ニアミス
仙台地方都市。
任務帰りの特別珍しくもない、よくある“仕事のついで”の立ち寄り先。
白髪の青年が、だるそうな足取りで駅前の通りを歩いていた。
サングラス。
長身。
気の抜けたような立ち姿。
けれど、その実態はまるで逆だ。
高専二年生、五条悟。
呪術師としては、すでに規格外。
本人にその自覚があるかどうかはともかく、少なくとも“普通”という枠の外にいることだけは間違いなかった。
そんな五条が、ふと足を止める。
「……ん?」
目に見える何かがあったわけじゃない。
ただ、空気が澄んでいた。
広範囲に。
街の一角。
住宅地のあたりが、妙に軽い。
よくある地方都市の空気だ。車が走り、人が暮らし、感情が積もり、少しずつ濁りが生まれる。そういう“普通”の流れがあるはずなのに、そこだけ不自然に薄い。
まるで結界。
そう思った。
だが、すぐに否定する。
違う。
術式の痕跡がない。
もっと自然だ。
もっと――異質だ。
五条の口元が、わずかに上がる。
面白い。
そう思ったのは確かだった。
こういう“何か変”は嫌いじゃない。むしろ好きだ。理屈の外にあるものは、それだけで興味を引く。しかも術式の匂いが薄いとなれば、なおさら面白い。
数秒だけ考える。
興味はある。
かなりある。
だが、今は任務帰りだった。
疲れている。
腹も減っている。
そして何より、今日はもう働きたくなかった。
「まあいいか」
軽く肩をすくめる。
未知の現象なんて、珍しくはない。
いちいち全部に首を突っ込んでいたら身が持たない。何もかもを拾って、何もかもを確認していたら、それこそ終わりがない。
それに――。
「どうせ、そのうち分かるでしょ」
この世界は狭い。
特に呪術界は。
強いものは、いずれ浮き上がる。
隠れていても、勝手に表へ出てくる。
だから今はいい。
そう判断して、五条はそのまま歩き出した。
住宅地を抜ける。
裏葉家の前を通る。
ほんの一瞬だけ、何かが引っかかった。
視界の隅に、ごく普通の一軒家。
庭。
窓。
日差し。
どこにでもある家のひとつだ。
なのに、ほんの少しだけ何かが触れた気がした。
だが。
気のせい。
そう片付けるには十分に一瞬だった。
通り過ぎる。
振り返らない。
振り返る必要もない。
そのまま、何事もなかったように歩いていく。
家の中では、オビトが普通に過ごしていた。
床の上に座り込んで、目の前のよく分からない玩具を適当に転がし、時々窓の外を見る。四歳児らしいと言えばらしい、気の抜けた午後だった。
その時、ほんの一瞬だけ何かを感じた。
(……ん?)
気配、と呼ぶには曖昧だ。
圧、と呼ぶには軽い。
ただ、何か妙に“抜けた”感じがした。
強いものが近くを通った時にだけ生じる、ほんのわずかな空気の変化。黒い虫の類ではない。むしろ逆だ。虫がいる時とは違う、もっと乾いた、鋭い何か。
だが、それも一瞬で消えた。
(気のせいか)
特に問題はない。
虫もいない。
平和だ。
それなら、まあいい。
オビトはそれ以上考えず、また元の玩具へ意識を戻した。
一方――。
街の中心部。
五条は店の前で立ち止まっていた。
仙台といえば、ずんだ餅。
そんな雑な理由でふらりと買うあたりが、いかにも五条悟だった。
「これくださーい」
軽いノリで購入する。
袋を受け取り、そのまま新幹線の乗り場へ向かう。人混みを縫うように歩きながらも、足取りはどこか気楽だ。任務が終わった後の、この“もう仕事しなくていい”時間が好きなのだろう。
新幹線に乗り込み、席に座る。
どさりと身体を預けて、サングラスを少しずらす。
「ふー……」
疲れている。
規格外だろうが最強だろうが、疲れる時は疲れる。
袋を開ける。
白くて、丸くて、その上にほんのり緑がかった餡が乗っている。
見た目は正直、そこまで派手ではない。
けれど、五条は特に躊躇もなく一口頬張った。
「いただきまーす」
もち、とした食感。
枝豆の香り。
控えめな甘さ。
「……うん、美味い」
素直な感想だった。
満足した。
ちょっと機嫌が良くなる。
単純である。
列車が動き出す。
仙台の街並みが窓の外で後ろへ流れていく。
住宅街。
道路。
ビル。
遠くの空。
その街に“何か”があることを、五条はまだ知らない。
気づかないまま。
ただ通り過ぎた。
ただ、ずんだ餅を買って帰るだけの地方立ち寄りとして、その一日は過ぎていく。
そして家の中では、オビトもまた何も知らない。
白髪の青年が、規格外の“何か”を抱えたまま自分のすぐ近くを通り過ぎたことも。
その青年が、いずれ自分の人生に深く関わることになるかもしれないことも。
まだ、何も。
ただひとつだけ、確かなことがある。
もしあの時。
ほんの少しでも五条が足を止めていたら。
ほんの少しでも住宅地の奥へ踏み込んでいたら。
何かが変わっていたかもしれない。
裏葉家の空気。
眠る力。
見えない澄み。
それらが、あの六眼に引っかかってしまっていたら。
けれど、それは起きなかった。
五条は腹が減っていた。
任務帰りで疲れていた。
面白そうだとは思ったが、今日は面倒だった。
その、ただそれだけの理由で。
世界は少しだけ、未来を先延ばしにする。
新幹線は速度を上げる。
仙台は遠ざかる。
ずんだ餅はうまい。
五条は満足している。
だから今はまだ、すべては静かなまま時が過ぎていく。
裏葉家の上にも。
この街全体にも。
まだ名前のつかないものが、誰にも知られぬまま息づいている。
だが、いずれは浮かび上がる。
強いものは、隠れていても滲むからだ。
それでも今は、まだいい。
今はまだ、誰も何も知らない顔で、日常を続けていられる。
それだけの、ただ静かなニアミスだった。
任務帰りの特別珍しくもない、よくある“仕事のついで”の立ち寄り先。
白髪の青年が、だるそうな足取りで駅前の通りを歩いていた。
サングラス。
長身。
気の抜けたような立ち姿。
けれど、その実態はまるで逆だ。
高専二年生、五条悟。
呪術師としては、すでに規格外。
本人にその自覚があるかどうかはともかく、少なくとも“普通”という枠の外にいることだけは間違いなかった。
そんな五条が、ふと足を止める。
「……ん?」
目に見える何かがあったわけじゃない。
ただ、空気が澄んでいた。
広範囲に。
街の一角。
住宅地のあたりが、妙に軽い。
よくある地方都市の空気だ。車が走り、人が暮らし、感情が積もり、少しずつ濁りが生まれる。そういう“普通”の流れがあるはずなのに、そこだけ不自然に薄い。
まるで結界。
そう思った。
だが、すぐに否定する。
違う。
術式の痕跡がない。
もっと自然だ。
もっと――異質だ。
五条の口元が、わずかに上がる。
面白い。
そう思ったのは確かだった。
こういう“何か変”は嫌いじゃない。むしろ好きだ。理屈の外にあるものは、それだけで興味を引く。しかも術式の匂いが薄いとなれば、なおさら面白い。
数秒だけ考える。
興味はある。
かなりある。
だが、今は任務帰りだった。
疲れている。
腹も減っている。
そして何より、今日はもう働きたくなかった。
「まあいいか」
軽く肩をすくめる。
未知の現象なんて、珍しくはない。
いちいち全部に首を突っ込んでいたら身が持たない。何もかもを拾って、何もかもを確認していたら、それこそ終わりがない。
それに――。
「どうせ、そのうち分かるでしょ」
この世界は狭い。
特に呪術界は。
強いものは、いずれ浮き上がる。
隠れていても、勝手に表へ出てくる。
だから今はいい。
そう判断して、五条はそのまま歩き出した。
住宅地を抜ける。
裏葉家の前を通る。
ほんの一瞬だけ、何かが引っかかった。
視界の隅に、ごく普通の一軒家。
庭。
窓。
日差し。
どこにでもある家のひとつだ。
なのに、ほんの少しだけ何かが触れた気がした。
だが。
気のせい。
そう片付けるには十分に一瞬だった。
通り過ぎる。
振り返らない。
振り返る必要もない。
そのまま、何事もなかったように歩いていく。
家の中では、オビトが普通に過ごしていた。
床の上に座り込んで、目の前のよく分からない玩具を適当に転がし、時々窓の外を見る。四歳児らしいと言えばらしい、気の抜けた午後だった。
その時、ほんの一瞬だけ何かを感じた。
(……ん?)
気配、と呼ぶには曖昧だ。
圧、と呼ぶには軽い。
ただ、何か妙に“抜けた”感じがした。
強いものが近くを通った時にだけ生じる、ほんのわずかな空気の変化。黒い虫の類ではない。むしろ逆だ。虫がいる時とは違う、もっと乾いた、鋭い何か。
だが、それも一瞬で消えた。
(気のせいか)
特に問題はない。
虫もいない。
平和だ。
それなら、まあいい。
オビトはそれ以上考えず、また元の玩具へ意識を戻した。
一方――。
街の中心部。
五条は店の前で立ち止まっていた。
仙台といえば、ずんだ餅。
そんな雑な理由でふらりと買うあたりが、いかにも五条悟だった。
「これくださーい」
軽いノリで購入する。
袋を受け取り、そのまま新幹線の乗り場へ向かう。人混みを縫うように歩きながらも、足取りはどこか気楽だ。任務が終わった後の、この“もう仕事しなくていい”時間が好きなのだろう。
新幹線に乗り込み、席に座る。
どさりと身体を預けて、サングラスを少しずらす。
「ふー……」
疲れている。
規格外だろうが最強だろうが、疲れる時は疲れる。
袋を開ける。
白くて、丸くて、その上にほんのり緑がかった餡が乗っている。
見た目は正直、そこまで派手ではない。
けれど、五条は特に躊躇もなく一口頬張った。
「いただきまーす」
もち、とした食感。
枝豆の香り。
控えめな甘さ。
「……うん、美味い」
素直な感想だった。
満足した。
ちょっと機嫌が良くなる。
単純である。
列車が動き出す。
仙台の街並みが窓の外で後ろへ流れていく。
住宅街。
道路。
ビル。
遠くの空。
その街に“何か”があることを、五条はまだ知らない。
気づかないまま。
ただ通り過ぎた。
ただ、ずんだ餅を買って帰るだけの地方立ち寄りとして、その一日は過ぎていく。
そして家の中では、オビトもまた何も知らない。
白髪の青年が、規格外の“何か”を抱えたまま自分のすぐ近くを通り過ぎたことも。
その青年が、いずれ自分の人生に深く関わることになるかもしれないことも。
まだ、何も。
ただひとつだけ、確かなことがある。
もしあの時。
ほんの少しでも五条が足を止めていたら。
ほんの少しでも住宅地の奥へ踏み込んでいたら。
何かが変わっていたかもしれない。
裏葉家の空気。
眠る力。
見えない澄み。
それらが、あの六眼に引っかかってしまっていたら。
けれど、それは起きなかった。
五条は腹が減っていた。
任務帰りで疲れていた。
面白そうだとは思ったが、今日は面倒だった。
その、ただそれだけの理由で。
世界は少しだけ、未来を先延ばしにする。
新幹線は速度を上げる。
仙台は遠ざかる。
ずんだ餅はうまい。
五条は満足している。
だから今はまだ、すべては静かなまま時が過ぎていく。
裏葉家の上にも。
この街全体にも。
まだ名前のつかないものが、誰にも知られぬまま息づいている。
だが、いずれは浮かび上がる。
強いものは、隠れていても滲むからだ。
それでも今は、まだいい。
今はまだ、誰も何も知らない顔で、日常を続けていられる。
それだけの、ただ静かなニアミスだった。
【〆栞】