父の決断

ちゅんちゅんと雀の囀りが聞こえる、妙に陽気な朝だった。

裏葉家のリビングには朝の光が差し込み、カーテン越しのやわらかな明るさが床へ広がっている。いつもの朝だ。コーヒーの香りがして、新聞をめくる音がして、綾乃が静かに動く気配がある。

その中で、宗一郎ははたりと動きを止めた。

「……いや、そうじゃないだろ」

ぽつりと呟く。

それは、現実逃避から戻って来た瞬間でもあった。

昨夜は完全に頬が緩んでいた自覚がある。気持ちがどこかに飛んだのもある。何しろ、目の前で息子が「あぶぅ」と声を出して目を開けた瞬間、それまでの緊張も疑問もまとめて吹き飛んだのだ。

可愛いは強い。

それは認める。

だが――。

「違うだろ……」

宗一郎は低く唸るように言った。

あの光景。

血が浮いた。

しかも、自在に。

「術式……」

口に出して、すぐに首を振る。

「……にしては、早すぎる」

赤ん坊だぞ。

生後数ヶ月だぞ。

術式どころか、自我すらまだ曖昧な時期だろう。泣いて、飲んで、寝て、少しずつ外界を知っていく、そういう段階のはずだ。

なのに、あの精度。

あの制御。

「やっぱり……、ありえん」

新聞越しの視線が、部屋の向こうへ向く。

綾乃がオビトを抱いていた。

「ほら、オビトー。いい子いい子」

優しく揺らされて、うつらうつらしている。

あやす声は、いつも通り穏やかで、柔らかい。

その光景を見ながら、宗一郎の中で、ひとつの“式”が浮かんだ。

禪院。

加茂。

――掛け合わせ。

「……ハイブリッド」

思わず、そう呟いた。

ありえるかもしれない。

両家の血を引いている。

術式が発現する可能性は、確かにある。

禪院由来の身体性能。

加茂由来の血の術。

そういうものが混ざり合って、普通ではない形で表に出る。理屈としてはゼロではない。むしろ、そう考えるのが自然ですらある。

「あー……、なるほど、そうことか」

一瞬、納得しかける。

だが。

「……いや、なるほどじゃないだろ」

即座に否定した。

宗一郎は新聞をぐしゃっと握り締めた。

「違う、どういうこと!?」

思わず声が大きくなる。

綾乃がきょとんと振り返った。

「どうしたの?」

「いや、どうしたもこうしたもないだろ!」

宗一郎は頭を抱えた。

整理が追いつかない。

禪院の肉体性能。

加茂の血の術式。

それが混ざるのは理屈としては分かる。

でも――。

「赤ん坊であれはおかしいだろ!」

声を潜めつつも、熱は抑えきれない。

「しかもあの量……」

あの空気。

あの圧。

普通の呪術師じゃない。

明らかに桁が違った。

綾乃も、今度は真面目な顔でオビトを見下ろした。

腕の中の小さな身体は、何も知らないみたいにうとうとしている。頬は柔らかく、呼吸は穏やかで、どう見てもただの赤ん坊だ。

なのに、その内側にあるものは、たぶん、ただでは済まない。

「……」

沈黙が流れる。

その沈黙の中で、嫌な想像が二人の頭をよぎった。

「……バレたら」

ぽつりと、宗一郎が言う。

「終わる」

その一言に、全部が詰まっていた。

綾乃の表情も静かに引き締まる。

「ええ」

短く頷く。

分かっている。

この子は普通じゃない。

それはもう、はっきりしている。

そして、普通じゃないものは――狙われる。

「禪院も、加茂も……」

宗一郎が低く言う。

「あんなの、見逃すわけがない」

「ええ」

綾乃の目がわずかに細まる。

「むしろ、奪いに来るわね」

断言だった。

血。

術式。

価値。

あの家にとっては、それがすべてだ。

愛情など二の次。

いや、二の次ですらないかもしれない。利用できるか。囲い込めるか。どれだけ都合よく使えるか。そういう尺度でしか見ない連中が、確かにいることを二人は知っていた。

「……絶対に、嫌だ」

宗一郎の声に、強い感情が乗る。

「この子を、あんなところに渡す気はない」

「同じよ」

綾乃も、はっきりと言う。

そこには一切の迷いがなかった。

腕の中で眠りに落ちた我が子を、綾乃はそっと抱き締める。

「この子は、私たちの子だもの」

それだけで十分だった。

だが問題は、それだけでは終わらない。

「昨日、呪術師と会った」

宗一郎が言う。

空気が重くなる。

「……そうだったわね」

綾乃が静かに息を吐いた。

「気づかれた?」

「完全じゃない。だが……」

宗一郎はそこで言葉を切る。

「違和感は、持たれた」

それで十分だった。

時間の問題だ。

調べられる。

掘られる。

辿られる。

「……気づかれる」

綾乃が小さく言う。

確信だった。

遅かれ早かれ、この場所は特定される。

オビトの存在も――。

「……」

沈黙はわずかだった。

だが、決断には十分だった。

宗一郎が顔を上げる。

そして、あっさりと言った。

「引っ越すか」

それが最善だった。

「ええ、そうね」

綾乃も迷いなく即答する。

「ここはもうダメね」

「ああ」

宗一郎は頷いた。

決まりだ。

「呪術界にバレないように生活する」

宗一郎が指を折りながら言う。

「なるべく俺たちが先に祓う」

「この子の力は極力使わせない」

綾乃が続ける。

「そして――」

二人の視線が、同時にオビトへ向く。

小さく眠る命。

二人の声が重なった。

絶対に守る。

強い意志だった。

宗一郎は真顔のまま言う。

「バレたら」

一拍置く。

「絶対絶対ぜーったい! やばいことになるから!」

一気に現実味のある言い方になった。

綾乃も真剣に頷く。

「ええ、本当に! 絶対絶対ダメ!」

だが、どこか焦っている。

元呪術師としての切実さが、そのまま滲んでいた。

そんな空気の中。

「……あぶぅ」

オビトが目を覚ました。

きょとんとした顔。

何も知らない。

ただ二人を見ている。

「……」

一瞬、沈黙。

そして――。

「……ぐう、ほんっとに可愛いな!」

宗一郎が崩れた。

「ふふ、ほんとに」

綾乃も柔らかく笑う。

――ダメだこいつら。

と、もしオビトがもう少しはっきり考えられる年齢だったなら、たぶんそう思っただろう。

だが今はまだ、そこまで明確な言葉にならない。ただ何となく、さっきまで変に張っていた空気が、またいつもの温かいものへ戻ったと感じるだけだ。

宗一郎がオビトを抱き上げる。

「見ろよ、この顔」

「さっきまで本気で焦ってた人の台詞じゃないわね」

「いや、でもな……!」

顔が緩み切っている。

完全に父親の顔だ。

綾乃もオビトの髪を撫でながら、ふっと目を細める。

「可愛いわねぇ」

その声を聞いていると、オビトの意識もまた、とろんと沈んでいく。

眠い。

今はそれだけだった。

でも、どこかで、ほんの少しだけ感じていた。

何かが変わろうとしていることを。

この家の空気が、昨日までとは違う方向へ動き出していることを。

その決断が、これから先の運命を大きく動かすことを。

もちろん、今のオビトにはそんなことは分からない。

ただ、抱き上げられた腕の中が温かくて、眠気が気持ちよくて、目を閉じるしかなかった。

再び静かになったリビングで、宗一郎と綾乃は顔を見合わせる。

さっきの会話はもう冗談では済まない。

引っ越す。

隠す。

守る。

そのために動く。

やることは決まった。

「……急がないとね」

綾乃が静かに言う。

「ああ」

宗一郎も頷く。

「今度は、ちゃんと守る」

その言葉は、自分自身に向けた誓いにも聞こえた。

穏やかな朝の光の下で。

雀の囀りが変わらず聞こえる中で。

裏葉家の未来は、静かに、だが確かに動き始めていた。


〆栞
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