噂
誰も気づかないうちに。
誰にも理解されないまま。
それは、静かに広がっていた。
“異常”というものは、どれだけ自然に溶け込んでいても、必ずどこかで引っかかる。
呪術界の裏側でも、それは同じだった。
薄暗い室内に、資料をめくる音が響く。
紙の擦れる乾いた音。机の上には複数の記録が並んでいた。報告書、簡易地図、観測値、現地の雑多な聞き取り。どれもぱっと見は地味だ。だが、並べて見れば異様さが浮き上がる。
「……最近、妙な報告が上がってる」
低い声が言った。
向かいに座る男が、手元の紙へ視線を落とす。
「“呪いが消える住宅地”だと?」
「はい。正確には、“異様に呪いが薄いエリア”です」
報告書が差し出される。
住宅地の地図。
その一角だけが、ぽっかりと空白のように記されていた。完全な無ではない。だが、普通ならもっと濁りが溜まるはずの範囲が、不自然なほど澄んでいる。
「通常、この人口密度でこの数値はありえません」
「結界か?」
「痕跡はありません」
「呪具の影響?」
「それも確認できず」
沈黙が落ちた。
ありえない現象。
だが確かに存在している。
机を挟んだ空気が、じわりと重くなる。
「……調査対象だな」
結論は早かった。
「誰か送れ」
「既に手配済みです」
そうして一人の呪術師が派遣された。
特別強いわけではない。
だが、経験はある。
異常の“匂い”を嗅ぎ分ける程度には。
そして――。
住宅地。
男は足を止めた。
「……ここか」
朝の光の中では、どこにでもありそうな街並みにしか見えない。家が並び、電柱が立ち、遠くから子供の声が聞こえる。洗濯物が揺れて、買い物袋を提げた主婦が道を歩く。平和そのものだ。
なのに。
空気が違う。
明らかに淀みがない。
むしろ、澄みすぎている。
「気持ち悪いくらいだな……」
男は小さく吐き捨てた。
本来なら、呪いは溜まる。
人がいる限り、必ず。
些細な不満、疲労、妬み、不安、怒り。そういうものは消えずに滲み、沈殿し、形を持たないまま残っていく。それがこの世界の常だ。
だが、ここは違う。
まるで誰かが常に“掃除”しているようだった。
しかも――。
「範囲が広すぎる……」
一軒や二軒の話じゃない。
一帯がまるごと、だ。
その中で、ひときわ“中心”のように感じる場所がある。
男の視線が、一軒の家で止まる。
表札には、裏葉。
「……ここだな」
確信に近い直感だった。
門の前で立ち止まる。
その時。
「ん?」
中から男が出てきた。
裏葉宗一郎。
見た目は、ごく普通のサラリーマンだ。線の細い体。柔らかな顔立ち。どこにでもいそうな父親にしか見えない。
だが――。
(……あ?)
呪術師の男は眉をひそめた。
違和感。
この男、“ただの一般人”じゃない。
隠している。
だが、完全には隠しきれていない。
体の動き。
重心。
視線の置き方。
立っているだけなのに、どこにも無駄がない。肩から先に動かない。足裏の乗せ方が自然すぎる。何より、周囲を見ているようで見ていない。無意識に全部拾っている目だ。
(元、か……?)
警戒レベルを一段上げる。
「すみません」
声をかける。
宗一郎が振り返った。
「はい?」
穏やかな顔だ。
だが、その奥にわずかな緊張が走ったのを、男は見逃さなかった。
「この辺りで妙な現象があると聞いて」
探るような言葉。
一歩、踏み込む。
「心当たり、ありませんか?」
沈黙。
ほんの一瞬。
だがその間で、互いに理解する。
(……来た)
宗一郎の内側で、何かが切り替わった。
空気がわずかに変わる。
かつての“顔”。
呪術師としてのそれが、一瞬だけ表へ出る。
「……何の話ですか?」
とぼける。
声は柔らかいままだ。だが、その柔らかさの奥で警戒が立ち上がっている。
男は引かなかった。
「とぼけなくていい」
さらに一歩、踏み込む。
「ここ、異常だろ」
空気が張り詰めた。
次の瞬間、動いたのは宗一郎だった。
速い。
一般人の動きじゃない。
本当に、一瞬だった。
「――ッ!?」
男が反応するよりも早く、宗一郎は懐へ入り込んでいた。踏み込みは短く、低く、無駄がない。腕を取り、軸を崩し、躊躇なく投げる。
地面が跳ねた。
「がっ……!」
息が詰まる。
そのまま押さえ込まれる。
(……は?)
呪術師の男は、一瞬理解できなかった。
術式を使う暇もなかった。
呪力を練る余地すらない。
純粋な体術で制圧された。
「……何者だ、あんた」
低い声が落ちる。
宗一郎の目は、先程までのそれとは違っていた。
冷静で、鋭い。
どこまでも実戦の目だった。
押さえつけられた男も、歯を食いしばる。
「……そっちこそ」
吐き出すように返す。
「ただのサラリーマンじゃないだろ」
睨み合い。
数秒。
やがて、ふっと宗一郎が力を抜いた。
拘束を解く。
「……悪いな」
そのまま手を差し出す。
「ちょっと過敏になってた」
男は警戒しつつも、その手を取って立ち上がる。立たせたあとも宗一郎の重心は崩れない。いつでも再度制圧できる構えを保ったままだ。
「……で?」
男が息を整えながら問う。
「何なんだ、ここは」
宗一郎は、少しだけ視線を逸らした。
迷いがあった。
そして、諦めもあった。
「……俺にも、分からん」
正直な言葉だった。
男がじっと見る。
宗一郎は小さく息を吐き、家の方へ視線を向けた。
「ただ――」
その目が、少しだけ柔らかくなる。
「最近、妙に空気が良くてな」
「それだけか?」
「それだけだ」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
男はしばらく黙っていた。
住宅地の違和感。
この家の中心性。
そして目の前の男が“元”であること。
全部が噛み合っていない。
なのに、裏葉宗一郎が何かを隠しているのだけは明らかだった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……中、見せてもらっていいか」
その言葉に、宗一郎の表情がほんの僅かに変わる。
「……家族がいる」
声は静かだった。
だが、その一言だけで線引きがはっきりした。ここから先は、家族の領分だと。
「分かってる」
男も退かない。
視線がぶつかる。
数秒。
やがて。
「……少しだけだぞ」
完全に許したわけじゃない。
だが、譲歩した。
宗一郎が扉を開ける。
二人は家へ入った。
室内は静かだった。
生活の匂いがある。洗剤の気配、朝の空気、綾乃の使った柔らかい香り。どこにでもある家庭の空気だ。だが男は足を踏み入れた瞬間、外よりもさらに濁りが薄いことに気づいた。
いや、薄いというより――清浄だ。
不自然なほどに。
その奥。
静かな部屋。
布団の中で眠る赤ん坊。
裏葉オビト。
男がその姿を見た瞬間、
「……?」
違和感が走る。
何かがおかしい。
だが、分からない。
ただの赤ん坊にしか見えない。
黒髪。
小さな身体。
無防備な寝顔。
綾乃に整えられた布団の中で、すうすうと穏やかに眠っているだけだ。
なのに――。
「……なんだ、この感じ」
空気が違う。
この部屋だけ、妙に澄み切っている。
いや、違う。
“ここから”広がっている。
男の視線が、自然とオビトへ向く。
その瞬間。
ぞくり、と本能が震えた。
(……なんだ、これ)
理解できない。
だが分かる。
これは――触れてはいけない。
言葉にできない。
呪力の質とも違う。術式の気配でもない。なのに、赤ん坊の周囲だけ、空間の在り方そのものが微妙に違って見えた。静かなのに、底が見えない。穏やかなのに、妙に圧がある。
宗一郎が、そっと前に出る。
わずかに庇うように。
「……ただの、俺の子供だ」
静かな声だった。
だがその奥には強い意志がある。
守る、という覚悟が。
男は、しばらく黙っていた。
部屋の空気。
眠る赤ん坊。
前に立つ宗一郎。
全部を見たうえで、ようやく小さく息を吐く。
「……分かった」
それ以上は踏み込まない。
踏み込めない。
「報告は……適当にぼかす」
「助かる」
宗一郎は短く返した。
男は踵を返し、玄関へ向かう。
その背中を見送りながら、宗一郎はふと呟いた。
「……なあ」
男が振り返る。
「これ、やっぱり普通じゃないよな」
ほんの少しだけ。
親バカのフィルターが剥がれていた。
男は一瞬だけ目を細めて、それから苦笑する。
「普通だったら、俺は来てない」
その言葉に、宗一郎はゆっくりと頷いた。
「……だよな」
だが、それでも視線は優しいままだった。
部屋の奥で眠る赤ん坊へと向けられたまま。
「まあいい」
宗一郎は小さく呟く。
「俺の子だからな」
その一言に、迷いはなかった。
異常だろうが何だろうが、まず先に来るのはそこなのだ。
息子であること。
守るべき家族であること。
それだけで十分だとでも言うように。
玄関先で靴を履いた男は、最後にもう一度だけ家の奥を振り返りそうになって、やめた。
見たところで分からない。
分からないものを、無理に暴くべきではない。
少なくとも今は。
外へ出る。
空気は相変わらず澄んでいた。
住宅地は静かで、穏やかで、妙に呪いが薄い。その中心にあるのが、あの家だと今ははっきり分かる。
だが、その原因が何なのかまでは、まだ断言できない。
ただひとつだけ言えるのは。
裏葉家には、何かがいる。
そしてそれは、簡単に触れていいものじゃない、ということだった。
男は歩き出す。
報告書はぼかすつもりだ。
妙な違和感がある、継続観測を推奨、程度で済ませるだろう。
それ以上踏み込めば、何かが壊れる気がした。
住宅地の朝は、何も知らない顔で続いていく。
家の中では、綾乃が穏やかに朝の支度をしている。
宗一郎は玄関に立ち尽くしたまま、少しだけ深く息を吐いた。
それからふっと肩の力を抜き、いつもの柔らかい顔へ戻る。
部屋の奥では、裏葉オビトが相変わらず眠っていた。
当の本人は、何も知らない。
自分を巡って何が動き始めているのかも。
呪術界にどんな噂が流れ始めているのかも。
自分がどれほど異質な存在として映り始めているのかも。
ただ、静かな寝息だけがそこにあった。
裏葉宗一郎は、その小さな寝顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。
普通じゃない。
そんなことは、もう分かっている。
だが、それでも。
「俺の子だからな」
今度は、心の中だけで繰り返した。
その声に、揺らぎはなかった。
誰にも理解されないまま。
それは、静かに広がっていた。
“異常”というものは、どれだけ自然に溶け込んでいても、必ずどこかで引っかかる。
呪術界の裏側でも、それは同じだった。
薄暗い室内に、資料をめくる音が響く。
紙の擦れる乾いた音。机の上には複数の記録が並んでいた。報告書、簡易地図、観測値、現地の雑多な聞き取り。どれもぱっと見は地味だ。だが、並べて見れば異様さが浮き上がる。
「……最近、妙な報告が上がってる」
低い声が言った。
向かいに座る男が、手元の紙へ視線を落とす。
「“呪いが消える住宅地”だと?」
「はい。正確には、“異様に呪いが薄いエリア”です」
報告書が差し出される。
住宅地の地図。
その一角だけが、ぽっかりと空白のように記されていた。完全な無ではない。だが、普通ならもっと濁りが溜まるはずの範囲が、不自然なほど澄んでいる。
「通常、この人口密度でこの数値はありえません」
「結界か?」
「痕跡はありません」
「呪具の影響?」
「それも確認できず」
沈黙が落ちた。
ありえない現象。
だが確かに存在している。
机を挟んだ空気が、じわりと重くなる。
「……調査対象だな」
結論は早かった。
「誰か送れ」
「既に手配済みです」
そうして一人の呪術師が派遣された。
特別強いわけではない。
だが、経験はある。
異常の“匂い”を嗅ぎ分ける程度には。
そして――。
住宅地。
男は足を止めた。
「……ここか」
朝の光の中では、どこにでもありそうな街並みにしか見えない。家が並び、電柱が立ち、遠くから子供の声が聞こえる。洗濯物が揺れて、買い物袋を提げた主婦が道を歩く。平和そのものだ。
なのに。
空気が違う。
明らかに淀みがない。
むしろ、澄みすぎている。
「気持ち悪いくらいだな……」
男は小さく吐き捨てた。
本来なら、呪いは溜まる。
人がいる限り、必ず。
些細な不満、疲労、妬み、不安、怒り。そういうものは消えずに滲み、沈殿し、形を持たないまま残っていく。それがこの世界の常だ。
だが、ここは違う。
まるで誰かが常に“掃除”しているようだった。
しかも――。
「範囲が広すぎる……」
一軒や二軒の話じゃない。
一帯がまるごと、だ。
その中で、ひときわ“中心”のように感じる場所がある。
男の視線が、一軒の家で止まる。
表札には、裏葉。
「……ここだな」
確信に近い直感だった。
門の前で立ち止まる。
その時。
「ん?」
中から男が出てきた。
裏葉宗一郎。
見た目は、ごく普通のサラリーマンだ。線の細い体。柔らかな顔立ち。どこにでもいそうな父親にしか見えない。
だが――。
(……あ?)
呪術師の男は眉をひそめた。
違和感。
この男、“ただの一般人”じゃない。
隠している。
だが、完全には隠しきれていない。
体の動き。
重心。
視線の置き方。
立っているだけなのに、どこにも無駄がない。肩から先に動かない。足裏の乗せ方が自然すぎる。何より、周囲を見ているようで見ていない。無意識に全部拾っている目だ。
(元、か……?)
警戒レベルを一段上げる。
「すみません」
声をかける。
宗一郎が振り返った。
「はい?」
穏やかな顔だ。
だが、その奥にわずかな緊張が走ったのを、男は見逃さなかった。
「この辺りで妙な現象があると聞いて」
探るような言葉。
一歩、踏み込む。
「心当たり、ありませんか?」
沈黙。
ほんの一瞬。
だがその間で、互いに理解する。
(……来た)
宗一郎の内側で、何かが切り替わった。
空気がわずかに変わる。
かつての“顔”。
呪術師としてのそれが、一瞬だけ表へ出る。
「……何の話ですか?」
とぼける。
声は柔らかいままだ。だが、その柔らかさの奥で警戒が立ち上がっている。
男は引かなかった。
「とぼけなくていい」
さらに一歩、踏み込む。
「ここ、異常だろ」
空気が張り詰めた。
次の瞬間、動いたのは宗一郎だった。
速い。
一般人の動きじゃない。
本当に、一瞬だった。
「――ッ!?」
男が反応するよりも早く、宗一郎は懐へ入り込んでいた。踏み込みは短く、低く、無駄がない。腕を取り、軸を崩し、躊躇なく投げる。
地面が跳ねた。
「がっ……!」
息が詰まる。
そのまま押さえ込まれる。
(……は?)
呪術師の男は、一瞬理解できなかった。
術式を使う暇もなかった。
呪力を練る余地すらない。
純粋な体術で制圧された。
「……何者だ、あんた」
低い声が落ちる。
宗一郎の目は、先程までのそれとは違っていた。
冷静で、鋭い。
どこまでも実戦の目だった。
押さえつけられた男も、歯を食いしばる。
「……そっちこそ」
吐き出すように返す。
「ただのサラリーマンじゃないだろ」
睨み合い。
数秒。
やがて、ふっと宗一郎が力を抜いた。
拘束を解く。
「……悪いな」
そのまま手を差し出す。
「ちょっと過敏になってた」
男は警戒しつつも、その手を取って立ち上がる。立たせたあとも宗一郎の重心は崩れない。いつでも再度制圧できる構えを保ったままだ。
「……で?」
男が息を整えながら問う。
「何なんだ、ここは」
宗一郎は、少しだけ視線を逸らした。
迷いがあった。
そして、諦めもあった。
「……俺にも、分からん」
正直な言葉だった。
男がじっと見る。
宗一郎は小さく息を吐き、家の方へ視線を向けた。
「ただ――」
その目が、少しだけ柔らかくなる。
「最近、妙に空気が良くてな」
「それだけか?」
「それだけだ」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
男はしばらく黙っていた。
住宅地の違和感。
この家の中心性。
そして目の前の男が“元”であること。
全部が噛み合っていない。
なのに、裏葉宗一郎が何かを隠しているのだけは明らかだった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……中、見せてもらっていいか」
その言葉に、宗一郎の表情がほんの僅かに変わる。
「……家族がいる」
声は静かだった。
だが、その一言だけで線引きがはっきりした。ここから先は、家族の領分だと。
「分かってる」
男も退かない。
視線がぶつかる。
数秒。
やがて。
「……少しだけだぞ」
完全に許したわけじゃない。
だが、譲歩した。
宗一郎が扉を開ける。
二人は家へ入った。
室内は静かだった。
生活の匂いがある。洗剤の気配、朝の空気、綾乃の使った柔らかい香り。どこにでもある家庭の空気だ。だが男は足を踏み入れた瞬間、外よりもさらに濁りが薄いことに気づいた。
いや、薄いというより――清浄だ。
不自然なほどに。
その奥。
静かな部屋。
布団の中で眠る赤ん坊。
裏葉オビト。
男がその姿を見た瞬間、
「……?」
違和感が走る。
何かがおかしい。
だが、分からない。
ただの赤ん坊にしか見えない。
黒髪。
小さな身体。
無防備な寝顔。
綾乃に整えられた布団の中で、すうすうと穏やかに眠っているだけだ。
なのに――。
「……なんだ、この感じ」
空気が違う。
この部屋だけ、妙に澄み切っている。
いや、違う。
“ここから”広がっている。
男の視線が、自然とオビトへ向く。
その瞬間。
ぞくり、と本能が震えた。
(……なんだ、これ)
理解できない。
だが分かる。
これは――触れてはいけない。
言葉にできない。
呪力の質とも違う。術式の気配でもない。なのに、赤ん坊の周囲だけ、空間の在り方そのものが微妙に違って見えた。静かなのに、底が見えない。穏やかなのに、妙に圧がある。
宗一郎が、そっと前に出る。
わずかに庇うように。
「……ただの、俺の子供だ」
静かな声だった。
だがその奥には強い意志がある。
守る、という覚悟が。
男は、しばらく黙っていた。
部屋の空気。
眠る赤ん坊。
前に立つ宗一郎。
全部を見たうえで、ようやく小さく息を吐く。
「……分かった」
それ以上は踏み込まない。
踏み込めない。
「報告は……適当にぼかす」
「助かる」
宗一郎は短く返した。
男は踵を返し、玄関へ向かう。
その背中を見送りながら、宗一郎はふと呟いた。
「……なあ」
男が振り返る。
「これ、やっぱり普通じゃないよな」
ほんの少しだけ。
親バカのフィルターが剥がれていた。
男は一瞬だけ目を細めて、それから苦笑する。
「普通だったら、俺は来てない」
その言葉に、宗一郎はゆっくりと頷いた。
「……だよな」
だが、それでも視線は優しいままだった。
部屋の奥で眠る赤ん坊へと向けられたまま。
「まあいい」
宗一郎は小さく呟く。
「俺の子だからな」
その一言に、迷いはなかった。
異常だろうが何だろうが、まず先に来るのはそこなのだ。
息子であること。
守るべき家族であること。
それだけで十分だとでも言うように。
玄関先で靴を履いた男は、最後にもう一度だけ家の奥を振り返りそうになって、やめた。
見たところで分からない。
分からないものを、無理に暴くべきではない。
少なくとも今は。
外へ出る。
空気は相変わらず澄んでいた。
住宅地は静かで、穏やかで、妙に呪いが薄い。その中心にあるのが、あの家だと今ははっきり分かる。
だが、その原因が何なのかまでは、まだ断言できない。
ただひとつだけ言えるのは。
裏葉家には、何かがいる。
そしてそれは、簡単に触れていいものじゃない、ということだった。
男は歩き出す。
報告書はぼかすつもりだ。
妙な違和感がある、継続観測を推奨、程度で済ませるだろう。
それ以上踏み込めば、何かが壊れる気がした。
住宅地の朝は、何も知らない顔で続いていく。
家の中では、綾乃が穏やかに朝の支度をしている。
宗一郎は玄関に立ち尽くしたまま、少しだけ深く息を吐いた。
それからふっと肩の力を抜き、いつもの柔らかい顔へ戻る。
部屋の奥では、裏葉オビトが相変わらず眠っていた。
当の本人は、何も知らない。
自分を巡って何が動き始めているのかも。
呪術界にどんな噂が流れ始めているのかも。
自分がどれほど異質な存在として映り始めているのかも。
ただ、静かな寝息だけがそこにあった。
裏葉宗一郎は、その小さな寝顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。
普通じゃない。
そんなことは、もう分かっている。
だが、それでも。
「俺の子だからな」
今度は、心の中だけで繰り返した。
その声に、揺らぎはなかった。
【〆栞】