運動会

秋の空は高かった。

雲が薄く流れ、日差しは柔らかい。風も穏やかで、どこまでも“平和”という言葉が似合う日だった。

幼稚園の園庭には、色とりどりの旗が張られている。小さな椅子が並べられ、保護者たちのざわめきが絶えず揺れていた。先生たちは忙しなく動き回り、子どもたちはその何倍も忙しなく走り回っている。

そんな中で、

「よーし……!」

と、妙に気合いの入った声が響いた。

宗一郎である。

(またそれか)

オビトは内心でぼやいた。

宗一郎の手には、やたらと大きくて、やたらと目立つ機械があった。レンズがこちらを向いている。どう見ても高性能そうだ。以前から何度も見ているが、やはりあれの存在感は大きい。

どうやら“撮影”という行為に使うらしい。

(記録か)

忍で言えば情報の保存に近いのだろう。だが、この世界ではそれが戦や任務に限らず、子どもの日常に当たり前みたいな顔で持ち込まれる。

「オビトー! こっちだ!」

宗一郎がぶんぶんと手を振る。

(見えてるっての)

少しだけ手を上げる。

その瞬間。

カシャッ。

音が鳴った。

(いや、早ぇな)

逃げる暇もない。

「いいぞ今の!」

宗一郎が満足げな声を上げる。

(まあ、いいか)

別に困ることではない。

ただ、少しだけ恥ずかしい。

ほんの少しだけ、落ち着かない。

その隣では綾乃が静かに微笑んでいた。

「楽しそうね」

柔らかい声だった。

だが――。

(……ん?)

違和感。

ほんの一瞬、空気が揺れた。

見えない何かが、すっと消える。

黒い靄。

虫。

それが音もなく霧散した。

(……おい)

気づいた、今の。

(やったな?)

綾乃の手元が、ほんのわずかに動いた。

指先、それだけだ。

それだけで、虫が消えた。

表情は笑顔のままで。

(……怖っ)

完全に周囲へ溶け込んでいるのに、やってることは全然普通じゃない。

前は偶然かと思った。

だが違う。

今のは明らかに“意図している”。

しかも精度が高い。

無駄がない。

(やっぱり気づいてんのか)

オビトは改めて思った。

この両親、ただの一般人じゃない。

いや、表向きはそうだ。

生活も普通だ。

働いて、食べて、笑って、こうして運動会にも来る。

宗一郎はカメラを構えながら周囲を見ている。

綾乃は笑顔のまま虫を祓った。

二人とも、普通の父親と母親の顔をしている。

けれど、ほんの少し奥を覗くと違う。

完全に、別の顔がある。

宗一郎の立ち位置は自然で、けれど隙がない。人混みに紛れているのに、妙に視界が広い感じがする。綾乃の今の一撃は、静かで、正確で、迷いがなかった。

(なんなんだ、ほんと)

疑問はある。

だが深くは考えない。

今は。

問題はない。

守られている。

それだけは分かる。

「次はかけっこですよー!」

先生の声が響いた。

子どもたちが呼ばれ、列へ並ぶ。

走る。

単純な競技だ。

だが、単純だからこそ分かりやすい。

「よーい……」

緊張はない。

むしろ少しだけ楽しみだ。

「どん!」

地面を蹴る。

身体が前に出た。

軽い。

速い。

(やっぱりな)

この身体は成長している。

前世とは違う。

だが、感覚はある。

バランス。

重心。

踏み込み。

どこへ力を乗せれば前へ出るか、どうすれば無駄なく進めるか、身体がよく知っていた。幼い体なりの制限はある。それでも、同年代の中では明らかに動きやすい。

風を切る。

前に出る。

一歩。

また一歩。

気づけば一番前だった。

そのまま、ゴール。

「オビトくん一等ー!」

歓声と拍手が上がる。

(まあ、そうなるか)

当然、とまでは言わない。

だが、予想通りではある。

「よっしゃあああ!!」

宗一郎の声がやたらでかい。

(うるせぇな)

カメラを構えながら全力で喜んでいる。喜び方に遠慮がない。周囲の保護者が少し笑っているのも見えた。

「すごいわね」

綾乃も微笑む。

だが、その視線はほんの少しだけ鋭かった。

周囲を見ている。

虫の気配。

危険の有無。

それを無意識に確認している。

(……やっぱりな)

完全に“普通の母親”じゃない。

あと、笑顔を保ったままそれをやるのは普通に怖い。

だが、まあ、それでいい。

むしろ。

(頼もしいな)

そう思った。

運動会は続く。

笑い声。

拍手。

音楽。

すべてが平和だ。

子どもたちが走り、転び、泣いて、すぐ笑う。保護者たちはそれを見て手を叩き、先生たちは声を張って場を回す。何もかもが騒がしいのに、不思議と嫌じゃない。

宗一郎は父子共同お神輿かけっこに向けて、やる気満々だった。

その気配が遠くからでも分かる。

(嫌な予感しかしねぇな……)

オビトは少しだけ目を細めた。

案の定、

「いくぞオビトー!!」

と、子どもより子どもみたいな声が飛んできた。

若干どころではなく大人気ない。

(恥だ!)

こういうところで目立つのはよくない。

本当によくない。

なのに宗一郎は満面の笑みでこちらを抱き上げ、妙に本気の顔でスタート位置へ向かっていく。周囲の父親たちも気合いは入っているが、宗一郎のそれは方向性が少し違う。何というか、勝つ気でいる。

やめろ。

運動会だぞ。

なのに本人は完全に戦闘前みたいな顔をしていた。

綾乃はそんな宗一郎に呆れたように笑いながら、今度は自分がカメラを構えている。

笑顔のまま、目だけはちゃんと周囲を見ていた。

虫の気配。

人の流れ。

危険の有無。

全部を拾いながら、それでも“普通の母親”の顔を崩さない。

(ほんと、何なんだよこの二人)

思う。

でも、悪くない。

むしろ安心する。

自分が無理に全部見張らなくても、この二人がいる。それが分かるだけで、肩の力が少し抜ける。

運動会の中心で、オビトはただ普通に過ごす。

走って。

並んで。

時々褒められて。

父が目立って。

母が静かに虫を消して。

そんな一日だ。

(悪くねぇな)

ふと、思う。

こういう時間も。

こういう日常も。

忍として生きていた頃には、なかったものだ。

穏やかで、賑やかで、少し恥ずかしくて、でも確かに楽しい。

だからこそ、少しだけ大事にしてもいい。

そう思えた。

父子共同の競技が始まる直前、宗一郎がやる気に満ちた顔で前を向いている。

オビトはその腕の中で、半ば諦めたように空を見上げた。

秋の空は高い。

平和で。

騒がしくて。

少し恥ずかしくて。

でも、悪くない。

そう思えるだけで、今日は十分だった。


〆栞
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