虎杖倭助

静かに風が通る仙台郊外の住宅地は、昼下がりになると不思議なくらい穏やかだった。

陽射しはやわらかく、空気は少しだけ温んでいる。遠くから車の音がかすかに聞こえ、どこかの家の庭先では洗濯物が揺れていた。何でもない午後だ。誰が見ても、そう思うだろう。

だが、その中でひとつだけ異質な流れがあった。

――澄んでいく。

まるで、見えない何かが淀みを払い、霧を散らし、空気そのものを磨いているように。

それは自然じゃない。

風のせいでも、日当たりのせいでもない。

もっと静かで、もっと底の方からじわじわと広がる変化だった。

だが、誰も気づかない。

気づけない。

ただ一人を除いて。

虎杖倭助は、少し離れた場所からその様子を見ていた。

腕を組み、壁にもたれながら、視線は動かない。

一点に固定されている。

その先――虎杖香織。

「……」

彼女は笑っていた。

柔らかく、穏やかに。

良き妻として、良き隣人として、何の違和感もない振る舞いで、新しく越してきた裏葉家の綾乃と言葉を交わしている。

「今日はお引っ越しだったんですね」

「ええ、やっと落ち着きそうです」

言葉のやり取りは自然だった。

誰が見ても、普通の光景だ。

挨拶をして、少し世間話をして、近所付き合いの最初の糸口を作る。住宅地ではよくある、ごく穏やかな場面にしか見えない。

だが、倭助の目にはそうは映らなかった。

何も言わない。

ただ見ている。

香織の仕草。

声の抑揚。

視線の動き。

その全部を。

そして、ほんの一瞬。

香織の動きが止まった。

「……?」

わずかに、ほんのわずかに。

何かを感じ取ったように。

空気の変化。

流れ。

異質な“澄み”。

けれど、それはすぐに消えた。

「どうかしました?」

綾乃の声に、香織は小さく首を傾げる。

「いえ……なんでもありません」

笑顔だった。

完璧な仮面。

(……気づいちゃいねぇな)

倭助は内心で呟く。

あの女、“分かっている”わけじゃない。

ただ、“感じた”だけだ。

理解には至っていない。

それが逆に不気味だった。

何も知らないまま感覚だけで拾う。それでいて平然と笑っていられる。理解していないからこそ、逆に何をするか分からない類の気味悪さがある。

そして、もうひとつ。

倭助は視線をずらした。

家の中。

カーテンの隙間。

そこに、小さな影がある。

虎杖悠仁。

まだ幼い。

すやすやと眠っている。

何も知らずに。

何も背負わずに。

(……同じくらいか)

腕に抱かれている赤ん坊。

裏葉家の子。

あれも同じくらいの歳だろう。

だが違う。

明らかに、質が。

倭助の視線がぶつかる。

じっと見ている。

裏葉オビト――赤ん坊。

だが、その目はただの赤ん坊のものではなかった。

赤ん坊らしい丸みのある顔立ち、柔らかい頬、小さな手足。見た目だけなら、何もおかしなところはない。綾乃の腕の中に収まって、眠そうに目を細めているだけの子供だ。

なのに。

(……なんだ、こいつは)

言葉にならない違和感がある。

警戒、ではない。

敵意もない。

ただ、分からない。

理解の外側にいる感じがする。

倭助は長く生きてきた。

見たくもないものも、それなりに見てきた。

人の中に潜む気配も、外側だけ取り繕ったものも、勘の悪い方ではないと思っている。だからこそ分かることもあるし、分からないことの気味悪さも知っていた。

この赤ん坊は、その“分からない側”だ。

そして、オビトもまた見ていた。

香織を。

(……)

違和感。

何かがおかしい。

だが分からない。

知識がない。

経験も、この世界では足りない。

だから、ただ違和感だけが残る。

“変だ”とまでは言い切れない。

だが、引っかかる。

額の縫い目。

表情の柔らかさ。

声の落ち着き方。

全部が自然なのに、なぜか自然すぎる。

(なんだ、あれ)

普通じゃない。

だが、それ以上に掘り下げることはできない。

分からないものを無理に追っても、今の自分には結論まで辿り着く材料がない。だったら保留にするしかない。

それに、黒い虫ではない。

少なくとも、今のところは。

(まあいいか)

結論は、いつも通りだった。

問題がないなら、放置。

虫じゃないなら、放置。

それだけ。

オビトは視線を外した。

興味を失う。

その様子を見て、倭助はわずかに口元を緩めた。

(……なんとも不思議な赤ん坊だ)

理解はできない。

だが、悪いものではない。

少なくとも、あの空気の澄み方。

あれは、“浄化”に近い。

害ではない。

むしろ――。

(……悪くねぇ)

ぽつりと、内心で呟く。

家の周囲に漂う空気は、確かに妙だった。普通なら人のいる場所にはもっと濁りが残る。澱みみたいなものが積もる。それが、この一帯には薄い。いや、ただ薄いんじゃない。何かに祓われ、削がれ、削ぎ落とされているような感覚がある。

それがあの赤ん坊によるものなのか、家そのものなのか、まだ断言はできない。

だが、少なくとも悪い流れではなかった。

倭助は再び、香織へと視線を戻す。

表情は変わらない。

腕を組んだまま、何気ない近隣の老人を装っている。

だが、その目にはわずかな警戒が宿っていた。

香織は笑っている。

仁も穏やかだ。

綾乃も柔らかく応じている。

何もかも平和な顔をしているのに、その裏側で、見えているものと見えていないものが確かに交差していた。

オビトは、もう半ば眠そうな顔で綾乃の腕に身を預けている。

香織への違和感も、ひとまず脇へ追いやったらしい。

倭助はそんな赤ん坊を見て、もう一度だけ思う。

分からない。

だが、悪くない。

それでも。

香織から目を離すつもりはなかった。

柔らかな午後の風が、住宅地を静かに抜けていく。

見えない澄みは、今日もゆっくり広がっていた。

誰にも気づかれないまま。

ほんの一部の者だけが、その異質さを感じ取りながら。


〆栞
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