引越し当日

今朝から騒がしい。

いや、いつも騒がしい。

この家は平穏な時でも割と賑やかだ。宗一郎は何かあれば声が大きいし、綾乃も穏やかな顔をしているわりに判断が早い。そこへ引っ越しという一大行事が重なれば、静かでいられるはずもなかった。

だが今日は、その“いつも”と比べても一段と違う。

家の前に停まっているのは、見慣れた“車”よりもさらに大きな鉄の塊だった。

でかい。

本当に、でかい。

確かトラックと呼ばれていたはずだ。

後ろが開いていて、中へどんどん荷物が積み込まれている。人間が次々と段ボールを運び込んでいく。軽々と、効率よく、無駄がない。持ち上げる、運ぶ、置く、その一連の流れがやけに滑らかで、見ていて妙な安心感すらあった。

(こいつら忍か?)

一瞬、本気でそう思った。

いや違う。

ただの作業員だ。

宗一郎と話している感じも、綾乃へ頭を下げる仕草も、どう見ても普通の人間だった。少なくとも、自分の知る戦闘職の匂いはしない。

(一般人でこのレベルかよ)

この世界の“作業”は、地味な顔をして案外侮れない。

そんなことを考えているうちに、

「オビト、行くわよ」

と、綾乃に抱き上げられた。

視界が変わる。

朝の空気はひんやりしていた。

夜の冷たさが少しだけ残っていて、頬に触れる風が気持ちいい。日差しはやわらかく、けれど目に眩しいほど明るい。こうして外へ出るたびに思う。空は広い。忍界で見てきた空と同じはずなのに、やはりどこか違う。

トラックの中は、すでに半分以上埋まっていた。

箱、箱、箱。

家具。

見覚えのある生活用品。

それらが隙間なく収まっている。

(全部入るのか、あれ……)

思わず感心する。

容量が異常だ。

神威空間ほどではない、もちろん全然違う。だが、物を運ぶためだけの鉄の塊として考えれば、だいぶおかしい。この世界は輸送手段がやたら発達している気がする。車もそうだし、トラックもそうだ。何かを大量に、遠くへ、速く運ぶという一点に関して、妙に本気だ。

「よし、俺は先に車で行くな」

宗一郎が言った。

「会社寄ってから向かうから」

「ええ、気をつけて」

……会社?

また知らない単語が出てきた。

だが、気にしても仕方がない。

宗一郎は当たり前のように車へ乗り込み、エンジン音を上げて走り出す。

やっぱり怖ぇな、あれ。

あの化け物は何度見ても慣れない。あの速度、あの重量、あれを日常的に使っているこの世界は、やはりおかしい。便利さと危険性が同じ顔で並んでいる感じがする。

綾乃とオビトは、別ルートで移動するらしかった。

「ベビーカーで行くわね」

車輪付きの椅子か。

そう解釈するのが一番しっくりくる。

乗せられ、押され、進む。

……楽だな。

自分で歩かなくていいなんて、いや歩けないけど。今の自分にとっては最適解ではある。しかも抱っこより視界が安定していて、周囲を観察しやすい。

視点が低いのも新鮮だった。

地面が近い。

人の足がよく見える。

そして靴の種類が多い。

なんだこれ……?

革。

布。

色。

形。

つま先の丸いもの、尖ったもの、底が厚いもの、紐がついているもの、金具がついているもの。大人も子供もみんな違うものを履いている。忍界では考えられないほど、足元の自由度が高い。用途の違いなのか、美意識なのか、それともその両方なのか。見ているだけで飽きなかった。

そんなことを考えているうちに、次の衝撃が来た。

電車。

(なんだこれ!?)

まず長い。

異様に長い。

そして速い。

車よりも速い。

しかも大量の人間が乗っている。

詰め込みすぎだろ!

素直な感想だった。

最初に見た時は、巨大な箱が何個も連なって走っているようにしか見えなかった。しかもそれが決まった場所へ吸い込まれ、決まった場所で止まり、人を吐き出し、人を飲み込み、また走り去る。

何なんだ、この生き物みたいな乗り物は。

綾乃はそれに何の躊躇もなく乗り込んだ。

オビトも一緒に運び込まれる。

乗る。

揺れる。

音がする。

ごとん、ごとん、と一定のリズム。

それが不思議と嫌ではなかった。

規則的な振動が心地いい。

抱っこや歩行とは違う、単調で大きな揺れ。赤ん坊の身体には妙にしっくりくるらしい。少し眠気すら誘われる。

その時だった。

「あらまあ」

横から声がした。

「かわいい赤ちゃんねぇ」

お婆さんが覗き込んでくる。

知らない人だ。

だが敵意はない。むしろ柔らかい。声の丸さや目元の皺の寄り方で、それは何となく分かった。

「何ヶ月?」

「もうすぐ四ヶ月です」

綾乃が答える。

「まあ、いいお顔してるわねぇ」

手が伸びてきて、頬に触れる。

……。

特に問題は無い。

むしろ優しい。

触れ方が柔らかく、怖さはなかった。祖母くらいの年齢だろうか、とぼんやり思う。こういう人は前世でも嫌いではなかった。年寄りはだいたい放っておけないし、向こうも妙に懐いてくることが多かった気がする。

「将来楽しみねぇ」

……。

それはよく分からないが、悪い気はしない。

その後も続いた。

「ねえ見て、あの赤ちゃん!」

「かわいー!」

今度は別の声。

女子高生らしき集団だった。制服というものなのか、同じ系統の服を着ているのに、着崩し方や小物で妙に個性が出ている。テンションがやけに高い。

「めっちゃ目ぱっちりじゃない?」

「将来絶対イケメンだよ!」

「ねー!」

……。

再び、同じ評価。

イケメンとは……。

よく分からないが、褒められているらしい。たぶん顔が整っているとか、そういう意味なのだろう。綾乃は少し照れたように笑って、

「ありがとうございます」

と返していた。

囲まれて視線を浴びるのは落ち着かない。

正直、戦場より居心地が悪い。

理由は分からないが、視線の圧が違う。敵意があるわけじゃない。殺気もない。なのに妙に逃げ場がない。善意と好意だけで囲まれるというのは、別方向でしんどいものらしい。

不思議だ。

やがて電車を降りて、また歩く。

ベビーカーが進む。

街が変わる。

建物が変わる。

空気が少しだけ違う。

前の場所とは微妙に匂いが違っていた。人の流れの速さも、道の広さも、店の看板の数も違う。知らない土地へ来たのだと、赤ん坊なりに分かる。

新しい場所。

引っ越し先は、まだ何も知らない土地だ。

でも、どこでも同じで、やることは変わらない。

虫がいる。

視界の端に、黒い靄。

遠くに――だが、近づいてこない。

(来ないな)

やはり同じだった。

どこに行っても、あれは近づけない。

なら問題ないな。

結論はシンプルだった。

黒い靄が見えること自体は面倒だ。気持ち悪いし、できれば見たくもない。だが近寄れないのなら、今のところ実害は少ない。

家の前でベビーカーが止まる。

「着いたわよ、オビト」

綾乃が優しく言う。

オビトは見上げた。

空は広い。

それは変わらない。

見える範囲の景色は新しいのに、その上にある青だけはどこへ行っても同じように広かった。

新しい家。

外から見ただけでは、まだ何も分からない。

どんな匂いがして、どんな部屋で、どこに何があって、虫がどのくらいいるのかも知らない。

世界は相変わらず意味が分からない。

けれど。

「……あぶ」

小さく声が漏れた。

綾乃が、ふっと笑う。

「ふふ、気に入った?」

気に入ったかどうかは、まだ分からない。

でも。

悪くはないんじゃないか。

そう思えただけで十分だった。

新しい土地。

新しい家。

新しい空気。

分からないことだらけだが、それは今さらでもある。

どうせどこへ行っても、世界は知らないもので満ちている。

なら、少しずつ見ていけばいい。

そういうふうに考え始めた自分に、オビトはぼんやりと気づいていた。

綾乃がベビーカーを押して門へ向かう。

その向こうで、新しい暮らしが待っている。

黒い虫は遠巻きにこちらを見ているだけだ。

空は高い。

風は少しだけ冷たくて、気持ちいい。

オビトはそのまま、もう一度だけ新しい家を見上げた。

ここから始まるのか、と。

そんなことを、言葉にもならない感覚のまま、ただ静かに受け入れていた。


〆栞
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