白い牙の息子
はたけカカシは、噂をそのまま信じる方ではなかった。
誰かが強いと言われていても、実際に動くところを見るまでは判断しない。弱い、鈍い、才能がないと笑われている相手についても同じだった。周囲の言葉は、見る者の都合や感情で簡単に形を変える。
それでも、うちはオビトについて聞いていた話と、目の前にいる本人との間には、少しどころではない隔たりがあった。
うちは集落の端に住む子。
両親を亡くし、祖母と暮らしている。
目立った才能もなく、一族の中では落ちこぼれと呼ばれている。
入学前にカカシが知っていたのは、その程度だった。
数日前、父との修行中に見かけた時も、特別強そうには見えなかった。額にゴーグルをつけ、買い物包みを抱えた、少し妙に落ち着いた子ども。それだけだった。
ただ、こちらを見る目が変だった。
初対面の相手を見る目ではない。
驚いたようで、懐かしそうで、少し痛そうな顔をしていた。すぐに隠したが、カカシは見逃さなかった。
そして忍者学校へ入って二日目。
座学は満点。
手裏剣はすべて中心付近。
組手では、相手を傷つけることなく体勢を崩した。
どれも、偶然では片づけられない。
特に組手が変だった。
相手の動きを見てから避けたのでは遅い。踏み込む前に重心の移り方を読み、進む先から身体を外していた。転びかけた相手を支えた時も、慌てて手を伸ばしたようには見えなかった。腕と背中へ手を添える位置が正確で、勢いまで殺していた。
二度目には、そのまま相手を投げた。
力任せではない。
相手の勢いを使った。
入学したばかりの子どもが、偶然できる動きではなかった。
それなのに、本人は失敗したような顔をしていた。
うまくできたことに驚いたのではない。
やりすぎたことに気づいた顔だった。
カカシは頬杖もつかず、前を向いたまま、斜め後ろの気配を拾っていた。
授業は簡単な文字と記号の確認へ移っている。教師が板へ書いた内容を、子どもたちが手元の紙へ写していた。
オビトも筆を動かしている。
速すぎない。
周囲に合わせているようにも見える。
隣のリンが一文字を書き間違え、紙を見て困った顔をした。オビトはすぐに気づいたが、答えを指で示すことはしなかった。
「そこ、一つ前の形と比べてみろよ」
小声で言う。
リンが見比べ、書き直す。
「あ、そっか。ありがとう、オビト」
「ん」
そのやり取りは自然だった。
教えることに慣れている。
そのことも引っかかる。
休み時間になれば、別の子どもが手裏剣の持ち方を聞きに来る。オビトは嫌がりもせず、自分の指を見せながら教えた。
「握りすぎると、投げる時に引っかかる。落とさないくらいでいい」
「こう?」
「もうちょい力抜いて。そう、それくらい」
言葉だけではなく、相手の手元を見て調整している。
落ちこぼれには見えない。
それどころか、ただできるだけでもない。
できない相手がどこで困っているかを見つけるのが早い。
「何見てるの」
不意に声が飛んできた。
カカシは視線を戻した。
いつの間にか、オビトがこちらを見ている。
黒い目。
額にはゴーグル。
「別に」
「さっきから見てるだろ」
「見てない」
「見てる」
「自意識過剰なんじゃないの」
短く返すと、オビトが少し顔をしかめた。
その反応も、妙に大人びていた。腹を立てるより先に、どう答えるか考えているように見える。
「……四歳児に自意識過剰って言われた」
小さく呟く。
「聞こえてる」
「聞こえるように言った」
「なら、独り言じゃないだろ」
「細かいなあ」
オビトが額を押さえた。
本当に頭が痛いような仕草だった。
カカシは目を細める。
「落ちこぼれなんでしょ」
「またそれかよ」
「違うなら違うって言えば」
「俺が言い始めたんじゃねぇって」
「でも否定してない」
オビトの口が止まった。
周囲では、ガイが別の子どもへ大きな声で話しかけている。少し離れたところでリンが紅と何か話していた。こちらへ気を向けている者はいない。
オビトは声を落とした。
「否定したら、今度は何で隠してたって言われるだろ」
「隠してたの」
「言葉の綾だよ」
返事が早い。
だが、その前にほんの短い間があった。
カカシは見逃さなかった。
「何を隠してるの」
「何も」
「嘘」
「即答すんな」
「答える前に考えた」
「普通考えるだろ」
「何もないなら考えない」
オビトは黙った。
その顔に、面倒くさい、と書いてある。
カカシは視線を外さなかった。
やはり何かある。
術を隠しているのか。
実力を隠しているのか。
誰かに教わっていたのか。
家で練習しただけなら、あの組手の動きは説明できない。手裏剣だけなら、うちはの家で教わった可能性もある。座学も祖母に習ったと言えば通る。だが、全部が揃うとおかしい。
何より、本人が自分の実力に驚いていない。
「カカシ」
リンの声がした。
二人そろって振り向く。
リンが紙を手に立っていた。
「ここの意味、分かる?」
カカシは紙へ目を落とした。簡単な方角と地図記号の問題だった。
答えようとした時、後ろで椅子が倒れる音がした。
一人の子どもが、机の脚へ足を引っかけたらしい。身体が横へ傾き、机の角へ頭をぶつけそうになる。
オビトが動いた。
カカシより先だった。
二歩。
椅子の背を片手で押さえ、反対の手で子どもの肩を支える。倒れかけた机も足で止めた。
音はした。
だが、誰も怪我をしなかった。
「大丈夫か?」
「あ……うん」
「足、痛くない?」
「平気」
「ならいいけど、次は椅子引いてから立てよ」
叱るというより、確かめる声だった。
子どもが恥ずかしそうに頷く。
教師が近づいてくるより早く、オビトは倒れた椅子を戻した。机の上から落ちた紙も拾い、持ち主へ渡す。
ごく自然に。
考えるより先に動いたように見えた。
それなのに、動きには無駄がなかった。
カカシはその一連を黙って見ていた。
「ほら」
戻ってきたオビトが、リンの紙を覗き込む。
「どこが分かんない?」
「ここ。印と方角が一緒になると、ちょっと迷って」
「ああ、それなら先に道の向きを決めればいい」
何事もなかったように説明を始める。
カカシは横から紙を見た。
「その印は、建物の入口を示してる。道の向きだけ見たら逆になる」
リンが二人の顔を交互に見る。
「……二人とも、分かるんだね」
「簡単だろ」
カカシが答える。
オビトも頷きかけ、それから少し遅れて首を傾げた。
「まあ、習ったばっかりにしては少しややこしいかもな」
カカシはその横顔を見た。
まただ。
自分が分かることより、リンがどこで迷ったかを先に考えている。
妙なやつ。
落ちこぼれという噂とは違う。
ただ優秀な子どもとも違う。
何かを隠している。
けれど、今の時点で何を隠しているのかまでは分からなかった。
放課後、カカシは一人で帰った。
昨日はリンとオビトに混ざったが、今日は父と修行する約束がある。寄り道をする理由もない。校門を出たところで後ろからガイの大きな声が聞こえたが、振り返らずに歩いた。
家へ着くと、父はすでに戻っていた。
白い髪を後ろでまとめ、台所に立っている。任務帰りらしいが、疲れた様子は表に出ていない。鍋から湯気が立ち、出汁の匂いが部屋に広がっていた。
「おかえり、カカシ」
「ただいま」
「学校はどうだった?」
靴を脱ぎながら、カカシは少し考えた。
「普通」
「そうか」
サクモは笑わなかった。
無理に聞き出そうともしない。ただ、用意していた皿を机へ置いた。
カカシは荷物を片づけ、手を洗って座る。食事が始まってしばらくしてから、口を開いた。
「父さん」
「うん?」
「この前会ったうちはの子、覚えてる?」
「オビトくんかい」
名前をすぐに出した。
カカシは箸を止める。
「知ってたの」
「彼のお父さんとは、何度か任務で一緒になったことがある」
それ以上、サクモはすぐに続けなかった。思い出を選ぶような短い間がある。
「マヒトは、静かな男だったよ。余計なことは言わないけれど、周りをよく見ていた。任せたことはきちんとやる人だった」
「オビトも?」
「カカシには、どう見えた?」
質問で返された。
カカシは少し眉を寄せた。
「変」
サクモの目がわずかに和らぐ。
「ずいぶん短いね」
「落ちこぼれって聞いてた。でも座学は全部できた。手裏剣も外さない。組手の動きもおかしい」
「おかしい?」
「入学したばかりの動きじゃない」
箸を置き、手元で動きを再現する。
「相手が踏み込む前に避けてた。転ぶ方向も分かってた。投げる時も、力を使ってない」
サクモは静かに聞いている。
「それに、誰かが困るとすぐ動く。考えてないみたいに見えるけど、失敗しない」
「よく見ていたんだね」
「見れば分かる」
「そうだね」
否定されなかったことが、少し気に入らない。
「何か隠してる」
「本人に聞いたのかい?」
「聞いた。何もないって言った」
「なら、今はそう受け取っておけばいい」
カカシは顔を上げた。
「嘘でも?」
サクモは少し考えてから答えた。
「人には、話せないこともある。話したくないこともある。それだけで悪い人間とは限らないよ」
「でも、任務なら困る」
「今は学校だ」
穏やかな声だったが、言葉ははっきりしていた。
「相手を知ろうとするのは悪くない。けれど、答えを急ぎすぎると、見えるものまで見えなくなることがある」
カカシは黙った。
納得したわけではない。
ただ、父の言葉を無視するほど軽くも考えていなかった。
「父さんは、オビトを知ってるの」
「まだ少ししか知らないよ」
サクモは湯気の向こうで、静かに目を細めた。
「けれど、マヒトの息子なら、噂だけで決めない方がいいと思っている」
マヒトの息子。
カカシはその言葉を頭の中で繰り返した。
落ちこぼれ。
うちは集落の外れの家。
ゴーグルをつけた、妙に落ち着いた子ども。
授業では満点を取り、困っている相手へ迷わず手を伸ばす。
どれも一つの形にまとまらない。
「明日も見る」
カカシが言うと、サクモは小さく笑った。
「ほどほどにね」
「何で」
「ずっと見られていると、オビトくんも落ち着かないだろう」
カカシは返事をしなかった。
落ち着かなくさせている自覚は、少しだけあった。
その日の放課後、忍者学校の職員室では、入学した子どもたちの初期評価がまとめられていた。
机の上には答案と記録用紙が積まれている。文字の理解、計算、忍具への適性、体力、反応、集団行動。教師たちは一人ずつ所見を書き込み、必要な補足を添えていく。
その中の一枚で、筆が止まった。
うちはオビト。
座学、全問正解。
手裏剣、極めて高い命中精度。
体術、同年代の水準を大きく上回る。
反応、判断ともに良好。
教師は記録を見直した。
「この子、事前の話とずいぶん違うな」
同僚が紙を覗き込む。
「うちはの外れ家の子か」
「ああ。目立った教育を受けているとは聞いていない」
「家で教わっていたんじゃないのか?」
「座学と手裏剣なら、それでも通る。だが組手が妙だった」
教師は筆先で体術欄を示した。
「勝ち方を知っているというより、相手を傷つけずに止めることへ慣れている。入学した子どもの動きには見えなかった」
「うちはなら、早いうちから身内に教わることもある」
「両親は亡くなっている。祖母と二人暮らしだ」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
記録には、朝の登校前に影分身を使っていたという話も添えられている。目撃した年配者から学校へ伝わったものだった。初歩の術とはいえ、入学二日目の子どもが複数体を動かし、それぞれ別の相手を助けていたという。
教師は紙を重ね直した。
「火影様へ上げよう」
特定の子どもだけを特別扱いするためではない。入学時点で教える側の想定を大きく外れた者がいれば、報告することになっている。
夕刻、書類は火影塔へ運ばれた。
猿飛ヒルゼンは執務机で報告を受け取り、一枚ずつ目を通した。幼い子どもたちの名と、初日の所見。できること、苦手なこと、教室での様子。
やがて、ある名で指が止まる。
うちはオビト。
ヒルゼンは書面を読み、ゆっくり煙管を置いた。
座学。
忍具。
体術。
影分身。
そして、他の子どもへ自然に手を貸す様子。
「うちはマヒトの子か」
呟きは静かだった。
外れの家で祖母と暮らす、五歳の子ども。
目立った才の報告は、これまで上がっていない。
その子が、忍者学校へ入った途端、教える側の想定を越えた結果を並べている。
ヒルゼンはもう一度、体術の所見へ目を戻した。
相手を傷つけず制する。
状況判断が早い。
動作に迷いが少ない。
しばらく考えた後、書類を閉じることはせず、机の脇へ分けた。
「少し、見ておく必要があるのう」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
窓の外では、里の夕暮れが始まっていた。
忍者学校の二日目。
うちはの落ちこぼれと呼ばれていた子どもの名が、初めて火影の机の上に置かれた。
誰かが強いと言われていても、実際に動くところを見るまでは判断しない。弱い、鈍い、才能がないと笑われている相手についても同じだった。周囲の言葉は、見る者の都合や感情で簡単に形を変える。
それでも、うちはオビトについて聞いていた話と、目の前にいる本人との間には、少しどころではない隔たりがあった。
うちは集落の端に住む子。
両親を亡くし、祖母と暮らしている。
目立った才能もなく、一族の中では落ちこぼれと呼ばれている。
入学前にカカシが知っていたのは、その程度だった。
数日前、父との修行中に見かけた時も、特別強そうには見えなかった。額にゴーグルをつけ、買い物包みを抱えた、少し妙に落ち着いた子ども。それだけだった。
ただ、こちらを見る目が変だった。
初対面の相手を見る目ではない。
驚いたようで、懐かしそうで、少し痛そうな顔をしていた。すぐに隠したが、カカシは見逃さなかった。
そして忍者学校へ入って二日目。
座学は満点。
手裏剣はすべて中心付近。
組手では、相手を傷つけることなく体勢を崩した。
どれも、偶然では片づけられない。
特に組手が変だった。
相手の動きを見てから避けたのでは遅い。踏み込む前に重心の移り方を読み、進む先から身体を外していた。転びかけた相手を支えた時も、慌てて手を伸ばしたようには見えなかった。腕と背中へ手を添える位置が正確で、勢いまで殺していた。
二度目には、そのまま相手を投げた。
力任せではない。
相手の勢いを使った。
入学したばかりの子どもが、偶然できる動きではなかった。
それなのに、本人は失敗したような顔をしていた。
うまくできたことに驚いたのではない。
やりすぎたことに気づいた顔だった。
カカシは頬杖もつかず、前を向いたまま、斜め後ろの気配を拾っていた。
授業は簡単な文字と記号の確認へ移っている。教師が板へ書いた内容を、子どもたちが手元の紙へ写していた。
オビトも筆を動かしている。
速すぎない。
周囲に合わせているようにも見える。
隣のリンが一文字を書き間違え、紙を見て困った顔をした。オビトはすぐに気づいたが、答えを指で示すことはしなかった。
「そこ、一つ前の形と比べてみろよ」
小声で言う。
リンが見比べ、書き直す。
「あ、そっか。ありがとう、オビト」
「ん」
そのやり取りは自然だった。
教えることに慣れている。
そのことも引っかかる。
休み時間になれば、別の子どもが手裏剣の持ち方を聞きに来る。オビトは嫌がりもせず、自分の指を見せながら教えた。
「握りすぎると、投げる時に引っかかる。落とさないくらいでいい」
「こう?」
「もうちょい力抜いて。そう、それくらい」
言葉だけではなく、相手の手元を見て調整している。
落ちこぼれには見えない。
それどころか、ただできるだけでもない。
できない相手がどこで困っているかを見つけるのが早い。
「何見てるの」
不意に声が飛んできた。
カカシは視線を戻した。
いつの間にか、オビトがこちらを見ている。
黒い目。
額にはゴーグル。
「別に」
「さっきから見てるだろ」
「見てない」
「見てる」
「自意識過剰なんじゃないの」
短く返すと、オビトが少し顔をしかめた。
その反応も、妙に大人びていた。腹を立てるより先に、どう答えるか考えているように見える。
「……四歳児に自意識過剰って言われた」
小さく呟く。
「聞こえてる」
「聞こえるように言った」
「なら、独り言じゃないだろ」
「細かいなあ」
オビトが額を押さえた。
本当に頭が痛いような仕草だった。
カカシは目を細める。
「落ちこぼれなんでしょ」
「またそれかよ」
「違うなら違うって言えば」
「俺が言い始めたんじゃねぇって」
「でも否定してない」
オビトの口が止まった。
周囲では、ガイが別の子どもへ大きな声で話しかけている。少し離れたところでリンが紅と何か話していた。こちらへ気を向けている者はいない。
オビトは声を落とした。
「否定したら、今度は何で隠してたって言われるだろ」
「隠してたの」
「言葉の綾だよ」
返事が早い。
だが、その前にほんの短い間があった。
カカシは見逃さなかった。
「何を隠してるの」
「何も」
「嘘」
「即答すんな」
「答える前に考えた」
「普通考えるだろ」
「何もないなら考えない」
オビトは黙った。
その顔に、面倒くさい、と書いてある。
カカシは視線を外さなかった。
やはり何かある。
術を隠しているのか。
実力を隠しているのか。
誰かに教わっていたのか。
家で練習しただけなら、あの組手の動きは説明できない。手裏剣だけなら、うちはの家で教わった可能性もある。座学も祖母に習ったと言えば通る。だが、全部が揃うとおかしい。
何より、本人が自分の実力に驚いていない。
「カカシ」
リンの声がした。
二人そろって振り向く。
リンが紙を手に立っていた。
「ここの意味、分かる?」
カカシは紙へ目を落とした。簡単な方角と地図記号の問題だった。
答えようとした時、後ろで椅子が倒れる音がした。
一人の子どもが、机の脚へ足を引っかけたらしい。身体が横へ傾き、机の角へ頭をぶつけそうになる。
オビトが動いた。
カカシより先だった。
二歩。
椅子の背を片手で押さえ、反対の手で子どもの肩を支える。倒れかけた机も足で止めた。
音はした。
だが、誰も怪我をしなかった。
「大丈夫か?」
「あ……うん」
「足、痛くない?」
「平気」
「ならいいけど、次は椅子引いてから立てよ」
叱るというより、確かめる声だった。
子どもが恥ずかしそうに頷く。
教師が近づいてくるより早く、オビトは倒れた椅子を戻した。机の上から落ちた紙も拾い、持ち主へ渡す。
ごく自然に。
考えるより先に動いたように見えた。
それなのに、動きには無駄がなかった。
カカシはその一連を黙って見ていた。
「ほら」
戻ってきたオビトが、リンの紙を覗き込む。
「どこが分かんない?」
「ここ。印と方角が一緒になると、ちょっと迷って」
「ああ、それなら先に道の向きを決めればいい」
何事もなかったように説明を始める。
カカシは横から紙を見た。
「その印は、建物の入口を示してる。道の向きだけ見たら逆になる」
リンが二人の顔を交互に見る。
「……二人とも、分かるんだね」
「簡単だろ」
カカシが答える。
オビトも頷きかけ、それから少し遅れて首を傾げた。
「まあ、習ったばっかりにしては少しややこしいかもな」
カカシはその横顔を見た。
まただ。
自分が分かることより、リンがどこで迷ったかを先に考えている。
妙なやつ。
落ちこぼれという噂とは違う。
ただ優秀な子どもとも違う。
何かを隠している。
けれど、今の時点で何を隠しているのかまでは分からなかった。
放課後、カカシは一人で帰った。
昨日はリンとオビトに混ざったが、今日は父と修行する約束がある。寄り道をする理由もない。校門を出たところで後ろからガイの大きな声が聞こえたが、振り返らずに歩いた。
家へ着くと、父はすでに戻っていた。
白い髪を後ろでまとめ、台所に立っている。任務帰りらしいが、疲れた様子は表に出ていない。鍋から湯気が立ち、出汁の匂いが部屋に広がっていた。
「おかえり、カカシ」
「ただいま」
「学校はどうだった?」
靴を脱ぎながら、カカシは少し考えた。
「普通」
「そうか」
サクモは笑わなかった。
無理に聞き出そうともしない。ただ、用意していた皿を机へ置いた。
カカシは荷物を片づけ、手を洗って座る。食事が始まってしばらくしてから、口を開いた。
「父さん」
「うん?」
「この前会ったうちはの子、覚えてる?」
「オビトくんかい」
名前をすぐに出した。
カカシは箸を止める。
「知ってたの」
「彼のお父さんとは、何度か任務で一緒になったことがある」
それ以上、サクモはすぐに続けなかった。思い出を選ぶような短い間がある。
「マヒトは、静かな男だったよ。余計なことは言わないけれど、周りをよく見ていた。任せたことはきちんとやる人だった」
「オビトも?」
「カカシには、どう見えた?」
質問で返された。
カカシは少し眉を寄せた。
「変」
サクモの目がわずかに和らぐ。
「ずいぶん短いね」
「落ちこぼれって聞いてた。でも座学は全部できた。手裏剣も外さない。組手の動きもおかしい」
「おかしい?」
「入学したばかりの動きじゃない」
箸を置き、手元で動きを再現する。
「相手が踏み込む前に避けてた。転ぶ方向も分かってた。投げる時も、力を使ってない」
サクモは静かに聞いている。
「それに、誰かが困るとすぐ動く。考えてないみたいに見えるけど、失敗しない」
「よく見ていたんだね」
「見れば分かる」
「そうだね」
否定されなかったことが、少し気に入らない。
「何か隠してる」
「本人に聞いたのかい?」
「聞いた。何もないって言った」
「なら、今はそう受け取っておけばいい」
カカシは顔を上げた。
「嘘でも?」
サクモは少し考えてから答えた。
「人には、話せないこともある。話したくないこともある。それだけで悪い人間とは限らないよ」
「でも、任務なら困る」
「今は学校だ」
穏やかな声だったが、言葉ははっきりしていた。
「相手を知ろうとするのは悪くない。けれど、答えを急ぎすぎると、見えるものまで見えなくなることがある」
カカシは黙った。
納得したわけではない。
ただ、父の言葉を無視するほど軽くも考えていなかった。
「父さんは、オビトを知ってるの」
「まだ少ししか知らないよ」
サクモは湯気の向こうで、静かに目を細めた。
「けれど、マヒトの息子なら、噂だけで決めない方がいいと思っている」
マヒトの息子。
カカシはその言葉を頭の中で繰り返した。
落ちこぼれ。
うちは集落の外れの家。
ゴーグルをつけた、妙に落ち着いた子ども。
授業では満点を取り、困っている相手へ迷わず手を伸ばす。
どれも一つの形にまとまらない。
「明日も見る」
カカシが言うと、サクモは小さく笑った。
「ほどほどにね」
「何で」
「ずっと見られていると、オビトくんも落ち着かないだろう」
カカシは返事をしなかった。
落ち着かなくさせている自覚は、少しだけあった。
その日の放課後、忍者学校の職員室では、入学した子どもたちの初期評価がまとめられていた。
机の上には答案と記録用紙が積まれている。文字の理解、計算、忍具への適性、体力、反応、集団行動。教師たちは一人ずつ所見を書き込み、必要な補足を添えていく。
その中の一枚で、筆が止まった。
うちはオビト。
座学、全問正解。
手裏剣、極めて高い命中精度。
体術、同年代の水準を大きく上回る。
反応、判断ともに良好。
教師は記録を見直した。
「この子、事前の話とずいぶん違うな」
同僚が紙を覗き込む。
「うちはの外れ家の子か」
「ああ。目立った教育を受けているとは聞いていない」
「家で教わっていたんじゃないのか?」
「座学と手裏剣なら、それでも通る。だが組手が妙だった」
教師は筆先で体術欄を示した。
「勝ち方を知っているというより、相手を傷つけずに止めることへ慣れている。入学した子どもの動きには見えなかった」
「うちはなら、早いうちから身内に教わることもある」
「両親は亡くなっている。祖母と二人暮らしだ」
二人の間に短い沈黙が落ちた。
記録には、朝の登校前に影分身を使っていたという話も添えられている。目撃した年配者から学校へ伝わったものだった。初歩の術とはいえ、入学二日目の子どもが複数体を動かし、それぞれ別の相手を助けていたという。
教師は紙を重ね直した。
「火影様へ上げよう」
特定の子どもだけを特別扱いするためではない。入学時点で教える側の想定を大きく外れた者がいれば、報告することになっている。
夕刻、書類は火影塔へ運ばれた。
猿飛ヒルゼンは執務机で報告を受け取り、一枚ずつ目を通した。幼い子どもたちの名と、初日の所見。できること、苦手なこと、教室での様子。
やがて、ある名で指が止まる。
うちはオビト。
ヒルゼンは書面を読み、ゆっくり煙管を置いた。
座学。
忍具。
体術。
影分身。
そして、他の子どもへ自然に手を貸す様子。
「うちはマヒトの子か」
呟きは静かだった。
外れの家で祖母と暮らす、五歳の子ども。
目立った才の報告は、これまで上がっていない。
その子が、忍者学校へ入った途端、教える側の想定を越えた結果を並べている。
ヒルゼンはもう一度、体術の所見へ目を戻した。
相手を傷つけず制する。
状況判断が早い。
動作に迷いが少ない。
しばらく考えた後、書類を閉じることはせず、机の脇へ分けた。
「少し、見ておく必要があるのう」
誰に聞かせるでもなく、そう言った。
窓の外では、里の夕暮れが始まっていた。
忍者学校の二日目。
うちはの落ちこぼれと呼ばれていた子どもの名が、初めて火影の机の上に置かれた。
【〆栞】