文明の光と影
世界は、意味が分からないもので満ちている。
ここ最近の率直な感想が、それだった。
忍界にも、不思議なものは多かった。
忍術。血継限界。尾獣。輪廻眼。
理屈が通っているようで通っていない力が、当たり前みたいな顔で存在していたし、それを受け入れて生きてきた。今さら多少の異常で目を剥くつもりもない。少なくとも、そう思っていた。
だが。
(それでも、ここまでじゃなかった)
これは、別種だ。
まず、足元。
いや、今の自分に足元という表現が合っているのかは微妙だが、とにかく下半身を包んでいるそれである。
オムツ。
しかも“パンパース”とかいうらしい。
(なんだその名前)
いや、語感はどうでもいい。問題は性能だ。
吸収力が異常すぎる。
どれだけ出ようが、漏れない。不快感も最小限に抑えられている。前世の記憶を持ったまま赤ん坊をやらされている身としては、羞恥心の問題は一旦脇へ置くとしても、純粋に技術力がおかしい。
忍界にこんなものはなかった。
あったら医療班が泣いて喜ぶし、戦場での負担が色々と変わっていたと思う。いや、本当に。もっと別の方向で文明を伸ばせよとか、今さら言っても仕方ないのだが。
しかもこの世界、オムツだけじゃ終わらない。
腹が減れば、透明な容器に入った白い液体が出てくる。
ミルク、というらしい。
最初に見た時は、何だその便利すぎる液体は、と思った。乳が出なくても供給可能。持ち運びできる。量も分かりやすい。温度まで調整される。しかも容器は軽くて割れにくい。おまけに衛生的だ。
(いや、これも医療班が泣いて喜ぶやつじゃねえか)
戦傷者用の栄養補給だの、孤児の保護だの、そういう場面が頭を過った。役に立つとかそういう次元じゃない。前世の常識からすると、生活の基盤がごっそり違う。
そして極めつけが、部屋の中の環境だった。
快適すぎる。
暑くない。寒くない。空気が一定だ。窓を閉めていても蒸れないし、外がどうであれ部屋の中は妙に穏やかだ。
(何でだよ)
最初は建物の造りかと思った。だが違う。壁際にある見慣れない四角い機械から、どうも空気そのものが調整されている気配がある。宗一郎と綾乃はそれを当たり前のように扱っていた。
冷暖房、というらしい。
意味が分かるようで分からない。部屋を冷やす。部屋を暖める。それを道具ひとつでやる。しかも火を焚く気配もなければ、氷を持ち込むわけでもない。
意味が分からない。
意味が分からないが、快適なのは事実だった。
快適すぎて逆に落ち着かないくらいだ。
他にもある。
壁際で光る箱。
映像と音が流れる平たい板。
宗一郎が何やら嬉しそうに「これ、最新機種なんだぞ」と綾乃に話していた、薄い黒い板。
どれを見ても、知らないものしかない。
その中でも衝撃が大きかったのは、テレビだった。
最初は窓かと思った。
平たい四角の中に、人がいたからだ。
本当に驚いた。
思わず二度見したし、赤ん坊の体でなければ確実に飛び退いていた。だがよく見れば、そこにいる人間はこちらを認識していない。閉じ込められているわけでも、幻術でもない。ただ映っているだけだ。
映る、って何だ。
しかも喋る。歌う。笑う。景色まで映る。
遠くの場所をそのまま切り取って持ってきたみたいな、不気味なくらい鮮明な像だった。
「オビト、テレビ好き?」
綾乃が笑いながらそう言った時、好きとか嫌いとか以前に衝撃が強すぎるんだが、とは言えなかった。
テレビの中では、明るい色の服を着た人間が、リズムに合わせて動いていた。背後では聞いたことのない音楽が流れている。笛でも三味線でも太鼓でもない、もっと軽快で、規則的で、妙に耳に残る音だった。
リズムが細かい。
音の数が多い。
それなのに、雑然としていない。
何だこれ、と呆気に取られているうちに、赤ん坊の身体は正直で、ついそちらへ見入ってしまう。
「ほら、やっぱり好きなんじゃない」
綾乃が嬉しそうに言う。
いや、まあ、気にはなるけども。
その後も、知らないものは増える一方だった。
電子レンジ。
電気ポット。
洗濯機。
スマートフォン。
タブレット。
ニンテンドーDS。
最後のひとつに至っては、宗一郎が休日に引っ張り出してきて、「懐かしいなあ」と呟きながら眺めていたものだ。小さな箱を開くと、中にまた光る画面があって、そこに絵と文字が並ぶ。
(それも映るのかよ……)
しかも指で押したり、棒みたいなもので触れたりして動かしている。
何なんだこの世界。
何がどうなってる。
スマートフォンと呼ばれていた板もだいぶおかしかった。宗一郎も綾乃も、暇さえあればそれを覗き込んでいる。人と話していると思ったら、相手はその場にいないらしい。写真も撮る。文字も読む。時計にもなる。地図にもなる。音楽まで鳴る。
道具ひとつに役目を詰め込みすぎだろ。
忍具袋が泣くぞ。
タブレットに至っては、宗一郎がオビトの前で赤ん坊向けの映像を流しながら「賢く育つかな」とか言っていた。どういう理屈だ。こんなもので賢くなるなら苦労しないだろ、と内心で突っ込んだが、綾乃が「親が一番楽しんでるじゃない」と呆れたように笑っていたので、多分正しい認識なんだろう。
洗濯機も意味が分からない。
服を入れて、水と一緒に回しておくだけで洗えるらしい。
(嘘だろ)
自分の知っている洗濯は、もっと地道で、もっと力仕事だった。手間も時間もかかる。それが箱に放り込んで待つだけで済むとか、どれだけ人間を甘やかす気だ。
電子レンジはもっと意味が分からない。
綾乃が小皿に入れたものを放り込み、扉を閉め、ボタンを押す。するとしばらくして、中のものが温かくなる。
火はどこだ。
どうやってだ。
何も見えないまま熱だけ通るとか、不気味だろ。
電気ポットも同じだ。湯を沸かすのに、火を起こさない。煙も出ない。なのに湯気が立つ。
(文明って怖ぇな……)
呆れを通り越して、もはや半分感心していた。
だって平和なのだ。
少なくとも、表面上は。
襲撃に備えて夜番を立てているわけでもない。見張り台から狼煙が上がるわけでもない。店は普通に開いているし、人は笑っているし、子供は外を歩いている。部屋の中は快適で、食い物は安定して供給されて、親は親バカなくらい平和だ。
平和だ。
平和――なのか?
その違和感は、いつも窓の向こうにあった。
最初に見たのは、昼だった。
綾乃が家事をしていて、宗一郎は仕事へ行っている。オビトはベビーベッドに寝かされ、ぼんやり天井を見上げていた。
ふと、視界の端に黒いものが映った。
窓の外。
家の壁に、何かがへばりついている。
人の形をしていた。
していた、が、どう見ても人間じゃない。
黒い。
全身が、靄と泥の中間みたいに曖昧な黒でできている。輪郭はぶれていて、ところどころ歪んでいた。顔のある位置には何もない。目も鼻も口もなく、ただのっぺりとした黒があるだけだ。なのに、見られている気がした。
腕が長い。
異様に長い。
だらんと垂れたその腕が、窓の外側をなぞるみたいに揺れている。へばり付いたまま、ゆら、ゆら、と気味の悪い動きで揺れていた。
鳥肌が立った。
赤ん坊の薄い肌の上を、ぞわりと嫌悪が走る。
気持ち悪い。
普通じゃない。
気味が悪い。
あれは何だ。
こっちを見ているのか?
いや、顔がないのに、何でそう思うんだ。
思う、というより、本能がそう告げていた。見られている。意識を向けられている。気味の悪いものが、確かにこちらに気付いている。
息を呑んだ、その時だった。
窓の外だけじゃない、と気付いた。
天井。
部屋の隅。
家具の影。
そこかしこに、黒い靄がいた。
さっきまで何もないと思っていた場所に、じわ、と滲み出るみたいに黒が溜まっている。形を持たない靄もあれば、さっきみたいに人の輪郭に近いものもある。どれも不快で、どれも淀んでいて、部屋の空気を少しだけ重くしていた。
文明がどれだけ進んでも、消えないものがある。
そういうことか、と、妙に冷えた頭で思った。
明るい部屋。
温かいミルク。
清潔なオムツ。
快適な空調。
テレビの中の楽しげな音楽。
そんなものがどれだけ揃っていても、こういう“何か”は消えていない。
世界の見た目が変わっただけで、気味の悪いものは、ちゃんといる。
しかも。
窓の外にいた黒い人形が、するり、と動いた。
へばりついていたはずなのに、音もなく剥がれる。長い腕を引きずるようにして、黒い影が窓の方へ近づいてくる。ガラスがあるのに構わず、じわり、じわりと距離を詰めてくる気配。
来る。
そう思った瞬間、体の奥で何かが動いた。
違和感だった。
腹の底でも、胸の奥でもない。もっと血そのものに近い場所。自分の中を流れているものが、急に熱を持ったような感覚が走る。
血が、滾る。
熱い。
脈打つ。
鼓動に合わせて、体の中を巡る流れがはっきり分かる気がした。どこからどこへ、どれだけの速さで流れているのか、その輪郭だけが妙に鮮明になる。
何だ、これ。
指先が熱い。
熱が集まる。
小さな、小さな指先へ向かって、何かが集束していく。痛みはない。だが、明らかに普通じゃない。目を見開く暇もなく、その熱は形を持った。
血。
赤い粒が、指先のそばで揺れていた。
ほんのわずか、空中へ浮いた血の粒子。それが鼓動と連動するように震え、細く伸びていく。丸かったものが鋭く変わる。細く、長く、鋭利に。
まるで針だ。
赤ん坊の小さな指先に、血でできた針が生まれていた。
「……っ」
声にならない。
理解が追いつかない。
だが、窓際の黒い影ははっきり反応した。
顔もないくせに、びくりと身を引いたのが分かった。こっちの指先を見たのだ。いや、見たという表現が正しいのかは分からないが、とにかく“それ”を認識した。
次の瞬間、影が迫った。
ぐにゃりと形を歪めながら、窓際からこちらへ伸びてくる。ガラスがあるはずなのに、そんなものは障害にもならないみたいに、ぬるりと黒が入り込んでくる。
反射だった。
考えるより先に、指先の針が飛んだ。
赤い閃きが、まっすぐに黒い影を貫く。
すると。
影は、霧みたいに消えた。
音もなく。
悲鳴もなく。
ただ、ふっと存在がほどけて、そこにあった黒が跡形もなく散った。
部屋の隅に溜まっていた靄も、一瞬だけざわめいて、それから距離を取るように薄くなる。
静かになった。
あまりにも、あっけなく。
「……あら?」
台所の方から綾乃の声がした。
びくりとする。
だが、その声色に警戒はない。ただ、何か気配が変わったかな、程度の曖昧な響きだった。こちらへやってきた綾乃は、ベビーベッドを覗き込んで、すぐに微笑む。
「起きてたの? どうしたの、じっとして」
気付いていない。
本当に、何も。
今ここで、黒い何かが近づいてきて、赤い針で消えたことに、欠片も気付いていない顔だった。
オビトは自分の指先を見た。
そこにはもう何もなかった。
血の針は消えている。傷もない。滲んだ血の跡すらない。さっき確かに熱を持って形になったはずなのに、今は何ごともなかったみたいに小さな指があるだけだ。
(……何だよ、今の)
心臓がどくどくと鳴っている。
驚きか、警戒か、それとも興奮か、自分でも分からない。
ただひとつ言えるのは、あれが幻ではなかったということだ。気味の悪い黒い影は確かにいて、それを自分は血でできた針みたいなもので消した。
名前も分からない。
仕組みも分からない。
けれど、血を操った。
そうとしか言いようがなかった。
忍界にも、血を媒介にした術はあった。だがこんなふうに、自分の中の血流が意思に反応して、そのまま形を持って飛ぶような感覚は知らない。印もいらない。口寄せもいらない。練る、というより、体そのものが勝手に応じた感覚だった。
違う。
これは、前の世界の延長じゃない。
忍界とは違う世界だ。
道具だけじゃない。
暮らしだけでもない。
見えているものも、見えていないものも、流れている力の質そのものが違う。
綾乃は何も知らず、オビトの額をそっと撫でた。
「眠いのかな」
違う、と言いたかった。
でも言えない。
赤ん坊の喉から出るのは、せいぜい小さな息だけだ。
窓の外を見れば、街は相変わらず穏やかだった。車が走り、電線が空を横切り、どこか遠くで子供の笑い声がした。テレビからは、また軽やかな音楽が流れている。
光の強い世界だった。
便利で、明るくて、平和で、柔らかい。
そのくせ影もある。
人の目に映らない場所に、黒く澱んだものがいる。
そして自分の中には、それに触れられる何かがある。
オビトは小さく瞬きをした。
知らない世界だ。
本当に、何ひとつ分からない。
分からないが、放っておける感じもしなかった。
胸の奥じゃなく、血の奥で、何かがまだじんわりと熱を残している。
その熱だけが、今見たものが夢でも見間違いでもないと、静かに告げていた。
ここ最近の率直な感想が、それだった。
忍界にも、不思議なものは多かった。
忍術。血継限界。尾獣。輪廻眼。
理屈が通っているようで通っていない力が、当たり前みたいな顔で存在していたし、それを受け入れて生きてきた。今さら多少の異常で目を剥くつもりもない。少なくとも、そう思っていた。
だが。
(それでも、ここまでじゃなかった)
これは、別種だ。
まず、足元。
いや、今の自分に足元という表現が合っているのかは微妙だが、とにかく下半身を包んでいるそれである。
オムツ。
しかも“パンパース”とかいうらしい。
(なんだその名前)
いや、語感はどうでもいい。問題は性能だ。
吸収力が異常すぎる。
どれだけ出ようが、漏れない。不快感も最小限に抑えられている。前世の記憶を持ったまま赤ん坊をやらされている身としては、羞恥心の問題は一旦脇へ置くとしても、純粋に技術力がおかしい。
忍界にこんなものはなかった。
あったら医療班が泣いて喜ぶし、戦場での負担が色々と変わっていたと思う。いや、本当に。もっと別の方向で文明を伸ばせよとか、今さら言っても仕方ないのだが。
しかもこの世界、オムツだけじゃ終わらない。
腹が減れば、透明な容器に入った白い液体が出てくる。
ミルク、というらしい。
最初に見た時は、何だその便利すぎる液体は、と思った。乳が出なくても供給可能。持ち運びできる。量も分かりやすい。温度まで調整される。しかも容器は軽くて割れにくい。おまけに衛生的だ。
(いや、これも医療班が泣いて喜ぶやつじゃねえか)
戦傷者用の栄養補給だの、孤児の保護だの、そういう場面が頭を過った。役に立つとかそういう次元じゃない。前世の常識からすると、生活の基盤がごっそり違う。
そして極めつけが、部屋の中の環境だった。
快適すぎる。
暑くない。寒くない。空気が一定だ。窓を閉めていても蒸れないし、外がどうであれ部屋の中は妙に穏やかだ。
(何でだよ)
最初は建物の造りかと思った。だが違う。壁際にある見慣れない四角い機械から、どうも空気そのものが調整されている気配がある。宗一郎と綾乃はそれを当たり前のように扱っていた。
冷暖房、というらしい。
意味が分かるようで分からない。部屋を冷やす。部屋を暖める。それを道具ひとつでやる。しかも火を焚く気配もなければ、氷を持ち込むわけでもない。
意味が分からない。
意味が分からないが、快適なのは事実だった。
快適すぎて逆に落ち着かないくらいだ。
他にもある。
壁際で光る箱。
映像と音が流れる平たい板。
宗一郎が何やら嬉しそうに「これ、最新機種なんだぞ」と綾乃に話していた、薄い黒い板。
どれを見ても、知らないものしかない。
その中でも衝撃が大きかったのは、テレビだった。
最初は窓かと思った。
平たい四角の中に、人がいたからだ。
本当に驚いた。
思わず二度見したし、赤ん坊の体でなければ確実に飛び退いていた。だがよく見れば、そこにいる人間はこちらを認識していない。閉じ込められているわけでも、幻術でもない。ただ映っているだけだ。
映る、って何だ。
しかも喋る。歌う。笑う。景色まで映る。
遠くの場所をそのまま切り取って持ってきたみたいな、不気味なくらい鮮明な像だった。
「オビト、テレビ好き?」
綾乃が笑いながらそう言った時、好きとか嫌いとか以前に衝撃が強すぎるんだが、とは言えなかった。
テレビの中では、明るい色の服を着た人間が、リズムに合わせて動いていた。背後では聞いたことのない音楽が流れている。笛でも三味線でも太鼓でもない、もっと軽快で、規則的で、妙に耳に残る音だった。
リズムが細かい。
音の数が多い。
それなのに、雑然としていない。
何だこれ、と呆気に取られているうちに、赤ん坊の身体は正直で、ついそちらへ見入ってしまう。
「ほら、やっぱり好きなんじゃない」
綾乃が嬉しそうに言う。
いや、まあ、気にはなるけども。
その後も、知らないものは増える一方だった。
電子レンジ。
電気ポット。
洗濯機。
スマートフォン。
タブレット。
ニンテンドーDS。
最後のひとつに至っては、宗一郎が休日に引っ張り出してきて、「懐かしいなあ」と呟きながら眺めていたものだ。小さな箱を開くと、中にまた光る画面があって、そこに絵と文字が並ぶ。
(それも映るのかよ……)
しかも指で押したり、棒みたいなもので触れたりして動かしている。
何なんだこの世界。
何がどうなってる。
スマートフォンと呼ばれていた板もだいぶおかしかった。宗一郎も綾乃も、暇さえあればそれを覗き込んでいる。人と話していると思ったら、相手はその場にいないらしい。写真も撮る。文字も読む。時計にもなる。地図にもなる。音楽まで鳴る。
道具ひとつに役目を詰め込みすぎだろ。
忍具袋が泣くぞ。
タブレットに至っては、宗一郎がオビトの前で赤ん坊向けの映像を流しながら「賢く育つかな」とか言っていた。どういう理屈だ。こんなもので賢くなるなら苦労しないだろ、と内心で突っ込んだが、綾乃が「親が一番楽しんでるじゃない」と呆れたように笑っていたので、多分正しい認識なんだろう。
洗濯機も意味が分からない。
服を入れて、水と一緒に回しておくだけで洗えるらしい。
(嘘だろ)
自分の知っている洗濯は、もっと地道で、もっと力仕事だった。手間も時間もかかる。それが箱に放り込んで待つだけで済むとか、どれだけ人間を甘やかす気だ。
電子レンジはもっと意味が分からない。
綾乃が小皿に入れたものを放り込み、扉を閉め、ボタンを押す。するとしばらくして、中のものが温かくなる。
火はどこだ。
どうやってだ。
何も見えないまま熱だけ通るとか、不気味だろ。
電気ポットも同じだ。湯を沸かすのに、火を起こさない。煙も出ない。なのに湯気が立つ。
(文明って怖ぇな……)
呆れを通り越して、もはや半分感心していた。
だって平和なのだ。
少なくとも、表面上は。
襲撃に備えて夜番を立てているわけでもない。見張り台から狼煙が上がるわけでもない。店は普通に開いているし、人は笑っているし、子供は外を歩いている。部屋の中は快適で、食い物は安定して供給されて、親は親バカなくらい平和だ。
平和だ。
平和――なのか?
その違和感は、いつも窓の向こうにあった。
最初に見たのは、昼だった。
綾乃が家事をしていて、宗一郎は仕事へ行っている。オビトはベビーベッドに寝かされ、ぼんやり天井を見上げていた。
ふと、視界の端に黒いものが映った。
窓の外。
家の壁に、何かがへばりついている。
人の形をしていた。
していた、が、どう見ても人間じゃない。
黒い。
全身が、靄と泥の中間みたいに曖昧な黒でできている。輪郭はぶれていて、ところどころ歪んでいた。顔のある位置には何もない。目も鼻も口もなく、ただのっぺりとした黒があるだけだ。なのに、見られている気がした。
腕が長い。
異様に長い。
だらんと垂れたその腕が、窓の外側をなぞるみたいに揺れている。へばり付いたまま、ゆら、ゆら、と気味の悪い動きで揺れていた。
鳥肌が立った。
赤ん坊の薄い肌の上を、ぞわりと嫌悪が走る。
気持ち悪い。
普通じゃない。
気味が悪い。
あれは何だ。
こっちを見ているのか?
いや、顔がないのに、何でそう思うんだ。
思う、というより、本能がそう告げていた。見られている。意識を向けられている。気味の悪いものが、確かにこちらに気付いている。
息を呑んだ、その時だった。
窓の外だけじゃない、と気付いた。
天井。
部屋の隅。
家具の影。
そこかしこに、黒い靄がいた。
さっきまで何もないと思っていた場所に、じわ、と滲み出るみたいに黒が溜まっている。形を持たない靄もあれば、さっきみたいに人の輪郭に近いものもある。どれも不快で、どれも淀んでいて、部屋の空気を少しだけ重くしていた。
文明がどれだけ進んでも、消えないものがある。
そういうことか、と、妙に冷えた頭で思った。
明るい部屋。
温かいミルク。
清潔なオムツ。
快適な空調。
テレビの中の楽しげな音楽。
そんなものがどれだけ揃っていても、こういう“何か”は消えていない。
世界の見た目が変わっただけで、気味の悪いものは、ちゃんといる。
しかも。
窓の外にいた黒い人形が、するり、と動いた。
へばりついていたはずなのに、音もなく剥がれる。長い腕を引きずるようにして、黒い影が窓の方へ近づいてくる。ガラスがあるのに構わず、じわり、じわりと距離を詰めてくる気配。
来る。
そう思った瞬間、体の奥で何かが動いた。
違和感だった。
腹の底でも、胸の奥でもない。もっと血そのものに近い場所。自分の中を流れているものが、急に熱を持ったような感覚が走る。
血が、滾る。
熱い。
脈打つ。
鼓動に合わせて、体の中を巡る流れがはっきり分かる気がした。どこからどこへ、どれだけの速さで流れているのか、その輪郭だけが妙に鮮明になる。
何だ、これ。
指先が熱い。
熱が集まる。
小さな、小さな指先へ向かって、何かが集束していく。痛みはない。だが、明らかに普通じゃない。目を見開く暇もなく、その熱は形を持った。
血。
赤い粒が、指先のそばで揺れていた。
ほんのわずか、空中へ浮いた血の粒子。それが鼓動と連動するように震え、細く伸びていく。丸かったものが鋭く変わる。細く、長く、鋭利に。
まるで針だ。
赤ん坊の小さな指先に、血でできた針が生まれていた。
「……っ」
声にならない。
理解が追いつかない。
だが、窓際の黒い影ははっきり反応した。
顔もないくせに、びくりと身を引いたのが分かった。こっちの指先を見たのだ。いや、見たという表現が正しいのかは分からないが、とにかく“それ”を認識した。
次の瞬間、影が迫った。
ぐにゃりと形を歪めながら、窓際からこちらへ伸びてくる。ガラスがあるはずなのに、そんなものは障害にもならないみたいに、ぬるりと黒が入り込んでくる。
反射だった。
考えるより先に、指先の針が飛んだ。
赤い閃きが、まっすぐに黒い影を貫く。
すると。
影は、霧みたいに消えた。
音もなく。
悲鳴もなく。
ただ、ふっと存在がほどけて、そこにあった黒が跡形もなく散った。
部屋の隅に溜まっていた靄も、一瞬だけざわめいて、それから距離を取るように薄くなる。
静かになった。
あまりにも、あっけなく。
「……あら?」
台所の方から綾乃の声がした。
びくりとする。
だが、その声色に警戒はない。ただ、何か気配が変わったかな、程度の曖昧な響きだった。こちらへやってきた綾乃は、ベビーベッドを覗き込んで、すぐに微笑む。
「起きてたの? どうしたの、じっとして」
気付いていない。
本当に、何も。
今ここで、黒い何かが近づいてきて、赤い針で消えたことに、欠片も気付いていない顔だった。
オビトは自分の指先を見た。
そこにはもう何もなかった。
血の針は消えている。傷もない。滲んだ血の跡すらない。さっき確かに熱を持って形になったはずなのに、今は何ごともなかったみたいに小さな指があるだけだ。
(……何だよ、今の)
心臓がどくどくと鳴っている。
驚きか、警戒か、それとも興奮か、自分でも分からない。
ただひとつ言えるのは、あれが幻ではなかったということだ。気味の悪い黒い影は確かにいて、それを自分は血でできた針みたいなもので消した。
名前も分からない。
仕組みも分からない。
けれど、血を操った。
そうとしか言いようがなかった。
忍界にも、血を媒介にした術はあった。だがこんなふうに、自分の中の血流が意思に反応して、そのまま形を持って飛ぶような感覚は知らない。印もいらない。口寄せもいらない。練る、というより、体そのものが勝手に応じた感覚だった。
違う。
これは、前の世界の延長じゃない。
忍界とは違う世界だ。
道具だけじゃない。
暮らしだけでもない。
見えているものも、見えていないものも、流れている力の質そのものが違う。
綾乃は何も知らず、オビトの額をそっと撫でた。
「眠いのかな」
違う、と言いたかった。
でも言えない。
赤ん坊の喉から出るのは、せいぜい小さな息だけだ。
窓の外を見れば、街は相変わらず穏やかだった。車が走り、電線が空を横切り、どこか遠くで子供の笑い声がした。テレビからは、また軽やかな音楽が流れている。
光の強い世界だった。
便利で、明るくて、平和で、柔らかい。
そのくせ影もある。
人の目に映らない場所に、黒く澱んだものがいる。
そして自分の中には、それに触れられる何かがある。
オビトは小さく瞬きをした。
知らない世界だ。
本当に、何ひとつ分からない。
分からないが、放っておける感じもしなかった。
胸の奥じゃなく、血の奥で、何かがまだじんわりと熱を残している。
その熱だけが、今見たものが夢でも見間違いでもないと、静かに告げていた。
【〆栞】