忍者学校前日
忍者学校へ上がる前日、家の中は少しだけ落ち着かなかった。
別に、引っ越すわけではない。旅に出るわけでもない。明日から毎日、家を出て、同じ年頃の子どもたちと過ごす時間が増えるだけだ。今までと生活の形が少し変わる。それだけのことだ。
それだけのことなのだが、祖母ちゃんにとっては、どうやら十分に大きなことらしい。
「これは明日着ていくもの。こっちは替え。これは手拭い。これは予備の手拭い」
「祖母ちゃん、手拭い多くない?」
「多くて困るもんじゃないよ」
祖母ちゃんはそう言って、畳んだ着替えをもう一度広げ、もう一度畳み直した。ついさっき同じことをしていた気がする。いや、確実にしていた。三回目だ。前世の任務準備でも、ここまで念入りに着替えを畳み直したことはない。
もちろん、任務準備と忍者学校の持ち物確認を並べるのはどうかと思う。
だが、見ているとそう言いたくなるくらい、祖母ちゃんは真剣だった。
「筆は?」
「入れた」
「紐は?」
「入ってる」
「昼に食べるものは?」
「祖母ちゃんが包んでくれたやつ」
「転んだ時の布は?」
「……入れた」
「その間は何だい」
「いや、転ばない予定だから」
「予定は転ぶ前に崩れるんよ」
強い。
相変わらず、言葉が鋭い。
オビトは返す言葉を失い、素直に荷物の中身を確認した。小さな包み、替えの布、筆、手拭い、昼の包み。祖母ちゃんが用意したものは、どれもきちんとしている。過不足がない。いや、手拭いは少し多い気がするが、祖母ちゃんが多くて困らないと言うならそうなのだろう。
そのあと、祖母ちゃんは当然のようにオビトの髪へ手を伸ばした。
「ほら、こっちを向きなさい」
「待って、今日じゃなくて明日なんだが」
「明日慌てるより今日整えた方がいい」
「髪って寝たら崩れるだろ」
「明日も整えるよ」
二回やる気だ。
オビトは観念して座った。祖母ちゃんの指が黒髪を梳き、跳ねたところを押さえる。額のゴーグルも少し外され、位置を見直される。本人としてはいつもの位置で問題ないのだが、祖母ちゃんには祖母ちゃんの基準があるらしい。
「目にかかりすぎちゃいけない」
「見えてるって」
「見えてる子ほど、足元を見てないことがある」
「それ俺の話?」
「他に誰の話をしてるんだい」
はい。
完全に俺の話だった。
祖母ちゃんは、オビトの額にゴーグルを戻し、正面から顔を見た。整った黒髪。黒い目。幼さの残る頬。自分では特に何とも思わない顔だ。鏡を見ても、目立つのはゴーグルくらいだと思っている。
だが祖母ちゃんは、少し難しい顔をした。
「明日は、知らん大人に声をかけられても、先生に聞きなさい」
「うん」
「可愛いねえ、賢いねえ、いい子だねえと言われても、ほいほいついて行かない」
「行かないって」
「人助けをする時は、周りを見てから」
「見る」
「危ないと思ったら、大人を呼ぶ」
「呼ぶ」
「自分で全部どうにかしようとしない」
そこだけ、少し刺さった。
オビトは口を閉じた。
祖母ちゃんは鋭い。何も知らないはずなのに、どうしてそこを突いてくるのか分からない。前々世でも前世でも、自分でどうにかしようとしてきた。どうにかできると思ったことも、どうにかしなければと思ったこともある。結果として壊したものも、救えなかったものもある。
五歳の孫に言う注意としては、少し的確すぎる。
「……分かった」
「本当にかい」
「本当に」
祖母ちゃんはまだ疑っていた。たぶん、分かっていないと思われている。実際、祖母ちゃんが心配している方向を、オビトはまだ半分くらいしか理解していない。
ただ、自分を大事に思ってくれていることは分かる。
この支度は、本人のためだけではない。
送り出す側の手順なのだ。
明日から少しずつ、外で過ごす時間が増える。同じ年頃の子どもたちと関わり、今までより多くの目に触れる。祖母ちゃんの手がすぐ届かない場所へ行く。その変化へ気持ちを合わせるために、祖母ちゃんは着替えを畳み直し、持ち物を確かめ、髪を整えている。
オビトは、少しだけ肩の力を抜いた。
「祖母ちゃん」
「何だい」
「ちゃんと帰ってくるよ」
祖母ちゃんの手が、一瞬止まった。
それから、軽くオビトの額を小突く。
「当たり前だよ」
「うん」
「当たり前のことを、ちゃんとするんだよ」
「うん」
当たり前のことを、ちゃんとする。
それが一番難しいこともある。
オビトはそれを知っていた。
夕方になり、荷物の確認がようやく一段落すると、祖母ちゃんは台所へ向かった。明日の朝に慌てないよう、食事の下ごしらえをするらしい。家の中に包丁の音が響く。その音を聞きながら、オビトは庭へ出た。
空はまだ明るいが、日差しは傾き始めている。
柿の木の下に、六道仙人がいた。
いつものように、当然の顔で立っている。最近は姿を見せる頻度が減っていた。忍者学校へ上がる頃には一度退く、と言っていた通りなのだろう。だが完全に消えたわけではなく、時々こうして現れる。
「明日から、外の時間が増える」
六道仙人が言った。
「そうだな」
「その前に、今のお主を見ておこう」
「見ておくって、何を」
嫌な予感がした。
六道仙人がこちらを見る。静かな目だ。だが、この静かさの奥にあるものを、オビトはもう少しだけ分かるようになっていた。これはただ話をする顔ではない。
「お主は力を隠そうとしておる。慎重に振る舞おうとしておることも分かっておる」
「なら、いいだろ」
「問題は、お主の基準じゃ」
六道仙人の視線が細くなる。
「お主の普通は、普通ではない」
痛い。
さっき祖母ちゃんに刺されたばかりなのに、今度は六道仙人に刺された。
「……気をつけてるって」
「気をつけてなお、ずれる」
「それは、まあ」
否定しきれない。
オビトは自分の身体を見下ろした。五歳の身体。背は低く、手足は短く、体重も軽い。だが、その内側には普通の五歳児とは比べものにならない力がある。肉体そのものも、見た目ほど脆くはない。問題は身体が壊れるかどうかではなく、どれだけ外へ出すか、どう見せるか、どこまでを自然な範囲に収めるかだ。
その自然な範囲が、たぶんおかしい。
そこは自覚している。
自覚しているつもりだった。
「では、試すとしよう」
「え、ここで?」
「ここではない」
六道仙人が錫杖を軽く鳴らした。
庭の空気が変わった。
現実の庭が遠ざかる。祖母ちゃんの包丁の音が薄れ、土の匂いが少し曖昧になる。景色は庭のままだが、実際の庭ではない。六道仙人の力で作られた、仮の場。身体の感覚はある。息も上がる。だが、家を壊す心配はない。
便利だな。
いや、便利で片づけていいものではないのだろうが、便利だ。
「相手は」
オビトが言いかけた時、前方に人影が立った。
白い髪。
黒い目隠しではなく、こちらを真っ直ぐ見る軽い笑み。
長い手足。
背が高い。
高すぎる。
「……いや、待て」
オビトは反射的に後ずさった。
「待て待て待て。何でその人選なんだよ」
目の前に立つ男は、五条悟だった。
もちろん本人ではない。六道仙人が五条悟を知っているはずもない。これは、オビトの中にある記憶から形を取ったものだろう。前世で何度も見た背中。何度も見上げた相手。軽く笑って、重いものを当然のように背負い、大丈夫だと言った人。
その人が、仮の場で、こちらを見て笑っている。
「や、オビト。ちっちゃ」
「第一声それかよ!」
懐かしすぎて、腹が立つ。
五条悟は楽しそうに肩を揺らした。
「いやー、これはこれで面白いね。ミニオビトじゃん」
「ミニって言うな」
「実質ミニでしょ」
「実質とか言うな」
あまりにも五条先生だった。
本物ではない。分かっている。それでも、記憶の中の声と身振りが正確すぎて、胸の奥が少し変な痛み方をする。会いたかった、などと簡単に言える相手ではない。前世で失ったものは多く、その中でも五条悟の死は大きかった。
だが、今ここで感傷に沈む暇はなかった。
五条悟が腰を落としたからだ。
「術式抜き、体術だけ。はい、よーい」
「ちょ、待っ」
「どん」
来た。
速い。
術式抜きでも速い。いや、分かっていた。五条先生は術式だけの人ではない。基礎の身体操作、間合い、足運び、打撃の入り方、その全部が異常に高い。こちらは五歳の身体だ。手足の長さが違う。歩幅が違う。体重が違う。
何より。
「リーチ差が卑怯!」
「いやー、才能って怖いねえ」
「身長だろそれ!」
伸びてくる脚を紙一重で避ける。五歳の身体に合わせて重心を低くし、懐へ潜る。小さい分、低い位置への入りは速い。だが、相手の腕が長い。あまりにも長い。こちらが踏み込む前に、手のひらが額へ飛んでくる。
避ける。
受けない。
受けたら体格差で持っていかれる。身体が壊れる心配ではない。単純に、軽い。体重差がありすぎる。真正面から力比べをする意味がない。
オビトは足元へ滑り込み、膝裏を狙った。
五条悟が笑う。
「お、いいね」
次の瞬間、視界がひっくり返った。
投げられた。
背中から地面に落ちる直前、体を捻って受け身を取る。仮想の地面でも痛い。痛いものは痛い。五歳の身体で、大人の五条先生相手に体術勝負。普通に考えたら無茶である。
だが、楽しい。
悔しい。
楽しい。
息が上がる。足が熱い。手のひらに土の感触がある。次はどう入る。どう崩す。どう外す。五条先生の癖は知っている。だが、知っているから勝てる相手ではない。あの人は知識の上から普通に踏んでくる。
「ほらほら、考えてる時間長いよ」
「うるせっ」
オビトは低く踏み込み、体格差を逆手に取って死角へ回る。五条悟の視線が追ってくる。もちろん見失わない。真正面から当てにいくのではなく、入る瞬間だけ呼吸をずらす。チャクラも呪力も抑える。余計なものは出さない。ただ、足運びと重心、拳の軌道だけで崩す。
小さな拳が、五条悟の脇腹へ届きかけた。
その直前。
「はい、惜しい」
蹴りが来た。
見えていた。
見えていたのに、間に合わなかった。
リーチ差。
足の長さ。
本当に卑怯だ。
軽く当てられただけの蹴りで、身体が浮いた。地面を転がり、空が視界いっぱいに広がる。仮の空。けれど、悔しさは本物だった。
オビトは大の字になって倒れた。
息が上がる。
「……くっそ」
五条悟が上から覗き込む。
「五歳児にしてはだいぶ頑張ったんじゃない?」
「褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。めちゃくちゃ褒めてる」
「軽いんだよ」
「軽く言った方が受け取りやすいでしょ」
その言い方に、何も返せなくなった。
懐かしい。
やっぱり、この人はこういう言い方をする。
五条悟はしゃがみ込み、オビトの顔を見た。仮の存在なのに、その視線はやけに鮮明だった。
「やっぱ良いね、その目」
オビトは瞬きをした。
「え?」
「写輪眼」
「ふぇ!?」
変な声が出た。
反射的にゴーグルへ手を伸ばす。だが、仮の場では外れていない。いや、今の自分の目は黒いはずだ。写輪眼は出していない。出していないはず。まさか無意識に出たか。いや、待て。五条先生なら、黒目の奥にあるものを見てくるのか。そういう人だった。いや、これは記憶の中の五条先生だ。なら、自分の記憶がそう言わせているのか。
混乱する。
「出てない、よな?」
五条悟は楽しそうに笑った。
「さあ?」
「さあじゃねぇ!」
「その辺、自分で管理しなきゃね。明日から外なんでしょ」
本当に、嫌なところを突いてくる。
仮想の五条悟は立ち上がり、片手をひらひら振った。
「じゃ、頑張れよ。ミニオビト」
「ミニって言うな!」
言い返した瞬間、景色が揺れた。
庭に戻っていた。
オビトは本物の庭の土の上に座り込み、肩で息をしていた。汗が額を伝う。身体は壊れていない。痛みも軽い。だが、悔しさと疲労感だけはしっかり残っている。
六道仙人が、少し離れたところから見ていた。
「……どうじゃ」
「リーチ差が卑怯」
「そこか」
「そこだろ」
五歳と大人では、物理条件が違いすぎる。手足の長さ、体重、歩幅、視界の高さ。いくら中身に経験があっても、身体の寸法は変わらない。小さい身体には小さい身体の戦い方がある。そこを間違えると、力を隠す以前に動きそのものが不自然になる。
オビトは息を整え、額のゴーグルに触れた。
「写輪眼、出てた?」
「出てはおらぬ」
六道仙人の答えに、少しだけ安堵する。
「ただし、瞳の奥にあるものまでは消えぬ」
「それ、普通に見えるやつ?」
「普通の者には見えぬ」
「なら、いいか」
「よくはない」
また刺された。
六道仙人は静かにこちらを見る。
「お主は隠しておるつもりでも、所作が違う。見る位置、避ける時の早さ、踏み込む判断、相手の癖を読む目。五歳の子が持つものとしては、明らかに逸れておる」
「抑えたけど」
「抑えてそれじゃ」
つらい。
かなりつらい。
オビトとしては、今の組手でも相当抑えた。術は使っていない。写輪眼も出していない。黒閃ももちろん出していない。体術だけ。しかも五歳の身体に合わせた動き。忍者学校で不自然にならないよう、かなり意識していた。
それでも、六道仙人の目には十分おかしいらしい。
基準がそもそも違う。
そういう話なのだろう。
オビトは地面に座ったまま、膝に肘を乗せた。
「……普通って難しいな」
「普通であろうとする必要はない」
六道仙人は言った。
「ただし、己の普通が他者と異なることは忘れるな」
「それ、祖母ちゃんにも似たようなこと言われた」
「賢き婆じゃ」
「ほんとにな」
オビトは小さく笑った。
笑ってから、ふと空を見た。明日から忍者学校。今世のカカシとリンがいる。前々世の記憶に頼りすぎない。今世の相手を、今世の相手として見る。学べるものは学ぶ。目立ちすぎないよう気をつける。力の出し方に気をつける。祖母ちゃんを心配させないようにする。
考えることは多い。
だが、嫌ではなかった。
五条悟の仮想相手に蹴られて転がされた直後なのに、胸の奥には少しだけ熱が残っている。悔しい。でも楽しい。そう思えることが、たぶん大事だった。
六道仙人は、そんなオビトをしばらく見ていた。
「うちはオビト」
「何」
「ここから先は、姿を消して観測させてもらおう」
前にも聞いた話だ。
だが、今日の声は少し違った。区切りを置くための言葉だった。
「必要があれば、また現れる。されど、明日からの日々はお主のものじゃ。わしの目を気にして歩くものではない」
「最初から気にしてないけど」
「それはそれで問題じゃ」
「どっちだよ」
六道仙人は少しだけ目を細めた。
「お主の歩みが、どこへ至るか。見届ける」
その声は静かだった。
期待。
たぶん、そう呼んでいいものがそこにあった。
異物として観察していた頃とは違う。火種として警戒していた頃とも違う。もちろん、今でも危ういと思われているのは分かる。だがそれだけではない。うちはオビトという一人の子どもが、この先どこへ行くのか。そこを見ようとしている。
オビトは少し照れくさくなり、視線を逸らした。
「見てるなら、変なタイミングで出てくるなよ」
「努めよう」
「そこは約束しろよ」
「努めよう」
絶対に出てくるやつだ。
オビトは諦めた。忍の祖に対して何を諦めているのか分からないが、もう仕方がない。
六道仙人の姿が薄れ始める。
消える直前、その目がわずかに庭先から家の方へ向いた。台所からは、祖母ちゃんの支度の音が聞こえる。明日のために整えられた荷物。畳まれた着替え。多めの手拭い。整えられたゴーグル。
六道仙人は何も言わなかった。
ただ、その沈黙の奥に、言葉にならない思案があるように見えた。
隠し通すのは難しい。
そう思っているのだろう。
オビトはそれに気づかないふりをした。いや、たぶん本当の意味では気づいていない。自分では気をつけているつもりなのだ。抑えているつもりで、普通にしているつもりで、子どもの範囲に収めているつもりでいる。
その「つもり」の基準が、初めからずれている。
そこが問題なのだが、本人はまだそこまで深く分かっていなかった。
「オビト、ご飯だよ」
祖母ちゃんの声がした。
「はーい」
返事をして、オビトは立ち上がった。膝についた土を払い、額のゴーグルをもう一度確認する。位置は大丈夫。視界も遮っていない。必要ならすぐ下ろせる。
写輪眼は出ていない。
よし。
「明日から、ちゃんとやるか」
小さく呟いて、家へ戻る。
背後に六道仙人の気配はもうなかった。
それでも、どこかで見ているのだろうと思った。見ているなら見ていればいい。明日からの時間は、自分の足で進む。前々世の記憶に引っ張られすぎず、前世の声を忘れず、今世の人たちを今世の人たちとして見る。
祖母ちゃんを心配させない。
目立ちすぎない。
力は抑える。
普通にする。
オビトはそう心に決めた。
その決意が、すでに少し危ういことには、まだ気づいていなかった。
別に、引っ越すわけではない。旅に出るわけでもない。明日から毎日、家を出て、同じ年頃の子どもたちと過ごす時間が増えるだけだ。今までと生活の形が少し変わる。それだけのことだ。
それだけのことなのだが、祖母ちゃんにとっては、どうやら十分に大きなことらしい。
「これは明日着ていくもの。こっちは替え。これは手拭い。これは予備の手拭い」
「祖母ちゃん、手拭い多くない?」
「多くて困るもんじゃないよ」
祖母ちゃんはそう言って、畳んだ着替えをもう一度広げ、もう一度畳み直した。ついさっき同じことをしていた気がする。いや、確実にしていた。三回目だ。前世の任務準備でも、ここまで念入りに着替えを畳み直したことはない。
もちろん、任務準備と忍者学校の持ち物確認を並べるのはどうかと思う。
だが、見ているとそう言いたくなるくらい、祖母ちゃんは真剣だった。
「筆は?」
「入れた」
「紐は?」
「入ってる」
「昼に食べるものは?」
「祖母ちゃんが包んでくれたやつ」
「転んだ時の布は?」
「……入れた」
「その間は何だい」
「いや、転ばない予定だから」
「予定は転ぶ前に崩れるんよ」
強い。
相変わらず、言葉が鋭い。
オビトは返す言葉を失い、素直に荷物の中身を確認した。小さな包み、替えの布、筆、手拭い、昼の包み。祖母ちゃんが用意したものは、どれもきちんとしている。過不足がない。いや、手拭いは少し多い気がするが、祖母ちゃんが多くて困らないと言うならそうなのだろう。
そのあと、祖母ちゃんは当然のようにオビトの髪へ手を伸ばした。
「ほら、こっちを向きなさい」
「待って、今日じゃなくて明日なんだが」
「明日慌てるより今日整えた方がいい」
「髪って寝たら崩れるだろ」
「明日も整えるよ」
二回やる気だ。
オビトは観念して座った。祖母ちゃんの指が黒髪を梳き、跳ねたところを押さえる。額のゴーグルも少し外され、位置を見直される。本人としてはいつもの位置で問題ないのだが、祖母ちゃんには祖母ちゃんの基準があるらしい。
「目にかかりすぎちゃいけない」
「見えてるって」
「見えてる子ほど、足元を見てないことがある」
「それ俺の話?」
「他に誰の話をしてるんだい」
はい。
完全に俺の話だった。
祖母ちゃんは、オビトの額にゴーグルを戻し、正面から顔を見た。整った黒髪。黒い目。幼さの残る頬。自分では特に何とも思わない顔だ。鏡を見ても、目立つのはゴーグルくらいだと思っている。
だが祖母ちゃんは、少し難しい顔をした。
「明日は、知らん大人に声をかけられても、先生に聞きなさい」
「うん」
「可愛いねえ、賢いねえ、いい子だねえと言われても、ほいほいついて行かない」
「行かないって」
「人助けをする時は、周りを見てから」
「見る」
「危ないと思ったら、大人を呼ぶ」
「呼ぶ」
「自分で全部どうにかしようとしない」
そこだけ、少し刺さった。
オビトは口を閉じた。
祖母ちゃんは鋭い。何も知らないはずなのに、どうしてそこを突いてくるのか分からない。前々世でも前世でも、自分でどうにかしようとしてきた。どうにかできると思ったことも、どうにかしなければと思ったこともある。結果として壊したものも、救えなかったものもある。
五歳の孫に言う注意としては、少し的確すぎる。
「……分かった」
「本当にかい」
「本当に」
祖母ちゃんはまだ疑っていた。たぶん、分かっていないと思われている。実際、祖母ちゃんが心配している方向を、オビトはまだ半分くらいしか理解していない。
ただ、自分を大事に思ってくれていることは分かる。
この支度は、本人のためだけではない。
送り出す側の手順なのだ。
明日から少しずつ、外で過ごす時間が増える。同じ年頃の子どもたちと関わり、今までより多くの目に触れる。祖母ちゃんの手がすぐ届かない場所へ行く。その変化へ気持ちを合わせるために、祖母ちゃんは着替えを畳み直し、持ち物を確かめ、髪を整えている。
オビトは、少しだけ肩の力を抜いた。
「祖母ちゃん」
「何だい」
「ちゃんと帰ってくるよ」
祖母ちゃんの手が、一瞬止まった。
それから、軽くオビトの額を小突く。
「当たり前だよ」
「うん」
「当たり前のことを、ちゃんとするんだよ」
「うん」
当たり前のことを、ちゃんとする。
それが一番難しいこともある。
オビトはそれを知っていた。
夕方になり、荷物の確認がようやく一段落すると、祖母ちゃんは台所へ向かった。明日の朝に慌てないよう、食事の下ごしらえをするらしい。家の中に包丁の音が響く。その音を聞きながら、オビトは庭へ出た。
空はまだ明るいが、日差しは傾き始めている。
柿の木の下に、六道仙人がいた。
いつものように、当然の顔で立っている。最近は姿を見せる頻度が減っていた。忍者学校へ上がる頃には一度退く、と言っていた通りなのだろう。だが完全に消えたわけではなく、時々こうして現れる。
「明日から、外の時間が増える」
六道仙人が言った。
「そうだな」
「その前に、今のお主を見ておこう」
「見ておくって、何を」
嫌な予感がした。
六道仙人がこちらを見る。静かな目だ。だが、この静かさの奥にあるものを、オビトはもう少しだけ分かるようになっていた。これはただ話をする顔ではない。
「お主は力を隠そうとしておる。慎重に振る舞おうとしておることも分かっておる」
「なら、いいだろ」
「問題は、お主の基準じゃ」
六道仙人の視線が細くなる。
「お主の普通は、普通ではない」
痛い。
さっき祖母ちゃんに刺されたばかりなのに、今度は六道仙人に刺された。
「……気をつけてるって」
「気をつけてなお、ずれる」
「それは、まあ」
否定しきれない。
オビトは自分の身体を見下ろした。五歳の身体。背は低く、手足は短く、体重も軽い。だが、その内側には普通の五歳児とは比べものにならない力がある。肉体そのものも、見た目ほど脆くはない。問題は身体が壊れるかどうかではなく、どれだけ外へ出すか、どう見せるか、どこまでを自然な範囲に収めるかだ。
その自然な範囲が、たぶんおかしい。
そこは自覚している。
自覚しているつもりだった。
「では、試すとしよう」
「え、ここで?」
「ここではない」
六道仙人が錫杖を軽く鳴らした。
庭の空気が変わった。
現実の庭が遠ざかる。祖母ちゃんの包丁の音が薄れ、土の匂いが少し曖昧になる。景色は庭のままだが、実際の庭ではない。六道仙人の力で作られた、仮の場。身体の感覚はある。息も上がる。だが、家を壊す心配はない。
便利だな。
いや、便利で片づけていいものではないのだろうが、便利だ。
「相手は」
オビトが言いかけた時、前方に人影が立った。
白い髪。
黒い目隠しではなく、こちらを真っ直ぐ見る軽い笑み。
長い手足。
背が高い。
高すぎる。
「……いや、待て」
オビトは反射的に後ずさった。
「待て待て待て。何でその人選なんだよ」
目の前に立つ男は、五条悟だった。
もちろん本人ではない。六道仙人が五条悟を知っているはずもない。これは、オビトの中にある記憶から形を取ったものだろう。前世で何度も見た背中。何度も見上げた相手。軽く笑って、重いものを当然のように背負い、大丈夫だと言った人。
その人が、仮の場で、こちらを見て笑っている。
「や、オビト。ちっちゃ」
「第一声それかよ!」
懐かしすぎて、腹が立つ。
五条悟は楽しそうに肩を揺らした。
「いやー、これはこれで面白いね。ミニオビトじゃん」
「ミニって言うな」
「実質ミニでしょ」
「実質とか言うな」
あまりにも五条先生だった。
本物ではない。分かっている。それでも、記憶の中の声と身振りが正確すぎて、胸の奥が少し変な痛み方をする。会いたかった、などと簡単に言える相手ではない。前世で失ったものは多く、その中でも五条悟の死は大きかった。
だが、今ここで感傷に沈む暇はなかった。
五条悟が腰を落としたからだ。
「術式抜き、体術だけ。はい、よーい」
「ちょ、待っ」
「どん」
来た。
速い。
術式抜きでも速い。いや、分かっていた。五条先生は術式だけの人ではない。基礎の身体操作、間合い、足運び、打撃の入り方、その全部が異常に高い。こちらは五歳の身体だ。手足の長さが違う。歩幅が違う。体重が違う。
何より。
「リーチ差が卑怯!」
「いやー、才能って怖いねえ」
「身長だろそれ!」
伸びてくる脚を紙一重で避ける。五歳の身体に合わせて重心を低くし、懐へ潜る。小さい分、低い位置への入りは速い。だが、相手の腕が長い。あまりにも長い。こちらが踏み込む前に、手のひらが額へ飛んでくる。
避ける。
受けない。
受けたら体格差で持っていかれる。身体が壊れる心配ではない。単純に、軽い。体重差がありすぎる。真正面から力比べをする意味がない。
オビトは足元へ滑り込み、膝裏を狙った。
五条悟が笑う。
「お、いいね」
次の瞬間、視界がひっくり返った。
投げられた。
背中から地面に落ちる直前、体を捻って受け身を取る。仮想の地面でも痛い。痛いものは痛い。五歳の身体で、大人の五条先生相手に体術勝負。普通に考えたら無茶である。
だが、楽しい。
悔しい。
楽しい。
息が上がる。足が熱い。手のひらに土の感触がある。次はどう入る。どう崩す。どう外す。五条先生の癖は知っている。だが、知っているから勝てる相手ではない。あの人は知識の上から普通に踏んでくる。
「ほらほら、考えてる時間長いよ」
「うるせっ」
オビトは低く踏み込み、体格差を逆手に取って死角へ回る。五条悟の視線が追ってくる。もちろん見失わない。真正面から当てにいくのではなく、入る瞬間だけ呼吸をずらす。チャクラも呪力も抑える。余計なものは出さない。ただ、足運びと重心、拳の軌道だけで崩す。
小さな拳が、五条悟の脇腹へ届きかけた。
その直前。
「はい、惜しい」
蹴りが来た。
見えていた。
見えていたのに、間に合わなかった。
リーチ差。
足の長さ。
本当に卑怯だ。
軽く当てられただけの蹴りで、身体が浮いた。地面を転がり、空が視界いっぱいに広がる。仮の空。けれど、悔しさは本物だった。
オビトは大の字になって倒れた。
息が上がる。
「……くっそ」
五条悟が上から覗き込む。
「五歳児にしてはだいぶ頑張ったんじゃない?」
「褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。めちゃくちゃ褒めてる」
「軽いんだよ」
「軽く言った方が受け取りやすいでしょ」
その言い方に、何も返せなくなった。
懐かしい。
やっぱり、この人はこういう言い方をする。
五条悟はしゃがみ込み、オビトの顔を見た。仮の存在なのに、その視線はやけに鮮明だった。
「やっぱ良いね、その目」
オビトは瞬きをした。
「え?」
「写輪眼」
「ふぇ!?」
変な声が出た。
反射的にゴーグルへ手を伸ばす。だが、仮の場では外れていない。いや、今の自分の目は黒いはずだ。写輪眼は出していない。出していないはず。まさか無意識に出たか。いや、待て。五条先生なら、黒目の奥にあるものを見てくるのか。そういう人だった。いや、これは記憶の中の五条先生だ。なら、自分の記憶がそう言わせているのか。
混乱する。
「出てない、よな?」
五条悟は楽しそうに笑った。
「さあ?」
「さあじゃねぇ!」
「その辺、自分で管理しなきゃね。明日から外なんでしょ」
本当に、嫌なところを突いてくる。
仮想の五条悟は立ち上がり、片手をひらひら振った。
「じゃ、頑張れよ。ミニオビト」
「ミニって言うな!」
言い返した瞬間、景色が揺れた。
庭に戻っていた。
オビトは本物の庭の土の上に座り込み、肩で息をしていた。汗が額を伝う。身体は壊れていない。痛みも軽い。だが、悔しさと疲労感だけはしっかり残っている。
六道仙人が、少し離れたところから見ていた。
「……どうじゃ」
「リーチ差が卑怯」
「そこか」
「そこだろ」
五歳と大人では、物理条件が違いすぎる。手足の長さ、体重、歩幅、視界の高さ。いくら中身に経験があっても、身体の寸法は変わらない。小さい身体には小さい身体の戦い方がある。そこを間違えると、力を隠す以前に動きそのものが不自然になる。
オビトは息を整え、額のゴーグルに触れた。
「写輪眼、出てた?」
「出てはおらぬ」
六道仙人の答えに、少しだけ安堵する。
「ただし、瞳の奥にあるものまでは消えぬ」
「それ、普通に見えるやつ?」
「普通の者には見えぬ」
「なら、いいか」
「よくはない」
また刺された。
六道仙人は静かにこちらを見る。
「お主は隠しておるつもりでも、所作が違う。見る位置、避ける時の早さ、踏み込む判断、相手の癖を読む目。五歳の子が持つものとしては、明らかに逸れておる」
「抑えたけど」
「抑えてそれじゃ」
つらい。
かなりつらい。
オビトとしては、今の組手でも相当抑えた。術は使っていない。写輪眼も出していない。黒閃ももちろん出していない。体術だけ。しかも五歳の身体に合わせた動き。忍者学校で不自然にならないよう、かなり意識していた。
それでも、六道仙人の目には十分おかしいらしい。
基準がそもそも違う。
そういう話なのだろう。
オビトは地面に座ったまま、膝に肘を乗せた。
「……普通って難しいな」
「普通であろうとする必要はない」
六道仙人は言った。
「ただし、己の普通が他者と異なることは忘れるな」
「それ、祖母ちゃんにも似たようなこと言われた」
「賢き婆じゃ」
「ほんとにな」
オビトは小さく笑った。
笑ってから、ふと空を見た。明日から忍者学校。今世のカカシとリンがいる。前々世の記憶に頼りすぎない。今世の相手を、今世の相手として見る。学べるものは学ぶ。目立ちすぎないよう気をつける。力の出し方に気をつける。祖母ちゃんを心配させないようにする。
考えることは多い。
だが、嫌ではなかった。
五条悟の仮想相手に蹴られて転がされた直後なのに、胸の奥には少しだけ熱が残っている。悔しい。でも楽しい。そう思えることが、たぶん大事だった。
六道仙人は、そんなオビトをしばらく見ていた。
「うちはオビト」
「何」
「ここから先は、姿を消して観測させてもらおう」
前にも聞いた話だ。
だが、今日の声は少し違った。区切りを置くための言葉だった。
「必要があれば、また現れる。されど、明日からの日々はお主のものじゃ。わしの目を気にして歩くものではない」
「最初から気にしてないけど」
「それはそれで問題じゃ」
「どっちだよ」
六道仙人は少しだけ目を細めた。
「お主の歩みが、どこへ至るか。見届ける」
その声は静かだった。
期待。
たぶん、そう呼んでいいものがそこにあった。
異物として観察していた頃とは違う。火種として警戒していた頃とも違う。もちろん、今でも危ういと思われているのは分かる。だがそれだけではない。うちはオビトという一人の子どもが、この先どこへ行くのか。そこを見ようとしている。
オビトは少し照れくさくなり、視線を逸らした。
「見てるなら、変なタイミングで出てくるなよ」
「努めよう」
「そこは約束しろよ」
「努めよう」
絶対に出てくるやつだ。
オビトは諦めた。忍の祖に対して何を諦めているのか分からないが、もう仕方がない。
六道仙人の姿が薄れ始める。
消える直前、その目がわずかに庭先から家の方へ向いた。台所からは、祖母ちゃんの支度の音が聞こえる。明日のために整えられた荷物。畳まれた着替え。多めの手拭い。整えられたゴーグル。
六道仙人は何も言わなかった。
ただ、その沈黙の奥に、言葉にならない思案があるように見えた。
隠し通すのは難しい。
そう思っているのだろう。
オビトはそれに気づかないふりをした。いや、たぶん本当の意味では気づいていない。自分では気をつけているつもりなのだ。抑えているつもりで、普通にしているつもりで、子どもの範囲に収めているつもりでいる。
その「つもり」の基準が、初めからずれている。
そこが問題なのだが、本人はまだそこまで深く分かっていなかった。
「オビト、ご飯だよ」
祖母ちゃんの声がした。
「はーい」
返事をして、オビトは立ち上がった。膝についた土を払い、額のゴーグルをもう一度確認する。位置は大丈夫。視界も遮っていない。必要ならすぐ下ろせる。
写輪眼は出ていない。
よし。
「明日から、ちゃんとやるか」
小さく呟いて、家へ戻る。
背後に六道仙人の気配はもうなかった。
それでも、どこかで見ているのだろうと思った。見ているなら見ていればいい。明日からの時間は、自分の足で進む。前々世の記憶に引っ張られすぎず、前世の声を忘れず、今世の人たちを今世の人たちとして見る。
祖母ちゃんを心配させない。
目立ちすぎない。
力は抑える。
普通にする。
オビトはそう心に決めた。
その決意が、すでに少し危ういことには、まだ気づいていなかった。
【〆栞】