虎杖家の異変
季節が巡る。
気づけば時間は過ぎていた。
裏葉オビト、一歳。
歩くにはまだ覚束ない。だが、這い、立ち、掴み、転び、それでも前へ進もうとするだけの力は身についていた。視界も、世界も、少しずつ広がっている。
(……広いな)
庭。
空。
風。
手を伸ばしても届かない高さと、這っていけば触れられる土と草。前よりも身体が動く分、見えるものも増えた。世界は相変わらず意味が分からないもので満ちていたが、その“意味不明”にも少しずつ慣れてきていた。
相変わらず意味の分からない文明。
勝手に開く扉。
音を鳴らして喋る箱。
遠くまで運ぶ鉄の塊。
だが、そのどれにも、最初ほど過剰には驚かなくなっている自分がいる。慣れというのは恐ろしい。あるいは、人間というのは思った以上に順応する生き物らしい。
そんなある日だった。
空気が変わった。
静かで、だが確実な“変化”だった。
裏葉家ではない。
少し離れた、あの家――虎杖家。
(……?)
いつもと違う。
気配が、ない。
音が、ない。
静かすぎる。
違和感だった。
何かが増えた時よりも、何かが消えた時の方が、時に異物として強く残る。いつもそこにあるはずの流れが途切れ、空白だけが残るみたいな感覚だった。
(なんだ?)
オビトは、庭先からぼんやりとその方向を見る。
分からない。
何が起きているのか。
ただ、“何かが消えた”ような、そんな感覚だけが残る。
その日の夕方。
宗一郎が少し沈んだ顔で帰ってきた。
玄関の開く音も、いつもより少し重く感じる。リビングへ入ってきた足取りも、いつもの軽さがなかった。
「……聞いたか?」
綾乃へ、低く問いかける。
「ええ……」
答えも同じ温度だった。
重い。
「虎杖さん……」
言葉が続かない。
宗一郎が息を吐く。
「事故、らしい」
「……そう」
短い返事。
だが、その中に詰まっているものは重かった。
「二人とも、帰ってこなかったって」
仁と、香織。
二人とも。
突然のことだった。
理由は曖昧。
事故とされている。
だが、はっきりしない。
オビトは、二人の会話を聞いていた。
意味を完全には理解できない。
だが、“いなくなった”ということだけは分かる。
あの二人が――。
(……ふーん)
それ以上の感情は、まだ無い。
理解できる範囲は限られている。
一歳の身体に残る感覚は増えてきたが、死や喪失を今の自分の年齢に見合う形で受け止めるには、まだ早い。前世の記憶があるとはいえ、今の感情の器はやはり今の肉体に引っ張られる。
ただ、あの“違和感”の正体が少しだけ繋がった。
消えた。
あの気配が、完全に。
宗一郎が低く問う。
「……倭助さんは?」
「残ってるわ」
綾乃が答える。
「悠仁くんと、二人で」
沈黙。
短い。
だが重い。
虎杖倭助。
そして赤ん坊――虎杖悠仁。
残されたのは、その二人だけ。
その夜。
裏葉家の窓から、遠くを見た。
灯りはひとつ。
虎杖家。
静かだ。
以前とは違う。
笑い声も、会話も、何もない。
ただ、あるのは――。
「……」
老人の気配。
そして、小さな命。
(……)
オビトは、ぼんやりと見ていた。
分からない。
だが、何かが変わったことだけは分かる。
あの家にあった何かが消えて、今は別の静けさが沈んでいる。前みたいな“違和感”の揺れ方ではない。もっと重く、沈んだものだ。
そして。
虎杖家。
薄暗い部屋。
虎杖倭助が座っている。
その前に、小さな布団。
すやすやと眠る、赤ん坊。
悠仁。
「……」
何も言わない。
ただ見ている。
その目は静かだった。
だが深い。
悲しみか。
怒りか。
それとも、別の何かか。
感情は表に出ない。
しかし、消えてはいない。
倭助の顔には大きな変化はなかった。泣き崩れるわけでも、怒鳴るわけでもない。ただ、黙っている。黙っているからこそ、そこに沈んでいるものの重さが伝わる。
「……ったく」
ぽつり、と小さく呟く。
それが精一杯だった。
手を伸ばす。
悠仁の頭へ、そっと触れる。
温かい。
確かに生きている。
その温度を確かめるように、倭助の大きな手がほんの少しだけ長く留まった。
「……生きろよ」
低い声。
誰に向けたものかは分からない。
悠仁へ向けたものか。
死んでいった二人へ向けたものか。
あるいは、自分自身へ言い聞かせたのか。
だが、その言葉だけは確かだった。
生きろ。
たったそれだけ。
けれど、その一言には、何かを背負う覚悟のようなものが滲んでいた。
静かな夜だった。
二つの家。
裏葉家と、虎杖家。
それぞれに何かを抱えながら、時間は止まらずに進んでいく。
裏葉家では、綾乃がオビトへ布団を掛け直し、宗一郎が無言のまま窓の外を見ていた。
虎杖家では、倭助が小さな寝息を見守っていた。
誰も何も、思い通りには守れない。
そんな現実がある。
それでも、手の中に残ったものを抱えて生きていくしかない。
オビトは、眠気の中でうっすらと思う。
あの家、静かだな、と。
それ以上はまだ、うまく形にならない。
けれど、静けさの質が変わったことだけは分かる。
もう前のままではない。
その事実だけが、夜の向こうでじっと残っていた。
風は静かだった。
空も暗い。
どちらの家にも、今日を終えた人間の気配がある。
その中で、小さな寝息だけが、かすかに未来へ続いていた。
気づけば時間は過ぎていた。
裏葉オビト、一歳。
歩くにはまだ覚束ない。だが、這い、立ち、掴み、転び、それでも前へ進もうとするだけの力は身についていた。視界も、世界も、少しずつ広がっている。
(……広いな)
庭。
空。
風。
手を伸ばしても届かない高さと、這っていけば触れられる土と草。前よりも身体が動く分、見えるものも増えた。世界は相変わらず意味が分からないもので満ちていたが、その“意味不明”にも少しずつ慣れてきていた。
相変わらず意味の分からない文明。
勝手に開く扉。
音を鳴らして喋る箱。
遠くまで運ぶ鉄の塊。
だが、そのどれにも、最初ほど過剰には驚かなくなっている自分がいる。慣れというのは恐ろしい。あるいは、人間というのは思った以上に順応する生き物らしい。
そんなある日だった。
空気が変わった。
静かで、だが確実な“変化”だった。
裏葉家ではない。
少し離れた、あの家――虎杖家。
(……?)
いつもと違う。
気配が、ない。
音が、ない。
静かすぎる。
違和感だった。
何かが増えた時よりも、何かが消えた時の方が、時に異物として強く残る。いつもそこにあるはずの流れが途切れ、空白だけが残るみたいな感覚だった。
(なんだ?)
オビトは、庭先からぼんやりとその方向を見る。
分からない。
何が起きているのか。
ただ、“何かが消えた”ような、そんな感覚だけが残る。
その日の夕方。
宗一郎が少し沈んだ顔で帰ってきた。
玄関の開く音も、いつもより少し重く感じる。リビングへ入ってきた足取りも、いつもの軽さがなかった。
「……聞いたか?」
綾乃へ、低く問いかける。
「ええ……」
答えも同じ温度だった。
重い。
「虎杖さん……」
言葉が続かない。
宗一郎が息を吐く。
「事故、らしい」
「……そう」
短い返事。
だが、その中に詰まっているものは重かった。
「二人とも、帰ってこなかったって」
仁と、香織。
二人とも。
突然のことだった。
理由は曖昧。
事故とされている。
だが、はっきりしない。
オビトは、二人の会話を聞いていた。
意味を完全には理解できない。
だが、“いなくなった”ということだけは分かる。
あの二人が――。
(……ふーん)
それ以上の感情は、まだ無い。
理解できる範囲は限られている。
一歳の身体に残る感覚は増えてきたが、死や喪失を今の自分の年齢に見合う形で受け止めるには、まだ早い。前世の記憶があるとはいえ、今の感情の器はやはり今の肉体に引っ張られる。
ただ、あの“違和感”の正体が少しだけ繋がった。
消えた。
あの気配が、完全に。
宗一郎が低く問う。
「……倭助さんは?」
「残ってるわ」
綾乃が答える。
「悠仁くんと、二人で」
沈黙。
短い。
だが重い。
虎杖倭助。
そして赤ん坊――虎杖悠仁。
残されたのは、その二人だけ。
その夜。
裏葉家の窓から、遠くを見た。
灯りはひとつ。
虎杖家。
静かだ。
以前とは違う。
笑い声も、会話も、何もない。
ただ、あるのは――。
「……」
老人の気配。
そして、小さな命。
(……)
オビトは、ぼんやりと見ていた。
分からない。
だが、何かが変わったことだけは分かる。
あの家にあった何かが消えて、今は別の静けさが沈んでいる。前みたいな“違和感”の揺れ方ではない。もっと重く、沈んだものだ。
そして。
虎杖家。
薄暗い部屋。
虎杖倭助が座っている。
その前に、小さな布団。
すやすやと眠る、赤ん坊。
悠仁。
「……」
何も言わない。
ただ見ている。
その目は静かだった。
だが深い。
悲しみか。
怒りか。
それとも、別の何かか。
感情は表に出ない。
しかし、消えてはいない。
倭助の顔には大きな変化はなかった。泣き崩れるわけでも、怒鳴るわけでもない。ただ、黙っている。黙っているからこそ、そこに沈んでいるものの重さが伝わる。
「……ったく」
ぽつり、と小さく呟く。
それが精一杯だった。
手を伸ばす。
悠仁の頭へ、そっと触れる。
温かい。
確かに生きている。
その温度を確かめるように、倭助の大きな手がほんの少しだけ長く留まった。
「……生きろよ」
低い声。
誰に向けたものかは分からない。
悠仁へ向けたものか。
死んでいった二人へ向けたものか。
あるいは、自分自身へ言い聞かせたのか。
だが、その言葉だけは確かだった。
生きろ。
たったそれだけ。
けれど、その一言には、何かを背負う覚悟のようなものが滲んでいた。
静かな夜だった。
二つの家。
裏葉家と、虎杖家。
それぞれに何かを抱えながら、時間は止まらずに進んでいく。
裏葉家では、綾乃がオビトへ布団を掛け直し、宗一郎が無言のまま窓の外を見ていた。
虎杖家では、倭助が小さな寝息を見守っていた。
誰も何も、思い通りには守れない。
そんな現実がある。
それでも、手の中に残ったものを抱えて生きていくしかない。
オビトは、眠気の中でうっすらと思う。
あの家、静かだな、と。
それ以上はまだ、うまく形にならない。
けれど、静けさの質が変わったことだけは分かる。
もう前のままではない。
その事実だけが、夜の向こうでじっと残っていた。
風は静かだった。
空も暗い。
どちらの家にも、今日を終えた人間の気配がある。
その中で、小さな寝息だけが、かすかに未来へ続いていた。
【〆栞】