01
風が走る――。
走って行く姿を見送ったビスタは、目を細めてそう思った。
逃走した男の足は非常に速くて誰も追いつけなかった。その為、1番隊隊長のマルコが不死鳥化して空より追尾をするのだが、逃走する男から離れること数十メートル後方に、青いサッシュを靡かせながら風を切るように追撃する者の姿があった。
「相変わらず凄ェな。障害物なんて何も関係無ェか」
高い壁を勢いのまま駆け上がり、少しの出っ張りがあれば指や足先に引っ掛けてそれを飛び越える。水路に入れば杭を頼りに軽い足取りで駆け抜けて人が行き交う町並に出ると、人が行き交う通路の中央を突き進むのでは無く、佇む建物の屋根へと駆け上がってその上を辿って走る。
逃げた男は必死だった。
この男は海賊だ。海賊で、卑怯で、裏切りを繰り返す最低な男だ。生かす価値は無いとされた。だからと言って殺す必要も無いのだが、この男は白ひげ海賊団の若いナースを引っ掛けて殺害した。
よくある強姦だ。
遊ぶだけ遊んで殺したのだ。
放っておける訳も無い。
ナースと言えど『家族』だからだ。
ヒュンッーー!
「!?」
町を駆け抜けて再び裏路地に身を隠そうとした先で風を切る音を耳にした。
男は顔を上げて目を丸くした。
人の手が目の前にあった。その手が男の目元を隠すと同時に足を払われて、男はドサリと地面に引き倒された。
ズブッ!――と、鈍い音と痛みが首筋を中心に走った途端に呼吸が乱れて全身から力が抜け落ちて行くのを感じた。
薄らと移る視界には、黒い衣服を纏い革製の装具に身を包んだフードを目深に被った者の姿で、自分の側に腰を下ろして顔を覗き込んで来た。
―― くそ……、化物か…? 息一つ、切らして…ねェ…。
秀麗な面持ちではあるが、無機質な表情で死にゆく自分をじっと見つめている。そして、その者は小さな声で餞別の言葉を送った。
「汝、罪人なれど決して救われぬことはなし。眠れ、安らかに」
予想していた声音とは違った。中性的だが、この声音は女だ。
―― はっ……、お、女に…殺される…か。…わ、悪く…ねェ…。
男はそのまま絶命した。二度と光あるこの世界を『この者として』生きることは無い。
「死んだか?」
青い炎を纏いながら地上に降り立ったマルコに、彼女は振り向くこと無く「はい」と頷いた。そっと手を伸ばして、死んだ男の開いた瞼を閉じて両手を腹の上に重ねてやる。
「なら戻るよい」
「このままで?」
「気付いた奴が葬るだろうよい。最低限なことはしてやったろい?」
マルコが指で指した先は両手を重ねた遺体。
「それで十分だ。行くよい#イルマ#」
「わかりました」
目深に被ったフードを自ら取り払った#イルマ#は、左腕に装備したアサシンブレードの血糊を掃うように振ってから手首を返してブレードを収めた。
相変わらずの無表情ではあるが少しだけ変わったことがある。それは殺した相手に対する扱い方だ。決して蔑ろにはせずに、死にゆく者を最後まで看取るようになったのだ。少しずつではあるが、彼女は確実に『人としての心』を得つつあった。
◇
マルコと共に町へと出た#イルマ#は、溜息を漏らして下腹部に手を当てた。男を追っている間は気にも留めなかったというのに、流石に普段と違って身体が重いと感じた。
「マルコさん、この後、お休みをください」
「どうした?」
「初日なんです」
#イルマ#の返事にマルコは目を丸くした。そして、「あァ……」と声を漏らしつつ頭をガシガシと掻いた。女特有の月のものか――。
「いつから」
「男を追う前に……」
しかし、重い身体でよくもまァあれだけ動けたもんだとマルコが思っていると、「ですから――」と続けた#イルマ#は、早く船に戻りたいのだと告げてマルコの袖をクイッと軽く引っ張った。
「それは……、暗に飛べって言ってんのか?」
「ご厚意を頂けるのなら是非」
「言っとくが、おれは隊長でお前の上司だぞ。それでも」
「可愛い部下の頼みを聞いてくださる優しい隊長で助かります」
「――ッ……」
近頃は遠慮というものが無くなりつつあった。それは良いのだが、時々、元隊長だったラクヨウに対する時と同じような対応をしてくることがある。今がまさにそれなのだが――。
「痛みはあるのか?」
「少し……」
こればかりは慣れる気がしないと#イルマ#は下腹部を擦りながら零した。
遠慮が無くなりつつあっても甘えて来ることなんて滅多に無い。それなのに珍しく袖を引っ張ってまで訴えるぐらいなのだから余程辛いのだろう。
「仕方が無ェか」
小さく溜息を吐いたマルコは青い炎を纏い不死鳥と化した。#イルマ#が極自然にマルコの背中へと飛び乗ると、マルコは数回羽ばたいて風に乗るようにして空高く舞った。そして、山の尾根を越えた先の港町に停泊した見慣れた船を視界に捉えると一気に下降して船の甲板へと降り立った。
マルコが不死鳥化を解くと同時に#イルマ#は飛び降りて、出迎える隊員達に軽く頭を下げてさっさと船内へと姿を消した。
「不愛想っぷりは相変わらずだな」
「あれでもマシになった方だよい」
煙管を口に含んでやれやれとばかりにかぶりを振るイゾウに軽く肩を竦めたマルコは、町へと視線を向けた。逃げた男を追って走っていた者達が続々と戻って来る姿に目を細めてクツリと笑った。
「マルコ、奴はやったのか?」
「あァ。アルドがやったよい」
「やれやれ、近頃は7番隊がいなければ手柄は全て1番隊に持っていかれるな」
ぜェぜェと息を切らす5番隊を引き連れて戻ったビスタは髭を弄りながら笑った。
「ログも丁度溜まった頃だ。早いとこ出港の準備に取り掛かれよい」
「「「ちょ、ちょっと休ませてください隊長!」」」
誰もが悲鳴を上げると隊長達は大きな声を上げて笑った。賑わいのあるいつもの光景がそこにあった。そして、このような場に#イルマ#がいないのも、いつものことだった。
◇
自室に戻った#イルマ#はシャワーを浴びた後、ソファに腰を下ろして大きく息を吐きながら慣れない腹痛に顔を顰めた。こういう時はいつも自分の性別が『女』であることが嫌だと感じる。
―― ……はァ、……本当に不便だ。
エミリアから聞いた話では、それは人それぞれ個人差があるらしいが、ラクアナ島から7番隊として迎えられた元アサシンのリーザは『軽い方』らしい。その為、彼女は普段と変わらない行動ができるそうだ。
全く羨ましい――と、『重い方』に属した為に普段と比べて動きが鈍くなってしまう#イルマ#は小さく嘆き節を零した。時々貧血気味になるのか足がふら付くことさえある。病気では無いというが辛いものは辛い。
温かい飲み物でも飲んでリラックスしようとソファから立ち上がった時、この部屋に訪れようとする男の気配を察した。
「アルド! 悪いんだけど!!」
運の悪いことに――の前に、
「エース隊長、ノックをしてくださいと何度もお願いをしているはずですが……」
「ん? あァ、そうだった。悪ィ」
苦笑を浮かべたエースは、それより書類なんだけどさ――と、話を続けた。
――『それより』では無くて……、私が困るんです。
いつかはアルドが女で、本当の名前が#イルマ#であるとばれてしまうだろう。だがその日は案外近いかもしれない――と、エースの顔を見つめながら#イルマ#は度々思う。
書類の説明をして書き直しの修正を手伝うのだが、今日は本当に体調が優れない為に集中できない。
「で、よし……っと、これで良いか?」
「はい……」
「っつぅか、さっきから顔色が悪いみてェだが、体調でも悪いのか?」
「少し、疲労です。休めば直りますから心配の必要は――」
「ん、ちょっと待ってろ」
「――……」
最後まで人の話を聞かずにエースは部屋を飛び出して行った。これも通常運転だ。毎回、制止しようと「待ってください!」と声を上げて手を伸ばすものの、その手は所在なさげに宙を彷徨いパタリと落ちるのだが、今回はそれをしなかった。する気も無かった。「心配の必要」と言った時点で直ぐにわかった。あァ、最後まで聞かないでまた飛び出していきますね――と。
そして、数分後――
エースが連れて来るのは気配で直ぐにわかる。あの人だ。出港準備やら何やらで忙しいというのに、本当に申し訳無いと思いながら#イルマ#はエースの作った書類をチェックした。そして、それが終える頃にエースとあの人が部屋に入って来た。
「書類、チェック済みです。問題はありませんでした」
「お、んじゃ合格か?」
「はい、ご苦労様でした」
「あー、これでやっと自由の身だ。助かったぜアルド」
オレンジ色のテンガロンハットを手で抑えながら軽く手を振ったエースは、「早く体調治せよ!」と言って元気良く部屋を出て行った。
「ったく、あいつは……」
「毎回、本当にすみません」
何故、自分が頭を下げて謝らなければならないのか。これも毎回釈然としないのだが、最早恒例行事のようなものだ。
「少し…、寝ます」
「少しじゃねェ、ゆっくり休んで構わねェよい」
「ッ……」
「こればかりは本当に仕方が無ェんだから気にするな」
エースの書類を手にしながらクツリと笑ったマルコは、#イルマ#の頭に手を置いてポンポンと弾ませてからクシャリと撫でた。
「もう直ぐ出港するから、落ち着いた頃にまた見に来てやるよい」
「あ、いえ、その、本当に大丈夫です。忙しいのにわざわざ――」
慌てて頭を振って断ろうとした#イルマ#だったが、問答無用に頭をガシッと鷲掴みされた。
「うぐっ!」
ギリギリミシミシという音が軽く聴こえる。
「遠慮はいらねェ。おれがそうしてェんだよい」
―― ちょっ、これ以上、負荷を掛けられるのは本当に辛い!
少し悪い笑みを浮かべたマルコはパッと手を離した。フラフラと少し後退った#イルマ#は、ヘナヘナとベッドの端に腰を下ろして両手で頭を抱えた。
「鬼……」
「遠慮するからだ」
「少しは加減してください」
「帰る前は素直に甘えたろうが」
「――う……」
片眉と口端を上げた笑みを浮かべたマルコに言葉を詰まらせた#イルマ#は堪らずそっぽを向いた。
「……お願い…します……」
諦め気味に小さく呟いた#イルマ#は、溜息を漏らすと今度はちゃんと「お願いします」と改めてマルコに向けて頭を下げた。真面目かよい――と、くつくつ笑ったマルコは、#イルマ#の前で腰を下ろして#イルマ#の顔を見上げた。そして、そっと手を伸ばして頬に軽く触れると優しい笑みで「悪かった」と謝罪の弁を告げた。
最近、何かとこうしたことがある度にマルコが最後に謝る。別に本当に悪いと思っての事では無い。こうして頬に手を添えて軽く触れながら優しい笑みを浮かべて言葉を投げ掛ける行為は、マルコにとって#イルマ#に対する愛情表現に他ならない。そして、#イルマ#もまたそれによって心が温かくなるのを感じると自然な笑みを零すようになった。
「何か欲しいものは?」
「温かい飲み物が欲しいです。あと、少しフラフラするので……」
「少し貧血気味か。わかった。ならサッチに用意させるよい」
マルコはそう言うと立ち上がって部屋を後にした。#イルマ#は大きく息を吐いてベッドにぱたりと横になると身を屈めてお腹に手を当てた。
「……」
マルコはラクヨウと違って本当に面倒見が良い。良過ぎるぐらいだ。もし未だにラクヨウの部下だったならば、部屋に居座って酒を飲んだ挙句にベッドを奪って寝たことだろう。
―― あれは本当に酷かった。
感情の起伏がゼロに等しいと自覚している自分でさえも、あの時の恨みっぷりは相当なものだったと、今になっても思う。――が、懐かしい思い出話だと#イルマ#は微笑を零した。
ラクアナ島以降、マルコは何かと#イルマ#を気に掛けた。アルドの時も気に掛けてくれてはいたがそれ以上だ。最初こそ戸惑ったものの、マルコの優しさが嬉しくて、気付けば素直に受け取るようになっていた。そのおかげで、少しずつでも感情というものを素直に出せるようになったように思える。
何も言い返せなくなってそっぽを向くなんて、ラクヨウにはまず見せたことの無い行動だった。
「ラクヨウ隊長は……、リーザが上手く手綱を持てれば良いが」
7番隊は現在モビー・ディック号から離れて別行動中だ。遠く離れた縄張りとする島に新規の海賊が侵略して悪さを繰り返しているとの情報が入り、その駆逐の為に彼らはその島に向かったのだ。恐らく今頃は新規の海賊達が悲鳴を上げて泣き叫んでいる頃だろう。
「ガッハッハッ! これに懲りたらバカなことを二度としやがんじゃねェぞ! わかったか!!」
「「「ずびばぜん”でじだァ”ァ”ァ”っ”!!」」」
「おう! 今夜は勝鬨祝いの酒だ!!」
「「「いよっしゃァァァ!!」」」
「ラクヨウ隊長、お酒は控えさせなさいとのエミリア様からのご指示を頂いたので、倉庫から全て撤去させて頂きました」
「なんだと!?」
「「「えェェェェ!?」」」
「皆さんも連帯で暫くは禁酒生活をお願いします。それでは敵の駆逐も終えましたので帰還しましょう」
無表情で淡々と告げたリーザは、さっさと仕事場へと戻って行った。リーザは#イルマ#と違って是々非々がはっきりとしたアサシンだった。
ダメなものはダメ。
命令は絶対。
そんな性分であるリーザは、ラクヨウ始め7番隊の者達にとって非常に手厳しい天敵とも言える部下だった。ただ、マルコや白ひげからしたら『それが丁度良い』らしいとのことで、7番隊から外す気は無いと宣告されたのが一月前の話で――。
「くっ、禁酒……、一番の地獄だ……」
ラクヨウは甲板で突っ伏して涙に暮れた。しかし、それは7番隊の隊員達も同じだった。そして、彼らは切なる気持ちで叫ぶのだ。
「アルド! 頼む! 7番隊に帰って来てくれ!」――と。
彼らが禁酒という地獄を味わっている間、モビー・ディック号のアルド(#イルマ#)の部屋では――
「美味いか?」
「んっ……、美味しいです」
食事をする#イルマ#の下腹部に青い炎を灯した左手を当てながら簡単な書類作業をするマルコの姿があった。
「?」
食事の手をピタリと止めた#イルマ#は、どこからともなく低い声で泣き叫ぶ男達の声が聞こえた気がして首を傾げた。
「どうした?」
「あ、いえ……」
何でも無いと小さく首を振った#イルマ#は食事を再開し、マルコは視線を書類に戻してカリカリと羽ペンを走らせた。
何とも穏やかで、どこか仄かに甘い、幸福に満ちたゆったりとした時が流れていた。
走って行く姿を見送ったビスタは、目を細めてそう思った。
逃走した男の足は非常に速くて誰も追いつけなかった。その為、1番隊隊長のマルコが不死鳥化して空より追尾をするのだが、逃走する男から離れること数十メートル後方に、青いサッシュを靡かせながら風を切るように追撃する者の姿があった。
「相変わらず凄ェな。障害物なんて何も関係無ェか」
高い壁を勢いのまま駆け上がり、少しの出っ張りがあれば指や足先に引っ掛けてそれを飛び越える。水路に入れば杭を頼りに軽い足取りで駆け抜けて人が行き交う町並に出ると、人が行き交う通路の中央を突き進むのでは無く、佇む建物の屋根へと駆け上がってその上を辿って走る。
逃げた男は必死だった。
この男は海賊だ。海賊で、卑怯で、裏切りを繰り返す最低な男だ。生かす価値は無いとされた。だからと言って殺す必要も無いのだが、この男は白ひげ海賊団の若いナースを引っ掛けて殺害した。
よくある強姦だ。
遊ぶだけ遊んで殺したのだ。
放っておける訳も無い。
ナースと言えど『家族』だからだ。
ヒュンッーー!
「!?」
町を駆け抜けて再び裏路地に身を隠そうとした先で風を切る音を耳にした。
男は顔を上げて目を丸くした。
人の手が目の前にあった。その手が男の目元を隠すと同時に足を払われて、男はドサリと地面に引き倒された。
ズブッ!――と、鈍い音と痛みが首筋を中心に走った途端に呼吸が乱れて全身から力が抜け落ちて行くのを感じた。
薄らと移る視界には、黒い衣服を纏い革製の装具に身を包んだフードを目深に被った者の姿で、自分の側に腰を下ろして顔を覗き込んで来た。
―― くそ……、化物か…? 息一つ、切らして…ねェ…。
秀麗な面持ちではあるが、無機質な表情で死にゆく自分をじっと見つめている。そして、その者は小さな声で餞別の言葉を送った。
「汝、罪人なれど決して救われぬことはなし。眠れ、安らかに」
予想していた声音とは違った。中性的だが、この声音は女だ。
―― はっ……、お、女に…殺される…か。…わ、悪く…ねェ…。
男はそのまま絶命した。二度と光あるこの世界を『この者として』生きることは無い。
「死んだか?」
青い炎を纏いながら地上に降り立ったマルコに、彼女は振り向くこと無く「はい」と頷いた。そっと手を伸ばして、死んだ男の開いた瞼を閉じて両手を腹の上に重ねてやる。
「なら戻るよい」
「このままで?」
「気付いた奴が葬るだろうよい。最低限なことはしてやったろい?」
マルコが指で指した先は両手を重ねた遺体。
「それで十分だ。行くよい#イルマ#」
「わかりました」
目深に被ったフードを自ら取り払った#イルマ#は、左腕に装備したアサシンブレードの血糊を掃うように振ってから手首を返してブレードを収めた。
相変わらずの無表情ではあるが少しだけ変わったことがある。それは殺した相手に対する扱い方だ。決して蔑ろにはせずに、死にゆく者を最後まで看取るようになったのだ。少しずつではあるが、彼女は確実に『人としての心』を得つつあった。
◇
マルコと共に町へと出た#イルマ#は、溜息を漏らして下腹部に手を当てた。男を追っている間は気にも留めなかったというのに、流石に普段と違って身体が重いと感じた。
「マルコさん、この後、お休みをください」
「どうした?」
「初日なんです」
#イルマ#の返事にマルコは目を丸くした。そして、「あァ……」と声を漏らしつつ頭をガシガシと掻いた。女特有の月のものか――。
「いつから」
「男を追う前に……」
しかし、重い身体でよくもまァあれだけ動けたもんだとマルコが思っていると、「ですから――」と続けた#イルマ#は、早く船に戻りたいのだと告げてマルコの袖をクイッと軽く引っ張った。
「それは……、暗に飛べって言ってんのか?」
「ご厚意を頂けるのなら是非」
「言っとくが、おれは隊長でお前の上司だぞ。それでも」
「可愛い部下の頼みを聞いてくださる優しい隊長で助かります」
「――ッ……」
近頃は遠慮というものが無くなりつつあった。それは良いのだが、時々、元隊長だったラクヨウに対する時と同じような対応をしてくることがある。今がまさにそれなのだが――。
「痛みはあるのか?」
「少し……」
こればかりは慣れる気がしないと#イルマ#は下腹部を擦りながら零した。
遠慮が無くなりつつあっても甘えて来ることなんて滅多に無い。それなのに珍しく袖を引っ張ってまで訴えるぐらいなのだから余程辛いのだろう。
「仕方が無ェか」
小さく溜息を吐いたマルコは青い炎を纏い不死鳥と化した。#イルマ#が極自然にマルコの背中へと飛び乗ると、マルコは数回羽ばたいて風に乗るようにして空高く舞った。そして、山の尾根を越えた先の港町に停泊した見慣れた船を視界に捉えると一気に下降して船の甲板へと降り立った。
マルコが不死鳥化を解くと同時に#イルマ#は飛び降りて、出迎える隊員達に軽く頭を下げてさっさと船内へと姿を消した。
「不愛想っぷりは相変わらずだな」
「あれでもマシになった方だよい」
煙管を口に含んでやれやれとばかりにかぶりを振るイゾウに軽く肩を竦めたマルコは、町へと視線を向けた。逃げた男を追って走っていた者達が続々と戻って来る姿に目を細めてクツリと笑った。
「マルコ、奴はやったのか?」
「あァ。アルドがやったよい」
「やれやれ、近頃は7番隊がいなければ手柄は全て1番隊に持っていかれるな」
ぜェぜェと息を切らす5番隊を引き連れて戻ったビスタは髭を弄りながら笑った。
「ログも丁度溜まった頃だ。早いとこ出港の準備に取り掛かれよい」
「「「ちょ、ちょっと休ませてください隊長!」」」
誰もが悲鳴を上げると隊長達は大きな声を上げて笑った。賑わいのあるいつもの光景がそこにあった。そして、このような場に#イルマ#がいないのも、いつものことだった。
◇
自室に戻った#イルマ#はシャワーを浴びた後、ソファに腰を下ろして大きく息を吐きながら慣れない腹痛に顔を顰めた。こういう時はいつも自分の性別が『女』であることが嫌だと感じる。
―― ……はァ、……本当に不便だ。
エミリアから聞いた話では、それは人それぞれ個人差があるらしいが、ラクアナ島から7番隊として迎えられた元アサシンのリーザは『軽い方』らしい。その為、彼女は普段と変わらない行動ができるそうだ。
全く羨ましい――と、『重い方』に属した為に普段と比べて動きが鈍くなってしまう#イルマ#は小さく嘆き節を零した。時々貧血気味になるのか足がふら付くことさえある。病気では無いというが辛いものは辛い。
温かい飲み物でも飲んでリラックスしようとソファから立ち上がった時、この部屋に訪れようとする男の気配を察した。
「アルド! 悪いんだけど!!」
運の悪いことに――の前に、
「エース隊長、ノックをしてくださいと何度もお願いをしているはずですが……」
「ん? あァ、そうだった。悪ィ」
苦笑を浮かべたエースは、それより書類なんだけどさ――と、話を続けた。
――『それより』では無くて……、私が困るんです。
いつかはアルドが女で、本当の名前が#イルマ#であるとばれてしまうだろう。だがその日は案外近いかもしれない――と、エースの顔を見つめながら#イルマ#は度々思う。
書類の説明をして書き直しの修正を手伝うのだが、今日は本当に体調が優れない為に集中できない。
「で、よし……っと、これで良いか?」
「はい……」
「っつぅか、さっきから顔色が悪いみてェだが、体調でも悪いのか?」
「少し、疲労です。休めば直りますから心配の必要は――」
「ん、ちょっと待ってろ」
「――……」
最後まで人の話を聞かずにエースは部屋を飛び出して行った。これも通常運転だ。毎回、制止しようと「待ってください!」と声を上げて手を伸ばすものの、その手は所在なさげに宙を彷徨いパタリと落ちるのだが、今回はそれをしなかった。する気も無かった。「心配の必要」と言った時点で直ぐにわかった。あァ、最後まで聞かないでまた飛び出していきますね――と。
そして、数分後――
エースが連れて来るのは気配で直ぐにわかる。あの人だ。出港準備やら何やらで忙しいというのに、本当に申し訳無いと思いながら#イルマ#はエースの作った書類をチェックした。そして、それが終える頃にエースとあの人が部屋に入って来た。
「書類、チェック済みです。問題はありませんでした」
「お、んじゃ合格か?」
「はい、ご苦労様でした」
「あー、これでやっと自由の身だ。助かったぜアルド」
オレンジ色のテンガロンハットを手で抑えながら軽く手を振ったエースは、「早く体調治せよ!」と言って元気良く部屋を出て行った。
「ったく、あいつは……」
「毎回、本当にすみません」
何故、自分が頭を下げて謝らなければならないのか。これも毎回釈然としないのだが、最早恒例行事のようなものだ。
「少し…、寝ます」
「少しじゃねェ、ゆっくり休んで構わねェよい」
「ッ……」
「こればかりは本当に仕方が無ェんだから気にするな」
エースの書類を手にしながらクツリと笑ったマルコは、#イルマ#の頭に手を置いてポンポンと弾ませてからクシャリと撫でた。
「もう直ぐ出港するから、落ち着いた頃にまた見に来てやるよい」
「あ、いえ、その、本当に大丈夫です。忙しいのにわざわざ――」
慌てて頭を振って断ろうとした#イルマ#だったが、問答無用に頭をガシッと鷲掴みされた。
「うぐっ!」
ギリギリミシミシという音が軽く聴こえる。
「遠慮はいらねェ。おれがそうしてェんだよい」
―― ちょっ、これ以上、負荷を掛けられるのは本当に辛い!
少し悪い笑みを浮かべたマルコはパッと手を離した。フラフラと少し後退った#イルマ#は、ヘナヘナとベッドの端に腰を下ろして両手で頭を抱えた。
「鬼……」
「遠慮するからだ」
「少しは加減してください」
「帰る前は素直に甘えたろうが」
「――う……」
片眉と口端を上げた笑みを浮かべたマルコに言葉を詰まらせた#イルマ#は堪らずそっぽを向いた。
「……お願い…します……」
諦め気味に小さく呟いた#イルマ#は、溜息を漏らすと今度はちゃんと「お願いします」と改めてマルコに向けて頭を下げた。真面目かよい――と、くつくつ笑ったマルコは、#イルマ#の前で腰を下ろして#イルマ#の顔を見上げた。そして、そっと手を伸ばして頬に軽く触れると優しい笑みで「悪かった」と謝罪の弁を告げた。
最近、何かとこうしたことがある度にマルコが最後に謝る。別に本当に悪いと思っての事では無い。こうして頬に手を添えて軽く触れながら優しい笑みを浮かべて言葉を投げ掛ける行為は、マルコにとって#イルマ#に対する愛情表現に他ならない。そして、#イルマ#もまたそれによって心が温かくなるのを感じると自然な笑みを零すようになった。
「何か欲しいものは?」
「温かい飲み物が欲しいです。あと、少しフラフラするので……」
「少し貧血気味か。わかった。ならサッチに用意させるよい」
マルコはそう言うと立ち上がって部屋を後にした。#イルマ#は大きく息を吐いてベッドにぱたりと横になると身を屈めてお腹に手を当てた。
「……」
マルコはラクヨウと違って本当に面倒見が良い。良過ぎるぐらいだ。もし未だにラクヨウの部下だったならば、部屋に居座って酒を飲んだ挙句にベッドを奪って寝たことだろう。
―― あれは本当に酷かった。
感情の起伏がゼロに等しいと自覚している自分でさえも、あの時の恨みっぷりは相当なものだったと、今になっても思う。――が、懐かしい思い出話だと#イルマ#は微笑を零した。
ラクアナ島以降、マルコは何かと#イルマ#を気に掛けた。アルドの時も気に掛けてくれてはいたがそれ以上だ。最初こそ戸惑ったものの、マルコの優しさが嬉しくて、気付けば素直に受け取るようになっていた。そのおかげで、少しずつでも感情というものを素直に出せるようになったように思える。
何も言い返せなくなってそっぽを向くなんて、ラクヨウにはまず見せたことの無い行動だった。
「ラクヨウ隊長は……、リーザが上手く手綱を持てれば良いが」
7番隊は現在モビー・ディック号から離れて別行動中だ。遠く離れた縄張りとする島に新規の海賊が侵略して悪さを繰り返しているとの情報が入り、その駆逐の為に彼らはその島に向かったのだ。恐らく今頃は新規の海賊達が悲鳴を上げて泣き叫んでいる頃だろう。
「ガッハッハッ! これに懲りたらバカなことを二度としやがんじゃねェぞ! わかったか!!」
「「「ずびばぜん”でじだァ”ァ”ァ”っ”!!」」」
「おう! 今夜は勝鬨祝いの酒だ!!」
「「「いよっしゃァァァ!!」」」
「ラクヨウ隊長、お酒は控えさせなさいとのエミリア様からのご指示を頂いたので、倉庫から全て撤去させて頂きました」
「なんだと!?」
「「「えェェェェ!?」」」
「皆さんも連帯で暫くは禁酒生活をお願いします。それでは敵の駆逐も終えましたので帰還しましょう」
無表情で淡々と告げたリーザは、さっさと仕事場へと戻って行った。リーザは#イルマ#と違って是々非々がはっきりとしたアサシンだった。
ダメなものはダメ。
命令は絶対。
そんな性分であるリーザは、ラクヨウ始め7番隊の者達にとって非常に手厳しい天敵とも言える部下だった。ただ、マルコや白ひげからしたら『それが丁度良い』らしいとのことで、7番隊から外す気は無いと宣告されたのが一月前の話で――。
「くっ、禁酒……、一番の地獄だ……」
ラクヨウは甲板で突っ伏して涙に暮れた。しかし、それは7番隊の隊員達も同じだった。そして、彼らは切なる気持ちで叫ぶのだ。
「アルド! 頼む! 7番隊に帰って来てくれ!」――と。
彼らが禁酒という地獄を味わっている間、モビー・ディック号のアルド(#イルマ#)の部屋では――
「美味いか?」
「んっ……、美味しいです」
食事をする#イルマ#の下腹部に青い炎を灯した左手を当てながら簡単な書類作業をするマルコの姿があった。
「?」
食事の手をピタリと止めた#イルマ#は、どこからともなく低い声で泣き叫ぶ男達の声が聞こえた気がして首を傾げた。
「どうした?」
「あ、いえ……」
何でも無いと小さく首を振った#イルマ#は食事を再開し、マルコは視線を書類に戻してカリカリと羽ペンを走らせた。
何とも穏やかで、どこか仄かに甘い、幸福に満ちたゆったりとした時が流れていた。
今の日常
【〆栞】