父の疑問
夜の裏葉家は静かだった。
日中の穏やかな空気とは違う、どこか張り詰めた気配がある。
その理由はひとつだった。
「……なあ、綾乃」
宗一郎の声は、いつもより低かった。
キッチンに立っていた綾乃が、手を止めて振り返る。
「どうしたの?」
「今日な……妙な奴が来た」
その一言で、空気が変わった。
綾乃の表情がわずかに引き締まる。
「……呪術師?」
「ああ。たぶん現役だ」
宗一郎は、ゆっくりと息を吐いた。
「この辺りの“異常”を調べに来たらしい」
沈黙が落ちる。
短い。
だが重い沈黙だった。
「……気づかれたの?」
「完全には、な」
曖昧な答えだったが、それで十分だった。
綾乃も察する。
言葉にしなくても分かる。誤魔化しきれてはいない。けれど、決定的な何かまでは掴まれていない。そういう意味の“完全には”だ。
「……やっぱり、普通じゃないのね」
綾乃がぽつりと呟いた。
「だろうな」
宗一郎は苦笑した。
だが、その目は真剣だった。
「俺も、ずっと思ってた」
視線が奥の部屋へ向く。
布団の中で、小さく眠る影。
裏葉オビト。
「この家……妙に静かすぎる」
「ええ」
綾乃も頷く。
「“いなさすぎる”のよね」
それが正しい表現だった。
普通ならもっといる。
感じるはずなのだ。
呪いの気配が。
日々の感情の澱。人が暮らす限り、完全には消えない濁り。元を辿れば、二人ともその手のものを見てきた。見えなくなって久しいとはいえ、感覚そのものが全部消えてなくなったわけじゃない。
だがここには、それがない。
薄い、ではない。
“いない”。
不自然なほどに。
「……確認するか」
宗一郎が立ち上がる。
「ええ」
綾乃も静かに頷いた。
二人はそっと外へ出た。
夜の空気は冷たい。
昼間とは違う温度が肌を撫で、静まり返った住宅街の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。遠くで車の音がする。どこかの家の明かりがまだついている。そんな、何でもない夜の景色の中に――いた。
黒い靄。
電柱の上。
屋根の影。
塀の向こう。
遠くに、うごめいている。
以前なら、もっと近かったはずだ。家の周りに張り付き、窓際に寄り、夜が深くなればするすると近づいてきていたはずのものたちが、今は距離を取っている。
近づいてこない。
一定の距離を保ったまま、こちらを見ている。
「……やっぱりだ」
宗一郎が呟いた。
「完全に避けてる」
「ええ」
綾乃も目を細める。
「結界みたいに……弾いてる」
だが、二人とも分かっていた。
これは結界じゃない。
術式の痕跡がない。
もっと自然で、もっと異質な何かだ。
結界ならば輪郭がある。起点がある。張ったという意志が残る。けれど、この家を包むものはあまりにも曖昧で、あまりにも静かで、気づけばそこにあるような在り方をしていた。
「……中、戻るか」
宗一郎が言う。
綾乃は小さく頷いた。
二人は再び家の中へ入る。
そして、その“原因”の元へ向かった。
布団の中で眠る赤ん坊。
裏葉オビト。
「……」
しばらく、ただ見つめる。
何の変哲もない。
普通の赤ん坊だ。
黒髪で、柔らかそうな頬をしていて、小さな手を布団の端へ投げ出している。息は穏やかで、寝顔もあどけない。どう見ても、ただの赤ん坊にしか見えない。
そう見える。
だが――。
「……宗一郎」
綾乃が小さく声をかけた。
「ああ」
宗一郎も同じ違和感を感じていた。
空気だ。
この部屋だけ、妙に澄んでいる。
いや、違う。
“ここを中心に”広がっている。
部屋の中で淀みがないのではなく、この寝息のすぐそばから、何かが静かに押し広がっているような感覚だった。
「……まさか、な」
宗一郎がそう呟いた、その時だった。
ぴくり、と。
オビトの指が動いた。
「……?」
宗一郎が目を凝らす。
次の瞬間、空気がわずかに揺れた。
そして、赤い粒。
血だ。
それが、ふわりと浮かび上がる。
(――!)
二人の目が見開かれる。
血はそのまま形を変えた。
細く。
鋭く。
針のように。
ゆらりと揺れながら、空中に留まっている。
「……おい」
宗一郎の声が低くなる。
「これ……」
「ええ……」
綾乃も息を呑んだ。
二人は理解している。
これはただの現象じゃない。
術式だ。
しかも――。
「加茂の……」
綾乃がかすかに呟く。
それは確かに見覚えのある系統だった。
血を操る術。
赤血操術。
「……こんな、赤ん坊が?」
宗一郎が信じられないものを見る目で言う。
ありえない。
普通はありえない。
覚醒どころか、認識すらできない年齢だ。生まれて数ヶ月の赤ん坊が、自分の血を術として扱うなど、常識のどこにもない。
なのに。
目の前で、血が自在に動いている。
しかも揺れない。
ぶれない。
精度が異常だった。
たまたま浮いただけではない。偶然の暴発でもない。まるで意思を持ってそこに留まり、形を保っている。綾乃は加茂家の血を引く者として、その異常さが余計にはっきり分かった。
宗一郎はゆっくりと息を吐いた。
「……この子、何だ?」
率直な疑問だった。
恐怖ではない。
だが、理解不能なものを前にした純粋な問いだった。
その時。
「……あぶぅ」
小さな声がした。
オビトが目を開ける。
ぼんやりとした視線。
こちらを見る。
内心では、ただ単純に、何だ? と思っていた。
さっきまで眠っていたのに、急に妙な気配を感じて目が覚めた。父親と母親がそろって自分を見ている。空気が少し張っている。何かあったのか。
だが、特に何も考えていない。
ただ、起きただけだった。
「……」
沈黙が落ちる。
数秒。
そして。
「……ぐう、可愛いな!」
宗一郎が崩れた。
さっきまでの緊張が一瞬で消える。
顔が緩み、完全に親の顔だ。
「もう、あなた」
綾乃もくすりと笑う。
「さっきまで真剣だったのに」
「いやだってな……!」
宗一郎はそのままオビトを抱き上げる。
「見ろよこの顔!」
「ふふ、ほんとね」
綾乃の指が、優しくオビトの頬を撫でる。
空気が元に戻る。
(……なんだ?)
オビトは内心で思った。
さっきまで、なんか変な空気だった気がする。
でも、まあいいか。
今は眠い。
それだけだ。
抱き上げられた温もりと、いつもの匂いに包まれると、さっきまでの妙な張り詰めもどうでもよくなる。赤ん坊の身体は正直だ。眠気が来れば、思考なんて簡単に沈む。
そのまま再び目を閉じた。
意識が落ちていく。
綾乃と宗一郎は、顔を見合わせた。
ほんの少しだけ、真剣な表情へ戻る。
「……宗一郎」
「ああ」
短い会話だ。
だが意味は十分に伝わる。
この子は普通じゃない。
間違いなく。
だが、それでも――。
「……俺たちの子だ」
宗一郎が静かに言った。
迷いはない。
「ええ」
綾乃も頷く。
同じ結論だった。
どれだけ異質でも。
どれだけ規格外でも。
関係ない。
この子は守るべき存在だ。
それだけは絶対に変わらない。
静かな夜。
裏葉家の中。
小さな寝息が、穏やかに響いていた。
外では黒い靄が遠巻きに家を見ている。
内では得体の知れない力を宿した赤ん坊が眠っている。
そしてその間に立つのは、もう“何も知らない親”ではなくなり始めた二人だった。
それでも、根っこのところは変わらない。
異常を異常と認めたうえで、なお先に来るものがある。
息子であること。
愛しい子であること。
守るべき家族であること。
夜の静けさの中で、その覚悟だけが静かに固まっていく。
裏葉家は今夜も穏やかだった。
けれど、その穏やかさはもう、何も知らないままのものではなかった。
日中の穏やかな空気とは違う、どこか張り詰めた気配がある。
その理由はひとつだった。
「……なあ、綾乃」
宗一郎の声は、いつもより低かった。
キッチンに立っていた綾乃が、手を止めて振り返る。
「どうしたの?」
「今日な……妙な奴が来た」
その一言で、空気が変わった。
綾乃の表情がわずかに引き締まる。
「……呪術師?」
「ああ。たぶん現役だ」
宗一郎は、ゆっくりと息を吐いた。
「この辺りの“異常”を調べに来たらしい」
沈黙が落ちる。
短い。
だが重い沈黙だった。
「……気づかれたの?」
「完全には、な」
曖昧な答えだったが、それで十分だった。
綾乃も察する。
言葉にしなくても分かる。誤魔化しきれてはいない。けれど、決定的な何かまでは掴まれていない。そういう意味の“完全には”だ。
「……やっぱり、普通じゃないのね」
綾乃がぽつりと呟いた。
「だろうな」
宗一郎は苦笑した。
だが、その目は真剣だった。
「俺も、ずっと思ってた」
視線が奥の部屋へ向く。
布団の中で、小さく眠る影。
裏葉オビト。
「この家……妙に静かすぎる」
「ええ」
綾乃も頷く。
「“いなさすぎる”のよね」
それが正しい表現だった。
普通ならもっといる。
感じるはずなのだ。
呪いの気配が。
日々の感情の澱。人が暮らす限り、完全には消えない濁り。元を辿れば、二人ともその手のものを見てきた。見えなくなって久しいとはいえ、感覚そのものが全部消えてなくなったわけじゃない。
だがここには、それがない。
薄い、ではない。
“いない”。
不自然なほどに。
「……確認するか」
宗一郎が立ち上がる。
「ええ」
綾乃も静かに頷いた。
二人はそっと外へ出た。
夜の空気は冷たい。
昼間とは違う温度が肌を撫で、静まり返った住宅街の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。遠くで車の音がする。どこかの家の明かりがまだついている。そんな、何でもない夜の景色の中に――いた。
黒い靄。
電柱の上。
屋根の影。
塀の向こう。
遠くに、うごめいている。
以前なら、もっと近かったはずだ。家の周りに張り付き、窓際に寄り、夜が深くなればするすると近づいてきていたはずのものたちが、今は距離を取っている。
近づいてこない。
一定の距離を保ったまま、こちらを見ている。
「……やっぱりだ」
宗一郎が呟いた。
「完全に避けてる」
「ええ」
綾乃も目を細める。
「結界みたいに……弾いてる」
だが、二人とも分かっていた。
これは結界じゃない。
術式の痕跡がない。
もっと自然で、もっと異質な何かだ。
結界ならば輪郭がある。起点がある。張ったという意志が残る。けれど、この家を包むものはあまりにも曖昧で、あまりにも静かで、気づけばそこにあるような在り方をしていた。
「……中、戻るか」
宗一郎が言う。
綾乃は小さく頷いた。
二人は再び家の中へ入る。
そして、その“原因”の元へ向かった。
布団の中で眠る赤ん坊。
裏葉オビト。
「……」
しばらく、ただ見つめる。
何の変哲もない。
普通の赤ん坊だ。
黒髪で、柔らかそうな頬をしていて、小さな手を布団の端へ投げ出している。息は穏やかで、寝顔もあどけない。どう見ても、ただの赤ん坊にしか見えない。
そう見える。
だが――。
「……宗一郎」
綾乃が小さく声をかけた。
「ああ」
宗一郎も同じ違和感を感じていた。
空気だ。
この部屋だけ、妙に澄んでいる。
いや、違う。
“ここを中心に”広がっている。
部屋の中で淀みがないのではなく、この寝息のすぐそばから、何かが静かに押し広がっているような感覚だった。
「……まさか、な」
宗一郎がそう呟いた、その時だった。
ぴくり、と。
オビトの指が動いた。
「……?」
宗一郎が目を凝らす。
次の瞬間、空気がわずかに揺れた。
そして、赤い粒。
血だ。
それが、ふわりと浮かび上がる。
(――!)
二人の目が見開かれる。
血はそのまま形を変えた。
細く。
鋭く。
針のように。
ゆらりと揺れながら、空中に留まっている。
「……おい」
宗一郎の声が低くなる。
「これ……」
「ええ……」
綾乃も息を呑んだ。
二人は理解している。
これはただの現象じゃない。
術式だ。
しかも――。
「加茂の……」
綾乃がかすかに呟く。
それは確かに見覚えのある系統だった。
血を操る術。
赤血操術。
「……こんな、赤ん坊が?」
宗一郎が信じられないものを見る目で言う。
ありえない。
普通はありえない。
覚醒どころか、認識すらできない年齢だ。生まれて数ヶ月の赤ん坊が、自分の血を術として扱うなど、常識のどこにもない。
なのに。
目の前で、血が自在に動いている。
しかも揺れない。
ぶれない。
精度が異常だった。
たまたま浮いただけではない。偶然の暴発でもない。まるで意思を持ってそこに留まり、形を保っている。綾乃は加茂家の血を引く者として、その異常さが余計にはっきり分かった。
宗一郎はゆっくりと息を吐いた。
「……この子、何だ?」
率直な疑問だった。
恐怖ではない。
だが、理解不能なものを前にした純粋な問いだった。
その時。
「……あぶぅ」
小さな声がした。
オビトが目を開ける。
ぼんやりとした視線。
こちらを見る。
内心では、ただ単純に、何だ? と思っていた。
さっきまで眠っていたのに、急に妙な気配を感じて目が覚めた。父親と母親がそろって自分を見ている。空気が少し張っている。何かあったのか。
だが、特に何も考えていない。
ただ、起きただけだった。
「……」
沈黙が落ちる。
数秒。
そして。
「……ぐう、可愛いな!」
宗一郎が崩れた。
さっきまでの緊張が一瞬で消える。
顔が緩み、完全に親の顔だ。
「もう、あなた」
綾乃もくすりと笑う。
「さっきまで真剣だったのに」
「いやだってな……!」
宗一郎はそのままオビトを抱き上げる。
「見ろよこの顔!」
「ふふ、ほんとね」
綾乃の指が、優しくオビトの頬を撫でる。
空気が元に戻る。
(……なんだ?)
オビトは内心で思った。
さっきまで、なんか変な空気だった気がする。
でも、まあいいか。
今は眠い。
それだけだ。
抱き上げられた温もりと、いつもの匂いに包まれると、さっきまでの妙な張り詰めもどうでもよくなる。赤ん坊の身体は正直だ。眠気が来れば、思考なんて簡単に沈む。
そのまま再び目を閉じた。
意識が落ちていく。
綾乃と宗一郎は、顔を見合わせた。
ほんの少しだけ、真剣な表情へ戻る。
「……宗一郎」
「ああ」
短い会話だ。
だが意味は十分に伝わる。
この子は普通じゃない。
間違いなく。
だが、それでも――。
「……俺たちの子だ」
宗一郎が静かに言った。
迷いはない。
「ええ」
綾乃も頷く。
同じ結論だった。
どれだけ異質でも。
どれだけ規格外でも。
関係ない。
この子は守るべき存在だ。
それだけは絶対に変わらない。
静かな夜。
裏葉家の中。
小さな寝息が、穏やかに響いていた。
外では黒い靄が遠巻きに家を見ている。
内では得体の知れない力を宿した赤ん坊が眠っている。
そしてその間に立つのは、もう“何も知らない親”ではなくなり始めた二人だった。
それでも、根っこのところは変わらない。
異常を異常と認めたうえで、なお先に来るものがある。
息子であること。
愛しい子であること。
守るべき家族であること。
夜の静けさの中で、その覚悟だけが静かに固まっていく。
裏葉家は今夜も穏やかだった。
けれど、その穏やかさはもう、何も知らないままのものではなかった。
【〆栞】