裏葉暴発風呂事件
第三話「裏葉暴発風呂事件」
第四次忍界大戦で世界を滅ぼしかけた男は現在――柔らかい感触を享受しながら乳を飲んでいた。
「……」
無だ。
完全に無の境地である。
考えたら駄目なやつだった。
感じろ、でも違う。いや、感じるのも駄目だ。そこに意識を向けた瞬間、三十一年分の羞恥心と理性がまとめて爆発する。何も考えるな。ただ本能に身を委ねろ。赤ん坊として生きろ。今の自分はそういう生き物だと、無理やり飲み込め。
でないと精神が持たない。
三十一年分の記憶を持ったまま、この行為に向き合うのは普通に無理だった。
だが人間というのは適応する生き物らしい。
生後三ヶ月も経てば、こうなる。
無。
徹底して無。
綾乃の腕に抱かれ、柔らかい体温に包まれ、背を支えられながら、オビトはひたすら無心で飲んでいた。
何も考えない。
今ここにあるのは栄養補給だ。
生存のための行為だ。
そう自分に言い聞かせながら、赤ん坊の身体が求めるままに飲む。綾乃は相変わらず愛情たっぷりで、オビトが苦しそうでないか、ちゃんと飲めているか、顔を覗き込みながら優しく背を撫でてくる。
しっかり飲んだ。
満足はしている。
しているのだが、居た堪れないことに変わりはない。
飲み終えたあともそのまま抱きかかえられ、ゆらゆらと揺らされる。
これがまた、悔しいくらい心地いい。
認めたくない。
認めたくないが、眠気を誘うには十分すぎる揺れだった。一定のリズムで、優しく、急かさず、ただ落ち着かせるように揺れている。忍として生きていた頃には、こんなふうに全身の力を抜いて身を預ける時間なんてほとんどなかった。
「今日はたくさん飲めたわねぇ」
綾乃が嬉しそうに笑う。
「偉いぞ、オビト」
宗一郎まで横から覗き込んできた。
お前は毎回何をもってそんなに誇らしげなんだ。
内心で突っ込むが、宗一郎の顔は本当に幸せそうだった。仕事から帰るたびに顔を見に来て、起きていれば喜び、寝ていても喜ぶ。何をしても可愛いと言うし、何もしなくても天才かもしれんと言い出す。親バカが重症すぎる。
「やっぱり、この名前似合ってるなあ」
宗一郎がしみじみと呟いた。
綾乃も、オビトの頭を撫でながら頷く。
「うん。オビトにぴったり」
その言葉に、オビトは薄く目を開けた。
名前の話は何度か聞いている。
“裏葉”と書いて“うちは”。
普通は読めない。
どう考えても、一発で正解に辿り着ける字面じゃない。だが宗一郎と綾乃にとっては、それが二人で決めた特別な名前だった。
「最初はさ、絶対読まれないよなって思ったけど」
「でも、どうしてもこれがよかったのよね」
「うん。裏葉オビト」
宗一郎が、ちょっと照れくさそうに、でも嬉しそうに繰り返す。
「俺たちの子に、すげえ似合ってる」
うちはオビト。
前世と同じ名前。
同じ読み。
でも、全く別の世界。
不思議と言うか、奇妙と言うか、上手く言葉にできない感覚だった。別人ではない。けれど同じ人間でもない。前世の罪も後悔も記憶も抱えたまま、こうしてまったく別の家で、別の親の子として呼ばれている。
その名を優しい声で呼ばれるたび、胸の奥のどこかが静かに揺れた。
「今日、お風呂どうする?」
綾乃が宗一郎に尋ねる。
「もちろん入る。今日は俺が洗う係やる」
「じゃあ私は支える方ね」
何だその役割分担。
とは思ったが、この夫婦は割と本気でそういう連携を取る。愛情が突き抜けている上に、妙なところで息が合っていた。
そして何もない時間というのは、長くは続かない。
風呂場へ連れて行かれた時だった。
湯気が立ちこめる、小さくて明るい空間。家の中でもだいぶ不思議な場所だと思う。湯が豊富に使えるだけでも前世の感覚からすれば贅沢なのに、この家ではほぼ毎日のように温かい湯へ浸かるらしい。しかも室内だ。空調といい給湯といい、この世界の生活基盤はどうなってるんだと毎回思う。
「ほら、オビトー。気持ちいいぞー」
宗一郎がにこにこしながら言う。
気持ちいいかどうかで言えば、まあ気持ちいい。
悔しいが、温かい湯というのは赤ん坊の身体にも快いらしい。綾乃に支えられながらそっと湯へ入れられると、じんわり体が緩む感覚がある。
その時だった。
背筋を撫でるような違和感が走った。
また出た。
黒い靄だ。
しかも、増えている気がした。
最近、頻繁に見る。
窓の外。廊下の隅。天井。影の奥。
人の形をしているものもあれば、ただの塊みたいなものもある。どれも形はばらばらだ。だが共通しているものがある。
気持ち悪い。
それだけだ。
不快で、鬱陶しくて、視界に入るだけで嫌な感じがする。
あれだ、とオビトは思った。
忍の頃、森で野宿していると顔にまとわりついてきた虫。
耳元で羽音を立てて、人が眠ろうとした瞬間に限って飛んでくる、あの最悪なやつ。
結論、これは虫だ。
黒い靄の虫。
本当の正体は分からない。分からないが、そう思うことにした方が気が楽だった。得体の知れない怪異として捉えるより、鬱陶しい害虫だと思った方がまだ処理しやすい。
風呂場の天井に、一匹いた。
人型に近い。
腕が長い。
だらりと垂れている。
顔がないくせに、目みたいなものが変なところに付いていた。位置がおかしい。顔面の中央じゃない。肩口に近い辺りに、濁った穴みたいなものが並んでいる。
しかもでかい。
でかくて気持ち悪い。
よし、潰そう。
判断は早かった。
どくん、と体の奥が脈打つ。
あの時と同じ感覚だ。
血が熱を帯びて巡る。鼓動に合わせて、流れが変わる。以前はただ驚くばかりだったが、今は少しだけ慣れつつあった。自分の中の何かが、ああいう黒いものに反応するのだと分かっている。
意思に応じて流れが変わる。
どこへ集めればいいか、何となく分かる。
躊躇はなかった。
むしろ、早く片付けたかった。
指先に意識を集中させる。
すると熱が集まり、小さな指の先に、赤い粒がふわりと浮いた。血だ。自分の血。その赤が細く、鋭く、形を変えていく。
針。
今度は、より自然だった。
ぷすっ、と。
ほとんど音もなく、それは天井の黒い虫へ突き刺さった。
ぼん、と靄が弾ける。
本当に、それだけだった。
悲鳴も抵抗もない。弾けた黒はそのまま溶けるように消え、何も残さない。
あっさりと、拍子抜けするほど簡単に、虫退治は完了した。
満足感があった。
鬱陶しいものを潰した、という単純な達成感だ。
それがダメだった。
多分、気が緩んだ。
あるいは、術の制御とやらがまだ全然できていないせいだ。
次の瞬間。
ボフンッ!
「!?」
ザパーン!
風呂桶の一帯が真っ赤に染まった。
完全にアウトだった。
湯の中へ、ばしゃっと大量の赤が広がる。透明だった湯がみるみる赤く染まっていく。自分の周囲だけじゃない。桶の縁も、綾乃の腕も、宗一郎の手元も、全部まとめて飛沫が散っていた。
絵面としては最悪である。
赤ん坊が大量出血している図の完成だ。
完全にホラーだった。
下手をすれば通報されるどころか悲鳴と共に大騒ぎだろこれ!?
オビトの思考は一瞬で真っ白になった。
どうする!?
いや、どうもできない!
赤ん坊だから!!
身動きもろくに取れない。説明もできない。弁解もできない。見た目だけなら完全に事件現場だ。しかも自分自身もびしゃっと赤を浴びているせいで、余計に悲惨さが増している。
パニックになる。
どうする!?
だからどうにもできない!!
数秒の沈黙が落ちた。
やばい。
終わった。
そう思った、その時。
綾乃が、ぽつりと呟いた。
「……綺麗」
オビトの思考が止まった。
は?
宗一郎が目を見開く。
だがそれは恐怖や動揺ではなかった。
むしろきらきらしていた。
「すごい! 芸術的だな!」
何で?
何でそうなる!?
あまりにも斜め上すぎる反応に、逆にオビトが戦慄した。
綾乃は頬に飛んだ赤を指先で拭い、それを見て少し感心したように息をつく。
「お湯の中でふわっと広がって……絵の具みたい」
「なあ綾乃、写真……はさすがに駄目か?」
「先に洗ってあげなさい」
「そうだった!」
いやそこじゃないだろ!!
もっとこう、心配とかあるだろ!? 赤ん坊が風呂場で真っ赤になってるんだぞ!?
だが二人の反応は、最後まで一貫していた。
慌てない。
騒がない。
怯えない。
我が子が何かよく分からない現象で全身真っ赤になっているのに、まず出てくる感想が“綺麗”と“芸術的”である。
最大の脅威は、どうやら黒い靄ではなかった。
溺愛が突き抜けた親バカフィルターである。
オビトは、湯の中でぽかんとした。
もしかすると、この家で一番恐ろしいのはこの二人なのではないか。
そんな疑念が、赤く染まった風呂桶の中で静かに芽生える。
その間にも、綾乃は「目に入ってない? 大丈夫そうね」と穏やかに確認し、宗一郎は「天才かもしれん……いや芸術家か?」などと訳の分からないことを真顔で言っていた。
違う。
多分そういう話ではない。
けれど、この二人にとっては、まず先に“オビトが無事であること”が確定しているのだろう。だからこそ、恐怖より先に感想が出る。異常より先に愛情が勝つ。
それが分かってしまったせいで、余計に調子が狂う。
普通なら絶対に騒ぎになる場面だ。
なのにこの夫婦は、我が子が引き起こした得体の知れない現象すら、まるごと受け止めてしまう。
頭がおかしい。
いや、愛が重い。
そして重すぎる愛は時に怪異より怖い。
赤く染まった湯の中で、オビトは無言のまま天井を見上げた。
さっきまでいた黒い虫は、もう消えている。
代わりに残っているのは、親バカ全開の夫婦と、真っ赤な風呂桶と、説明不能な自分の力だけだった。
文明の進んだ平和な世界で、まさか風呂場がこんな惨状になるとは思わなかった。
本当に、何がどうなるか分からない世界だ。
そしてたぶん、自分自身もその“分からないもの”の一部になりつつある。
それだけは、嫌でも分かった。
湯気の向こうで、綾乃が優しく笑う。
「びっくりしたけど、大丈夫ね」
宗一郎も大きく頷いた。
「うん、大丈夫だ。オビトはすごいなあ」
いや、すごいで済ませるな。
そう思うのに、結局声にはならない。
赤ん坊の喉から出たのは、ふにゃ、と情けない音だけだった。
その瞬間、綾乃と宗一郎が同時に「可愛い」と言った。
もう駄目だ。
この家、色々と強すぎる。
第四次忍界大戦で世界を滅ぼしかけた男は現在――柔らかい感触を享受しながら乳を飲んでいた。
「……」
無だ。
完全に無の境地である。
考えたら駄目なやつだった。
感じろ、でも違う。いや、感じるのも駄目だ。そこに意識を向けた瞬間、三十一年分の羞恥心と理性がまとめて爆発する。何も考えるな。ただ本能に身を委ねろ。赤ん坊として生きろ。今の自分はそういう生き物だと、無理やり飲み込め。
でないと精神が持たない。
三十一年分の記憶を持ったまま、この行為に向き合うのは普通に無理だった。
だが人間というのは適応する生き物らしい。
生後三ヶ月も経てば、こうなる。
無。
徹底して無。
綾乃の腕に抱かれ、柔らかい体温に包まれ、背を支えられながら、オビトはひたすら無心で飲んでいた。
何も考えない。
今ここにあるのは栄養補給だ。
生存のための行為だ。
そう自分に言い聞かせながら、赤ん坊の身体が求めるままに飲む。綾乃は相変わらず愛情たっぷりで、オビトが苦しそうでないか、ちゃんと飲めているか、顔を覗き込みながら優しく背を撫でてくる。
しっかり飲んだ。
満足はしている。
しているのだが、居た堪れないことに変わりはない。
飲み終えたあともそのまま抱きかかえられ、ゆらゆらと揺らされる。
これがまた、悔しいくらい心地いい。
認めたくない。
認めたくないが、眠気を誘うには十分すぎる揺れだった。一定のリズムで、優しく、急かさず、ただ落ち着かせるように揺れている。忍として生きていた頃には、こんなふうに全身の力を抜いて身を預ける時間なんてほとんどなかった。
「今日はたくさん飲めたわねぇ」
綾乃が嬉しそうに笑う。
「偉いぞ、オビト」
宗一郎まで横から覗き込んできた。
お前は毎回何をもってそんなに誇らしげなんだ。
内心で突っ込むが、宗一郎の顔は本当に幸せそうだった。仕事から帰るたびに顔を見に来て、起きていれば喜び、寝ていても喜ぶ。何をしても可愛いと言うし、何もしなくても天才かもしれんと言い出す。親バカが重症すぎる。
「やっぱり、この名前似合ってるなあ」
宗一郎がしみじみと呟いた。
綾乃も、オビトの頭を撫でながら頷く。
「うん。オビトにぴったり」
その言葉に、オビトは薄く目を開けた。
名前の話は何度か聞いている。
“裏葉”と書いて“うちは”。
普通は読めない。
どう考えても、一発で正解に辿り着ける字面じゃない。だが宗一郎と綾乃にとっては、それが二人で決めた特別な名前だった。
「最初はさ、絶対読まれないよなって思ったけど」
「でも、どうしてもこれがよかったのよね」
「うん。裏葉オビト」
宗一郎が、ちょっと照れくさそうに、でも嬉しそうに繰り返す。
「俺たちの子に、すげえ似合ってる」
うちはオビト。
前世と同じ名前。
同じ読み。
でも、全く別の世界。
不思議と言うか、奇妙と言うか、上手く言葉にできない感覚だった。別人ではない。けれど同じ人間でもない。前世の罪も後悔も記憶も抱えたまま、こうしてまったく別の家で、別の親の子として呼ばれている。
その名を優しい声で呼ばれるたび、胸の奥のどこかが静かに揺れた。
「今日、お風呂どうする?」
綾乃が宗一郎に尋ねる。
「もちろん入る。今日は俺が洗う係やる」
「じゃあ私は支える方ね」
何だその役割分担。
とは思ったが、この夫婦は割と本気でそういう連携を取る。愛情が突き抜けている上に、妙なところで息が合っていた。
そして何もない時間というのは、長くは続かない。
風呂場へ連れて行かれた時だった。
湯気が立ちこめる、小さくて明るい空間。家の中でもだいぶ不思議な場所だと思う。湯が豊富に使えるだけでも前世の感覚からすれば贅沢なのに、この家ではほぼ毎日のように温かい湯へ浸かるらしい。しかも室内だ。空調といい給湯といい、この世界の生活基盤はどうなってるんだと毎回思う。
「ほら、オビトー。気持ちいいぞー」
宗一郎がにこにこしながら言う。
気持ちいいかどうかで言えば、まあ気持ちいい。
悔しいが、温かい湯というのは赤ん坊の身体にも快いらしい。綾乃に支えられながらそっと湯へ入れられると、じんわり体が緩む感覚がある。
その時だった。
背筋を撫でるような違和感が走った。
また出た。
黒い靄だ。
しかも、増えている気がした。
最近、頻繁に見る。
窓の外。廊下の隅。天井。影の奥。
人の形をしているものもあれば、ただの塊みたいなものもある。どれも形はばらばらだ。だが共通しているものがある。
気持ち悪い。
それだけだ。
不快で、鬱陶しくて、視界に入るだけで嫌な感じがする。
あれだ、とオビトは思った。
忍の頃、森で野宿していると顔にまとわりついてきた虫。
耳元で羽音を立てて、人が眠ろうとした瞬間に限って飛んでくる、あの最悪なやつ。
結論、これは虫だ。
黒い靄の虫。
本当の正体は分からない。分からないが、そう思うことにした方が気が楽だった。得体の知れない怪異として捉えるより、鬱陶しい害虫だと思った方がまだ処理しやすい。
風呂場の天井に、一匹いた。
人型に近い。
腕が長い。
だらりと垂れている。
顔がないくせに、目みたいなものが変なところに付いていた。位置がおかしい。顔面の中央じゃない。肩口に近い辺りに、濁った穴みたいなものが並んでいる。
しかもでかい。
でかくて気持ち悪い。
よし、潰そう。
判断は早かった。
どくん、と体の奥が脈打つ。
あの時と同じ感覚だ。
血が熱を帯びて巡る。鼓動に合わせて、流れが変わる。以前はただ驚くばかりだったが、今は少しだけ慣れつつあった。自分の中の何かが、ああいう黒いものに反応するのだと分かっている。
意思に応じて流れが変わる。
どこへ集めればいいか、何となく分かる。
躊躇はなかった。
むしろ、早く片付けたかった。
指先に意識を集中させる。
すると熱が集まり、小さな指の先に、赤い粒がふわりと浮いた。血だ。自分の血。その赤が細く、鋭く、形を変えていく。
針。
今度は、より自然だった。
ぷすっ、と。
ほとんど音もなく、それは天井の黒い虫へ突き刺さった。
ぼん、と靄が弾ける。
本当に、それだけだった。
悲鳴も抵抗もない。弾けた黒はそのまま溶けるように消え、何も残さない。
あっさりと、拍子抜けするほど簡単に、虫退治は完了した。
満足感があった。
鬱陶しいものを潰した、という単純な達成感だ。
それがダメだった。
多分、気が緩んだ。
あるいは、術の制御とやらがまだ全然できていないせいだ。
次の瞬間。
ボフンッ!
「!?」
ザパーン!
風呂桶の一帯が真っ赤に染まった。
完全にアウトだった。
湯の中へ、ばしゃっと大量の赤が広がる。透明だった湯がみるみる赤く染まっていく。自分の周囲だけじゃない。桶の縁も、綾乃の腕も、宗一郎の手元も、全部まとめて飛沫が散っていた。
絵面としては最悪である。
赤ん坊が大量出血している図の完成だ。
完全にホラーだった。
下手をすれば通報されるどころか悲鳴と共に大騒ぎだろこれ!?
オビトの思考は一瞬で真っ白になった。
どうする!?
いや、どうもできない!
赤ん坊だから!!
身動きもろくに取れない。説明もできない。弁解もできない。見た目だけなら完全に事件現場だ。しかも自分自身もびしゃっと赤を浴びているせいで、余計に悲惨さが増している。
パニックになる。
どうする!?
だからどうにもできない!!
数秒の沈黙が落ちた。
やばい。
終わった。
そう思った、その時。
綾乃が、ぽつりと呟いた。
「……綺麗」
オビトの思考が止まった。
は?
宗一郎が目を見開く。
だがそれは恐怖や動揺ではなかった。
むしろきらきらしていた。
「すごい! 芸術的だな!」
何で?
何でそうなる!?
あまりにも斜め上すぎる反応に、逆にオビトが戦慄した。
綾乃は頬に飛んだ赤を指先で拭い、それを見て少し感心したように息をつく。
「お湯の中でふわっと広がって……絵の具みたい」
「なあ綾乃、写真……はさすがに駄目か?」
「先に洗ってあげなさい」
「そうだった!」
いやそこじゃないだろ!!
もっとこう、心配とかあるだろ!? 赤ん坊が風呂場で真っ赤になってるんだぞ!?
だが二人の反応は、最後まで一貫していた。
慌てない。
騒がない。
怯えない。
我が子が何かよく分からない現象で全身真っ赤になっているのに、まず出てくる感想が“綺麗”と“芸術的”である。
最大の脅威は、どうやら黒い靄ではなかった。
溺愛が突き抜けた親バカフィルターである。
オビトは、湯の中でぽかんとした。
もしかすると、この家で一番恐ろしいのはこの二人なのではないか。
そんな疑念が、赤く染まった風呂桶の中で静かに芽生える。
その間にも、綾乃は「目に入ってない? 大丈夫そうね」と穏やかに確認し、宗一郎は「天才かもしれん……いや芸術家か?」などと訳の分からないことを真顔で言っていた。
違う。
多分そういう話ではない。
けれど、この二人にとっては、まず先に“オビトが無事であること”が確定しているのだろう。だからこそ、恐怖より先に感想が出る。異常より先に愛情が勝つ。
それが分かってしまったせいで、余計に調子が狂う。
普通なら絶対に騒ぎになる場面だ。
なのにこの夫婦は、我が子が引き起こした得体の知れない現象すら、まるごと受け止めてしまう。
頭がおかしい。
いや、愛が重い。
そして重すぎる愛は時に怪異より怖い。
赤く染まった湯の中で、オビトは無言のまま天井を見上げた。
さっきまでいた黒い虫は、もう消えている。
代わりに残っているのは、親バカ全開の夫婦と、真っ赤な風呂桶と、説明不能な自分の力だけだった。
文明の進んだ平和な世界で、まさか風呂場がこんな惨状になるとは思わなかった。
本当に、何がどうなるか分からない世界だ。
そしてたぶん、自分自身もその“分からないもの”の一部になりつつある。
それだけは、嫌でも分かった。
湯気の向こうで、綾乃が優しく笑う。
「びっくりしたけど、大丈夫ね」
宗一郎も大きく頷いた。
「うん、大丈夫だ。オビトはすごいなあ」
いや、すごいで済ませるな。
そう思うのに、結局声にはならない。
赤ん坊の喉から出たのは、ふにゃ、と情けない音だけだった。
その瞬間、綾乃と宗一郎が同時に「可愛い」と言った。
もう駄目だ。
この家、色々と強すぎる。
【〆栞】