変わらないもの
幼稚園という場所は、基本的には平和だった。
笑って、遊んで、食べて、帰る。
それが日常だ。
朝になれば子どもたちは元気に集まり、走り回り、先生の声が響き、気づけば昼になって、給食を食べて、また遊んで、少し眠くなって、それから帰る。
騒がしい。
だが、危険ではない。
少なくとも、大抵は。
その日も、始まりはいつも通りだった。
陽射しは柔らかく、園庭には子どもたちの声が満ちている。先生たちは笑顔で見守り、オビトはその喧騒の中で、ほどほどに自分の居場所を見つけていた。
完全に馴染んだとは言わない。
だが、もう“知らない場所”ではない。
わんこ組の空気も、先生の声も、誰がどういうふうに泣いて、誰がどういうふうに笑うかも、少しずつ分かってきていた。
そんな中で、喧嘩は起きた。
別に大げさなものじゃない。
子ども同士の、よくあるやつだ。
おもちゃの取り合い。
ほんの些細なこと。
先に使っていただの、自分も触りたかっただの、そういう小さなぶつかり合いが、幼稚園では時々火を噴く。
最初は言い合いだった。
次に、手が出た。
一人が押されて転ぶ。
地面に手をついて、顔が歪む。
泣く一歩手前の顔だ。
それを見た瞬間、オビトの身体が先に動いた。
考えるより前だった。
「やめろ」
低く出た声は、自分でも少し驚くくらい自然だった。
押した方の子どもが、びくっと肩を揺らす。
さらに詰め寄ろうとしていた足が、一瞬止まった。
その瞬間。
ほんのわずかに、呪力の圧が漏れた。
無意識だった。
ほんの一瞬、空気が張る。
目には見えない程度の、ごく薄い圧。
けれど、子どもには十分だったらしい。
喧嘩していた相手の顔が、ぱっと強張る。
周囲にいた子どもたちも、「え?」という顔で一瞬だけ静まった。
怖がらせるつもりはなかった。
だが、止める、という意志が、そのまま漏れたのだろう。
転んだ子の方へ、オビトは自然に手を差し出した。
「大丈夫か?」
泣きそうだった子が、目をぱちぱちとさせる。
それから、小さく頷いた。
オビトはその腕を取って、ゆっくり立たせる。
砂を払う。
膝も手のひらも、大きな怪我はない。少し擦った程度だ。なら問題ない。
その間に、後ろで誰かが声を上げた。
「先生呼んでくる!」
ぱたぱたと足音が遠ざかる。
先生が来るなら、ひとまず収まるだろう。
オビトは立ち上がった子の顔をもう一度見た。
泣きそうではある。
だが、ちゃんと立っている。
なら大丈夫だ。
昔から変わらないな、と、ほんの少しだけ思う。
放っておけない。
泣きそうなやつ。
困ってるやつ。
転んだまま、うまく立てないやつ。
そういうのを見ると、身体が勝手に前へ出る。
前世から、たぶんその前から、そこだけは何も変わっていないのかもしれない。
根っこにあるのは、ただの優しさだ。
理屈じゃない。
得か損かでもない。
放っておけないから、動く。
それだけだ。
先生が慌ててやってきて、事情を聞き、泣きかけの子を抱き上げ、押した子の方へもしゃがみ込んだ頃には、もう騒ぎは半分ほど収まっていた。
「オビトくん、止めてくれたの?」
先生が驚いたように聞く。
オビトは少しだけ肩をすくめるみたいに頷いた。
すると先生は、目を丸くして、それからふっと笑った。
「えらかったね」
周囲の子どもたちも、ざわざわと何か言っている。
「オビトくん、すごい……」
「なんか、ぴしってした」
「かっこよかった」
(なんだそれ)
内心でそう思う。
別に大したことはしていない。
ただ止めただけだ。
だが、その日を境に、妙な流れがさらに加速した。
特に女の子たちだ。
もともと、おままごとで旦那役、もといパパ役に固定されがちだった立場が、より強固になった。
休み時間。
「オビトくん、こっち!」
「パパ役やって!」
「今日は赤ちゃんのお迎え行って!」
(なんでだよ)
もはや選ばれるというより、当然のように席が用意されている。
座る場所まで決まっている。
しかも、以前より“頼られる”感じが増していた。
転んだ子がいれば「オビトくん呼んで!」となるし、誰かが泣きそうなら「オビトくん、どうにかして」と視線が飛んでくる。
そして、おままごとでは相変わらず。
「パパ、お仕事お疲れさま!」
「今日ね、みんなでご飯作ったの!」
「赤ちゃん泣いてるから抱っこして!」
(忙しいな!?)
以前より役割が増えている。
そして、なぜかみんなそれを疑わない。
強い。
頼れる。
優しい。
だからパパ。
という、謎理論が幼稚園児の中で成立しているらしかった。
(意味分からん……)
だが、嫌ではない。
というより、困っている子がいれば自然と手を貸すし、泣いていれば声もかける。その結果として中心に置かれるなら、まあそういうものかと最近は受け流していた。
「オビトくん、これ持って!」
「オビトくん、椅子取って!」
「オビトくん、ありがとう!」
(はいはい)
気づけば、そういう立ち位置になっている。
実感は薄い。
だが、事実として頼られている。
そして先生たちも、それを見ていた。
「オビトくんって、ほんと周り見てるわよね」
「小さい子にも優しいし、喧嘩しててもすっと止めに入るのよね」
「なんていうか、落ち着いてるのよねえ」
評価が上がっているらしかった。
子ども相手の場で、“評価”という言葉もどうかとは思うが、先生たちの目線が以前より少し柔らかく、少し頼もしげになっているのは何となく分かる。
「オビトくんいると助かるわ」
と、先生の一人に言われた時には、さすがにちょっとだけ変な気分になった。
幼稚園児だぞ、こっちは。
いや、中身は三十一だが。
外見は完全に子どもだ。
それなのに、“助かる”側に回ることがあるのかと、少しだけ不思議になる。
けれど実際、そうなっている。
変わらないものがある。
どれだけ世界が違っても。
どれだけ平和な場所へ来ても。
結局、手を差し伸べる性分は変わらない。
それが今は、命のやり取りじゃなくて、おもちゃの取り合いだったり、転んだ子の手を引くことだったり、泣きそうな子のそばに立つことへ変わっただけだ。
それならそれで、悪くない。
前より、ずっと。
帰り道。
綾乃に手を引かれながら、オビトは今日のことをぼんやり思い返していた。
喧嘩。
泣きそうな顔。
差し出した手。
そのあと、やたらと増えたパパ役。
(……なんなんだ、ほんと)
内心でため息をつく。
だが、口元は少しだけ緩んでいた。
綾乃がそれに気づいて、柔らかく笑う。
「今日は何かいいことあった?」
「……べつに」
そう言ってみる。
けれど、その声音はそんなに嫌そうではなかった。
綾乃はそれ以上追及せず、ただ手を引く力をほんの少しだけ優しくした。
秋の風が吹く。
空は高い。
虫の気配は、遠くに薄くあるだけだ。
平和だ。
騒がしくて、少し面倒で、でもちゃんと平和だ。
そしてたぶん、こういう場所でも。
オビトの根っこは、変わらない。
変わらないまま、この世界に馴染んでいく。
それは少しだけ、不思議で。
少しだけ、悪くなかった。
笑って、遊んで、食べて、帰る。
それが日常だ。
朝になれば子どもたちは元気に集まり、走り回り、先生の声が響き、気づけば昼になって、給食を食べて、また遊んで、少し眠くなって、それから帰る。
騒がしい。
だが、危険ではない。
少なくとも、大抵は。
その日も、始まりはいつも通りだった。
陽射しは柔らかく、園庭には子どもたちの声が満ちている。先生たちは笑顔で見守り、オビトはその喧騒の中で、ほどほどに自分の居場所を見つけていた。
完全に馴染んだとは言わない。
だが、もう“知らない場所”ではない。
わんこ組の空気も、先生の声も、誰がどういうふうに泣いて、誰がどういうふうに笑うかも、少しずつ分かってきていた。
そんな中で、喧嘩は起きた。
別に大げさなものじゃない。
子ども同士の、よくあるやつだ。
おもちゃの取り合い。
ほんの些細なこと。
先に使っていただの、自分も触りたかっただの、そういう小さなぶつかり合いが、幼稚園では時々火を噴く。
最初は言い合いだった。
次に、手が出た。
一人が押されて転ぶ。
地面に手をついて、顔が歪む。
泣く一歩手前の顔だ。
それを見た瞬間、オビトの身体が先に動いた。
考えるより前だった。
「やめろ」
低く出た声は、自分でも少し驚くくらい自然だった。
押した方の子どもが、びくっと肩を揺らす。
さらに詰め寄ろうとしていた足が、一瞬止まった。
その瞬間。
ほんのわずかに、呪力の圧が漏れた。
無意識だった。
ほんの一瞬、空気が張る。
目には見えない程度の、ごく薄い圧。
けれど、子どもには十分だったらしい。
喧嘩していた相手の顔が、ぱっと強張る。
周囲にいた子どもたちも、「え?」という顔で一瞬だけ静まった。
怖がらせるつもりはなかった。
だが、止める、という意志が、そのまま漏れたのだろう。
転んだ子の方へ、オビトは自然に手を差し出した。
「大丈夫か?」
泣きそうだった子が、目をぱちぱちとさせる。
それから、小さく頷いた。
オビトはその腕を取って、ゆっくり立たせる。
砂を払う。
膝も手のひらも、大きな怪我はない。少し擦った程度だ。なら問題ない。
その間に、後ろで誰かが声を上げた。
「先生呼んでくる!」
ぱたぱたと足音が遠ざかる。
先生が来るなら、ひとまず収まるだろう。
オビトは立ち上がった子の顔をもう一度見た。
泣きそうではある。
だが、ちゃんと立っている。
なら大丈夫だ。
昔から変わらないな、と、ほんの少しだけ思う。
放っておけない。
泣きそうなやつ。
困ってるやつ。
転んだまま、うまく立てないやつ。
そういうのを見ると、身体が勝手に前へ出る。
前世から、たぶんその前から、そこだけは何も変わっていないのかもしれない。
根っこにあるのは、ただの優しさだ。
理屈じゃない。
得か損かでもない。
放っておけないから、動く。
それだけだ。
先生が慌ててやってきて、事情を聞き、泣きかけの子を抱き上げ、押した子の方へもしゃがみ込んだ頃には、もう騒ぎは半分ほど収まっていた。
「オビトくん、止めてくれたの?」
先生が驚いたように聞く。
オビトは少しだけ肩をすくめるみたいに頷いた。
すると先生は、目を丸くして、それからふっと笑った。
「えらかったね」
周囲の子どもたちも、ざわざわと何か言っている。
「オビトくん、すごい……」
「なんか、ぴしってした」
「かっこよかった」
(なんだそれ)
内心でそう思う。
別に大したことはしていない。
ただ止めただけだ。
だが、その日を境に、妙な流れがさらに加速した。
特に女の子たちだ。
もともと、おままごとで旦那役、もといパパ役に固定されがちだった立場が、より強固になった。
休み時間。
「オビトくん、こっち!」
「パパ役やって!」
「今日は赤ちゃんのお迎え行って!」
(なんでだよ)
もはや選ばれるというより、当然のように席が用意されている。
座る場所まで決まっている。
しかも、以前より“頼られる”感じが増していた。
転んだ子がいれば「オビトくん呼んで!」となるし、誰かが泣きそうなら「オビトくん、どうにかして」と視線が飛んでくる。
そして、おままごとでは相変わらず。
「パパ、お仕事お疲れさま!」
「今日ね、みんなでご飯作ったの!」
「赤ちゃん泣いてるから抱っこして!」
(忙しいな!?)
以前より役割が増えている。
そして、なぜかみんなそれを疑わない。
強い。
頼れる。
優しい。
だからパパ。
という、謎理論が幼稚園児の中で成立しているらしかった。
(意味分からん……)
だが、嫌ではない。
というより、困っている子がいれば自然と手を貸すし、泣いていれば声もかける。その結果として中心に置かれるなら、まあそういうものかと最近は受け流していた。
「オビトくん、これ持って!」
「オビトくん、椅子取って!」
「オビトくん、ありがとう!」
(はいはい)
気づけば、そういう立ち位置になっている。
実感は薄い。
だが、事実として頼られている。
そして先生たちも、それを見ていた。
「オビトくんって、ほんと周り見てるわよね」
「小さい子にも優しいし、喧嘩しててもすっと止めに入るのよね」
「なんていうか、落ち着いてるのよねえ」
評価が上がっているらしかった。
子ども相手の場で、“評価”という言葉もどうかとは思うが、先生たちの目線が以前より少し柔らかく、少し頼もしげになっているのは何となく分かる。
「オビトくんいると助かるわ」
と、先生の一人に言われた時には、さすがにちょっとだけ変な気分になった。
幼稚園児だぞ、こっちは。
いや、中身は三十一だが。
外見は完全に子どもだ。
それなのに、“助かる”側に回ることがあるのかと、少しだけ不思議になる。
けれど実際、そうなっている。
変わらないものがある。
どれだけ世界が違っても。
どれだけ平和な場所へ来ても。
結局、手を差し伸べる性分は変わらない。
それが今は、命のやり取りじゃなくて、おもちゃの取り合いだったり、転んだ子の手を引くことだったり、泣きそうな子のそばに立つことへ変わっただけだ。
それならそれで、悪くない。
前より、ずっと。
帰り道。
綾乃に手を引かれながら、オビトは今日のことをぼんやり思い返していた。
喧嘩。
泣きそうな顔。
差し出した手。
そのあと、やたらと増えたパパ役。
(……なんなんだ、ほんと)
内心でため息をつく。
だが、口元は少しだけ緩んでいた。
綾乃がそれに気づいて、柔らかく笑う。
「今日は何かいいことあった?」
「……べつに」
そう言ってみる。
けれど、その声音はそんなに嫌そうではなかった。
綾乃はそれ以上追及せず、ただ手を引く力をほんの少しだけ優しくした。
秋の風が吹く。
空は高い。
虫の気配は、遠くに薄くあるだけだ。
平和だ。
騒がしくて、少し面倒で、でもちゃんと平和だ。
そしてたぶん、こういう場所でも。
オビトの根っこは、変わらない。
変わらないまま、この世界に馴染んでいく。
それは少しだけ、不思議で。
少しだけ、悪くなかった。
【〆栞】