仙台郊外
新しい家は、静かな場所だった。
仙台郊外。
街の喧騒から少し離れた、落ち着いた住宅地。前の家と似ているようで、どこか違う。空気が少し広い。建物の間隔がある。人の気配が薄い。その分、遠くを走る車の音が、ぽつりぽつりと耳に入ってきた。
見慣れた鉄の塊が、家の前に停まる。
宗一郎だ。
綾乃に抱かれたまま、オビトはぼんやりとその様子を見ていた。宗一郎の乗ってきた車が、ゆっくりと動く。違和感があった。
車が後ろに進んでいる。
(は?)
理解が一瞬遅れる。
前じゃない。後ろだ。
なのに、動きは妙に滑らかだった。ふらつかない。ぶれない。壁にも柱にもぶつからない。後方確認、距離感、制御、全部が必要なはずだ。忍でも難しい操作だぞ、それ。
それをあんな簡単に――。
「よし……こんなもんか」
宗一郎が満足げに頷く。
見ると、車はガレージの中へぴたりと収まっていた。
(……文明、怖ぇな)
オビトは改めてそう思った。
化け物みたいな鉄の塊を、人間が日常的に操っている。そのうえ前にも後ろにも正確に動かせる。この世界は、やはりだいぶおかしい。
車から降りてきた宗一郎が、肩を回しながら笑う。
「いやー、ちょっと混んでてな」
「お疲れ様」
綾乃が穏やかに返す。
そんなやり取りの最中、不意に声がかかった。
「こんにちはー」
振り向くと、そこにいたのは一人の男だった。
爽やかな笑顔。
柔らかい雰囲気。
肩の力が抜けていて、敵意も気負いも感じられない。むしろ好意的ですらある。
「引っ越してきた方ですよね?」
「はい、今日からお世話になります」
宗一郎が応じる。
男はにこやかに頷いた。
「虎杖仁です。近くに住んでるので、何かあったら遠慮なく」
(虎杖……)
聞き慣れない名字だ。
だが、なぜか妙に耳へ残った。
その隣に、女性が一歩前へ出る。
「よろしくお願いします」
穏やかな声だった。
優しい顔立ちで、柔らかい雰囲気をしている。だが、その顔を見た瞬間、オビトの意識は別の一点へ引っかかった。
額。
そこに――縫い目があった。
(……?)
違和感。
だが、分からない。
気になる。
ただ、それだけが先に残る。
「妻の香織です」
「裏葉です、よろしくお願いします」
挨拶が交わされる。
普通のやり取りだった。何も問題はない。少なくとも表面上は、どこにでもある新居先の近所付き合いにしか見えなかった。
ただひとつ。
少し離れた場所に、一人の老人が立ってこちらを見ていた。
関わる気配はない。
声をかけるでもなく、近づいてくるでもなく、ただ観察している。
その視線の先は――香織だった。
(……?)
よく分からない。
だが、気になるものが多い土地だな、とオビトは思った。
挨拶もそこそこに、三人は家の中へ入る。
新しい家のリビングは南向きなのか、日当たりが良かった。電気をつけなくても明るい。窓から入る光が床へ広がって、まだ荷物の少ない室内を柔らかく照らしている。庭もそれなりにあるらしく、前の家より広く感じた。
子供用の布団へ寝転がされたオビトは、荷解きをする両親を見つめていた。
がらんとしていた空間が、少しずつ住むべき環境へ変わっていく。箱が開き、布が置かれ、見覚えのある道具が並び、知らない場所が少しずつ“家”になっていく。
その時――。
ぞわっ、と。
(あ、)
黒い靄。
しかも複数。
前から遠巻きに見ていたものより色が濃い。形もくっきりしている。家の周囲、電柱、屋根の上。人形じみているが、歪だ。顔のあるやつ。顔のないやつ。長い腕をぶら下げているやつ。じわじわと集まってくる。
前にいたでかい虫と、類が近いのかもしれない。
面倒だが、やることは同じだ。
潰す。
どくん、と体の奥で力が動いた。
血――いや、それだけじゃない。
もっと深い何かが、外へ滲む。
熱でもない。風でもない。言葉にしづらい“圧”のようなものが、体の内から押し広がっていく。見えないのに、確かに空気が震えた気がした。
結果――。
黒い靄が止まった。
近づけない。
まるで壁にぶつかったように、動きが変わる。前へ出ようとして、見えない何かへ押し返されているようだった。やがて、距離を取り、そのまま散っていく。
――結界。
また、そんな言葉が浮かぶ。
くっきりした黒い靄でさえ弾くほどに、以前より強さが増したのか。
よく分からない。
だが、何もしなくても勝手に弾くのは便利だし、楽だ。
その中で、壁をするりと抜けた虫だけが近づいてくる。
三匹。
ふらりと、迷いなく。
なら、そいつらだけ処理すればいい。
血針が鋭く尖る。
ひとつが、ふたつ、みっつと枝分かれし、それぞれ別の方向を向く。精度はもう迷いがない。狙いをつけるまでもなく、針は黒い虫を穿った。
ぷすっ。
ぷすっ。
ぷすっ。
呆気なく、破裂するように霧散して消える。
終わりだ。
いつも通りのことだった。
だが、その様子を綾乃がじっと見ていた。
虫そのものが見えたわけではない。
ただ、空気の変化があった。
流れがあった。
目には映らない何かが広がって、近づいていたものが止まり、弾かれ、残ったものだけが消えた。その一連の“揺れ”を、綾乃は確かに感じ取っていた。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「原因、あの子なのね」
宗一郎が、ちらりとオビトを見る。
それから苦笑した。
「……だろうな」
否定する理由が、もうない。
目の前で起きている。
何度も繰り返し。
偶然では済まないくらい、はっきりと。
「……すごいわね」
綾乃の声には、驚きがあった。
そしてほんの少しの誇らしさも混ざっていた。
(?)
オビトはぼんやりと考える。
何かしたか?
いや、いつも通りなんだが。
虫が来た。
だから潰した。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが周囲は違う。
この小さな存在が、どれだけ異質で、どれだけ特別か。
少しずつ理解し始めていた。
オビト自身は、まだそんなふうには思っていない。
世界が意味不明なのは相変わらずだし、虫がいるのも相変わらずだ。ならやることも同じだろう、という程度の認識しかない。
けれど宗一郎と綾乃は、違う。
荷解きの手を止め、布団の中の赤ん坊を見る目に、昨日までとは少し違う色が混ざっていた。
恐れではない。
戸惑いと、驚きと、それでもなお先に立つ愛情。
その全部が混ざった、親の目だった。
新しい家の中は明るい。
窓の外の空も、相変わらず広い。
そしてその中心で、裏葉オビトは布団の上に転がったまま、小さく瞬きをした。
意味はよく分からない。
でも、悪くはない。
それで今は十分だった。
仙台郊外。
街の喧騒から少し離れた、落ち着いた住宅地。前の家と似ているようで、どこか違う。空気が少し広い。建物の間隔がある。人の気配が薄い。その分、遠くを走る車の音が、ぽつりぽつりと耳に入ってきた。
見慣れた鉄の塊が、家の前に停まる。
宗一郎だ。
綾乃に抱かれたまま、オビトはぼんやりとその様子を見ていた。宗一郎の乗ってきた車が、ゆっくりと動く。違和感があった。
車が後ろに進んでいる。
(は?)
理解が一瞬遅れる。
前じゃない。後ろだ。
なのに、動きは妙に滑らかだった。ふらつかない。ぶれない。壁にも柱にもぶつからない。後方確認、距離感、制御、全部が必要なはずだ。忍でも難しい操作だぞ、それ。
それをあんな簡単に――。
「よし……こんなもんか」
宗一郎が満足げに頷く。
見ると、車はガレージの中へぴたりと収まっていた。
(……文明、怖ぇな)
オビトは改めてそう思った。
化け物みたいな鉄の塊を、人間が日常的に操っている。そのうえ前にも後ろにも正確に動かせる。この世界は、やはりだいぶおかしい。
車から降りてきた宗一郎が、肩を回しながら笑う。
「いやー、ちょっと混んでてな」
「お疲れ様」
綾乃が穏やかに返す。
そんなやり取りの最中、不意に声がかかった。
「こんにちはー」
振り向くと、そこにいたのは一人の男だった。
爽やかな笑顔。
柔らかい雰囲気。
肩の力が抜けていて、敵意も気負いも感じられない。むしろ好意的ですらある。
「引っ越してきた方ですよね?」
「はい、今日からお世話になります」
宗一郎が応じる。
男はにこやかに頷いた。
「虎杖仁です。近くに住んでるので、何かあったら遠慮なく」
(虎杖……)
聞き慣れない名字だ。
だが、なぜか妙に耳へ残った。
その隣に、女性が一歩前へ出る。
「よろしくお願いします」
穏やかな声だった。
優しい顔立ちで、柔らかい雰囲気をしている。だが、その顔を見た瞬間、オビトの意識は別の一点へ引っかかった。
額。
そこに――縫い目があった。
(……?)
違和感。
だが、分からない。
気になる。
ただ、それだけが先に残る。
「妻の香織です」
「裏葉です、よろしくお願いします」
挨拶が交わされる。
普通のやり取りだった。何も問題はない。少なくとも表面上は、どこにでもある新居先の近所付き合いにしか見えなかった。
ただひとつ。
少し離れた場所に、一人の老人が立ってこちらを見ていた。
関わる気配はない。
声をかけるでもなく、近づいてくるでもなく、ただ観察している。
その視線の先は――香織だった。
(……?)
よく分からない。
だが、気になるものが多い土地だな、とオビトは思った。
挨拶もそこそこに、三人は家の中へ入る。
新しい家のリビングは南向きなのか、日当たりが良かった。電気をつけなくても明るい。窓から入る光が床へ広がって、まだ荷物の少ない室内を柔らかく照らしている。庭もそれなりにあるらしく、前の家より広く感じた。
子供用の布団へ寝転がされたオビトは、荷解きをする両親を見つめていた。
がらんとしていた空間が、少しずつ住むべき環境へ変わっていく。箱が開き、布が置かれ、見覚えのある道具が並び、知らない場所が少しずつ“家”になっていく。
その時――。
ぞわっ、と。
(あ、)
黒い靄。
しかも複数。
前から遠巻きに見ていたものより色が濃い。形もくっきりしている。家の周囲、電柱、屋根の上。人形じみているが、歪だ。顔のあるやつ。顔のないやつ。長い腕をぶら下げているやつ。じわじわと集まってくる。
前にいたでかい虫と、類が近いのかもしれない。
面倒だが、やることは同じだ。
潰す。
どくん、と体の奥で力が動いた。
血――いや、それだけじゃない。
もっと深い何かが、外へ滲む。
熱でもない。風でもない。言葉にしづらい“圧”のようなものが、体の内から押し広がっていく。見えないのに、確かに空気が震えた気がした。
結果――。
黒い靄が止まった。
近づけない。
まるで壁にぶつかったように、動きが変わる。前へ出ようとして、見えない何かへ押し返されているようだった。やがて、距離を取り、そのまま散っていく。
――結界。
また、そんな言葉が浮かぶ。
くっきりした黒い靄でさえ弾くほどに、以前より強さが増したのか。
よく分からない。
だが、何もしなくても勝手に弾くのは便利だし、楽だ。
その中で、壁をするりと抜けた虫だけが近づいてくる。
三匹。
ふらりと、迷いなく。
なら、そいつらだけ処理すればいい。
血針が鋭く尖る。
ひとつが、ふたつ、みっつと枝分かれし、それぞれ別の方向を向く。精度はもう迷いがない。狙いをつけるまでもなく、針は黒い虫を穿った。
ぷすっ。
ぷすっ。
ぷすっ。
呆気なく、破裂するように霧散して消える。
終わりだ。
いつも通りのことだった。
だが、その様子を綾乃がじっと見ていた。
虫そのものが見えたわけではない。
ただ、空気の変化があった。
流れがあった。
目には映らない何かが広がって、近づいていたものが止まり、弾かれ、残ったものだけが消えた。その一連の“揺れ”を、綾乃は確かに感じ取っていた。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「原因、あの子なのね」
宗一郎が、ちらりとオビトを見る。
それから苦笑した。
「……だろうな」
否定する理由が、もうない。
目の前で起きている。
何度も繰り返し。
偶然では済まないくらい、はっきりと。
「……すごいわね」
綾乃の声には、驚きがあった。
そしてほんの少しの誇らしさも混ざっていた。
(?)
オビトはぼんやりと考える。
何かしたか?
いや、いつも通りなんだが。
虫が来た。
だから潰した。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが周囲は違う。
この小さな存在が、どれだけ異質で、どれだけ特別か。
少しずつ理解し始めていた。
オビト自身は、まだそんなふうには思っていない。
世界が意味不明なのは相変わらずだし、虫がいるのも相変わらずだ。ならやることも同じだろう、という程度の認識しかない。
けれど宗一郎と綾乃は、違う。
荷解きの手を止め、布団の中の赤ん坊を見る目に、昨日までとは少し違う色が混ざっていた。
恐れではない。
戸惑いと、驚きと、それでもなお先に立つ愛情。
その全部が混ざった、親の目だった。
新しい家の中は明るい。
窓の外の空も、相変わらず広い。
そしてその中心で、裏葉オビトは布団の上に転がったまま、小さく瞬きをした。
意味はよく分からない。
でも、悪くはない。
それで今は十分だった。
【〆栞】