でかい虫
それは明らかに、“今までと違う”ものだった。
最初に気付いたのは、違和感だった。
いつものように、黒い虫が遠巻きにこちらを見ている。屋根の上、電柱の影、壁の隙間。相変わらず気持ち悪いし、見ていて気分のいいものではない。だが最近は、あいつらも一定の距離を保つようになっていた。近づいてこないなら、まあいい。鬱陶しさは変わらないが、赤ん坊としては平和が一番だ。
そう思っていた。
今日は――様子が違った。
ざわついている。
逃げている。
屋根の上から、電柱の影から、壁の隙間から。
黒い虫たちが一斉に距離を取っていく。
(……なんだ?)
まるで何かを恐れるように。
こちらではない。
もっと別の何かを。
その時だった。
視界の端の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
一瞬、陽炎か何かかと思った。だが違う。黒が濃くなっていく。空気の一部が染みのように滲み、そこへ重さが集まり、形を成していく。
――でかい。
単純な感想だった。
でかい。
人の形をしている。
だが歪み方が異常だ。
腕がいくつもある。左右に二本ずつ、という程度ではない。肩から、脇腹から、背から、いびつに捻れて伸びた腕が何本もぶら下がっている。顔がない。いや、“顔だったもの”が崩れている。目鼻口の形が残っていない。骸のように陥没した空洞の奥で、何かがこちらを“欲している”ような、そんな不快さだけがあった。
(……気持ち悪ぃな)
率直にそう思う。
今までの虫とは格が違う。
存在感がある。
圧がある。
ただそこにいるだけで、空気が重い。
周囲の光景がわずかに歪んで見える。景色の輪郭が揺らぎ、音まで少し遠くなるような圧迫感があった。屋根や塀にいた黒い虫たちが逃げる理由も、何となく分かった。
これ……。
オビトは理解する。
これは――でかい虫だな。
結論、分類は同じだった。
虫である。
ただし、でかい。
それだけだ。
だが次の瞬間、それが、“こちらを見た”。
顔はないはずなのに。
確実に狙いを定めている。
「あ……?」
声にならない息が漏れる。
ぞわり、と、全身の奥に嫌な感覚が走った。
本能が警鐘を鳴らす。
これは今までのやつとは違う。
近づかれたら――まずい。
理由は分からない。
だが確信だけがある。
危険だ。
そして。
――“来る”。
そう理解した瞬間、体の奥で静かに、膨大な力が流れ出した。
血。
火。
風。
雷。
土。
水。
木。
そして――もっと深い何か。
それが勝手に外へ滲み、溢れる。
まだ名前も輪郭も分からない力だ。ただ確かに、自分の中にあるものが、危険に触れた瞬間に反応していた。赤ん坊の小さな器の中から、本来ありえない規模の何かが染み出してくる。
圧、だった。
空間そのものを押し潰すような、見えない重み。
結果、周囲の虫たちが一斉に逃げた。
屋根から。
電柱から。
この家を中心に、住宅街のあちこちから離れていく。
(……?)
オビトは首を傾げる。
よく分からないが、静かになる。
それはそれでいい。
赤ん坊としては平和が一番だ。
だが、でかい虫は違った。
逃げない。
むしろ、こちらへ踏み込んでくる。
空気が歪む。
圧が増す。
重い。
気持ち悪い。
息苦しい。
(……来るのか)
理解した瞬間に、身体が動いた。
どくん。
血が爆発的に脈打つ。
今までとは違う。
量も、速度も、密度も、桁が違った。
(やるしかねぇな)
思考は静かだった。
焦りはない。
恐怖に飲まれてもいない。
ただ、処理する。
敵。
排除。
それだけだ。
指先――いや、違う。
全身から血が溢れた。
糸になる。
針になる。
刃になる。
形を変えながら、赤が空間を埋めていく。
普段なら小さな指先の周りにしか現れないそれが、今は体中から滲み出るように広がっていた。赤ん坊の小さな身体を中心に、無数の血の線がゆらりと浮く。その一本一本が意思を持つみたいに震え、標的を捕らえている。
――行くぞ。
一斉に放つ。
赤が走る。
空気を裂く。
でかい虫へ、無数の針と糸と刃が突き刺さる。
だが。
「――――」
声はない。
けれど確かに、でかい虫は何かを叫んだ。
消えない。
耐えた。
硬い。
今までのやつなら、これで終わっていた。
刺さった瞬間に弾けて、跡形もなく消えていた。
だがこいつは違う。
削れる。
削れるが、消えない。
黒い身体の表面が崩れ、何本かの腕が千切れ、輪郭が歪む。けれど中心が残っている。まだ立っている。まだこちらを見ている。
なら――もっとだ。
量を増やす。
密度を上げる。
精度を高める。
一点に集中。
どくん。
さらに血が応じた。
今度は、さっきよりも明確だった。血がただ飛ぶのではない。まるで意思を持つように、自分で最適な形を探して動き始める。無数に広がっていた赤が、一本の芯へと収束していく。細く、硬く、鋭く、ぶれずに。
貫く。
その一点だけを目的にして。
「――ッ」
音もない咆哮。
でかい虫の体が大きく歪んだ。
耐えきれない。
維持ができない。
黒の輪郭が崩れる。
崩れた先からさらに削れ、中心が割れ、空洞だったはずの内側がばらばらに砕けていく。
そして――。
ぼん!
弾けて、消滅した。
完全に。
「……よし」
心の中で、短くそう呟く。
終わった。
空間が静かになる。
圧が消える。
重苦しかった空気がほどけて、いつもの住宅街の気配が戻ってくる。遠くの車の音。風の匂い。家の中の生活音。そういう普通のものが、少しずつ元の位置に戻ってきた。
だが、その代償はすぐに来た。
どっと疲労が押し寄せる。
「……っ」
重い。
意識が。
身体が。
赤ん坊の限界だった。
無理やり使った反動が、一気に全身へ落ちてくる。さっきまで張っていたものが全部切れて、骨も肉も血も何もかもが急に重くなる。
その時。
「――ちょっと!」
綾乃の声が飛んだ。
「今の何!?」
宗一郎も周囲を見回している。
「揺れたよな?」
「地震……?」
違う。
原因ここ。
そう思うが、言えるはずもない。
赤ん坊だから。
「大丈夫か、オビト!」
宗一郎が慌てて抱き寄せる。
平気だ、と内心で返す。
返すが、もう限界だった。
眠い。
急激に意識が沈む。
まあいいか、と思った。
終わった。
虫は潰した。
それで十分だ。
そのまま意識を手放す。
――落ちる。
深く。
静かに。
その一方、外では少し離れた場所で、黒い虫たちが震えていた。
あの巨大な虫は、この辺りではそれなりに強い存在だった。
少なくとも、寄れば食えると思っていた連中にとっては、簡単に逆らえるものではなかった。空気を歪め、重くし、他の虫たちを押しのけるほどの圧を持っていた。
だが、一瞬で消えた。
しかも家の中にいるのは――ただの赤ん坊。
理解できない。
黒い虫たちに理屈はない。
だが本能だけは分かる。
あそこは危ない。
近づくな。
あれは――天敵だ。
そして裏葉家。
布団の中で赤ん坊は何も知らずに眠っている。
小さく息をして、親に抱かれ、ついさっきまでと変わらない顔で眠っている。
ただひとつだけ、ぼんやりと思った。
でかい虫だったな。
でも結局は、虫は虫だ。
忍だった頃から対処法は変わらない。
見つける。
潰す。
それだけだ。
綾乃はまだ不安そうにオビトの額へ触れ、宗一郎は「熱はないよな?」とおろおろしている。原因がすぐ目の前の赤ん坊だとは夢にも思っていない顔だ。
家の中は少し騒がしくなった。
けれど、大きな危険はもうない。
だから、こうして裏葉家は今日もとても平和だった。
……たぶん。
最初に気付いたのは、違和感だった。
いつものように、黒い虫が遠巻きにこちらを見ている。屋根の上、電柱の影、壁の隙間。相変わらず気持ち悪いし、見ていて気分のいいものではない。だが最近は、あいつらも一定の距離を保つようになっていた。近づいてこないなら、まあいい。鬱陶しさは変わらないが、赤ん坊としては平和が一番だ。
そう思っていた。
今日は――様子が違った。
ざわついている。
逃げている。
屋根の上から、電柱の影から、壁の隙間から。
黒い虫たちが一斉に距離を取っていく。
(……なんだ?)
まるで何かを恐れるように。
こちらではない。
もっと別の何かを。
その時だった。
視界の端の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
一瞬、陽炎か何かかと思った。だが違う。黒が濃くなっていく。空気の一部が染みのように滲み、そこへ重さが集まり、形を成していく。
――でかい。
単純な感想だった。
でかい。
人の形をしている。
だが歪み方が異常だ。
腕がいくつもある。左右に二本ずつ、という程度ではない。肩から、脇腹から、背から、いびつに捻れて伸びた腕が何本もぶら下がっている。顔がない。いや、“顔だったもの”が崩れている。目鼻口の形が残っていない。骸のように陥没した空洞の奥で、何かがこちらを“欲している”ような、そんな不快さだけがあった。
(……気持ち悪ぃな)
率直にそう思う。
今までの虫とは格が違う。
存在感がある。
圧がある。
ただそこにいるだけで、空気が重い。
周囲の光景がわずかに歪んで見える。景色の輪郭が揺らぎ、音まで少し遠くなるような圧迫感があった。屋根や塀にいた黒い虫たちが逃げる理由も、何となく分かった。
これ……。
オビトは理解する。
これは――でかい虫だな。
結論、分類は同じだった。
虫である。
ただし、でかい。
それだけだ。
だが次の瞬間、それが、“こちらを見た”。
顔はないはずなのに。
確実に狙いを定めている。
「あ……?」
声にならない息が漏れる。
ぞわり、と、全身の奥に嫌な感覚が走った。
本能が警鐘を鳴らす。
これは今までのやつとは違う。
近づかれたら――まずい。
理由は分からない。
だが確信だけがある。
危険だ。
そして。
――“来る”。
そう理解した瞬間、体の奥で静かに、膨大な力が流れ出した。
血。
火。
風。
雷。
土。
水。
木。
そして――もっと深い何か。
それが勝手に外へ滲み、溢れる。
まだ名前も輪郭も分からない力だ。ただ確かに、自分の中にあるものが、危険に触れた瞬間に反応していた。赤ん坊の小さな器の中から、本来ありえない規模の何かが染み出してくる。
圧、だった。
空間そのものを押し潰すような、見えない重み。
結果、周囲の虫たちが一斉に逃げた。
屋根から。
電柱から。
この家を中心に、住宅街のあちこちから離れていく。
(……?)
オビトは首を傾げる。
よく分からないが、静かになる。
それはそれでいい。
赤ん坊としては平和が一番だ。
だが、でかい虫は違った。
逃げない。
むしろ、こちらへ踏み込んでくる。
空気が歪む。
圧が増す。
重い。
気持ち悪い。
息苦しい。
(……来るのか)
理解した瞬間に、身体が動いた。
どくん。
血が爆発的に脈打つ。
今までとは違う。
量も、速度も、密度も、桁が違った。
(やるしかねぇな)
思考は静かだった。
焦りはない。
恐怖に飲まれてもいない。
ただ、処理する。
敵。
排除。
それだけだ。
指先――いや、違う。
全身から血が溢れた。
糸になる。
針になる。
刃になる。
形を変えながら、赤が空間を埋めていく。
普段なら小さな指先の周りにしか現れないそれが、今は体中から滲み出るように広がっていた。赤ん坊の小さな身体を中心に、無数の血の線がゆらりと浮く。その一本一本が意思を持つみたいに震え、標的を捕らえている。
――行くぞ。
一斉に放つ。
赤が走る。
空気を裂く。
でかい虫へ、無数の針と糸と刃が突き刺さる。
だが。
「――――」
声はない。
けれど確かに、でかい虫は何かを叫んだ。
消えない。
耐えた。
硬い。
今までのやつなら、これで終わっていた。
刺さった瞬間に弾けて、跡形もなく消えていた。
だがこいつは違う。
削れる。
削れるが、消えない。
黒い身体の表面が崩れ、何本かの腕が千切れ、輪郭が歪む。けれど中心が残っている。まだ立っている。まだこちらを見ている。
なら――もっとだ。
量を増やす。
密度を上げる。
精度を高める。
一点に集中。
どくん。
さらに血が応じた。
今度は、さっきよりも明確だった。血がただ飛ぶのではない。まるで意思を持つように、自分で最適な形を探して動き始める。無数に広がっていた赤が、一本の芯へと収束していく。細く、硬く、鋭く、ぶれずに。
貫く。
その一点だけを目的にして。
「――ッ」
音もない咆哮。
でかい虫の体が大きく歪んだ。
耐えきれない。
維持ができない。
黒の輪郭が崩れる。
崩れた先からさらに削れ、中心が割れ、空洞だったはずの内側がばらばらに砕けていく。
そして――。
ぼん!
弾けて、消滅した。
完全に。
「……よし」
心の中で、短くそう呟く。
終わった。
空間が静かになる。
圧が消える。
重苦しかった空気がほどけて、いつもの住宅街の気配が戻ってくる。遠くの車の音。風の匂い。家の中の生活音。そういう普通のものが、少しずつ元の位置に戻ってきた。
だが、その代償はすぐに来た。
どっと疲労が押し寄せる。
「……っ」
重い。
意識が。
身体が。
赤ん坊の限界だった。
無理やり使った反動が、一気に全身へ落ちてくる。さっきまで張っていたものが全部切れて、骨も肉も血も何もかもが急に重くなる。
その時。
「――ちょっと!」
綾乃の声が飛んだ。
「今の何!?」
宗一郎も周囲を見回している。
「揺れたよな?」
「地震……?」
違う。
原因ここ。
そう思うが、言えるはずもない。
赤ん坊だから。
「大丈夫か、オビト!」
宗一郎が慌てて抱き寄せる。
平気だ、と内心で返す。
返すが、もう限界だった。
眠い。
急激に意識が沈む。
まあいいか、と思った。
終わった。
虫は潰した。
それで十分だ。
そのまま意識を手放す。
――落ちる。
深く。
静かに。
その一方、外では少し離れた場所で、黒い虫たちが震えていた。
あの巨大な虫は、この辺りではそれなりに強い存在だった。
少なくとも、寄れば食えると思っていた連中にとっては、簡単に逆らえるものではなかった。空気を歪め、重くし、他の虫たちを押しのけるほどの圧を持っていた。
だが、一瞬で消えた。
しかも家の中にいるのは――ただの赤ん坊。
理解できない。
黒い虫たちに理屈はない。
だが本能だけは分かる。
あそこは危ない。
近づくな。
あれは――天敵だ。
そして裏葉家。
布団の中で赤ん坊は何も知らずに眠っている。
小さく息をして、親に抱かれ、ついさっきまでと変わらない顔で眠っている。
ただひとつだけ、ぼんやりと思った。
でかい虫だったな。
でも結局は、虫は虫だ。
忍だった頃から対処法は変わらない。
見つける。
潰す。
それだけだ。
綾乃はまだ不安そうにオビトの額へ触れ、宗一郎は「熱はないよな?」とおろおろしている。原因がすぐ目の前の赤ん坊だとは夢にも思っていない顔だ。
家の中は少し騒がしくなった。
けれど、大きな危険はもうない。
だから、こうして裏葉家は今日もとても平和だった。
……たぶん。
【〆栞】