小学校は虫だらけ

小学校生活が始まった。

幼稚園とは違い、校舎は広い。

人も多い。

教室、廊下、階段、校庭、体育館。

どこを見ても、幼稚園より規模が大きい。移動するだけでも少し距離があるし、人の流れも多い。朝の昇降口だけで軽くひとつの戦場みたいな密度がある、とオビトは思った。もちろん、戦いはない。ないのだが、人が多いというだけで空気の圧は変わる。

オビトは小学校を、幼稚園より少しアカデミーに近い場所だと感じていた。

だが、ここも戦う場所ではない。

授業を受ける。

遊ぶ。

給食を食べる。

帰る。

基本的には、それだけだ。

つまり、平和である。

ただし――虫が多い。

黒い靄。

オビトが“虫”と呼んでいるもの。

校舎の隅。

廊下の影。

教室の天井。

水道場の近く。

階段の踊り場。

至るところにいる。

幼稚園にもいた。

だが、小学校は比ではなかった。

人が多いぶん、淀みも多い。

小さな不満、疲れ、焦り、怒り、泣きたい気持ち、面倒くささ。そういうものが薄く積もって、虫を寄せるらしい。仕組みは未だによく分からないが、結果として数が増えることだけは、もう嫌というほど理解していた。

(多すぎだろ)

率直な感想だった。

気持ち悪い。

鬱陶しい。

しかも場所が場所だ。授業中でも廊下でも平然といる。いるだけならまだしも、群れていることまである。

だが、やることは変わらない。

見つけたら潰す。

それだけだ。

教室に入り、席に座った。

ふいに周囲の視線が集まる。

幼稚園の時と同じように、また見られている気がした。

女の子たちが興味津々で話しかけてくる。

「ねえねえ、名前なんていうの?」

「どこから来たの?」

オビトは短く答えた。

「裏葉オビト」

するとすぐに、

「かっこいい名前!」

と返ってくる。

(そうか?)

よく分からない。

だが別に悪い響きでもないので、そのまま流す。

男の子たちもすぐに話しかけてきた。

「さっき走ってたの見たけど、速くね?」

「スポーツ得意なの?」

オビトは少しだけ考えてから、

「普通」

と返した。

すると即座に笑われる。

「絶対嘘だろ!」

距離が近い。

思ったよりずっと近い。

だが悪意はない。

探るような嫌な感じもない。ただ単純に興味を持って話しかけてきているだけだ。

人付き合いは面倒ではない。

むしろ、悪くない。

問題は、虫だ。

視界の端で黒い靄が揺れる。

一匹。

二匹。

もっといる。

(ここは溜まり場か何かか)

本気でそう思った。

放っておくと増えそうだと判断する。

潰したい。

だが学校で血を使うのはまずい。

赤い血の針を飛ばせば目立つし、下手をすれば騒ぎになる。家や夜道ならともかく、教室のど真ん中でそんなことはできない。

ここでは別の手段が必要だ、と考えた。

その時、小さな水音を拾う。

ぴちょん。

水道の方から聞こえた音だった。

それがやけに鮮明に感じられる。

どくん、と体の奥で鼓動が強く鳴った。

血とは違う感覚だった。

流れ。

循環。

広がるもの。

オビトはそれを“水”として感じ取った。

廊下の先の水道。

蛇口の中を流れる水。

教室の隅に置かれた、少し湿った雑巾。

外の地面に残る湿り気。

空気中に薄くある水分。

全部が点ではなく、流れとして感覚に引っかかった。

意識していないのに、位置と動きが分かる。

未知の感覚に戸惑う。

だが、扱えるという直感があった。

試しに意識を向けると、水がかすかに応じる。

(……お)

ほんのわずかだ。

だが確かに、手応えがある。

オビトは視線を虫へ向けた。

黒い靄へ、ごく微細な水を弾く。

目に見えないほど小さく、速く、静かな動き。

ぱちん、と小さな音。

ぼん、と虫が消える。

成功した。

血を使っていない。

目立たない。

痕跡もほとんどない。

(便利だな、これ)

率直にそう思う。

学校には水がいくらでもある。

水道。

雑巾。

湿気。

手洗い場。

血よりもずっと扱いやすい。

新しい手段を見つけた。

それだけで十分だった。

一匹。

また一匹。

オビトは誰にも気づかれないように虫を祓っていく。

教室の空気が、少しずつ澄んでいく。

ふいに誰かが呟いた。

「あれ? なんか教室スッキリしてない?」

オビトは内心で返す。

(気のせいだろ)

もちろん表情には出さない。

何もしていない顔で、普通に同級生の話を聞く。

「オビトくん、聞いてる?」

女の子に声をかけられ、意識を現実へ戻す。

「聞いてる」

「ほんとー?」

笑われる。

会話。

笑い声。

日常。

その裏で、見えない掃除が続いている。

小学校という新しい環境で、オビトはまたひとつ力の扱い方を覚えた。

水による虫祓い。

それは血よりも目立たず、学校生活に向いていた。

季節は巡る。

春が来て。

夏が過ぎ。

秋が深まり。

冬が訪れる。

それを、三度。

一年生から三年生までの時間が流れていく。

オビトは小学生としての日常を、淡々と過ごしていた。

朝起きる。

学校へ行く。

授業を受ける。

遊ぶ。

帰る。

そして――虫を潰す。

それが当たり前になっていく。

三年も経てば、血と水の扱いにも慣れる。

以前のような暴発ではなく、ある程度の意思を持って制御できるようになっていた。

血は精度が高い。

威力もある。

だが目立つ。

水は周囲にあるものを利用できて、痕跡も少ない。

日常の虫祓いには、水が向いている。

血は切り札。

水は普段使い。

オビトは自然とそう判断するようになった。

その結果、学校周辺は少しずつ変わっていく。

教室の空気が軽い。

廊下の淀みが少ない。

校庭の隅にいた虫が寄りつかなくなる。

家の周囲も。

学校も。

通学路も。

妙に澄んでいる。

完全ではない。

だが、虫はほとんど近づかない。

オビト本人にとっては、「楽でいい」程度の話だった。

だが、その異常は確実に広がっていた。

その頃、呪術界の裏側では、古い報告が再び掘り返されていた。

記録は、数年前の住宅地調査に遡る。

ある一帯で、呪いが異様に薄いという報告が上がっていた。

原因は不明。

結界でもない。

呪具でもない。

明確な術式痕跡もない。

調査員は一軒の家に辿り着きかけたが、決定的な報告にはしなかった。

その後、その住宅地の異常はいつしか目立たなくなった。

だが数年後、別の場所で似た現象が確認される。

仙台郊外の住宅地。

さらに、その近くの小学校と通学路。

人が集まる場所のはずなのに、呪いが薄い。

淀みが溜まりやすい学校でさえ、妙に空気が澄んでいる。

しかも一時的ではなく、継続している。

最初は別件として扱われた。

だが、過去の報告を知る者が気づく。

以前の住宅地の件と似ている。

場所は違う。

だが、現象の質が似ている。

結界痕跡なし。

呪具反応なし。

術式残滓もほとんどない。

ただ呪いだけが消えていくような異常。

調査は、場所ではなく“移動した原因”を探る方向へ変わった。

以前の住宅地から仙台郊外へ移った家族。

その中に、呪術界から距離を置いた二人の名が浮かぶ。

禪院宗一郎。

加茂綾乃。

そして、二人の間に生まれた子。

以前の住宅地から異常が消えたこと。

仙台郊外で同質の異常が現れたこと。

小学校周辺まで澄み始めていること。

それらの報告が、裏葉家の移動と生活圏に重なっていく。

禪院家は、その名に反応した。

宗一郎。

家を捨てた男。

禪院の血を外へ持ち出した男。

その生活圏で、原因不明の異常が続いている。

しかも子がいるらしい。

禪院側は苛立つ。

「探せ」

「今度こそ、見失うな」

命令は短い。

だが、強い圧を含んでいた。

加茂家もまた、静かに動き始める。

綾乃。

生得術式こそ持たなかったが、呪力操作に優れた女。

加茂の血を引きながら家を離れた女。

その子がいるなら、血は続いている。

もし噂の中心がその子であるなら、無視できない。

「所在を確かめろ」

「子の情報もだ」

言葉は淡々としていた。

だが、その奥には確かな執着があった。

一方、五条悟は、以前仙台郊外で感じた妙な澄み方をまだ覚えていた。

任務帰りに通った住宅地。

結界でも、呪具でも、術式でもない、妙に澄みすぎた空気。

その中で、一軒だけ妙に引っかかった家があった。

だが、表札を確認したわけではない。

誰が住んでいるかも知らない。

あの時は疲れていて、腹も減っていて、深追いしなかった。

後に、仙台郊外から小学校周辺へ同質の異常が広がっている話を耳にする。

「あー、あれまだ続いてるんだ」

その程度には思う。

興味はある。

だが原因は不明だ。

人なのか。

場所なのか。

呪具なのか。

術式なのか。

何も確証がない。

五条はまだ動かない。

「そのうち分かるでしょ」

と、保留する。

今の五条には、別に見ているものがあった。

伏黒恵。

伏黒甚爾の息子。

過去の因縁が、今に繋がっている。

五条は後見人のような立場にいた。

無口で、無愛想で、まだ子どもなくせに妙に乾いた目をしている少年。

「めんどくさ……」

と五条は思いながらも、放り出す気はない。

ただの気まぐれではなかった。

五条は五条なりに、先を見ている。

だから仙台の異常も、今はまだ保留だった。

一方、仙台郊外。

裏葉家は相変わらず平和だった。

「オビトー、ご飯よー」

綾乃の声がする。

「今日もいっぱい食べろよ!」

と宗一郎が続く。

食事。

会話。

笑い。

穏やかな日常。

オビトはテーブルにつきながら、外が静かだと思った。

虫はいない。

気配もない。

完全に落ち着いている。

問題がないなら、それでいい。

この世界の裏で誰が何を探しているかも知らない。

禪院が動き始めていることも。

加茂が静かに手を伸ばし始めていることも。

五条悟が、あの住宅地の違和感をまだ覚えていることも。

知る必要はない。

今はただ、この日常を過ごすだけだ。

それで十分だった。

だが、静かな日常の外側では、少しずつ包囲網が狭まり始めている。

オビトが小学校で虫を潰し続けるほど、周囲の異常は濃くなる。

裏葉家が隠してきたものは、いずれ誰かの目に留まる。

平和な一年生から三年生の日々は続く。

その先に待つ接触を、まだ誰も知らない。


〆栞
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