幼稚園卒業
春の気配が近づく頃、幼稚園の卒業式を迎えた。
卒業。
それが何を意味するかくらいは、もう分かっている。
次の教育段階へ進むための区切りだ。今の場所を離れて、別の場所へ移る。そのための儀式みたいなものだろう、とオビトは理解していた。
本人としては、まあそんなものか、くらいの温度だった。
だが、宗一郎は朝から様子がおかしかった。
スーツ姿で、やたらときちんとしているのはいい。綾乃も少し改まった服を着ていて、今日は特別な日なのだと空気だけで分かる。問題は、宗一郎の手元だった。
ハンカチが複数枚ある。
一枚ではない。
明らかに予備まである。
(なんでだよ)
オビトは朝から内心で少し引いていた。
綾乃がその様子を見て、くすりと笑う。
「あなた、まだ始まってないわよ」
「分かってる」
宗一郎はそう言った。
言ったが、すでに目元が若干潤んでいた。
(早すぎるだろ)
本当に早い。
まだ家を出る前だぞ、と内心で突っ込む。卒業式というものが感慨深い行事だというのは分かるが、感情の立ち上がりが速すぎる。
そんな父を横目に、オビトは大人しく身支度を整えられた。
慣れた制服。
少しだけよそ行きの空気。
綾乃の手つきも今日はいつもより丁寧だ。
園に着くと、雰囲気が普段と違っていた。
卒業式の看板。
花。
整列した椅子。
先生たちの少し改まった空気。
子どもたちもどこか落ち着かず、けれど浮き立っているような、不思議な顔をしている。騒がしさはいつも通りなのに、その上から“今日は特別”という空気が薄くかかっていた。
オビトは、その光景を見ながら、この数年を少しだけ思い返した。
お遊戯。
歌。
おままごと。
給食。
運動会。
喧嘩を止めたこと。
騒がしくて、よく分からなくて、でも平和だった場所。
最初は、ただ未知の集団生活だと思っていた。黄色い帽子が嫌で、お遊戯が地獄で、おままごとの“パパ役”には最後まで納得しきれなかった。
けれど、気づけばそれも“いつものこと”になっていた。
子どもたちの笑い声も、先生の明るい声も、昼の給食の匂いも、全部まとめて幼稚園だった。
式が始まる。
子どもたちは順番に呼ばれ、前へ出ていく。
園長の話は長い。
少し長いどころではない。
四歳児五歳児相手にそこまで話すのか、と前世の大人の感覚で思わなくもなかったが、周囲の子どもたちはそれなりに大人しくしている。偉いものだ。いや、たまに少し動いているやつもいるが、それでも全体としては立派なものだと思う。
やがて、名前が呼ばれた。
「裏葉オビトくん」
「はい」
前に出る。
卒業証書を受け取る。
手の中に収まったそれは、紙でできているはずなのに妙に重みがあった。別に術式が込められているわけでも何でもない。だが、こういうのは中身より意味が重いのだろう。
その時点で。
宗一郎が泣いた。
(早い)
オビトは内心で即座に突っ込んだ。
まだ山場じゃないだろ。
卒業証書を受け取っただけだぞ。
なのに保護者席の方から、もう駄目そうな空気が伝わってくる。綾乃もさすがに目元を潤ませてはいたが、宗一郎ほどではない。あちらはもう完全に感情が前に出ていた。
先生の言葉も続く。
「裏葉くんは、とても優しくて、みんなに頼られる子でした」
優しい。
頼られる。
それはもう、この幼稚園で何度も言われたことだった。
喧嘩を止めて。
泣きそうな子に手を貸して。
何となくパパ役にされて。
気づけば、そういう立ち位置になっていた。
先生の声は柔らかい。
けれど、その内容は妙に自分の中へすっと入ってきた。
自覚がないわけじゃない。
放っておけないから動いていただけだ。
それでも、それをこうして“優しい”と受け取られる場所にいたのは、たぶん初めてに近かった。
そして式のあと。
女の子たちが、わらわらと寄ってきた。
「オビトくん」
「卒業おめでとう!」
「パパ役ありがとう!」
(いや、そこなのかよ)
最後まで納得していない。
感謝される筋合いがあるのかも分からない。
だが、みんな本気で言っている顔だった。
「いつもお仕事お疲れさまでした!」
「ハンバーグ食べてくれてありがとう!」
「赤ちゃん抱っこしてくれてありがとう!」
(細かいな!?)
妙に具体的な感謝が飛んでくる。
本当にリアルな家庭劇をやっていたんだな、と今さらのように思う。いや、知ってはいたが。やはり最後まで少しだけ釈然としなかった。
集合写真もあった。
先生たち。
子どもたち。
保護者たち。
並んで、笑って、撮る。
その直前まで宗一郎が泣き顔のまま写ろうとしていたので、オビトは少しだけ嫌な顔をした。
(やめろ、残るだろそれ)
綾乃が小声で「ほら、ちゃんとして」と促し、宗一郎が慌てて顔を整える。その一連の流れまで含めて、何だかもうこの家らしいなとオビトは思った。
卒業式が終わったあと、園庭で先生や友達と別れの挨拶をする。
「小学校でも元気でね」
「オビトくん、またね!」
「たまには遊ぼうね」
いろんな声が飛んでくる。
オビトも、それに一つ一つ頷いたり、小さく返したりした。
その時になってようやく、自分の中に少しだけ寂しさがあることに気づいた。
大きくはない。
どうしようもなく苦しいわけでもない。
けれど、確かにある。
この場所に、ちゃんと馴染んでいたのだと、そこで分かった。
騒がしくて。
よく分からなくて。
でも、平和だった。
そんな時間を、ここで覚えたのだ。
それは悪いものじゃない。
むしろ、きっと大事なものだった。
帰り道。
案の定、宗一郎はまた泣いた。
「いやー……大きくなったなあ……」
「泣きすぎだろ」
オビトが半分呆れた声で言うと、宗一郎は「しょうがないだろ!」と真剣に返してくる。いや、本当にしょうがないと思っているのが困る。
綾乃はそんな二人を見て笑いながら、オビトの頭を撫でた。
「次は小学校ね」
次。
その言葉に、オビトは少しだけ前を見た。
新しい日常が始まる。
幼稚園が終わっても、そこで全部が終わるわけじゃない。この世界は相変わらず広くて、知らないことだらけで、たぶんこれからもまた色々あるのだろう。
それでも。
まあ、なんとかなる。
そう思えたのは、きっとこの数年が悪くなかったからだ。
春の風はまだ少し冷たくて、でも冬ほどではない。
終わりと始まりの間みたいな空気の中で、オビトは小さく息を吐いた。
次は小学校。
また、少しずつ世界が広がっていく。
卒業。
それが何を意味するかくらいは、もう分かっている。
次の教育段階へ進むための区切りだ。今の場所を離れて、別の場所へ移る。そのための儀式みたいなものだろう、とオビトは理解していた。
本人としては、まあそんなものか、くらいの温度だった。
だが、宗一郎は朝から様子がおかしかった。
スーツ姿で、やたらときちんとしているのはいい。綾乃も少し改まった服を着ていて、今日は特別な日なのだと空気だけで分かる。問題は、宗一郎の手元だった。
ハンカチが複数枚ある。
一枚ではない。
明らかに予備まである。
(なんでだよ)
オビトは朝から内心で少し引いていた。
綾乃がその様子を見て、くすりと笑う。
「あなた、まだ始まってないわよ」
「分かってる」
宗一郎はそう言った。
言ったが、すでに目元が若干潤んでいた。
(早すぎるだろ)
本当に早い。
まだ家を出る前だぞ、と内心で突っ込む。卒業式というものが感慨深い行事だというのは分かるが、感情の立ち上がりが速すぎる。
そんな父を横目に、オビトは大人しく身支度を整えられた。
慣れた制服。
少しだけよそ行きの空気。
綾乃の手つきも今日はいつもより丁寧だ。
園に着くと、雰囲気が普段と違っていた。
卒業式の看板。
花。
整列した椅子。
先生たちの少し改まった空気。
子どもたちもどこか落ち着かず、けれど浮き立っているような、不思議な顔をしている。騒がしさはいつも通りなのに、その上から“今日は特別”という空気が薄くかかっていた。
オビトは、その光景を見ながら、この数年を少しだけ思い返した。
お遊戯。
歌。
おままごと。
給食。
運動会。
喧嘩を止めたこと。
騒がしくて、よく分からなくて、でも平和だった場所。
最初は、ただ未知の集団生活だと思っていた。黄色い帽子が嫌で、お遊戯が地獄で、おままごとの“パパ役”には最後まで納得しきれなかった。
けれど、気づけばそれも“いつものこと”になっていた。
子どもたちの笑い声も、先生の明るい声も、昼の給食の匂いも、全部まとめて幼稚園だった。
式が始まる。
子どもたちは順番に呼ばれ、前へ出ていく。
園長の話は長い。
少し長いどころではない。
四歳児五歳児相手にそこまで話すのか、と前世の大人の感覚で思わなくもなかったが、周囲の子どもたちはそれなりに大人しくしている。偉いものだ。いや、たまに少し動いているやつもいるが、それでも全体としては立派なものだと思う。
やがて、名前が呼ばれた。
「裏葉オビトくん」
「はい」
前に出る。
卒業証書を受け取る。
手の中に収まったそれは、紙でできているはずなのに妙に重みがあった。別に術式が込められているわけでも何でもない。だが、こういうのは中身より意味が重いのだろう。
その時点で。
宗一郎が泣いた。
(早い)
オビトは内心で即座に突っ込んだ。
まだ山場じゃないだろ。
卒業証書を受け取っただけだぞ。
なのに保護者席の方から、もう駄目そうな空気が伝わってくる。綾乃もさすがに目元を潤ませてはいたが、宗一郎ほどではない。あちらはもう完全に感情が前に出ていた。
先生の言葉も続く。
「裏葉くんは、とても優しくて、みんなに頼られる子でした」
優しい。
頼られる。
それはもう、この幼稚園で何度も言われたことだった。
喧嘩を止めて。
泣きそうな子に手を貸して。
何となくパパ役にされて。
気づけば、そういう立ち位置になっていた。
先生の声は柔らかい。
けれど、その内容は妙に自分の中へすっと入ってきた。
自覚がないわけじゃない。
放っておけないから動いていただけだ。
それでも、それをこうして“優しい”と受け取られる場所にいたのは、たぶん初めてに近かった。
そして式のあと。
女の子たちが、わらわらと寄ってきた。
「オビトくん」
「卒業おめでとう!」
「パパ役ありがとう!」
(いや、そこなのかよ)
最後まで納得していない。
感謝される筋合いがあるのかも分からない。
だが、みんな本気で言っている顔だった。
「いつもお仕事お疲れさまでした!」
「ハンバーグ食べてくれてありがとう!」
「赤ちゃん抱っこしてくれてありがとう!」
(細かいな!?)
妙に具体的な感謝が飛んでくる。
本当にリアルな家庭劇をやっていたんだな、と今さらのように思う。いや、知ってはいたが。やはり最後まで少しだけ釈然としなかった。
集合写真もあった。
先生たち。
子どもたち。
保護者たち。
並んで、笑って、撮る。
その直前まで宗一郎が泣き顔のまま写ろうとしていたので、オビトは少しだけ嫌な顔をした。
(やめろ、残るだろそれ)
綾乃が小声で「ほら、ちゃんとして」と促し、宗一郎が慌てて顔を整える。その一連の流れまで含めて、何だかもうこの家らしいなとオビトは思った。
卒業式が終わったあと、園庭で先生や友達と別れの挨拶をする。
「小学校でも元気でね」
「オビトくん、またね!」
「たまには遊ぼうね」
いろんな声が飛んでくる。
オビトも、それに一つ一つ頷いたり、小さく返したりした。
その時になってようやく、自分の中に少しだけ寂しさがあることに気づいた。
大きくはない。
どうしようもなく苦しいわけでもない。
けれど、確かにある。
この場所に、ちゃんと馴染んでいたのだと、そこで分かった。
騒がしくて。
よく分からなくて。
でも、平和だった。
そんな時間を、ここで覚えたのだ。
それは悪いものじゃない。
むしろ、きっと大事なものだった。
帰り道。
案の定、宗一郎はまた泣いた。
「いやー……大きくなったなあ……」
「泣きすぎだろ」
オビトが半分呆れた声で言うと、宗一郎は「しょうがないだろ!」と真剣に返してくる。いや、本当にしょうがないと思っているのが困る。
綾乃はそんな二人を見て笑いながら、オビトの頭を撫でた。
「次は小学校ね」
次。
その言葉に、オビトは少しだけ前を見た。
新しい日常が始まる。
幼稚園が終わっても、そこで全部が終わるわけじゃない。この世界は相変わらず広くて、知らないことだらけで、たぶんこれからもまた色々あるのだろう。
それでも。
まあ、なんとかなる。
そう思えたのは、きっとこの数年が悪くなかったからだ。
春の風はまだ少し冷たくて、でも冬ほどではない。
終わりと始まりの間みたいな空気の中で、オビトは小さく息を吐いた。
次は小学校。
また、少しずつ世界が広がっていく。
【〆栞】