この子、重い

宗一郎がオビトを抱き上げて、ふと首を傾げた。

「あれ?」

その声に、綾乃が台所の方から振り返る。

「どうしたの?」

「いや、なんか……重くないか?」

抱き上げられているのは当然オビトである。

内心で、オビトは即座に「……は?」となった。

失礼な。

確かに最近よく飲んでいる自覚はある。よく眠っているし、身体も少しずつ育ってきている。腕も脚も、ほんのわずかだが以前よりしっかりしてきた気がする。だが、それでも所詮は生後数ヶ月の赤ん坊だ。

そんな重いなどと言われる筋合いはない。

何だその言い草は。

人に向かって。

いや、赤ん坊だけど。

「ちょっと貸して」

綾乃がそう言って、宗一郎の腕からオビトを受け取る。

そして次の瞬間、一瞬だけ眉を上げた。

「……あ、ほんとね」

おい。

オビトは内心で即座に突っ込んだ。

おい、じゃないだろ。

何だその確認済みみたいな反応は。

綾乃は腕の中のオビトを少し抱き直しながら、首を傾げる。

「なんていうか、ずっしりしてる感じ」

表現。

不満がある。

ずっしりとは何だ。赤ん坊に向かって使う語感ではないだろう。せめてもう少しこう、丸い言い方があるはずだ。ふっくらとか、育ってきたとか、そういう方向で何とかならなかったのか。

だが宗一郎は真顔で頷いた。

「成長期かな?」

「よく飲むものねぇ」

綾乃も妙に納得している。

両親はいつものように、親バカ方向で受け止めていた。

重い。

それはつまりよく育っている証拠で、たくさん飲んで、たくさん眠って、元気いっぱいで、何とも喜ばしいこと――という結論らしい。

実際、二人の顔には心配よりも感心が強かった。

「すごいなあ、オビト」

「いっぱい大きくなってるのねぇ」

違う。

いや、完全に違うとは言い切れないのかもしれないが、少なくともそれだけじゃない。

オビト本人には分かっていた。

重いのは、肉じゃない。

身体の中にある“何か”が、以前より明らかに増えているのだ。

血とは違う。

チャクラとも違う。

もっとどろりとしていて、濃くて、底の見えないエネルギー。

それが身体の内側に、じわじわと満ちている。

日に日に強くなる違和感だった。

身体が育っているのとは別のところで、自分の内側に何かが蓄積していく感覚がある。熱いような、重いような、粘度のある力だ。明確な輪郭はまだ掴めない。だが確実に増えている。

しかも、その変化に比例するように、黒い靄の虫も増えていた。

家の中。

窓の外。

天井。

床の隅。

影の奥。

どこにでもいる。

以前より明らかに数が多い。

率直な感想は、ひとつだった。

多過ぎるだろ。

落ち着かない。

視界の端で常に何かが蠢いている。しかも最近のあれらは、以前みたいに遠巻きに揺れているだけでは終わらない。逃げない。むしろ少しずつ寄ってくる。

理由は分からない。

分からないが、鬱陶しい。

気持ち悪い。

鬱陶しくて気持ち悪いものが、増えて、寄ってくる。

結論は早かった。

駆除決行である。

宗一郎と綾乃が目を離した隙を狙うのは、もう半ば習慣になっていた。赤ん坊の身でできることは限られている。だが、逆に言えばその限られた中でなら、隠れて動くことも可能だった。

昼下がり。

綾乃は洗濯物をまとめていて、宗一郎は休日らしく何やら家の中をうろうろしている。二人ともオビトのことは気にしているが、四六時中目を合わせているわけではない。

そのわずかな隙で充分だった。

ベビーベッドの中から、オビトは静かに天井と部屋の隅を見る。

いた。

天井に一匹。

壁に二匹。

床の隅に三匹。

黒い靄の虫が、ゆらゆらと蠢いている。

数えるのも嫌になるが、あえて数える。見落としがあると面倒だ。形は相変わらず一定しない。人型に近いものもいれば、塊のようなものもいる。腕だけ長かったり、顔の位置が変だったり、そもそも顔がなかったりと、見れば見るほど趣味の悪い連中だ。

どくん、と体内で血が脈打つ。

以前よりも明確に分かった。

意識を向けると、血が即座に応じる。

あの血まみれ風呂事件を起こした頃が懐かしいと思えるほど、精度は上がっていた。あの頃は、とにかく出る、飛ぶ、暴れる、で終わっていた。だが今は違う。何をどうしたいか、どこへ伸ばしたいか、その輪郭に血が追いついてくる。

揺れない。

ぶれない。

細く、鋭く、狙い通りの形を維持している。

一本の血の針が、空中へ浮いた。

小さな赤い軌跡。

それを、さらに分ける。

一本だったものが、二本に。

二本が、三本に。

それぞれが別々の方向へ向く。

お、できた。

内心で、オビトは素直にそう思った。

前より器用に動く。

意識を分けても、針が崩れない。

赤ん坊の体でなければ、軽く口笛でも吹きたくなるような感覚だった。いや、今の体では口笛なんて吹けないが。

そのまま、同時に飛ばす。

ぷすっ。

ぷすっ。

ぷすっ。

三本の血の針が、それぞれ黒い靄を刺した。

黒い靄が一瞬だけ震える。

次の瞬間、ぼん、と音もなく消えた。

よし。

次に壁際の一匹。

また刺す。

消える。

天井の端。

また刺す。

消える。

繰り返す。

淡々と、作業のように。

まるで雑草を抜くように。

次々と湧いてくる虫を潰すように。

見つける。

刺す。

消える。

見つける。

刺す。

消える。

抵抗らしい抵抗はない。

動きが速いわけでも、反撃してくるわけでもない。ただそこにいて、気味悪く揺れているだけだ。だからこそ、オビトは油断した。

これは戦いじゃない。

ただの作業だ。

そう思ってしまった。

見つけて、刺す。

見つけて、刺す。

見つけて、刺す。

視界が少しずつクリアになっていく。

部屋の隅の淀みが減る。

天井の重さが薄れる。

家の中の空気が軽くなる。

黒い靄は、もう見当たらなかった。

駆除完了である。

オビトは小さく満足した。

やればできるものだな、と、そんなふうに思ったその瞬間だった。

どっと疲労が押し寄せる。

あれ、と思う。

急に身体が重い。

意識も重い。

瞼が、落ちる。

さっきまで普通だったはずなのに、急激な眠気が全身へ被さってきた。鉛を流し込まれたみたいに、体の芯が重い。手も足も指先も、何もかもが一気に沈む。

血を操っただけ。

その“だけ”が、赤ん坊の身体には想像以上の負担だったらしい。

失敗した、と思った時にはもう遅い。

眠い。

まずい。

いや、でも。

敵はいない。

家の中は静かになった。

安全だ。

そう判断したところで、意識が落ちた。

オビトは眠りの底へ沈んでいく。

深く、暗く、静かな場所。

夢とも違う、ただの睡眠とも違う、妙に澄んだ沈降だった。何も見えないはずなのに、何かがある。感覚だけが先に沈み込み、その奥へ奥へと降りていく。

その底で、血とは違う別のものが揺れていた。

形はない。

輪郭も曖昧だ。

名前もまだ分からない。

だが、それは確かにオビトの中にある。

火のように熱いもの。

風のように鋭いもの。

雷のように瞬くもの。

水のように巡るもの。

土のように沈むもの。

木のように伸びるもの。

そして、そのさらに奥にあるもの。

形を与える影。

命を押し上げる光。

それらはまだ、明確な術式でも、理解できる法則でもなかった。ただ、確かにそこにある。眠りの底で静かに脈を打ち、今はまだ幼い体の奥で息を潜めている。

オビトはまだ、それを知らない。

この世界の誰も、まだ知らない。

ただひとつだけ確かなのは、その異質な力が、目を覚まし始めているということだった。

「……あら?」

遠くで、綾乃の声がした気がした。

「寝ちゃったの?」

「ほんとだ。急に静かになったなあ」

宗一郎の声もする。

だが、それすら遠い。

重い眠気の底で、オビトは何とかひとつだけ思った。

やりすぎた。

さすがに、一気に潰しすぎたかもしれない。

けれど後悔はあまりなかった。

鬱陶しいものは片付いたし、家の中は静かになった。少なくとも今この瞬間、綾乃も宗一郎も、黒い虫にまとわりつかれずに済んでいる。

それなら、まあいいか。

そんなふうに思ったところで、意識は完全に深い眠りへ沈んだ。

薄暗いまどろみの底で、得体の知れない力だけが静かに揺れている。

まだ誰の名前も持たないまま。

けれど確かに、そこに在るものとして。

赤ん坊の小さな身体の内側で、それはじわりじわりと広がり始めていた。


〆栞
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