外の世界

宗一郎の一言から、すべては始まった。

「今日は天気いいし、ちょっと出かけるか」

その言葉に、綾乃は「そうねえ」と穏やかに頷き、オビトは心の中で嫌な予感を覚えた。

出かける。

その響き自体は、そこまで悪くない。

問題は、この世界における“外”が、まだ自分にとって完全に未知であることだった。病院から家までの移動は一度経験している。だがあれは、混乱の中で過ぎ去った最初の通過点みたいなものだ。ちゃんと外を見たとは言い難い。

つまり今日は、はじめての外出だった。

想像以上に危険に満ちていると知るのは、その少し後のことになる。

玄関を抜けた瞬間、空気が変わった。

家の中とはまるで違う。

広い。

まず、その一言に尽きた。

視界を遮る壁がない。空がある。青い。どこまでも高く、果てが見えないほどに広がっている。忍界でも空は見ていたはずなのに、なぜか少しだけ違って見えた。色の澄み方なのか、空気の軽さなのか、自分でも上手く説明できない。ただ、胸の奥がひゅっとするくらいには、広かった。

匂いも違う。

家の中の生活臭とは別の、土と草と遠くの排気と、まだ何か名のつけられない匂いが混ざっている。風が頬を撫でていく感覚も新鮮だった。赤ん坊の肌には少しひんやりして、それが妙に心地いい。

そして――鳥が飛んでいた。

真っ直ぐに。

青い空へ、白い線を描きながら。

オビトは目を見開いた。

雲?

いや違う。雲が動いているわけじゃない。何かが、空の高いところを一直線に進んでいて、その後ろに白い筋が伸びていた。

雲を描く鳥!?

驚愕である。

だが宗一郎は、ベビーカーを押しながらのんびりした声を出した。

「あ、飛行機雲だ」

飛行機雲。

その音だけ頭の中で転がる。

そもそも飛行機が分からない。

鳥の名前にしては変だろ、とオビトは内心で眉をひそめた。飛ぶから飛行機なのか。いやそれは雑すぎる気もする。雲を引いて飛ぶ生き物だとしたら、だいぶ厄介だ。

じっと見上げていると、今度はすぐ横を轟音が通り過ぎた。

びくりと肩が跳ねる。

車だ。

病院を出た日に乗せられた、あの鉄の塊である。

間近で見ると、やはり危険物にしか見えなかった。あんな質量の塊が、あの速度で道を走っている。何かの間違いでぶつかったら終わりだ。普通に死ぬ。忍でも死ぬ。いや、頑丈なやつなら一発は耐えるかもしれないが、それでも無傷では済まない。少なくとも一般人が平然と共存していい代物には見えなかった。

車は化け物だ。

その認識を新たにしたところで、オビトはまたしてもその化け物に乗せられることになった。

しかも拘束つきである。

チャイルドシート。

あの忌まわしき拘束具に、再び身体を固定される第四次忍界大戦の首謀者。逃げたいのに逃げられない。腕も脚も短い。何より赤ん坊の体では抵抗そのものが雀の涙ほどの意味しか持たない。

「よし、安全確認よし」

宗一郎がやけに真面目な顔で言う。

安全確認。

いや、まずこの化け物に乗る時点でだいぶ危険では? とオビトは思ったが、言えるはずもない。綾乃は綾乃で「大丈夫よ」と当然のように笑っている。この世界の人間は、車という存在に対する警戒心が薄すぎる。

動き出した車の窓から、外の景色が流れていく。

その中で、空に張り巡らされた細い線が目についた。

電線。

そう呼ばれていたものだ。

以前から見えてはいたが、こうして近くで見ると余計に妙だった。空中に何本も張り巡らされている細い線。その中を、ごく微かにだが何かが走っている気配がある。

エネルギーだ。

雷遁に近い感じがした。

電気、というらしい。

そこを通して何かを送っているのだと、以前宗一郎たちの会話で聞いた覚えがある。

(トラップか?)

いや違うのだろうが、見た目はどうにもそう思えてしまう。あんなものが頭上に落ちてきたら、まず終わりだ。街中にあれだけ張っていて平気なのも意味が分からない。何をどうしたらそんな危険物を日常に溶け込ませられるんだ。

だがこの世界の人間は、誰一人気にしていないらしかった。

やがて、周囲の建物が高くなっていく。

家ばかりだった景色に、妙に縦長の建物が混ざり始める。見上げなければ上の方が見えないような高さ。壁が真っ直ぐに伸びていて、窓が同じように並んでいる。

高い。

高いビル群だ。

宗一郎は鼻歌なんか歌いながらハンドルを切り、綾乃は後ろで「混んでるわねえ」と穏やかに呟いているが、オビトはそれどころではなかった。車はぐるぐる回りながら広い場所へ入っていき、そこには同じような車という名の化け物が大量に並んでいた。

怖っ。

何だここ。

巣か?

化け物の巣なのか?

しかも宗一郎は慣れた手つきでその間へ車を滑り込ませていく。やめろ、もっと慎重に行け。そんな狭いところをよく入れるな。見ているこっちの心臓に悪い。

やがて車が止まる。

それだけでも一安心だったのに、今度は“ポーン”と軽やかな音が鳴った。

次の瞬間。

扉が開いた。

「!?」

オビトの目が見開かれる。

何もしていない。

触れてもいない。

なのに、扉が勝手に開いた。

幻術か!?

一瞬で警戒が走る。

だが何も起きない。宗一郎は普通に降りようとしているし、綾乃も当たり前のように荷物を持っていた。警戒してみても、特に異常な気配はない。

ただ、扉が勝手に開いた。

意味が分からない。

その後も意味の分からないものは続いた。

建物の中へ入ると、今度は箱のような空間に乗せられる。

狭い。壁が近い。なのに扉が閉まっても閉塞感より妙な緊張が先に立つ。何か嫌な予感がする。宗一郎も綾乃も平然としているが、オビトだけがじっと構えていた。

すると、ふわりと浮くような感覚がした。

いや、違う。

動いている。

箱ごと。

エレベーター、と呼ばれるものらしい。

一階へ、という宗一郎の声が聞こえたあと、確かに移動している気配があった。なのに落下していない。跳ね上がってもいない。滑らかに、音もなく、箱だけが上下している。

(落ちてない!?)

怖い。

普通に怖い。

何だこの箱。どういう理屈で動いてる。どこに誰がいる。術者はどこだ。いやそもそも術なのか?

扉が開く。

何事もなく外へ出される。

そして今度は別の扉が勝手に開いた。

今度こそ幻術か!?

だが違った。

警戒しても何も起きない。

自動ドア、というらしい。

意味が分からない。

勝手に判断して、勝手に開く。

意思があるように見えて、普通に怖い。人が近づいたのを感じ取って開く仕組みらしいが、そんな説明をされても怖いものは怖い。人の都合を先回りして動く扉とか、ちょっとした怪異じゃないのか。

「いらっしゃいませー」

突然、頭上から声が降ってきた。

オビトはびくっとした。

館内放送だった。

天井のどこかにある“スピーカー”から、情報が拡散されているらしい。忍の伝達手段とは何もかもが違う。使者もいなければ伝令も走らない。人ひとり立たせることなく、広い場所の全員へ一斉に声が届く。

便利、なのか?

便利なんだろうな。

でもやっぱりちょっと気味が悪い。

そして何より圧倒されたのは、人だった。

人、人、人。

様々な人間が行き交っている。

老若男女、本当に色々だ。年寄りもいれば子供もいる。仕事着のような格好をした人間もいれば、私服と呼ばれるらしい自由な格好の人間もいる。

髪の色まで様々だった。

黒だけじゃない。

茶、金、白、銀。

そして紫。

(紫!?)

二度見した。

いや、三度見したかもしれない。

本当に紫だ。しかもひとりじゃない。淡い色も濃い色もいる。茶色や金もかなり多い。忍界にも染める文化が全くなかったわけではないだろうが、少なくともここまで自由ではなかった。というか、そんな色で堂々と歩いて怒られないのか。

服装もばらばらだった。

特に若者。

派手。奇抜。露出が多い。逆にやたらゆったりしているやつもいる。色も形も統一感がない。肩が出ている服、脚が見える服、逆にだぼだぼでどこに身体があるのか分からない服。穴の空いた服まである。

(破れてるけど、貧乏なのか?)

一瞬本気でそう思った。

だが周囲の反応を見るに、どうもそうではないらしい。意図的にそういう形を選んでいるようだった。価値観が違いすぎて困惑する。この世界の普通とは一体何なんだ。

意味が分からん。

だが、面白い。

知らないものだらけで、理解不能で、いちいち警戒しないと落ち着かない。にもかかわらず、視界を流れていく景色の全てが新鮮で、目を離しがたかった。前世では知らなかったものが、これでもかと押し寄せてくる。

それでも。

いるのか、と思った。

黒い靄が。

人混みの中に。

どこにでもいた。

文明の中でも。

人の中でも。

変わらず存在している。

柱の陰。天井の角。人の肩口の後ろ。通り過ぎる誰かの足元。濃いものもあれば、薄いものもある。人の形だったり、塊だったり、靄だったり、相変わらず一定しない。

けれど確かにいる。

便利で明るくて、平和そうで、何もかも整って見えるこの場所にも、黒いものは普通に混じっている。

変わらないな、とオビトは思った。

世界の姿形がどう変わっても、人の営みのすぐそばには、ああいうものがいるらしい。

だったら、やることは同じだ。

見つけたら潰す。

それだけだ。

小さな手の先に、じわりと熱が集まる。

まだ露骨には動かさない。宗一郎も綾乃もいるし、人も多い。だが感覚は分かる。少し意識すれば、血はすぐに応じる。流れを変え、先端へ寄り、細く鋭くなろうとする。

黒い靄のひとつが、通路脇の影からぬるりと這い出た。

人の足元にまとわりつくように揺れたそれへ向けて、オビトは指先をわずかに動かす。

ほんの小さな熱。

針になる寸前の赤。

人の目には映らないほどささやかなそれが、靄へ触れる。

ぼふ、と。

音もなく消えた。

誰も気づかない。

当然だ。

周囲の人間は買い物へ夢中で、明るい音楽と放送に囲まれて歩いている。黒い靄がいたことにも、それが消えたことにも、誰ひとり気づいていない。

オビトはベビーカーの上で、こっそりと目を細めた。

面白い世界だ。

意味が分からないものばかりだし、危険物も多いし、勝手に開く扉は怖いし、化け物みたいな車は走っているし、人の髪は紫だし、服は破れているし、空には線が張られている。

なのに、人は笑って生きている。

そしてその足元には、変わらず黒いものがいる。

光と影が、当たり前みたいに同居していた。

この世界は、やっぱり、面白い。

そう思った時、宗一郎がベビーカーを覗き込んで笑った。

「どうだ、オビト。外の世界はすごいだろ」

すごいなんてもんじゃない。

怖いし、変だし、意味が分からない。

でも。

退屈はしなさそうだ。

オビトは声にならない小さな息を漏らした。

それを綾乃は勝手に「楽しそう」と解釈し、宗一郎は「気に入ったか!」と嬉しそうに笑う。

いや、まあ。

それなりには。

そう心の中でだけ返しながら、オビトは再び青い空を見上げた。

雲を引く鳥の姿はもうなかったが、代わりに張り巡らされた電線の向こう、さらに高い場所へ、また別の何かが飛んでいくのが見えた気がした。

知らないものばかりだ。

だから、見たい。

そんなふうに思ったのは、たぶんこれが初めてだった。


〆栞
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