ってんだぞ? そんなのってマジで今更過ぎるでしょ!」
「あいつが何者かなんて考えたことが無かったからだ。それを考え出したら……気になった」
マルコはそれだけ告げると甲板へと向かった。その一方で、サッチはマルコの背中を見つめて「成程……ね」と、ポツリと零した。
「オヤジが連れて来たってェのが何よりお前の警戒心を削いだってわけだ」
まさかここに来てマルコが警戒心を持って疑念や猜疑心をアルドに向けることになるとは流石に思っていなかった。更に、それをラクヨウに対しても向けられとは――。
今更ではあるが、これは仕方が無いことでもある。マルコの性分をよく知っているからこそ察してしまう。
―― あー、もう、どうしてこうも皆の心情を察してやれちゃうのかなァ。おれってやっぱりマジ天才だったりする?
「……って、自画自賛してる場合じゃねェっての」
そう独り言ちたサッチは船長室へと向かうことにした。敵襲に対する防衛もあるが、どちらかというと家族内の絆に少しずつ綻びが出始めていることを告げる為だ。
この船においてマルコを宥めることができる人物は一人しかいない。マルコに話をして納得させるにはオヤジ以外の言葉しか無いのだ。
溝が深くなってしまう前に事は速やかに終わらせることに越したことは無いのだから……。
新たな息子として乗船することになったアルドの自己紹介を終えた後、隊長達が解散する前に白ひげはラクヨウの名を呼んだ。全く興味が無いのか欠伸をして気怠そうな表情を浮かべながら右手の小指で鼻を穿っていた男が「あァん?」と反応する。
「アルドの配属先は7番隊だ。アルドの世話はラクヨウに任せるぜ」
「へ?」
「「「えェ!?」」」
「お、オヤジ、そりゃあなんの冗談だ?」
「グララララ、おれァ至極真面目だぜ」
隊長達(ラクヨウ含む)は全員揃って驚きの声を上げた。しかし、動揺してざわつく隊長達を前にしても肝心のアルドは表情一つ変えず微動だにもしない。
ラクヨウはそんなアルドを見るなり「まいったぜ! ったく!」と、穿った鼻くそをピンッと跳ね飛ばした。その鼻くそが隣に座っていたジョズの腕にピトッとついた。
「何をする!? 汚ねェだろうが!!」
「いでっ!!」
憤慨したジョズから拳骨を食らったラクヨウは机に突っ伏した。頭にぷくりとたん瘤を作ったラクヨウは面倒だとばかりに愚痴を零していた。
それからラクヨウ一人を残して隊長達が船長室から出て行くと白ひげは電伝虫を手にして船長室に来るように連絡を入れた。
呼び出されたのは船医のナキムとナース婦長のエミリアだ。
千六百人を超える大所帯の中の一人。新たな家族として加わって以降、女であることを隠してやって行くには何かと不都合なことが多々あるだろうと見越してのことだ。
「こいつらには話しても構わねェな?」
「オヤジ様がその方が良いとされるのであれば、おれはそれに従います」
「グララララッ! あァ、良い返事だ」
アルドの了解を得た白ひげは上機嫌に笑うとアルドと浜辺で会ったことやアルドから聞いた話やアルドの素性等を全て三人に伝えた。
あまりにも現実離れした話に三人は思わず驚いて顔を強張らせたまま固まった。船長室が静まり返る中、白ひげは「てめェの好きなように扱え」とだけラクヨウに言い渡し、ラクヨウは皆に聞こえる程の盛大な溜息を吐いて頭をガシガシと掻いた。
「オヤジの指示なら仕方がねェ……。わかった、了解」
諦めたようにそう言って立ち上がったラクヨウは未だに沈黙しているアルドの側に歩み寄った。
「おいアルド」
「……はい」
「おれァ面倒臭ェのが嫌いだ。男だとか女だとか、んなもん関係無くおれの好きなように接するから覚悟しやがれ」
ラクヨウがそう言うとアルドは黙ったまま小さく頷いた。――のだが、
「おい、返事はどうした!?」
ベシンッ!
「!」
ラクヨウに頭を叩かれたアルドは目を丸くした。
「返事だ、へ・ん・じ。てめェのこれはただの飾りか? あ”ァ”ん?」
更にラクヨウはアルドの左頬をグニッと抓って軽く引っ張った。
「ッ!?」
ラクヨウは遠慮ということをしない主義だ(と言うか、遠慮という言葉を知らないと言っても良い)。例え相手が曰く付きの人間だったとしても常にマイペースに接する。分厚い壁を作る相手だろうとドカドカと土足で立ち入ってその壁を無遠慮にぶち壊してくる。
アルドにとってラクヨウの様なタイプの人は初めてで否応なしに困惑した。どう対応してどう話をすれば良いのかわからないようで、驚きと戸惑いに満ちた複雑な表情を浮かべていた。
無表情で無感情だったアルドのその小さな変化に白ひげ、そしてナキムとエミリアの三人は目を丸くすると同時に笑ったのだった。
その後――
最初はなかなか会話という会話を続けることが難しかった。しかし、ラクヨウが事あるごとにアルドの部屋を訪ねては酒を飲んでベロンベロンに酔っ払って絡むを繰り返した。酒を飲めと強要して来ることやベッドにドデンと倒れては自分の部屋みたいに眠りに落ちたり、兎にも角にも無遠慮だ。
そんなラクヨウに呆れたり困惑したりと毎日繰り返している内に、アルドは時々だが微笑を浮かべたり軽口を叩いたりするようになった。そうして更に稀ではあるが自分の思いを言葉にしたりするようにもなっていった。
そして、ある日の事だ――。宴が終わった後、ベロンベロンに酔っ払ったラクヨウがアルドの部屋に押し入ると「最強のマスターアサシンっつってもよ、完璧じゃあねェだろ? 失敗談とか弱みとか色々あるんじゃねェのか」と言い出して全部話せと強要して来た。
話すまで帰らない気だと思ったアルドは『絶対秘密』として仕方が無く過去の失敗とその時の出来事を話した。
「ブッ!? ゴホッ! はァはァ……、おま、なんだそりゃあ!?」
ラクヨウは想定外の内容に思わず酒を噴き出して瞠目した。
「おい、それをあいつは覚えてねェってのか?」
「多分そうだと思います。覚えていなくて当然です。彼にとっては様々な出来事の中のほんの小さな出来事ですから」
「つってもよ……、少なくとも二、三日は面倒を見てんだから流石に覚えてねェってことはねェだろ。話してみたら良いじゃねェか」
「別に良いんです。個人的に恩を感じているだけですから……。まさか再び会えるとは思っていなかったし、元気な姿を見ることができただけで十分です」
「お前ェ、そりゃあ言い換えれば単純に『会いたかった』ってェ感情じゃねェのか?」
「……」
「アルド、……いや、#イルマ#」
「この話は酒の席での話で止めると約束したはずです。口が固い所を買って”仕方が無く”お話したのですから他言は決して無用に願います。もし可能ならどうか忘れてください」
これは白ひげにも話をしていない。アルドの奥底に秘めた『生きる糧』となる話でありラクヨウにだけそれを打ち明けた形となった。
ラクヨウは眉間に皺を寄せると首を振りながら立ち上がってアルドの横に移動した。そして、肩に腕を回して顔を覗き込む。
「本人に話せ」
「話す気は毛頭ありません。きっと覚えてもいないだろうし今更どうしろと言うんですか?」
アルドは決して取り合わずに「他言無用です」と釘を刺すように強めの口調で言った。
アルドにとってこの気持ちはただの『恩』として残っているだけなのだとしか認識していない。故にそれ以上を求めるつもりは一切無かった。恩義を礼でもって返すことが出来ればそれは目的を果たしたようなもので終わりとなる。仇討ちのついでに運良くこれも成すことができたらば、いつでも悔いなく生を終えることができると思っていたというのが本当のところだ。
「もし万が一にでも何か事が起こって、あの人が大事に至るようなことがあれば、”私は”所属に関係無く助けに行きます。必要とあればなんだってしますし、最悪死ぬことだって構わない」
目的があるにも関わらずにそう強く言い切ったことにラクヨウは更に眉間に皺を寄せた。
―― おい、それは『恩義』というよりはもう……。
複雑な心境になりながらラクヨウは酒を呷った。
もう何も言わずに心に止めておくことに努めることにした。万が一にでもあるかもしれない”その時”の為に――。
今の話を決して忘れないように、アルドの奥底にある『真実』を記憶しておく為に――。
たった一夜限りの世迷言――のはずだった。
ラクヨウがこの手の話を好まないことをアルドは認知していた。だから忘れているものだと思っていた。しかし、時々妙なお節介めいたことをするラクヨウにあの話を決して忘れていないのだわかるとほとほと困惑したものだ。
―― 本当に……、とんでもない人がいたものだ。
自分にとっての『天敵』なんて存在しないと思っていたが、ラクヨウのような人間が天敵と言えるのかもしれない。ただ、ラクヨウがあの性格にして意外に義理堅く口が固いことが幸いした。
◇
ふと目が覚めた。少しだけぼ〜っとしていると――コンコンッ!――と、ドアをノックしている音に気付いた。
アルドは覚醒させようと頭を振りながら立ち上がると足早に向かってドアを少しだけ開けた。そこに立っていたのは過去の夢でとんでもない人だと思わしてくれたラクヨウで、「おう」と暢気な一声を上げた。黙ってドアを開けるとアルドはハッとして目を丸くした。
「……!」
「偶にはここで話そうと思ってなァ。おう、入れ」
「よう!」
「失礼するよい」
「へェ、結構良い部屋じゃん」
「寛がせてもらうよ」
「失礼する」
ラクヨウの後に続いて部屋に入って来たのはサッチやマルコにハルタとイゾウとビスタといった面々だ。彼らは部屋に入るなりソファやベッドの縁や机の椅子等に腰を下ろした。
一方、アルドがその場に立ち尽くしたままその様子を黙って見つめているとラクヨウがアルドの頭に手を置いて言った。
「悪ィがおれの部屋って汚ェからよ、暫く借してくれや」
アルドに拒否権は無いとばかりにラクヨウは「ガハハハッ」と笑って部屋に入った。
「……そう…ですか」
アルドはそれだけポツリと言うと軽く頭を下げて部屋を出て行こうとした――が、ガシッと腕を掴まれる感覚に襲われて振り向いた。
「!」
腕を掴んでいたのはマルコだ。
マルコは片眉を上げて笑みを浮かべた。
「出ていくこたァねェよい。なんなら少し付き合え」
「……いえ、隊長方の話に入る気は”更々ありません”ので、おれは席を外します」
抑揚のない声音でそう言ったアルドは自身の腕を掴むマルコの手を反対の手で掴んで離すように促した。しかし、マルコは離すつもりが無いのか掴む手に少しだけ力が込められるのを感じた。アルドは眉間に皺を寄せた。
―― あーあー……。
フードを被っている為に僅かにしか見えない表情。その変化は影に隠れて無表情にしか映ってはいないだろう。だが確実にアルドは少し動揺している。
それに気付いてるのはラクヨウだけ――では無く、ラクヨウの横で座って見ていたサッチもなんとなく察して声を掛けた。
「マルコ、離してやれ。本人が遠慮するって言ってんだから無理に付き合わすこたァねェってんだよ」
サッチが笑ってアルドに助け船を出すとマルコは眉間に皺を寄せた。そして「チッ!」と小さく舌打ちをして掴む手を離した。
―― ……。
僅かに口元を動かしたアルドは少し間を置いてから軽く頭を下げた。「ごゆっくり。失礼します」とだけ告げて足早に出て行った。
「相変わらず愛想が無いなァ」
「悪いことをしたな」
「良かったのかラクヨウ?」
「あ〜良い良い。こうでもしねェとあいつは部屋から出ねェからな。外の空気を吸うには良い機会ってなもんだ」
ハルタ、ビスタ、イゾウの言葉にラクヨウはニヤリと笑みを浮かべてそう答えた。
「なんだかんだ言ってお前も立派な保護者してんだな」
サッチは感心するように言うとラクヨウの持っていた空になったジョッキに酒を注いだ。その傍らでマルコは少し遠慮気味にアルドのベッドに腰を下ろすと腕を組んだまま溜息を吐いて眉間に皺を寄せた不機嫌な表情を浮かべていた。
―― 更々無い…か……。あいつは他人に興味すら持たねェのか。
ハルタやイゾウやビスタもマルコと同様に、それぞれ心内でアルドに対する心象を言葉にせず考えているのだろう。そんな彼らを前にしてラクヨウとサッチはお互いにチラリと目を向けた。
サッチは軽く肩を竦めながら小さくかぶりを振って苦笑を浮かべた。片やラクヨウは鼻から息を吐くと何事も無かったかのように酒を呷って視線を明後日へと向けて小さく舌打ちをした。
―― あいつはなんではっきりと声に出さねェんだ……ったく。
ラクヨウは不満に思っていた。マルコが手を離した時、アルドは口元を僅かに動かした。それは――すみません――と、マルコに向けての言葉だった。しかし、はっきりと声に出さなくては相手に通じない。
あの動揺はきっとアルドとしての心と#イルマ#としての心が鬩ぎ合って混乱が生じた為だろう。頑なな心を抉じ開ける起爆剤としては多少効果があったかもしれない。しかし、強硬して接点を持たせてやろうとして失敗したことに変わりは無い。
ラクヨウにしてはこの時の酒は珍しく美味いと感じることができなかった。
◇
船尾には一段下がった小さなスペースがあった。ここに人が来ることは滅多に無い。アルドにとっては部屋に次いで最も慣れ親しんだ場所でもある。部屋にいない時は大抵この場所で海を眺めていることが多いのだ。
甲板に出たアルドは船尾に向かって気配を消して静かに歩いた。周囲の気配に細心の注意を払って誰も居ないことを確認するとその場所に身を寄せた。
「……」
普段から船内を行動する際は常にそうだ。自ら気配を消し、存在感を薄め、周囲の気配に細心の注意を払って人目のつかないところに身を置いて時間を過ごしていた。故に、敵襲があると先見の明で誰よりも早く感知することができて命令前に既に海に飛び込んで敵艦に忍び込み制圧する。
見張り番の時は特に行動が早い為、敵が攻めて来ても防御一辺倒で事が済むのである。
これについてはラクヨウと7番隊の隊員達にだけカラクリを明かしている。最初こそ7番隊の隊員達もラクヨウもアルドの単独行動を渋ったのだが、事あるごとにアルドがあっさりと事を片付けてしまうことに感嘆し、彼の実力の片鱗を知った彼らは何も言わずに納得してくれたし口外することも無く黙っていてくれた。
だからこそ、この十年もの間で彼の存在は千六百人の中の一隊員としての扱いだけで済んでいたのだ。
「……! ……いる」
海を眺めていたアルドは気配を感知した。モビー・ディック号に向かって敵意を持って近付いて来る船の存在がいることを――。だが、今回の見張りは2番隊である。
―― どうする?
〜〜〜〜〜
「今度、他の隊が見張りの時にもし襲撃があったら、お前ェは船医室で女共を守る配置に就け」
〜〜〜〜〜
数日前の襲撃後にラクヨウからそう指示を受けていたことを思い出した。
―― ここは素直に従っておいた方が良いかもしれないな。
アルドはその場を離れると船医室へ向かうべく船内へと入った。そうして食堂を抜けた所に差し掛かった時、――ドォォン!!――と、大きな着弾音と共に船がガタンと大きく揺れた。
「敵襲だ!!」
「敵襲だァァァ!!」
敵襲を知らせる声が上がると同時に警鐘が慌しく鳴らされた。船内にいた隊員達は武器を手にして慌しく船外の甲板へと目指した。少しして各隊長達も慌しく甲板へと向かって走って行く。
そんな中を真逆に船内奥へと向かうアルドの気配に気付いて足を止めた男がいた。――マルコだ。
「おい、マルコ!」
ラクヨウは咄嗟にマルコの腕を掴むとかぶりを振って「外だ」と顎で示した。しかし、マルコは表情を険しくしてラクヨウの腕を振り払った。
「てめェ何を考えてやがんだ!」
「いい加減にしろよいラクヨウ」
「……あ”?」
マルコはラクヨウを睨み付けて静かにそう言うと船内奥へと足を向けようとした。
「はーい、待った待った! なァに睨み合ってんのよ。仲間内で喧嘩してる場合じゃねェでしょ?」
仲違いをするマルコとラクヨウの間を取り持つようにサッチが割って入った。そして、船内へ向かおうとするマルコの前に立ち塞がって制止した。
「どけよいサッチ!」
「やるべきことをやれってんだよ! まずは敵の排除! 1番隊隊長が行かねェと示しがつかねェだろ!?」
睨み付けるマルコに対してサッチは首を振って怒鳴った。マルコはギリッと奥歯を噛み締めるとラクヨウに目を向けた。
「ラクヨウ、今回の見張りは2番隊だ。だがこれがもし7番隊だったとしたら、こんな敵襲は起きる前に既に制圧してんじゃねェのか?」
「!」
マルコの言葉にサッチは思わず目を丸くしてラクヨウへと顔を向けた。
「ガハハハッ! あーったりめェだ! 7番隊を舐めんなよマルコ!」
ラクヨウはそう言うと甲板に向けて走り出した。
「おいラクヨウ!」
「おれはやるべきことをやりに行くぜ!」
「くっ……!」
欲しかった答えでは無かった。またしてもラクヨウにはぐらかされる形となったことにマルコは「くそっ!」と言葉を吐き捨てた。そして、自分を押し留めたサッチの手を払って睨み付けた。
サッチは片眉を上げて溜息を吐くと「やれやれ」といった態度を示して軽く笑った。
「てめェ……、何故邪魔をしやがんだよい」
「なんのこと?」
「白を切る気か?」
「なァマルコ……、アルドのことをなんで今更になって気にし始めてんだ?」
「……不審に思った。……そう言ったら納得するか?」
「は? おいおい、待てって。十年も同じ船に乗ってんだぞ? そんなのってマジで今更過ぎるでしょ!」
「あいつが何者かなんて考えたことが無かったからだ。それを考え出したら……気になった」
マルコはそれだけ告げると甲板へと向かった。その一方で、サッチはマルコの背中を見つめて「成程……ね」と、ポツリと零した。
「オヤジが連れて来たってェのが何よりお前の警戒心を削いだってわけだ」
まさかここに来てマルコが警戒心を持って疑念や猜疑心をアルドに向けることになるとは流石に思っていなかった。更に、それをラクヨウに対しても向けられとは――。
今更ではあるが、これは仕方が無いことでもある。マルコの性分をよく知っているからこそ察してしまう。
―― あー、もう、どうしてこうも皆の心情を察してやれちゃうのかなァ。おれってやっぱりマジ天才だったりする?
「……って、自画自賛してる場合じゃねェっての」
そう独り言ちたサッチは船長室へと向かうことにした。敵襲に対する防衛もあるが、どちらかというと家族内の絆に少しずつ綻びが出始めていることを告げる為だ。
この船においてマルコを宥めることができる人物は一人しかいない。マルコに話をして納得させるにはオヤジ以外の言葉しか無いのだ。
溝が深くなってしまう前に事は速やかに終わらせることに越したことは無いのだから……。
記憶*ラクヨウ
【〆栞】