引越し前日
家の中がひっくり返っていた。
箱、箱、箱。
段ボールという文明の塊が、そこら中に積み上がっている。
見慣れた家具の間に、茶色い四角がずらりと並んでいる光景は、なかなかに圧があった。棚の上にあったものは消え、床には箱、机の上にも箱、壁際にも箱。人が暮らしていた家というより、荷物の迷宮みたいになっている。
「宗一郎、それ割れ物だから気をつけて!」
「分かってるって! ……うお、重っ!?」
「だから言ったでしょ!」
とにかく慌ただしい。
朝からずっと、そんな調子だった。
オビトはベビーベッドの上から、その光景をぼんやり眺めていた。
(……なんだこれ)
引っ越し。
それが今の状況の原因らしい。
宗一郎と綾乃の会話から、何となくそう理解している。家の中のものを箱へ入れて、別の場所へ運ぶ作業。単純に言えばそれだけなのだろうが、実際にやっている様子を見ると、思った以上に大事だった。
「これ、どこ入れるんだ?」
「それは向こうで使うから別にして!」
「了解!」
バタバタと動き回る二人。
いつもは穏やかな綾乃も、今日はさすがに少しせわしない。宗一郎は宗一郎で、素直に従っているようでたまに雑だから、余計に慌ただしさが増す。
(……忙しそうだな)
オビトはただ見ているしかない。
とはいえ、退屈かと言えばそうでもなかった。
知らない作業だ。
知らない流れだ。
この世界の人間が、どうやって暮らしを持ち運ぶのかを見るのは、単純に面白い。前世では家を空けることも、身一つで動くことも多かった。こんなふうに生活まるごとを整理して運ぶ場面は、案外ちゃんと見たことがない。
ぼんやりと観察していると、ふと別のことに気づいた。
(あ、虫)
視界の端。
壁の隅に、黒い靄が一匹。
最近はあまり見なかったが、久しぶりに近い。
(……残ってたか)
まあ潰すか。
そう思って、血に意識を向けようとした。
その瞬間。
パシン!
乾いた音が響いた。
一瞬で、黒い靄が弾けて消えた。
(……は?)
オビトの思考が止まる。
今のは、見間違いじゃない。
確かに、綾乃が手で叩いた。
そして――消えた。
「……あれ、今の何?」
宗一郎がきょとんとする。
「ん? 何が?」
綾乃は何でもない顔で箱を持ち上げていた。
「いや、今なんか……」
「気のせいじゃない?」
軽く流される。
だが――。
(いやいやいや)
オビトの中では完全に引っかかっていた。
これは見えてる。
今の、確実に“見えてた”。
しかも、普通に叩いて消した。
(……なんだそれ)
この虫が見えるのは、自分だけではない?
いや、でも――。
今までの様子を見る限り、二人とも気づいていなかったはずだ。少なくとも、あからさまに反応したことはなかった。風呂場の時も、部屋の中の時も、もっと別のことに気を取られていたように見えた。
たまたまだろうか。
偶然に当たった……?
いや、あの動きは明らかに狙っていた。
迷いなく、そこへ手が伸びていた。
オビトが考え込んでいると、綾乃が覗き込んできた。
「オビトー、退屈してる?」
退屈。
……してたけど、今は考えてる。
とはもちろん言えない。
オビトはじっと綾乃の顔を見る。
綾乃はそれを「見つめてくれた」と解釈したらしく、少し嬉しそうに笑った。
「もうちょっとだからね」
待つのは別にいいけど、と内心で答える。
正直、このドタバタは見ていて面白いから。
未知の作業。
未知の流れ。
それを観察するのは、思った以上に退屈しない。
それにしても、さっきの一撃は何だったのか。
綾乃は本当に見えていたのか。
それとも、あの虫みたいなものは、この家の中ではすでに薄くなりすぎていて、何となく叩いた拍子に消えただけなのか。
結論。
分からない。
まあいいか。
消えたならそれでいい。
オビトはそう割り切ることにした。
段ボールの山は少しずつ減ったり増えたりを繰り返し、時間はあっという間に過ぎていった。窓の外の光が傾き、家の中の色も変わっていく。
そして、日が落ちた。
夜。
家の中は、必要なものだけを残してだいぶ片付いていた。
段ボールはまだある。
だが昼間の混乱に比べればずっと落ち着いている。棚は空き、部屋の輪郭が少し寂しくなって、いつも住んでいた家なのにもう半分別の場所みたいだった。
「……ふぅ」
宗一郎がソファに座り込む。
「疲れた……」
「お疲れ様」
綾乃が隣に座った。
二人の間に、少しだけ静寂が流れる。
オビトは寝室の布団の中で眠っている。
静かに。
穏やかに。
その寝顔を、二人が見つめる。
「……なあ」
宗一郎がぽつりと呟く。
「この子さ」
「ええ」
綾乃は、すぐに察した。
「普通じゃないわね」
「だよな」
宗一郎は苦笑した。
だが、その目は優しい。
目の前で眠っているのは、何か得体の知れない存在ではなく、自分たちの息子なのだと、その眼差しだけで分かる。
少し間を置いてから、宗一郎が聞いた。
「……怖くはないか?」
綾乃は、ほんの少しだけ考えた。
それから首を振る。
「怖くないわ」
即答だった。
「だって、この子だもの」
それだけで十分だった。
宗一郎も小さく笑う。
「……だな」
だが、問題はそれで終わらない。
「呪術界は……」
宗一郎の声が低くなる。
「甘くない」
「ええ」
綾乃も静かに頷く。
「特に御三家は」
空気が少し重くなる。
禪院。
加茂。
その名前だけで十分だった。
宗一郎が、低く言う。
「血を、力を……」
少し言葉を切る。
「全部、“価値”で見る」
「ええ」
綾乃の目が、わずかに鋭くなる。
「人じゃなくて、“素材”としてね」
短い言葉だった。
だがその中に詰まっているものは重い。
オビトの寝顔を見る。
小さくて、無防備で、何も知らない。
「……あんなところに、置きたくない」
宗一郎が静かに言う。
「絶対に」
「ええ」
綾乃も、同じ気持ちだった。
だからこそ、ここを離れる。
この子を守るために。
綾乃が、そっと手を伸ばす。
オビトの頬に触れる。
柔らかい。
温かい。
「……この子は」
そのまま、静かに言った。
「自由に、生きてほしい」
その言葉は願いだった。
強い、願いだ。
御三家の枠にも、呪術界の都合にも、誰かの価値判断にも縛られず、この子がこの子として生きられるように。自分たちがそのための道を作れるなら、何でもする。そんな決意が、綾乃の声の奥にあった。
宗一郎も、ゆっくりと頷く。
「……ああ」
それ以上の言葉はいらなかった。
静かな夜。
新しい場所へ向かう前の、最後の時間。
箱が積まれた部屋の中で、二人はただ、我が子の未来を願っていた。
その願いを、オビトはまだ知らない。
知らないまま、穏やかな寝息を立てている。
けれど、眠りの奥のどこかで、小さな体を包む温度が少しだけ変わった気がした。何かが終わり、何かが始まる直前の、あの静かな揺れに似ていた。
家はもうすぐ変わる。
場所も、景色も、周りの気配も。
けれど、抱き締める腕の温度だけは変わらないのだろうと、まだ言葉にもならない感覚のまま、オビトは深く眠り続けていた。
外では夜風が静かに吹いている。
遠くの電柱の上で、黒い虫たちが様子を窺うように揺れていた。だが、もう近づいてはこない。この家の中にいる小さな存在が、自分たちにとって何なのか、本能だけは知っているからだ。
明日になれば、ここを離れる。
それが何を変えるのか、まだ誰にも分からない。
それでも、裏葉家の三人にとって、その一歩が必要なものだということだけは確かだった。
そして夜は更けていく。
新しい場所へ向かう前の、最後の静かな夜として。
箱、箱、箱。
段ボールという文明の塊が、そこら中に積み上がっている。
見慣れた家具の間に、茶色い四角がずらりと並んでいる光景は、なかなかに圧があった。棚の上にあったものは消え、床には箱、机の上にも箱、壁際にも箱。人が暮らしていた家というより、荷物の迷宮みたいになっている。
「宗一郎、それ割れ物だから気をつけて!」
「分かってるって! ……うお、重っ!?」
「だから言ったでしょ!」
とにかく慌ただしい。
朝からずっと、そんな調子だった。
オビトはベビーベッドの上から、その光景をぼんやり眺めていた。
(……なんだこれ)
引っ越し。
それが今の状況の原因らしい。
宗一郎と綾乃の会話から、何となくそう理解している。家の中のものを箱へ入れて、別の場所へ運ぶ作業。単純に言えばそれだけなのだろうが、実際にやっている様子を見ると、思った以上に大事だった。
「これ、どこ入れるんだ?」
「それは向こうで使うから別にして!」
「了解!」
バタバタと動き回る二人。
いつもは穏やかな綾乃も、今日はさすがに少しせわしない。宗一郎は宗一郎で、素直に従っているようでたまに雑だから、余計に慌ただしさが増す。
(……忙しそうだな)
オビトはただ見ているしかない。
とはいえ、退屈かと言えばそうでもなかった。
知らない作業だ。
知らない流れだ。
この世界の人間が、どうやって暮らしを持ち運ぶのかを見るのは、単純に面白い。前世では家を空けることも、身一つで動くことも多かった。こんなふうに生活まるごとを整理して運ぶ場面は、案外ちゃんと見たことがない。
ぼんやりと観察していると、ふと別のことに気づいた。
(あ、虫)
視界の端。
壁の隅に、黒い靄が一匹。
最近はあまり見なかったが、久しぶりに近い。
(……残ってたか)
まあ潰すか。
そう思って、血に意識を向けようとした。
その瞬間。
パシン!
乾いた音が響いた。
一瞬で、黒い靄が弾けて消えた。
(……は?)
オビトの思考が止まる。
今のは、見間違いじゃない。
確かに、綾乃が手で叩いた。
そして――消えた。
「……あれ、今の何?」
宗一郎がきょとんとする。
「ん? 何が?」
綾乃は何でもない顔で箱を持ち上げていた。
「いや、今なんか……」
「気のせいじゃない?」
軽く流される。
だが――。
(いやいやいや)
オビトの中では完全に引っかかっていた。
これは見えてる。
今の、確実に“見えてた”。
しかも、普通に叩いて消した。
(……なんだそれ)
この虫が見えるのは、自分だけではない?
いや、でも――。
今までの様子を見る限り、二人とも気づいていなかったはずだ。少なくとも、あからさまに反応したことはなかった。風呂場の時も、部屋の中の時も、もっと別のことに気を取られていたように見えた。
たまたまだろうか。
偶然に当たった……?
いや、あの動きは明らかに狙っていた。
迷いなく、そこへ手が伸びていた。
オビトが考え込んでいると、綾乃が覗き込んできた。
「オビトー、退屈してる?」
退屈。
……してたけど、今は考えてる。
とはもちろん言えない。
オビトはじっと綾乃の顔を見る。
綾乃はそれを「見つめてくれた」と解釈したらしく、少し嬉しそうに笑った。
「もうちょっとだからね」
待つのは別にいいけど、と内心で答える。
正直、このドタバタは見ていて面白いから。
未知の作業。
未知の流れ。
それを観察するのは、思った以上に退屈しない。
それにしても、さっきの一撃は何だったのか。
綾乃は本当に見えていたのか。
それとも、あの虫みたいなものは、この家の中ではすでに薄くなりすぎていて、何となく叩いた拍子に消えただけなのか。
結論。
分からない。
まあいいか。
消えたならそれでいい。
オビトはそう割り切ることにした。
段ボールの山は少しずつ減ったり増えたりを繰り返し、時間はあっという間に過ぎていった。窓の外の光が傾き、家の中の色も変わっていく。
そして、日が落ちた。
夜。
家の中は、必要なものだけを残してだいぶ片付いていた。
段ボールはまだある。
だが昼間の混乱に比べればずっと落ち着いている。棚は空き、部屋の輪郭が少し寂しくなって、いつも住んでいた家なのにもう半分別の場所みたいだった。
「……ふぅ」
宗一郎がソファに座り込む。
「疲れた……」
「お疲れ様」
綾乃が隣に座った。
二人の間に、少しだけ静寂が流れる。
オビトは寝室の布団の中で眠っている。
静かに。
穏やかに。
その寝顔を、二人が見つめる。
「……なあ」
宗一郎がぽつりと呟く。
「この子さ」
「ええ」
綾乃は、すぐに察した。
「普通じゃないわね」
「だよな」
宗一郎は苦笑した。
だが、その目は優しい。
目の前で眠っているのは、何か得体の知れない存在ではなく、自分たちの息子なのだと、その眼差しだけで分かる。
少し間を置いてから、宗一郎が聞いた。
「……怖くはないか?」
綾乃は、ほんの少しだけ考えた。
それから首を振る。
「怖くないわ」
即答だった。
「だって、この子だもの」
それだけで十分だった。
宗一郎も小さく笑う。
「……だな」
だが、問題はそれで終わらない。
「呪術界は……」
宗一郎の声が低くなる。
「甘くない」
「ええ」
綾乃も静かに頷く。
「特に御三家は」
空気が少し重くなる。
禪院。
加茂。
その名前だけで十分だった。
宗一郎が、低く言う。
「血を、力を……」
少し言葉を切る。
「全部、“価値”で見る」
「ええ」
綾乃の目が、わずかに鋭くなる。
「人じゃなくて、“素材”としてね」
短い言葉だった。
だがその中に詰まっているものは重い。
オビトの寝顔を見る。
小さくて、無防備で、何も知らない。
「……あんなところに、置きたくない」
宗一郎が静かに言う。
「絶対に」
「ええ」
綾乃も、同じ気持ちだった。
だからこそ、ここを離れる。
この子を守るために。
綾乃が、そっと手を伸ばす。
オビトの頬に触れる。
柔らかい。
温かい。
「……この子は」
そのまま、静かに言った。
「自由に、生きてほしい」
その言葉は願いだった。
強い、願いだ。
御三家の枠にも、呪術界の都合にも、誰かの価値判断にも縛られず、この子がこの子として生きられるように。自分たちがそのための道を作れるなら、何でもする。そんな決意が、綾乃の声の奥にあった。
宗一郎も、ゆっくりと頷く。
「……ああ」
それ以上の言葉はいらなかった。
静かな夜。
新しい場所へ向かう前の、最後の時間。
箱が積まれた部屋の中で、二人はただ、我が子の未来を願っていた。
その願いを、オビトはまだ知らない。
知らないまま、穏やかな寝息を立てている。
けれど、眠りの奥のどこかで、小さな体を包む温度が少しだけ変わった気がした。何かが終わり、何かが始まる直前の、あの静かな揺れに似ていた。
家はもうすぐ変わる。
場所も、景色も、周りの気配も。
けれど、抱き締める腕の温度だけは変わらないのだろうと、まだ言葉にもならない感覚のまま、オビトは深く眠り続けていた。
外では夜風が静かに吹いている。
遠くの電柱の上で、黒い虫たちが様子を窺うように揺れていた。だが、もう近づいてはこない。この家の中にいる小さな存在が、自分たちにとって何なのか、本能だけは知っているからだ。
明日になれば、ここを離れる。
それが何を変えるのか、まだ誰にも分からない。
それでも、裏葉家の三人にとって、その一歩が必要なものだということだけは確かだった。
そして夜は更けていく。
新しい場所へ向かう前の、最後の静かな夜として。
【〆栞】