知らない世界
目が覚めるたび、最初に思うことは大体同じだった。
いや、何で赤ん坊なんだよ。
何度目かも分からない内心の突っ込みを入れながら、オビトは天井を見上げた。白い。やたら白い。里の病院とも違う、戦場の仮設医療所とも違う、妙に整いすぎた天井だ。角ばった光が埋め込まれていて、昼間なのに部屋の中が妙に明るい。
慣れない。
というか、何一つ見慣れない。
前に目が覚めた時も、隣に見たことのない機械が置いてあってぎょっとした。金属と透明な管の組み合わせも、壁際にある台も、やけに滑らかな窓も、全部が知らないものだ。言葉は通じるのに、景色だけがずれている。そのちぐはぐさが、じわじわ気味悪い。
もっとも、今の自分にできるのは、せいぜい目を動かして周囲を観察するくらいだった。
手足が短い。首が座ってない。腹が減ったのか眠いのかすら、気付けば身体の方が先に騒ぎ出す。前世の記憶がまるごと残っていようが、身体の性能がこれではどうにもならない。
せめて座れりゃな……。
いや、贅沢は言わない。首だけでももうちょい自由にならないか。視界が低すぎるし狭すぎる。確認したいことが山ほどあるのに、そのどれもがままならない。
もぞ、と身じろぎした拍子に、布が擦れる。
するとすぐに、近くから柔らかな声が降ってきた。
「起きたの? オビト」
綾乃だ。
優しい顔立ちに、穏やかな声。産んだばかりで疲れているはずなのに、オビトを見る目だけはいつもひどくあたたかい。前世では向けられたことのない種類の視線だった。少なくとも、物心ついてからの自分には、こんなふうに何の条件もなく向けられる眼差しの記憶が薄い。
少しだけ、むず痒い。
いや、かなりむず痒い。
綾乃はベッドの上から身を寄せ、そっとオビトを抱き上げた。赤ん坊の身体は軽い。軽すぎて、自分でびっくりするくらい軽い。そのまま胸元へ抱き寄せられて、ふわりと甘い匂いがした。
落ち着く。
その事実に、オビト自身が一番戸惑った。
ああ、こういうの、反則だろ。
やめろって、調子狂うだろ。
戦場の血の匂いも、土の匂いも、雨に濡れた墓前の冷たさも知っている。人の死ぬ音だって嫌というほど聞いた。なのに今、こんなに静かな温度に、妙に安心している自分がいる。
綾乃の腕の中は狭いはずなのに、不思議と息苦しくなかった。
むしろ、前世のどこにもなかった種類の安堵があった。
「ふふ、今日はご機嫌かな」
綾乃の指が頬を撫でる。
その時、病室の扉が勢いよく開いた。
「綾乃! 先生に聞いた! もう少しで退院できるって!」
うるせえ。
顔を見る前に分かった。宗一郎だ。
がばっと入ってきた男は、線の細い見た目に似合わず動きが妙に大きい。会社員らしい服装をしているが、立ち姿の重心がどう見ても一般人のそれじゃない。前に見た時から思っていたが、この父親、見た目に反してかなり武闘派だ。しかも感情の起伏が分かりやすすぎる。
今も顔中で嬉しいを表現していた。
「オビトー! 会いたかったぞー!」
やめろ近い近い近い。
宗一郎が顔を寄せてきて、オビトは反射的に眉を寄せた。寄せたつもりだったが、赤ん坊の顔なので多分そんなに伝わっていない。
「見て綾乃、今ちょっと嫌そうな顔しなかった?」
「宗一郎さんが近すぎるのよ」
「嘘だろ!? パパだぞ!?」
パパ。
その響きに、内心で妙な顔になる。
父親、というものに大きな夢を見たことはない。けれど、この男が自分の父親であることに、不思議な嫌悪はなかった。騒がしいし暑苦しいし距離感が近い。だが、嘘がない。愛情を隠そうともしないし、照れもしない。そこまで全力で来られると、逆に毒気を抜かれる。
宗一郎は綾乃の隣に座り込み、オビトの顔を覗き込んだ。
「今日も可愛いな……」
「昨日も言ってたわよ」
「昨日より今日の方が可愛い」
「毎日更新式なの?」
「当然だろ」
何なんだこの夫婦。
いや、嫌いじゃないけども。
綾乃に抱かれたまま、オビトは宗一郎越しに窓の外を見た。
そこに広がる景色は、やはり知らないものばかりだった。
まず、道が広い。
そして、その道の上を、得体の知れない塊が何台も走っている。黒、白、赤、銀。色も形も様々だが、共通しているのは、どれも馬でも牛でもないくせに妙な速さで移動していることだった。しかも音が独特だ。低く唸るような、機械じみた音。
何だあれ。
乗り物、か?
いや、見たことないな。あんなもん。
さらに妙だったのは、道の脇に立つ細い柱だった。柱の上に丸い灯りみたいなものが三つ並んでいて、赤く光ったかと思えば今度は別の色に変わる。周囲の人間はその灯りに合わせて立ち止まったり歩いたりしていた。
何でだ?
合図か?
いや、何のための?
それだけじゃない。空を見れば、黒い線が何本も張り巡らされている。空中に糸でも渡しているみたいな、不自然な線。鳥除けかとも思ったが、数が多すぎた。建物と建物の間を結ぶようにどこまでも伸びていて、まるで街全体に網を被せているみたいだった。
何だこれ。
何だこれ、が多すぎる。
前世でも知らないものは多かったが、ここまで生活の根本から違うと笑えてくる。忍具もなければ見張り櫓もない。人々は妙に薄い服を着て、危機感なく道を歩いている。そのくせ街そのものは自分の知らない理屈で整然と動いていた。
「……お外、気になる?」
綾乃が小さく笑った。
もちろん気になる。滅茶苦茶気になる。だが今の自分に説明を求める術はない。せいぜい「うー」とか「あー」とか情けない音を出すのが限界である。
すると宗一郎が得意げに窓の外を指した。
「オビト、あれは車だぞ。すごいだろー。パパも乗ってる」
車。
くるま。
音だけ頭の中で転がしてみる。知らない。完全に知らない。
あの鉄の塊がそう呼ばれているらしい。
「信号も見えるわね」
綾乃が続ける。
信号。
あの三色の灯りのことか。
「退院する時、ちゃんと見せてあげようね」
いや、見せるも何も、もう見えてるんだけどな。
とはいえ、綾乃のその言い方は、オビトを本当に何も知らない赤ん坊として扱っているというより、世界を一緒に見せてやりたいという響きがあった。それが少しだけくすぐったい。
自分は中身だけなら、とっくに三十を超えた男だ。
なのに、今こうして初めて見るものばかりに囲まれていると、本当に一からやり直しているような感覚になる。
知らない世界だ。
里でもなく、戦場でもなく、夢でもない。
確かに現実の手触りがあるのに、自分の知識のどこにも引っかからない。
そのことに、少しだけ胸がざわついた。
そのざわつきは、しばらくして別の意味へ変わる。
部屋が静かになった時だった。
宗一郎が医者に呼ばれて一度出ていき、綾乃も少し休むように目を閉じた。病室には機械の小さな作動音と、遠くの足音だけが残る。
オビトは、ぼんやり天井を見ていた。
その時。
病室の隅に、何かいる気配がした。
視界の端だった。
カーテンの陰、光の届きにくい壁際。そこに、黒い染みのようなものがある気がした。気がした、というのが一番近い。輪郭は曖昧で、はっきり見えているわけじゃない。けれど、確かに“いる”。
嫌な感じだった。
冷たいわけでもない。殺気とも違う。もっと湿った、淀んだ、澱のような気配。
何だ、あれ。
目を凝らす。
すると、それは少しだけ動いた気がした。
ぶわ、と全身の産毛が逆立つような感覚が走る。赤ん坊の身体なのに、そういう本能的な警戒だけは妙に鋭かった。戦場で何度も死線を潜った感覚が残っているからなのか、それとも単にこの身体が何かを拾っているのか、自分でも分からない。
ただひとつ分かったのは、あれは“普通じゃない”ということだけだ。
人じゃない。
少なくとも、人間の立つ気配じゃない。
なのに、綾乃は眠ったまま気付かない。廊下を通る看護師も、誰一人そちらを見ようともしない。
見えていないのか?
それとも、俺の気のせいか?
いや、気のせいにしては妙に生々しい。
ぞ、と嫌な予感が背中を撫でる。
次の瞬間、オビトの内側で何かがざわりと脈打った。
熱いような、冷たいような、説明のつかない感覚だった。腹の底とも胸の奥ともつかない場所で、何かがうねる。すると、病室の空気が一瞬だけ張り詰めた気がした。
黒い気配が、す、と引く。
消えた、というより、離れた。
逃げたのか。
オビトは一度瞬きをした。もうそこには何もない。壁際にはただ影があるだけで、さっきの淀んだ気配は感じられなかった。
何だったんだ、今の。
しかも今、俺、何かしたか?
答えは出ない。
出ないまま、綾乃がゆっくり目を開けた。
「……オビト?」
その声に反応して顔を向けると、綾乃は少しだけ驚いたように目を丸くした。
「どうしたの、そんな顔して」
そんな顔、と言われても、自分が今どんな顔をしているのか分からない。ただ、綾乃はすぐに微笑み、オビトの額に唇を寄せた。
「大丈夫よ」
その一言が、妙に胸へ落ちた。
大丈夫。
根拠なんてない。今の気配が何なのかも分からない。この世界が何なのかも、どうして自分がここにいるのかも、まだ何ひとつ分かっていない。
それでも、綾乃の声は不思議なくらい落ち着いた。
自分ひとりで全部を背負わなくていいような、そんな錯覚を抱かせる響きだった。
前世では、そういう言葉をもらう側でいられた時間は長くなかった。守る側に回って、壊す側に落ちて、最後には悔いる側にいた。だから、ただ無条件に安心させられるということに、うまく慣れない。
慣れないくせに、拒めない。
オビトは小さく息を吐いた。
そのあと、退院の日はあっけなく来た。
白い布に包まれ、丁寧に抱き上げられ、外へ出る。そこで待っていたのは、さらに知らない世界の連続だった。
まず空気が違う。
病室の中よりも広くて、乾いていて、色んな匂いが混ざっている。人の匂い、土の匂い、何かが焼ける匂い、遠くを走るあの“車”の排気みたいな匂い。音も多い。足音、話し声、機械音、鳥の鳴き声、その全部が重なって街になっている。
そして駐車場と呼ばれるらしい場所で、オビトは問題の車を間近で見た。
でかい。
思ったよりずっとでかい。
宗一郎が得意げに鍵を見せているが、鍵ひとつであの鉄の塊が動く理屈が分からない。馬はどこだ。牛もいない。なのに何で走る。
「よし、オビト。初ドライブだぞ」
いや何言ってるか分からん。
そのまま宗一郎が助手席側へ回り、綾乃が後部座席へ乗り込む。さらにオビトは、また見慣れない帯のようなもので体を固定された。
拘束された!?
いや待て、何だこれ、怖っ。
じたばたしたいのに身体が小さすぎて大した抵抗にもならない。しかも綾乃は「大丈夫、大丈夫」とあやすだけで外してくれない。
「チャイルドシート、ちゃんとしないと危ないからね」
知らない単語がまた増えた。
そうこうしているうちに、車が動く。
うわ動いた。
すげえなこれ。
揺れる視界の向こうに、街が流れていく。建物、看板、人、信号、電線。全部が初めて見るものばかりで、オビトは半ば呆然としていた。視界に入る情報量が多すぎる。
だがその一方で、宗一郎と綾乃の会話は妙にのんびりしていた。
「オビト、今日はお利口だなあ」
「きょろきょろしてるわね。珍しいのかな」
「天才かもしれん」
「親バカすぎるのよ」
「でも見ろよこの目。賢い」
「それはそう」
即肯定なんだな。
オビトは内心で呆れつつ、少しだけ口元が緩みそうになる。緩んだところで赤ん坊の表情筋がどこまで仕事をするかは怪しいが。
やがて車は住宅街へ入った。
病院周辺より静かで、道も少し狭い。けれど家々は整っていて、どこか穏やかな空気があった。その中の一軒で、車が止まる。
「着いたぞ、我が家だ」
宗一郎が誇らしげに言う。
家。
裏葉家。
オビトは抱き上げられたまま、その建物を見上げた。忍の家屋とも、里で見た民家とも違う造りだ。だが、不思議とよそよそしさは薄かった。玄関をくぐった瞬間に漂ってきた生活の匂いが、そこが確かに“人の暮らす場所”だと教えてくれたからかもしれない。
「おかえり、オビト」
綾乃がそう言った。
その言葉に、オビトの胸の奥がわずかに揺れる。
おかえり。
自分に向けてそんな言葉が向けられるのは、何だか変な感じだった。
家の中へ運ばれ、用意されていたらしい小さな寝床へ寝かされる。見上げれば、やはり知らない形の照明。壁には丸い時計。棚には見慣れない箱や容器が並んでいる。
「ベビーベッド、可愛いわねえ」
「買ってよかった……」
宗一郎が感無量みたいな声を出している。
いや、気持ちは分かるけどそこで泣くなよ。
その直後だった。
ぎゅるる、と腹が鳴った。
正確には自分の腹が鳴ったのかどうかは知らない。ただ、猛烈に“足りない”感覚が押し寄せてきた。空腹だと理解するより早く、身体が不快を訴え始める。
うわ、来た。
この感覚、ほんと容赦ねえな……。
すると綾乃が、すぐに気付いた。
「お腹空いたのかな」
「ミルク!? それとも……あ、綾乃?」
宗一郎が一瞬そわそわし、次の瞬間には「あっ」と何かを察した顔になって立ち上がる。
「じゃ、じゃあ俺ちょっとお茶でも淹れてくる!」
逃げた。
いや、気遣いなのは分かるけど、逃げ方が露骨だな。
そして綾乃に抱き上げられ、オビトは数秒後、自分の置かれた状況を理解した。
……待て。
いや待て待て待て。
そうなるのか?
そりゃそうだろう。赤ん坊なんだから。理屈では分かる。分かるけど、こっちは中身が三十一まで生きた男なんだよ。羞恥心ってもんがあるだろうが。何なら前世で一番縁遠かった類の距離感だぞこれ。
だが、そんな内心の狼狽など無視して、赤ん坊の身体は極めて素直だった。
空腹が勝つ。
本能が勝つ。
敗北である。
うわあああ、何かもう、色々と負けた気がする……!
綾乃はそんな葛藤など知るはずもなく、優しく背を支えながら「はいはい」と穏やかにあやしてくる。その声音にはいやらしさも何もない。ただ、子を育てる母親の自然さだけがある。
それが余計に、オビトの抵抗をしづらくした。
くそ、恥ずかしいの俺だけかよ……!
結局、空腹には勝てず、オビトは顔から火が出そうな心地でそれを受け入れるしかなかった。赤ん坊の身体というのは本当に無情だ。尊厳より生存を優先する。分かってる。分かってるけども。
綾乃はオビトが飲み終えるまで、ずっと優しく背を撫でていた。
その手つきが、どうしようもなくあたたかい。
恥ずかしい。
けど、安心する。
その二つが同時に来るの、やめてくれないか。
やがて満腹になって少しとろんとしていると、今度は別の意味で嫌な予感がした。
腹の奥がむずっとする。
いや、これ、まさか。
おい待て。
待ってくれ。
その予感は外れなかった。
数分後、綾乃が「あら」と穏やかな声を出し、宗一郎を呼ぶ。
「宗一郎さん、オムツ替えるわよ」
「任せろ!」
任せるな!!
オビトは心の中で全力で叫んだが、もちろん誰にも届かない。
そのまま寝かされ、手際よく準備が進められていく。綾乃は慣れた手つきで、宗一郎はちょっと張り切りすぎなくらいの勢いで、我が子の世話に取りかかっていた。
やめろ。
見るな。
そんな真剣な顔でやるな。
これもう公開処刑だろ……!
けれど夫婦の空気はあくまで平和だった。
「今日も元気ねえ」
「健康なのが一番だ!」
「そこ押さえてて」
「了解!」
何なんだその連携は。
息ぴったりか。
しかも二人とも、羞恥のしの字も感じていない顔をしている。そりゃそうだ、相手は赤ん坊なんだから当然だ。分かってる。分かってるけど、こっちは一方的に全部分かってる分だけ地獄なんだよ。
オムツ替えが終わる頃には、オビトはぐったりしていた。
戦場で死地を潜った経験はある。
敵の前で傷を晒したこともある。
だが、これは別方向で堪える。
尊厳がじわじわ削られるタイプの試練だった。
「ふふ、疲れちゃった?」
綾乃がくすりと笑いながら頬を撫でる。
いや疲れたのは主に心がな。
そう言えたらどれだけ楽か。
宗一郎はすっかり満足げだった。
「オビト、今日は大冒険だったなあ。退院して、お家に来て、偉いぞ」
スケール感どうなってるんだ。
でも、その声は本気で誇らしそうだった。
ただ生まれて、ただ家へ帰ってきただけの一日を、こんなふうに祝福されるのかと、少しだけ驚く。前世では、それだけで褒められることなんてなかった。何かができて、強くなって、役に立って、ようやく得られるものだと思っていた。
けれどここでは、まだ何もしていない自分が、ただ存在しているだけで歓迎されている。
そのことが、胸の奥を静かにあたためた。
夜になり、部屋が少し暗くなる。
見知らぬ家の見知らぬ天井を見上げながら、オビトは今日一日のことを反芻した。
車。
信号。
電線。
知らない家。
あたたかい腕。
それから、病室の隅にいた、あの得体の知れない気配。
世界は穏やかそうに見えるのに、その裏で何かが淀んでいる気がする。
自分だけが気付いたのか、ただの気のせいなのか、それすらまだ分からない。だが、分からないまま放っておけるほど、あの気配は軽くなかった。
何なんだ、この世界は。
何がいて、何があって、俺は何を知っていくんだろうな。
考えたところで、答えが出るはずもない。
赤ん坊の身体は今日も容赦なく眠気を連れてくる。意識が沈む寸前、綾乃がそっと布団を直し、宗一郎が小声で「可愛い……」と呟くのが聞こえた。
うるせえ、聞こえてるぞ。
そう思うのに、不思議と嫌じゃない。
知らない世界は、まだ何ひとつ分からないままだ。
それでも今は、このあたたかさの中で目を閉じてもいい気がした。
ただ、胸の奥に引っかかったあの不穏だけは、眠りの底へ落ちきらず、黒い影のように静かに残り続けていた。
いや、何で赤ん坊なんだよ。
何度目かも分からない内心の突っ込みを入れながら、オビトは天井を見上げた。白い。やたら白い。里の病院とも違う、戦場の仮設医療所とも違う、妙に整いすぎた天井だ。角ばった光が埋め込まれていて、昼間なのに部屋の中が妙に明るい。
慣れない。
というか、何一つ見慣れない。
前に目が覚めた時も、隣に見たことのない機械が置いてあってぎょっとした。金属と透明な管の組み合わせも、壁際にある台も、やけに滑らかな窓も、全部が知らないものだ。言葉は通じるのに、景色だけがずれている。そのちぐはぐさが、じわじわ気味悪い。
もっとも、今の自分にできるのは、せいぜい目を動かして周囲を観察するくらいだった。
手足が短い。首が座ってない。腹が減ったのか眠いのかすら、気付けば身体の方が先に騒ぎ出す。前世の記憶がまるごと残っていようが、身体の性能がこれではどうにもならない。
せめて座れりゃな……。
いや、贅沢は言わない。首だけでももうちょい自由にならないか。視界が低すぎるし狭すぎる。確認したいことが山ほどあるのに、そのどれもがままならない。
もぞ、と身じろぎした拍子に、布が擦れる。
するとすぐに、近くから柔らかな声が降ってきた。
「起きたの? オビト」
綾乃だ。
優しい顔立ちに、穏やかな声。産んだばかりで疲れているはずなのに、オビトを見る目だけはいつもひどくあたたかい。前世では向けられたことのない種類の視線だった。少なくとも、物心ついてからの自分には、こんなふうに何の条件もなく向けられる眼差しの記憶が薄い。
少しだけ、むず痒い。
いや、かなりむず痒い。
綾乃はベッドの上から身を寄せ、そっとオビトを抱き上げた。赤ん坊の身体は軽い。軽すぎて、自分でびっくりするくらい軽い。そのまま胸元へ抱き寄せられて、ふわりと甘い匂いがした。
落ち着く。
その事実に、オビト自身が一番戸惑った。
ああ、こういうの、反則だろ。
やめろって、調子狂うだろ。
戦場の血の匂いも、土の匂いも、雨に濡れた墓前の冷たさも知っている。人の死ぬ音だって嫌というほど聞いた。なのに今、こんなに静かな温度に、妙に安心している自分がいる。
綾乃の腕の中は狭いはずなのに、不思議と息苦しくなかった。
むしろ、前世のどこにもなかった種類の安堵があった。
「ふふ、今日はご機嫌かな」
綾乃の指が頬を撫でる。
その時、病室の扉が勢いよく開いた。
「綾乃! 先生に聞いた! もう少しで退院できるって!」
うるせえ。
顔を見る前に分かった。宗一郎だ。
がばっと入ってきた男は、線の細い見た目に似合わず動きが妙に大きい。会社員らしい服装をしているが、立ち姿の重心がどう見ても一般人のそれじゃない。前に見た時から思っていたが、この父親、見た目に反してかなり武闘派だ。しかも感情の起伏が分かりやすすぎる。
今も顔中で嬉しいを表現していた。
「オビトー! 会いたかったぞー!」
やめろ近い近い近い。
宗一郎が顔を寄せてきて、オビトは反射的に眉を寄せた。寄せたつもりだったが、赤ん坊の顔なので多分そんなに伝わっていない。
「見て綾乃、今ちょっと嫌そうな顔しなかった?」
「宗一郎さんが近すぎるのよ」
「嘘だろ!? パパだぞ!?」
パパ。
その響きに、内心で妙な顔になる。
父親、というものに大きな夢を見たことはない。けれど、この男が自分の父親であることに、不思議な嫌悪はなかった。騒がしいし暑苦しいし距離感が近い。だが、嘘がない。愛情を隠そうともしないし、照れもしない。そこまで全力で来られると、逆に毒気を抜かれる。
宗一郎は綾乃の隣に座り込み、オビトの顔を覗き込んだ。
「今日も可愛いな……」
「昨日も言ってたわよ」
「昨日より今日の方が可愛い」
「毎日更新式なの?」
「当然だろ」
何なんだこの夫婦。
いや、嫌いじゃないけども。
綾乃に抱かれたまま、オビトは宗一郎越しに窓の外を見た。
そこに広がる景色は、やはり知らないものばかりだった。
まず、道が広い。
そして、その道の上を、得体の知れない塊が何台も走っている。黒、白、赤、銀。色も形も様々だが、共通しているのは、どれも馬でも牛でもないくせに妙な速さで移動していることだった。しかも音が独特だ。低く唸るような、機械じみた音。
何だあれ。
乗り物、か?
いや、見たことないな。あんなもん。
さらに妙だったのは、道の脇に立つ細い柱だった。柱の上に丸い灯りみたいなものが三つ並んでいて、赤く光ったかと思えば今度は別の色に変わる。周囲の人間はその灯りに合わせて立ち止まったり歩いたりしていた。
何でだ?
合図か?
いや、何のための?
それだけじゃない。空を見れば、黒い線が何本も張り巡らされている。空中に糸でも渡しているみたいな、不自然な線。鳥除けかとも思ったが、数が多すぎた。建物と建物の間を結ぶようにどこまでも伸びていて、まるで街全体に網を被せているみたいだった。
何だこれ。
何だこれ、が多すぎる。
前世でも知らないものは多かったが、ここまで生活の根本から違うと笑えてくる。忍具もなければ見張り櫓もない。人々は妙に薄い服を着て、危機感なく道を歩いている。そのくせ街そのものは自分の知らない理屈で整然と動いていた。
「……お外、気になる?」
綾乃が小さく笑った。
もちろん気になる。滅茶苦茶気になる。だが今の自分に説明を求める術はない。せいぜい「うー」とか「あー」とか情けない音を出すのが限界である。
すると宗一郎が得意げに窓の外を指した。
「オビト、あれは車だぞ。すごいだろー。パパも乗ってる」
車。
くるま。
音だけ頭の中で転がしてみる。知らない。完全に知らない。
あの鉄の塊がそう呼ばれているらしい。
「信号も見えるわね」
綾乃が続ける。
信号。
あの三色の灯りのことか。
「退院する時、ちゃんと見せてあげようね」
いや、見せるも何も、もう見えてるんだけどな。
とはいえ、綾乃のその言い方は、オビトを本当に何も知らない赤ん坊として扱っているというより、世界を一緒に見せてやりたいという響きがあった。それが少しだけくすぐったい。
自分は中身だけなら、とっくに三十を超えた男だ。
なのに、今こうして初めて見るものばかりに囲まれていると、本当に一からやり直しているような感覚になる。
知らない世界だ。
里でもなく、戦場でもなく、夢でもない。
確かに現実の手触りがあるのに、自分の知識のどこにも引っかからない。
そのことに、少しだけ胸がざわついた。
そのざわつきは、しばらくして別の意味へ変わる。
部屋が静かになった時だった。
宗一郎が医者に呼ばれて一度出ていき、綾乃も少し休むように目を閉じた。病室には機械の小さな作動音と、遠くの足音だけが残る。
オビトは、ぼんやり天井を見ていた。
その時。
病室の隅に、何かいる気配がした。
視界の端だった。
カーテンの陰、光の届きにくい壁際。そこに、黒い染みのようなものがある気がした。気がした、というのが一番近い。輪郭は曖昧で、はっきり見えているわけじゃない。けれど、確かに“いる”。
嫌な感じだった。
冷たいわけでもない。殺気とも違う。もっと湿った、淀んだ、澱のような気配。
何だ、あれ。
目を凝らす。
すると、それは少しだけ動いた気がした。
ぶわ、と全身の産毛が逆立つような感覚が走る。赤ん坊の身体なのに、そういう本能的な警戒だけは妙に鋭かった。戦場で何度も死線を潜った感覚が残っているからなのか、それとも単にこの身体が何かを拾っているのか、自分でも分からない。
ただひとつ分かったのは、あれは“普通じゃない”ということだけだ。
人じゃない。
少なくとも、人間の立つ気配じゃない。
なのに、綾乃は眠ったまま気付かない。廊下を通る看護師も、誰一人そちらを見ようともしない。
見えていないのか?
それとも、俺の気のせいか?
いや、気のせいにしては妙に生々しい。
ぞ、と嫌な予感が背中を撫でる。
次の瞬間、オビトの内側で何かがざわりと脈打った。
熱いような、冷たいような、説明のつかない感覚だった。腹の底とも胸の奥ともつかない場所で、何かがうねる。すると、病室の空気が一瞬だけ張り詰めた気がした。
黒い気配が、す、と引く。
消えた、というより、離れた。
逃げたのか。
オビトは一度瞬きをした。もうそこには何もない。壁際にはただ影があるだけで、さっきの淀んだ気配は感じられなかった。
何だったんだ、今の。
しかも今、俺、何かしたか?
答えは出ない。
出ないまま、綾乃がゆっくり目を開けた。
「……オビト?」
その声に反応して顔を向けると、綾乃は少しだけ驚いたように目を丸くした。
「どうしたの、そんな顔して」
そんな顔、と言われても、自分が今どんな顔をしているのか分からない。ただ、綾乃はすぐに微笑み、オビトの額に唇を寄せた。
「大丈夫よ」
その一言が、妙に胸へ落ちた。
大丈夫。
根拠なんてない。今の気配が何なのかも分からない。この世界が何なのかも、どうして自分がここにいるのかも、まだ何ひとつ分かっていない。
それでも、綾乃の声は不思議なくらい落ち着いた。
自分ひとりで全部を背負わなくていいような、そんな錯覚を抱かせる響きだった。
前世では、そういう言葉をもらう側でいられた時間は長くなかった。守る側に回って、壊す側に落ちて、最後には悔いる側にいた。だから、ただ無条件に安心させられるということに、うまく慣れない。
慣れないくせに、拒めない。
オビトは小さく息を吐いた。
そのあと、退院の日はあっけなく来た。
白い布に包まれ、丁寧に抱き上げられ、外へ出る。そこで待っていたのは、さらに知らない世界の連続だった。
まず空気が違う。
病室の中よりも広くて、乾いていて、色んな匂いが混ざっている。人の匂い、土の匂い、何かが焼ける匂い、遠くを走るあの“車”の排気みたいな匂い。音も多い。足音、話し声、機械音、鳥の鳴き声、その全部が重なって街になっている。
そして駐車場と呼ばれるらしい場所で、オビトは問題の車を間近で見た。
でかい。
思ったよりずっとでかい。
宗一郎が得意げに鍵を見せているが、鍵ひとつであの鉄の塊が動く理屈が分からない。馬はどこだ。牛もいない。なのに何で走る。
「よし、オビト。初ドライブだぞ」
いや何言ってるか分からん。
そのまま宗一郎が助手席側へ回り、綾乃が後部座席へ乗り込む。さらにオビトは、また見慣れない帯のようなもので体を固定された。
拘束された!?
いや待て、何だこれ、怖っ。
じたばたしたいのに身体が小さすぎて大した抵抗にもならない。しかも綾乃は「大丈夫、大丈夫」とあやすだけで外してくれない。
「チャイルドシート、ちゃんとしないと危ないからね」
知らない単語がまた増えた。
そうこうしているうちに、車が動く。
うわ動いた。
すげえなこれ。
揺れる視界の向こうに、街が流れていく。建物、看板、人、信号、電線。全部が初めて見るものばかりで、オビトは半ば呆然としていた。視界に入る情報量が多すぎる。
だがその一方で、宗一郎と綾乃の会話は妙にのんびりしていた。
「オビト、今日はお利口だなあ」
「きょろきょろしてるわね。珍しいのかな」
「天才かもしれん」
「親バカすぎるのよ」
「でも見ろよこの目。賢い」
「それはそう」
即肯定なんだな。
オビトは内心で呆れつつ、少しだけ口元が緩みそうになる。緩んだところで赤ん坊の表情筋がどこまで仕事をするかは怪しいが。
やがて車は住宅街へ入った。
病院周辺より静かで、道も少し狭い。けれど家々は整っていて、どこか穏やかな空気があった。その中の一軒で、車が止まる。
「着いたぞ、我が家だ」
宗一郎が誇らしげに言う。
家。
裏葉家。
オビトは抱き上げられたまま、その建物を見上げた。忍の家屋とも、里で見た民家とも違う造りだ。だが、不思議とよそよそしさは薄かった。玄関をくぐった瞬間に漂ってきた生活の匂いが、そこが確かに“人の暮らす場所”だと教えてくれたからかもしれない。
「おかえり、オビト」
綾乃がそう言った。
その言葉に、オビトの胸の奥がわずかに揺れる。
おかえり。
自分に向けてそんな言葉が向けられるのは、何だか変な感じだった。
家の中へ運ばれ、用意されていたらしい小さな寝床へ寝かされる。見上げれば、やはり知らない形の照明。壁には丸い時計。棚には見慣れない箱や容器が並んでいる。
「ベビーベッド、可愛いわねえ」
「買ってよかった……」
宗一郎が感無量みたいな声を出している。
いや、気持ちは分かるけどそこで泣くなよ。
その直後だった。
ぎゅるる、と腹が鳴った。
正確には自分の腹が鳴ったのかどうかは知らない。ただ、猛烈に“足りない”感覚が押し寄せてきた。空腹だと理解するより早く、身体が不快を訴え始める。
うわ、来た。
この感覚、ほんと容赦ねえな……。
すると綾乃が、すぐに気付いた。
「お腹空いたのかな」
「ミルク!? それとも……あ、綾乃?」
宗一郎が一瞬そわそわし、次の瞬間には「あっ」と何かを察した顔になって立ち上がる。
「じゃ、じゃあ俺ちょっとお茶でも淹れてくる!」
逃げた。
いや、気遣いなのは分かるけど、逃げ方が露骨だな。
そして綾乃に抱き上げられ、オビトは数秒後、自分の置かれた状況を理解した。
……待て。
いや待て待て待て。
そうなるのか?
そりゃそうだろう。赤ん坊なんだから。理屈では分かる。分かるけど、こっちは中身が三十一まで生きた男なんだよ。羞恥心ってもんがあるだろうが。何なら前世で一番縁遠かった類の距離感だぞこれ。
だが、そんな内心の狼狽など無視して、赤ん坊の身体は極めて素直だった。
空腹が勝つ。
本能が勝つ。
敗北である。
うわあああ、何かもう、色々と負けた気がする……!
綾乃はそんな葛藤など知るはずもなく、優しく背を支えながら「はいはい」と穏やかにあやしてくる。その声音にはいやらしさも何もない。ただ、子を育てる母親の自然さだけがある。
それが余計に、オビトの抵抗をしづらくした。
くそ、恥ずかしいの俺だけかよ……!
結局、空腹には勝てず、オビトは顔から火が出そうな心地でそれを受け入れるしかなかった。赤ん坊の身体というのは本当に無情だ。尊厳より生存を優先する。分かってる。分かってるけども。
綾乃はオビトが飲み終えるまで、ずっと優しく背を撫でていた。
その手つきが、どうしようもなくあたたかい。
恥ずかしい。
けど、安心する。
その二つが同時に来るの、やめてくれないか。
やがて満腹になって少しとろんとしていると、今度は別の意味で嫌な予感がした。
腹の奥がむずっとする。
いや、これ、まさか。
おい待て。
待ってくれ。
その予感は外れなかった。
数分後、綾乃が「あら」と穏やかな声を出し、宗一郎を呼ぶ。
「宗一郎さん、オムツ替えるわよ」
「任せろ!」
任せるな!!
オビトは心の中で全力で叫んだが、もちろん誰にも届かない。
そのまま寝かされ、手際よく準備が進められていく。綾乃は慣れた手つきで、宗一郎はちょっと張り切りすぎなくらいの勢いで、我が子の世話に取りかかっていた。
やめろ。
見るな。
そんな真剣な顔でやるな。
これもう公開処刑だろ……!
けれど夫婦の空気はあくまで平和だった。
「今日も元気ねえ」
「健康なのが一番だ!」
「そこ押さえてて」
「了解!」
何なんだその連携は。
息ぴったりか。
しかも二人とも、羞恥のしの字も感じていない顔をしている。そりゃそうだ、相手は赤ん坊なんだから当然だ。分かってる。分かってるけど、こっちは一方的に全部分かってる分だけ地獄なんだよ。
オムツ替えが終わる頃には、オビトはぐったりしていた。
戦場で死地を潜った経験はある。
敵の前で傷を晒したこともある。
だが、これは別方向で堪える。
尊厳がじわじわ削られるタイプの試練だった。
「ふふ、疲れちゃった?」
綾乃がくすりと笑いながら頬を撫でる。
いや疲れたのは主に心がな。
そう言えたらどれだけ楽か。
宗一郎はすっかり満足げだった。
「オビト、今日は大冒険だったなあ。退院して、お家に来て、偉いぞ」
スケール感どうなってるんだ。
でも、その声は本気で誇らしそうだった。
ただ生まれて、ただ家へ帰ってきただけの一日を、こんなふうに祝福されるのかと、少しだけ驚く。前世では、それだけで褒められることなんてなかった。何かができて、強くなって、役に立って、ようやく得られるものだと思っていた。
けれどここでは、まだ何もしていない自分が、ただ存在しているだけで歓迎されている。
そのことが、胸の奥を静かにあたためた。
夜になり、部屋が少し暗くなる。
見知らぬ家の見知らぬ天井を見上げながら、オビトは今日一日のことを反芻した。
車。
信号。
電線。
知らない家。
あたたかい腕。
それから、病室の隅にいた、あの得体の知れない気配。
世界は穏やかそうに見えるのに、その裏で何かが淀んでいる気がする。
自分だけが気付いたのか、ただの気のせいなのか、それすらまだ分からない。だが、分からないまま放っておけるほど、あの気配は軽くなかった。
何なんだ、この世界は。
何がいて、何があって、俺は何を知っていくんだろうな。
考えたところで、答えが出るはずもない。
赤ん坊の身体は今日も容赦なく眠気を連れてくる。意識が沈む寸前、綾乃がそっと布団を直し、宗一郎が小声で「可愛い……」と呟くのが聞こえた。
うるせえ、聞こえてるぞ。
そう思うのに、不思議と嫌じゃない。
知らない世界は、まだ何ひとつ分からないままだ。
それでも今は、このあたたかさの中で目を閉じてもいい気がした。
ただ、胸の奥に引っかかったあの不穏だけは、眠りの底へ落ちきらず、黒い影のように静かに残り続けていた。
【〆栞】