虫が集まる家

増えている。

それはもう、はっきりと分かるほどに。

黒い靄――もとい、虫。

最初はぽつり、ぽつりと見かける程度だった。窓の外に一匹、家の隅に一匹。気味は悪いが、まだ“見かける”で済んでいた。

今は違う。

壁の影。

天井の角。

廊下の奥。

視界に入るたびに、いる。

本当に多過ぎる。

しかも逃げるどころか、集まっている。

家の周囲、窓の外、とにかく裏葉家の周りへ寄ってくる。夜になると、それが特に顕著だった。黒いものがぞろぞろと、まるで餌に群がるみたいに近づいてくる。

完全に虫だ。

しかも質が悪い。

普通の虫と違って、叩いても音もしないし、潰した感触もない。ただ、消えるだけ。手応えが薄いくせに気持ち悪さだけは一人前で、存在しているだけで空気を淀ませる。

だからといって、放置する理由にはならない。

全部、潰す。

それだけだ。

そう思っていた。

そのはずだった。

その夜、オビトは「すやぁ……」とでも言いそうな顔で寝ていた。

布団の中。

柔らかい温もり。

綾乃の整えた清潔な寝具の匂い。

少し離れた場所から聞こえる宗一郎の寝返りの音。

安心できる空間で、完全に無防備な赤ん坊の姿そのものだった。

それでも。

身体は眠っていても、“中身”は眠らない。

どくん。

どくん。

どくん。

血が脈打つ。

意識がないはずなのに、力が勝手に動いた。

指先――いや、違う。

全身だ。

血が滲むように浮かび上がる。

薄く、赤く、細く。

糸のような線が、無数に。

(――……)

夢の中のような、曖昧な感覚だった。

何かを考えているわけじゃない。

判断しているわけでもない。

ただ、そこに“邪魔なもの”があると、身体の方が知っていた。

標的は正確に捉えている。

壁の隅。

天井の影。

窓の外。

そこにいる、“虫”。

血が伸びる。

滑るように。

音もなく。

そして――。

ぷすっ。

ぷすっ。

ぷすっ。

次々と突き刺さる。

黒い靄が弾けて消える。

また一匹。

また一匹。

また一匹。

まるで自動だった。

休むことなく、正確に、確実に、駆除していく。

寝ながら。

完全に無意識で。

もはや本能に近い動きだった。

邪魔なものは排除する。

ただ、それだけのために身体が勝手に動いている。

赤い糸は一本では終わらない。

枝分かれするように増え、壁へ、窓辺へ、天井へと伸びる。ときに細く、ときに針のように鋭く変わり、黒い靄を見つけるたびに迷いなく貫いた。

黒い虫は、昼間のようにゆらゆらと寄ってくる余裕もなかった。

近づいた端から、消えていく。

家の外、窓の向こうでも同じだった。

塀の影にいたもの。

屋根の端に張り付いていたもの。

電柱の根元でうごめいていたもの。

それらすべてへ、赤い糸は音もなく届く。

夜の闇の中でだけ見える、薄い血の軌跡。

誰にも見えていない。

誰にも気づかれていない。

けれど確かに、それは裏葉家を中心に広がっていた。

静かな駆除だった。

激しい戦いではない。

怒りもない。

恐怖もない。

ただ、眠った赤ん坊の身体から、“排除”だけが淡々と行われている。

その様子は、むしろ異様だった。

本人に自覚のないまま、力だけが正確に動いている。

もし誰かが見ていたなら、きっと戦慄しただろう。

もっとも、この家でそんなことに気づく者はいなかったのだが。

朝になった。

柔らかな光が差し込み、部屋の輪郭が少しずつ明るくなっていく。

綾乃が起き出して、カーテンを少し開けた時だった。

「……あら?」

ふと、首を傾げる。

「どうした?」

居間で新聞を読んでいた宗一郎が顔を上げた。

綾乃は少しだけ窓の方を見てから、曖昧に笑う。

「なんだか……空気、綺麗じゃない?」

宗一郎が新聞を畳み、窓の方へ目を向けた。

「……ああ、言われてみれば」

綾乃が窓を開けると、風が入ってくる。

澄んでいた。

妙に、すっきりしている。

湿気がないわけではない。朝の匂いも、外の街の気配も、ちゃんとある。けれど、それとは別に、何か余分な淀みが消えたような感覚があった。

綾乃が不思議そうに呟く。

「最近、ずっとよね」

「確かに」

宗一郎も頷く。

「前はもっと、こう……じめっとしてた気がするけど」

綾乃が柔らかく笑った。

「住みやすくなったわね」

(……そうか?)

布団の中でぼんやりと思う。

まだ完全には目が覚めていない。赤ん坊の身体はいつだって眠気に引っ張られている。だが、それでも綾乃たちの言葉は聞こえていた。

よく分からない。

でも、確かにあの“虫”は減っている。

見える範囲では、ほとんどいない。

昨日までなら、天井の端や窓の隅に最低でも何匹かはいた。廊下の影にもいたし、家具の裏にもいた。だが今朝は違う。少なくとも家の中に関しては、気味の悪い黒がほとんど見当たらなかった。

(まあいいか)

快適なら、それでいい。

また眠気が来た。

(……寝るか)

思考が沈む。

その間にも、ほんのわずかに、血が揺れる。

まるで眠りの底で呼吸するみたいに、静かに。

だが家の外では、昨夜とはまた別の変化が起きていた。

家の外。

電柱の上。

屋根の向こう。

黒い虫たちが群れていた。

数は多い。

むしろ以前よりも濃く集まっているようにさえ見える。だが、以前とは違った。

近づかない。

近づけない。

一定の距離を取ったまま、じっと裏葉家を見ている。

窓の外から。

塀の向こうから。

電柱の上から。

まるで――そこに、とんでもない怪物がいるかのように。

家の中。

布団で眠る赤ん坊。

小さな身体から静かに、だが確実に、膨大な力が溢れている。

目には見えない。

誰にも感じ取れない。

両親でさえも。

宗一郎は新聞を読みながら「今日の昼どうする?」なんて話しているし、綾乃は朝の支度をしながら穏やかに返事をしている。二人とも、息子がすやすや眠っていることしか知らない。

ただ、確かなことがひとつだけあった。

裏葉オビト。

この赤ん坊は――この世界にとって、あまりにも、規格外だった。

まだ誰もその意味を知らない。

本人すら、まだ全部は知らない。

血を操ること。

黒い虫を刺して消せること。

眠っていても身体が勝手に反応すること。

そのどれもが異常だが、本当の異常はまだそこじゃない。

その小さな器の中には、血だけでは終わらないものが眠っている。

火のような熱。

風のような鋭さ。

雷のような瞬き。

水のような巡り。

土のような重さ。

木のような伸び。

その奥にある、影と光。

それらすべてが、まだ名前も与えられないまま、静かに息づいていた。

裏葉家の朝は平和だった。

温かい湯が沸く音がする。

食器の触れ合う小さな音。

綾乃のやわらかな足音。

宗一郎の新聞をめくる音。

何も知らない日常が、いつも通りの顔でそこにある。

その中心で、規格外の赤ん坊は眠っている。

無垢な顔で。

無防備な姿で。

けれど、家の外に群れる黒い虫たちだけは知っていた。

近づいてはいけない。

あれは危険だと。

あれは、自分たちを消すものだと。

だから距離を取り、じっと見ている。

見ていることしかできない。

朝の光の中で、黒い群れはただ静かに佇んでいた。

その向こうで、布団の中のオビトが小さく寝返りを打つ。

ほんのわずかに揺れた血の気配に、外の虫たちが一斉に身を引いた。

誰も見ていない。

誰も知らない。

けれどその瞬間、この家の周囲では、目に見えない力関係がはっきりと定まっていた。

狩る側と、狩られる側。

その境界は、赤ん坊ひとりを中心に、すでに出来上がっていた。


〆栞
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