02

天候が気紛れなグランドライン。晴天で穏やかだった気候は突如として嵐となって荒れ狂いモビー・ディック号に襲い掛かる。
押し寄せる高波によって海水を被る程の荒れ模様。大きな帆船であるモビー・ディック号は、少々の嵐に襲われたぐらいでは激しい揺れに襲われることは無いのだが、この時ばかりは流石に激しく左右に揺れた。
このような急を要する状況になっても船員達は各々の持ち場に就いて対処しなければならない。誰もが海に落ちないようにバランスを取って注意しながら懸命に動いている中、まるで平常時と変わらない動きを見せる一人の人物がいた。

バチン!

切れたロープが上空高く舞い上がって見張り台より遥かに高い位置のヤードに絡まった。そのロープを外しに行こうとしても揺れが激しく、強い雨風もあって思うように動けないのが殆どだ。
だが、その者は颯爽と見張り台へと上がると更に上へと登ってヤードの上を走った。絡まりながら荒れ狂うロープを捕まえて絡まった箇所を解くと、そこからトンッと蹴って甲板へと飛び降りた。ダンッと大きな音を立てて着地をすると持ち場の男にそのロープを手渡した。
誰もが目を丸くして唖然とする中、その者は表情一つ変えずに自分の持ち場にさっさと戻って作業を再開した。

「……凄ェ」

1番隊の副隊長であるギルが思わずポツリと呟いた。

「本当……。不愛想だけどな」
「ついこの間まで存在感がまるで無かった奴とは思えねェ」
「マルコ隊長が信を置くのもわかる気がするぜ……」

同隊の隊員達もギルに続いて口々に言葉を零した。彼らはこの時になって漸くアルドを隊員の一人として強く認識した。





嵐が過ぎて漸く落ち着きを取り戻した頃、見張り番は1番隊から3番隊に交代した。
冬島に近付いて来たのか空気がヒヤリと冷たい。
両手を交差させてガタガタと震える肩を擦りながら1番隊の隊員達は一目散に船内へと入って行った。
雨風に打たれた身体はすっかり冷え切っていて、このままでは風邪を引くと誰もが大浴場を目指した。そんな中をこっそり抜けたアルドは自室を目指した。

―― ……寒い。

常に冷静で感情の無いアルドでも、やはり寒さには堪えるもので、早急に自室に戻って温かいシャワーを浴びて身体を温めたい気持ちで一杯だった。しかし、途中でピタリと足を止めた。
自室から感じ取った気配にアルドは、またか……と眉を顰めた。

いつの頃だったか――
世話になったナースにアルドが気遣う言葉を掛けた結果、女心に火が点いてその気にさせてしまったのだ。
エミリアには「あのね」と説明されたが、人の持つ恋慕の感情についてよくわからないアルドには今一つピンと来なかったのだが、それ以降、アルドに心底から惚れてしまった彼女はストーカーに近い域で何かとアルドに付き纏うようになった。

で、その彼女――カーラがアルドの部屋で、アルドが戻って来るのを今か今かと待っているのだ。
きっとマルコ隊長もこんな感じだったんだろうなと、ミケーラから逃げるマルコをふと思い出したアルドは珍しく深い溜息を吐いた。

「……ッ、くしゅん!」

寒さからか思わずくしゃみが出た。濡れた身体を早く温めたい。しかし、部屋にはカーラが待機している。さて、どうすべきかとアルドは考えた。
7番隊は未だ不在で部屋は空いている。ラクヨウの部屋は以前から出入りしていた為に勝手を知っている。
ラクヨウ隊長の部屋に行くかと踵を返して7番隊の部屋が連なる廊下を目指したアルドだったが、またしても行く手を阻むように苦手な気配を察して足を止めた。

―― ミケーラさん……。一人じゃないところをみると仕事か。

行くべきでは無い。これは絶対に避けなくてはならないとアルドの脳内に警告音が激しく鳴り響く。

まだ記憶に新しい数日前のこと――
ミケーラの押しに負けてマルコが仕事を終えたことを告げてしまったアルドは、後でアルドの部屋に来た超絶不機嫌なマルコに説教された挙句、蟀谷グリグリの刑に処されて反省の弁を述べる破目になったのだ。

この時、蟀谷グリグリだけで済んだのでまだ良かった。鷲掴みでキリキリと蟀谷を圧迫させるアイアンクローの刑まであったら生きた心地がしない。仮にここでまた同じような繰り返しをすれば確実に後者の刑が待っていることは間違い無しだ。

さて、どうしたものかとアルドは再び考えた。

仕事の邪魔になるかもしれないが、このままでは本当に風邪を引いてしまう。仕方が無いと溜息を吐いたアルドは、踵を返してラクヨウの部屋と同様によく知った部屋を目指した。そして、部屋の前に立ってノックをしようとした時、ドアが開けられてその手を止めた。

「#イルマ#?」
「あ……」
「どうした? 濡れたまんまじゃねェか」
「いえ、その……」
「カーラか?」
「はい……。彼女がいては着替えることもできませんから。ラクヨウ隊長の部屋に行こうとしましたが、途中でミケーラさんの気配があったので仕方が無く……」
「成程な」

#イルマ#も苦労が増えたなと苦笑するマルコは、開けたドアに身体を寄せて部屋に入るよう促した。

「すみません。本当なら着替えて手伝いに来る予定だったのですが」
「構わねェよい。それより、さっさとシャワールームで身体を温めろ。このままだと本当に風邪を引くよい」
「はい」

大幅に遅れて提出されたエースとハルタの書類処理に追われていたマルコは、今回の見張り番には出ずに自室に引き籠って仕事をしていた。慣れたとは言えどもエースとハルタの文字は殆ど暗号に近くて解読するにはどうしても時間が掛かってしまうのだ。その上、不備も多い。内容をチェックするだけでも一苦労するのが書類仕事における『あるある』なのだ。

引き出しからタオルとバスタオルを取り出したマルコは、シャワールームに明かりを点けた。少し遠慮気味にそれらを受け取った#イルマ#は、「失礼します」と軽く頭を下げてシャワールームに入ろうとした――が、「あ、」と零したマルコの声に足をピタリと止めた。

「……何ですか?」
「いや、着替えはどうする気だ?」
「ここで乾くまで干すつもりですが……」
「待て」

キョトンとするアルドにマルコは眉間に皺を寄せると「はァァ……」と溜息を吐いて小さく頭を振って「下着は?」と口にした。

「乾くまではバスタオルでも身体に巻いておきますから」
「#イルマ#、お前は俺を煽る気か……?」
「あおる……?」

少しだけ眉を顰めた#イルマ#だが、意味がわかっていないようでマルコをじっと見つめた。
眉間に手を当てたマルコは、「わかった。もう良い。とりあえず入れ」と、#イルマ#の背中を押してシャワールームに入いれた。シャワールームのドアを閉めようと手を掛けた#イルマ#は、「マルコさん」と声を掛けた。

「何だい?」
「『あおる』とはどういう意味ですか?」
「!」

目を丸くして動きを止めたマルコの反応に、説明が難しいものなのかと判断した#イルマ#は小さく首を振った。

「……すみません。その、先に、シャワーを浴びます」

シャワールームのドアがパタンと締まる音が響くと、マルコはガクリとして椅子に腰を掛けると卓上に両肘を突いて両手を組んで額に当てながら溜息を吐いた。

つい数日前に#イルマ#のミスによって仕事を終えたことを知ったミケーラが部屋に来て”襲われかけた”ことを思い出したマルコは、恋愛模様に貪欲なミケーラに比べて恋愛の『れ』の字も知識が無く欲すらも無い淡白過ぎる#イルマ#は、本当に対照的だと思った。

マルコ自身もある意味で『恋愛』に関しては淡白な方だが、ここに来てまさか妙なトライアングル関係に自分が入ることになるとは思ってもみなかったことで、割と真剣に悩みの種として抱えていた。

悩みの種と言えば、以前に#イルマ#を連れ立って町の偵察を行った時のこと――
偶々見かけたカップルがキスをしている姿を目撃した#イルマ#は、互いの口を重ねる行為は何の為なのですか?とマルコに訊ねた。

「は!?」
「前にマルコさんとしましたが、やはり衛生上の観点からするとあまり良いものでは無いように思うのですが……」
「…………」
「あの……、何かおかしいですか?」
「…………」

本当にただ純粋な気持ちで質問をしているのだと#イルマ#の目を見て思ったマルコは、それに対する答えをどう説明すべきか言葉に困って何も言えなくなった。

大分前にサッチが頭を悩ませていたとイゾウから話を聞いていた。結局それはラクヨウが懇切丁寧に説明したことで問題は解決したらしいのだが――。まさか、男女間の恋愛模様における説明を自分がしなければならない状況に置かれるとは思ってもみなかったマルコは、#イルマ#の『人間関係における知識』という分野もまた大きな悩みの種となった。

そんなことを思い出しながらハルタが提出した書類を捲ってチェックをしていたマルコは、耳に届く水音に集中力が削がれて小さく溜息を吐いた。そして、書類を置いて席を立つとソファに移動してドサリと腰を下ろし天井を見上げて目を瞑った。
気軽に受け入れてシャワールームを使えと言った数分前の自分が短慮で浅はかだったとマルコは少し後悔した。部屋に戻れないのだから着替えを持っているわけがないのは当たり前だ。
しかし、流石に少しは警戒してはくれるだろう。アサシンと言えども#イルマ#も女の身だ。男であるマルコを前にしてバスタオルだけを身体に巻き付けた状態で堂々と歩いたりはしないはず……。たぶん。
シャワールームの水流の音が途切れた。少し間を置いてガチャリとシャワールームのドアが開く音がした。

「あの、ありがとうございました」
「あァ、適当にそのっ…辺…に……」

濡れた衣服をどこに干せば良いのかと問う#イルマ#に、返事をしようと目を開けて見たのが間違いだったとマルコは思った。

―― はずも糞もねェ……マジか。

少し前の思考に悪態を吐いたマルコは咄嗟に視線を外した。タオルで濡れた髪を拭きながらバスタオルだけを身体に巻き付けた恰好で当然のようにうろつくのだから仕方が無い。

過去に雨に降られて冷え切った身体を温める為、洞窟で#イルマ#の衣服を脱がして裸で抱き合ったことはあったが、あれはあくまでも体温の低下を防ぐ為の最終手段であり急を要したこともあって他意は無い。
だが、今回は本当に何でもない状況でのことだから、マルコは非常に動揺した。せめて、気恥ずかしさとか恥じらいとかを持って、ほんの少しでも良いから配慮した行動をして欲しいとマルコは思うのだが、それは到底無理な話なのだ。#イルマ#にはそういった概念が無いのだから――。

「間違ってますね」
「ッ……!」

書類を手にした#イルマ#の声でハッとしたマルコは、バスタオル姿の#イルマ#をチラッと窺った。
細身ではあるが抜群の運動神経を誇る#イルマ#の身体の肉付きは、その辺の女と違って少し筋肉質で引き締まっている。だがそれでも女特有の丸みや柔らかさがあって、とても魅力的だ。バスタオルから伸びる足は長く色白で肌艶も良く妖艶に写る。

―― ……。

顔が熱くなるのを感じたマルコは、思わず喉を上下に溜飲させて固唾を飲み込んだ。

「ハルタ隊長は、この文字をよく間違えますね。エース隊長の方は終わりましたか?」
「い、一応な。気になるなら見てもらって構わな」
「どうして顔を逸らして話をするのですか?」
「――ッ……」

マルコが理性を懸命に保とうとしていると、いつの間にか#イルマ#が側にいた。#イルマ#がスッと手を伸ばしてマルコの頬に軽く触れるとマルコは咄嗟にその腕を掴んだ。眉間に皺を寄せて険しい表情を浮かべているマルコだが、少し頬が赤らんでいるように見えた#イルマ#は少し首を傾げた。

「#イルマ#」
「はい」
「一つ言っておくが、おれは男でお前は女だ」
「? はァ、それが何か?」

顔を背けたままマルコはチラリと横目で#イルマ#を窺った。少し首を傾げているが、その表情は無表情のままだ。

今更どうしてそのような確認をするのか、#イルマ#はマルコの意図が全くわかっていない。伸ばした手を引っ込めようとするとマルコの手がパッと離れ、#イルマ#はそのままマルコの隣に腰を下ろすと両腕を組んで目を瞑った。

―― いや、その恰好で隣に座るなよい……。

どうやら長考モードに入っているようだが、絶対に#イルマ#の方に目を向けてはいけないと、マルコは右斜め先に見える丸窓の縁をじっと見つめて理性の箍を百倍に固めることに努めた。
一方、男と女の違いについて考えた#イルマ#は、思い当たる節が一つぐらいしか浮かばなくて、しかし、それが何だというのか……と頭を悩ませた。これについて訊いて良いものかどうか迷ったが、わからないものはわからないのだから教えを乞うしかないと結論を出した#イルマ#は、ゆっくり目を開けてマルコに顔を向けた。

「マルコさん」
「……何だい?」
「男と女の”違い”について考えたのですが、思い当たるのは”生殖機能”の違いぐらいしか検討が付か――」

#イルマ#の話に耳を傾けていたマルコは、唖然とした面持ちでゆっくりと#イルマ#へと顔を向けた。それに言葉を途中で切った#イルマ#は「どうしました?」と首を傾げる。
マルコの表情が徐々に眉間に皺を寄せて難しいものに変わっていく様を無表情で見つめていた#イルマ#は少しだけ眉を顰めた。

―― やはり訊くべきことでは無かったのか……。

顔を俯かせた#イルマ#は「わからない……」とポツリと零した。対してマルコは、そんな#イルマ#の声にピクリと眉を動かして小さくかぶりを振った。

―― 仕方がねェってことか。

環境がそうさせたのだ。殺し以外の物事とは無縁の殺伐とした世界で育てられたアサシンなのだから。

「少し、教えてやるよい」
「え?」

マルコは#イルマ#の腕を掴むと胸元へと引っ張った。されるがままに#イルマ#はマルコに抱き締められた。

「教えるとは?」
「例えば、今こうしてお前を抱き締めてんのがおれ以外の人間ならどう感じる?」
「マルコさん以外……?」
「誰でも良い。思い浮かぶ男を想像してみろ」
「はァ……、わかりました」

マルコの胸元に頬を寄せた#イルマ#は、静かに目を瞑って考えた。
トクントクンとマルコの心音が直接に伝わってくるリズムが心地良い。それに、とても温かくて不思議な程に心が落ち着いて穏やかになる。
これが別の男ならと考えて、ふと最初に浮かんだのはラクヨウだ。

―― ……いや、あり得ない。

大体ラクヨウはこんな風に優しく抱き締めるなんてことはしない。悪態を吐いて軽口を叩き合う仲ではあるが、こんな風に身体を密着させたことなど十年来一度も無い。密着するのは、酔っ払ってふにゃふにゃになったラクヨウを担いで部屋に運ぶ時ぐらいで――と、思考を一旦停止して他の人を思い浮かべることにした。

次に浮かんだのはサッチだ。
サッチは気さくに話し掛けてくれるが無闇に触れよう等とはして来ない。女好きと評されているようだが、サッチは非常に人の機微に敏感であり、『触れて良いもの』と『触れてはいけないもの』とを瞬時に判断できる男だ。その分別が容易にできるサッチは、女だと知ってもアサシンである自分に容易に触れようとは思っていないと肌で感じる――と、思考をまた停止して更に他の人を思い浮かべる。

パッと浮かんだのは白ひげだ。
最早これは完全に――父性愛の塊で、何か根底からして違うような気がして思考を停止した。
そうして考えれば考える程、わけがわからなくなってきた#イルマ#は眉間に皺を寄せて、例えば誰を想像したら良いのかと口にした。

「今の間は少し考えただろい」

あと、こういう状況には決して当て嵌まらない人物を想像したなとマルコは言った。

「ラクヨウ隊長とサッチさんです」
「サッ……」
「?」

#イルマ#の口からサッチの名が出るとは思っていなかったマルコは、ヒクリと頬を引き攣らせた。不思議そうにマルコを見上げる#イルマ#から視線を外したマルコは、眉間に皺を寄せて少し考えた。

―― 流石に#イルマ#には手を出さねェか。いや、あいつは稀代の女好きだ。万が一ってこともある。

「#イルマ#」
「はい」
「サッチだけは警戒しろよい」
「え……?」

ポツリと呟いたマルコに、少しだけ目を丸くした#イルマ#は何故?と思考を回した。そして――

「サッチ隊長に何か”不穏な動きがある”ということですか?」
「!?」

サッチを『敵』として誤った認識をさせてしまったと若干焦ったマルコは「それは間違いだ」と首を振って訂正した。

「女として警戒しろってことだよい」
「警戒しなくてはならないのなら、やはり敵ではないですか」
「違う。敵じゃねェ」
「敵なら早急に対処しますが」
「いや、#イルマ#……」

これは本当に洒落にならない。

「やめてくれ。頼むから本当に……」

自分の理性の箍を全力で抑えつけながら思考を懸命に働かせざるを得ない状況に追いやられて何故か崖っぷちに立たされている中で、半端な説明をすると却ってややこしい結果を招くことになるのだとマルコは思い知った。

―― 冗談きつい!!

心の中でマルコは頭を抱えて悲鳴を上げたのだった。

無知 - 男と女 -

〆栞
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