文明の光と影

世界は、意味が分からないもので満ちている。

ここ最近の率直な感想が、それだった。

忍界にも、不思議なものは多かった。

忍術。血継限界。尾獣。輪廻眼。

理屈が通っているようで通っていない力が、当たり前みたいな顔で存在していたし、それを受け入れて生きてきた。今さら多少の異常で目を剥くつもりもない。少なくとも、そう思っていた。

だが。

(それでも、ここまでじゃなかった)

これは、別種だ。

まず、足元。

いや、今の自分に足元という表現が合っているのかは微妙だが、とにかく下半身を包んでいるそれである。

オムツ。

しかも“パンパース”とかいうらしい。

(なんだその名前)

いや、語感はどうでもいい。問題は性能だ。

吸収力が異常すぎる。

どれだけ出ようが、漏れない。不快感も最小限に抑えられている。前世の記憶を持ったまま赤ん坊をやらされている身としては、羞恥心の問題は一旦脇へ置くとしても、純粋に技術力がおかしい。

忍界にこんなものはなかった。

あったら医療班が泣いて喜ぶし、戦場での負担が色々と変わっていたと思う。いや、本当に。もっと別の方向で文明を伸ばせよとか、今さら言っても仕方ないのだが。

しかもこの世界、オムツだけじゃ終わらない。

腹が減れば、透明な容器に入った白い液体が出てくる。

ミルク、というらしい。

最初に見た時は、何だその便利すぎる液体は、と思った。乳が出なくても供給可能。持ち運びできる。量も分かりやすい。温度まで調整される。しかも容器は軽くて割れにくい。おまけに衛生的だ。

(いや、これも医療班が泣いて喜ぶやつじゃねえか)

戦傷者用の栄養補給だの、孤児の保護だの、そういう場面が頭を過った。役に立つとかそういう次元じゃない。前世の常識からすると、生活の基盤がごっそり違う。

そして極めつけが、部屋の中の環境だった。

快適すぎる。

暑くない。寒くない。空気が一定だ。窓を閉めていても蒸れないし、外がどうであれ部屋の中は妙に穏やかだ。

(何でだよ)

最初は建物の造りかと思った。だが違う。壁際にある見慣れない四角い機械から、どうも空気そのものが調整されている気配がある。宗一郎と綾乃はそれを当たり前のように扱っていた。

冷暖房、というらしい。

意味が分かるようで分からない。部屋を冷やす。部屋を暖める。それを道具ひとつでやる。しかも火を焚く気配もなければ、氷を持ち込むわけでもない。

意味が分からない。

意味が分からないが、快適なのは事実だった。

快適すぎて逆に落ち着かないくらいだ。

他にもある。

壁際で光る箱。

映像と音が流れる平たい板。

宗一郎が何やら嬉しそうに「これ、最新機種なんだぞ」と綾乃に話していた、薄い黒い板。

どれを見ても、知らないものしかない。

その中でも衝撃が大きかったのは、テレビだった。

最初は窓かと思った。

平たい四角の中に、人がいたからだ。

本当に驚いた。

思わず二度見したし、赤ん坊の体でなければ確実に飛び退いていた。だがよく見れば、そこにいる人間はこちらを認識していない。閉じ込められているわけでも、幻術でもない。ただ映っているだけだ。

映る、って何だ。

しかも喋る。歌う。笑う。景色まで映る。

遠くの場所をそのまま切り取って持ってきたみたいな、不気味なくらい鮮明な像だった。

「オビト、テレビ好き?」

綾乃が笑いながらそう言った時、好きとか嫌いとか以前に衝撃が強すぎるんだが、とは言えなかった。

テレビの中では、明るい色の服を着た人間が、リズムに合わせて動いていた。背後では聞いたことのない音楽が流れている。笛でも三味線でも太鼓でもない、もっと軽快で、規則的で、妙に耳に残る音だった。

リズムが細かい。

音の数が多い。

それなのに、雑然としていない。

何だこれ、と呆気に取られているうちに、赤ん坊の身体は正直で、ついそちらへ見入ってしまう。

「ほら、やっぱり好きなんじゃない」

綾乃が嬉しそうに言う。

いや、まあ、気にはなるけども。

その後も、知らないものは増える一方だった。

電子レンジ。

電気ポット。

洗濯機。

スマートフォン。

タブレット。

ニンテンドーDS。

最後のひとつに至っては、宗一郎が休日に引っ張り出してきて、「懐かしいなあ」と呟きながら眺めていたものだ。小さな箱を開くと、中にまた光る画面があって、そこに絵と文字が並ぶ。

(それも映るのかよ……)

しかも指で押したり、棒みたいなもので触れたりして動かしている。

何なんだこの世界。

何がどうなってる。

スマートフォンと呼ばれていた板もだいぶおかしかった。宗一郎も綾乃も、暇さえあればそれを覗き込んでいる。人と話していると思ったら、相手はその場にいないらしい。写真も撮る。文字も読む。時計にもなる。地図にもなる。音楽まで鳴る。

道具ひとつに役目を詰め込みすぎだろ。

忍具袋が泣くぞ。

タブレットに至っては、宗一郎がオビトの前で赤ん坊向けの映像を流しながら「賢く育つかな」とか言っていた。どういう理屈だ。こんなもので賢くなるなら苦労しないだろ、と内心で突っ込んだが、綾乃が「親が一番楽しんでるじゃない」と呆れたように笑っていたので、多分正しい認識なんだろう。

洗濯機も意味が分からない。

服を入れて、水と一緒に回しておくだけで洗えるらしい。

(嘘だろ)

自分の知っている洗濯は、もっと地道で、もっと力仕事だった。手間も時間もかかる。それが箱に放り込んで待つだけで済むとか、どれだけ人間を甘やかす気だ。

電子レンジはもっと意味が分からない。

綾乃が小皿に入れたものを放り込み、扉を閉め、ボタンを押す。するとしばらくして、中のものが温かくなる。

火はどこだ。

どうやってだ。

何も見えないまま熱だけ通るとか、不気味だろ。

電気ポットも同じだ。湯を沸かすのに、火を起こさない。煙も出ない。なのに湯気が立つ。

(文明って怖ぇな……)

呆れを通り越して、もはや半分感心していた。

だって平和なのだ。

少なくとも、表面上は。

襲撃に備えて夜番を立てているわけでもない。見張り台から狼煙が上がるわけでもない。店は普通に開いているし、人は笑っているし、子供は外を歩いている。部屋の中は快適で、食い物は安定して供給されて、親は親バカなくらい平和だ。

平和だ。

平和――なのか?

その違和感は、いつも窓の向こうにあった。

最初に見たのは、昼だった。

綾乃が家事をしていて、宗一郎は仕事へ行っている。オビトはベビーベッドに寝かされ、ぼんやり天井を見上げていた。

ふと、視界の端に黒いものが映った。

窓の外。

家の壁に、何かがへばりついている。

人の形をしていた。

していた、が、どう見ても人間じゃない。

黒い。

全身が、靄と泥の中間みたいに曖昧な黒でできている。輪郭はぶれていて、ところどころ歪んでいた。顔のある位置には何もない。目も鼻も口もなく、ただのっぺりとした黒があるだけだ。なのに、見られている気がした。

腕が長い。

異様に長い。

だらんと垂れたその腕が、窓の外側をなぞるみたいに揺れている。へばり付いたまま、ゆら、ゆら、と気味の悪い動きで揺れていた。

鳥肌が立った。

赤ん坊の薄い肌の上を、ぞわりと嫌悪が走る。

気持ち悪い。

普通じゃない。

気味が悪い。

あれは何だ。

こっちを見ているのか?

いや、顔がないのに、何でそう思うんだ。

思う、というより、本能がそう告げていた。見られている。意識を向けられている。気味の悪いものが、確かにこちらに気付いている。

息を呑んだ、その時だった。

窓の外だけじゃない、と気付いた。

天井。

部屋の隅。

家具の影。

そこかしこに、黒い靄がいた。

さっきまで何もないと思っていた場所に、じわ、と滲み出るみたいに黒が溜まっている。形を持たない靄もあれば、さっきみたいに人の輪郭に近いものもある。どれも不快で、どれも淀んでいて、部屋の空気を少しだけ重くしていた。

文明がどれだけ進んでも、消えないものがある。

そういうことか、と、妙に冷えた頭で思った。

明るい部屋。

温かいミルク。

清潔なオムツ。

快適な空調。

テレビの中の楽しげな音楽。

そんなものがどれだけ揃っていても、こういう“何か”は消えていない。

世界の見た目が変わっただけで、気味の悪いものは、ちゃんといる。

しかも。

窓の外にいた黒い人形が、するり、と動いた。

へばりついていたはずなのに、音もなく剥がれる。長い腕を引きずるようにして、黒い影が窓の方へ近づいてくる。ガラスがあるのに構わず、じわり、じわりと距離を詰めてくる気配。

来る。

そう思った瞬間、体の奥で何かが動いた。

違和感だった。

腹の底でも、胸の奥でもない。もっと血そのものに近い場所。自分の中を流れているものが、急に熱を持ったような感覚が走る。

血が、滾る。

熱い。

脈打つ。

鼓動に合わせて、体の中を巡る流れがはっきり分かる気がした。どこからどこへ、どれだけの速さで流れているのか、その輪郭だけが妙に鮮明になる。

何だ、これ。

指先が熱い。

熱が集まる。

小さな、小さな指先へ向かって、何かが集束していく。痛みはない。だが、明らかに普通じゃない。目を見開く暇もなく、その熱は形を持った。

血。

赤い粒が、指先のそばで揺れていた。

ほんのわずか、空中へ浮いた血の粒子。それが鼓動と連動するように震え、細く伸びていく。丸かったものが鋭く変わる。細く、長く、鋭利に。

まるで針だ。

赤ん坊の小さな指先に、血でできた針が生まれていた。

「……っ」

声にならない。

理解が追いつかない。

だが、窓際の黒い影ははっきり反応した。

顔もないくせに、びくりと身を引いたのが分かった。こっちの指先を見たのだ。いや、見たという表現が正しいのかは分からないが、とにかく“それ”を認識した。

次の瞬間、影が迫った。

ぐにゃりと形を歪めながら、窓際からこちらへ伸びてくる。ガラスがあるはずなのに、そんなものは障害にもならないみたいに、ぬるりと黒が入り込んでくる。

反射だった。

考えるより先に、指先の針が飛んだ。

赤い閃きが、まっすぐに黒い影を貫く。

すると。

影は、霧みたいに消えた。

音もなく。

悲鳴もなく。

ただ、ふっと存在がほどけて、そこにあった黒が跡形もなく散った。

部屋の隅に溜まっていた靄も、一瞬だけざわめいて、それから距離を取るように薄くなる。

静かになった。

あまりにも、あっけなく。

「……あら?」

台所の方から綾乃の声がした。

びくりとする。

だが、その声色に警戒はない。ただ、何か気配が変わったかな、程度の曖昧な響きだった。こちらへやってきた綾乃は、ベビーベッドを覗き込んで、すぐに微笑む。

「起きてたの? どうしたの、じっとして」

気付いていない。

本当に、何も。

今ここで、黒い何かが近づいてきて、赤い針で消えたことに、欠片も気付いていない顔だった。

オビトは自分の指先を見た。

そこにはもう何もなかった。

血の針は消えている。傷もない。滲んだ血の跡すらない。さっき確かに熱を持って形になったはずなのに、今は何ごともなかったみたいに小さな指があるだけだ。

(……何だよ、今の)

心臓がどくどくと鳴っている。

驚きか、警戒か、それとも興奮か、自分でも分からない。

ただひとつ言えるのは、あれが幻ではなかったということだ。気味の悪い黒い影は確かにいて、それを自分は血でできた針みたいなもので消した。

名前も分からない。

仕組みも分からない。

けれど、血を操った。

そうとしか言いようがなかった。

忍界にも、血を媒介にした術はあった。だがこんなふうに、自分の中の血流が意思に反応して、そのまま形を持って飛ぶような感覚は知らない。印もいらない。口寄せもいらない。練る、というより、体そのものが勝手に応じた感覚だった。

違う。

これは、前の世界の延長じゃない。

忍界とは違う世界だ。

道具だけじゃない。

暮らしだけでもない。

見えているものも、見えていないものも、流れている力の質そのものが違う。

綾乃は何も知らず、オビトの額をそっと撫でた。

「眠いのかな」

違う、と言いたかった。

でも言えない。

赤ん坊の喉から出るのは、せいぜい小さな息だけだ。

窓の外を見れば、街は相変わらず穏やかだった。車が走り、電線が空を横切り、どこか遠くで子供の笑い声がした。テレビからは、また軽やかな音楽が流れている。

光の強い世界だった。

便利で、明るくて、平和で、柔らかい。

そのくせ影もある。

人の目に映らない場所に、黒く澱んだものがいる。

そして自分の中には、それに触れられる何かがある。

オビトは小さく瞬きをした。

知らない世界だ。

本当に、何ひとつ分からない。

分からないが、放っておける感じもしなかった。

胸の奥じゃなく、血の奥で、何かがまだじんわりと熱を残している。

その熱だけが、今見たものが夢でも見間違いでもないと、静かに告げていた。


〆栞
PREV  |  NEXT
BACK