祓除
忍者学校へ通い始めて、一週間が過ぎた。
結論から言えば、五歳児は難しい。
授業の内容そのものではない。文字も計算も、忍具の基礎も、身体の使い方も、困るほどではなかった。むしろ、できすぎることの方が問題だった。分かる問題を適度に迷い、避けられる攻撃を少し遅れて避け、投げれば当たる手裏剣を不自然にならない場所へ散らす。
それらを同時に考えながら、周囲の子どもに合わせて振る舞う。
宿儺と殴り合うより神経を使う。
少なくとも、今のオビトにはそう思えた。
そのうえ、カカシがいる。
「今の、わざと外したでしょ」
放課後の帰り道、隣を歩く白い頭が、また妙に鋭いことを言った。
「何の話だよ」
「手裏剣」
「外れただけだって」
「昨日は三枚とも同じ場所に当てた」
「昨日が調子良かったんじゃね?」
「今日は投げる前に的の端を見てた」
可愛げがねぇ。
オビトは心の中で吐き捨てた。
四歳児だぞ。
もう少し子どもらしく、失敗を見て笑うとか、素直に信じるとか、そういう可愛らしい反応があってもいいのではないか。どうして投げる前の視線まで確認している。忍者学校へ入って一週間の子どもがする観察ではない。
いや、こちらが言えることではなかった。
中身を考えれば、圧倒的に自分の方が反則である。
「カカシ、そんなにオビトのこと見てたの?」
二人の間を歩いていたリンが、柔らかく首を傾げた。
カカシの足が、ほんの少しだけ鈍る。
「見てない」
「見てるだろ」
オビトが即座に返すと、カカシの目が細くなった。
「オビトが変なことするから目につくだけ」
「俺は普通に授業受けてんの」
「普通?」
「そこで疑問形にすんな」
「二人とも、また喧嘩?」
リンが困ったように笑う。
「喧嘩じゃない」
「こいつが勝手に絡んでくるだけ」
返事が重なった。
リンは一度瞬きをし、それから小さく笑った。
「息ぴったりだね」
「どこが」
今度も二人の声が揃った。
リンの笑みが少し深くなる。
天使だ。
オビトの胸中に、反射的な言葉が浮かんだ。
待て。
踏み止まれ、五十七歳。
いや、その年齢概念は廃棄したはずだ。三十一と二十一と五を足すな。足したところで何の意味もない。今ここにいる自分は五歳で、リンも五歳。娘だの孫だのと考え始めるから情緒がおかしくなる。
オビトは心の中に十トンほどありそうな巨大な槌を用意し、精神年齢という札ごと叩き割った。
砕けろ。
粉々になれ。
今だけは子どもになれ、俺。
「オビト?」
リンが顔を覗き込んでいた。
「何でもない」
「急に遠い目してたけど」
「ちょっと自分の中の余計な概念を壊してた」
「何それ」
リンは不思議そうに笑った。
カカシは笑わなかった。
「やっぱり変」
「お前にだけは言われたくねぇよ」
「オレのどこが変なの」
「四歳のくせに人の手裏剣投げる前の視線まで見てるところ」
「見るでしょ、普通」
「見ねぇよ」
「見れば分かる」
「だから可愛げがねぇんだよ」
口に出た。
カカシが足を止めた。
「……可愛げ?」
しまった。
オビトも止まる。
リンが二人を交互に見た。
カカシの顔は無表情に近かったが、目だけが明らかに不機嫌になっている。四歳児の男児に可愛げを求める五歳児。言葉だけ拾うと、かなり妙だった。
「言葉の綾」
「便利だね、それ」
「覚えなくていいからな」
「使ってる本人が言う?」
また刺された。
本当に可愛げがない。
けれど、その生意気な返しも、短い言葉も、前々世で知っていたカカシによく似ていた。まだ父を失っていない。まだ、すべてを規則で切り分けるほど硬くはなっていない。それでも元から持っている鋭さと不器用さは、もう十分に表へ出ている。
オビトは一瞬だけ、白い横顔を見た。
カカシがすぐにこちらを振り向く。
「何」
「別に」
「今見てた」
「自意識過剰なんじゃないの」
前に言われた言葉をそのまま返すと、カカシの眉間に皺が寄った。
少しだけ勝った気がした。
「ほら、二人とも。置いていくよ」
先へ進んだリンが振り返り、手を振る。
オビトとカカシは顔を見合わせた。
「お前のせいで遅れた」
「オビトが止まったんでしょ」
「先に止まったのはカカシだろ」
言い合いながら、二人でリンを追う。
学校へ通い始めてから、一緒に帰るのはこれで何度目かになる。毎日ではない。カカシが父との修行で先に帰る日もあれば、リンが家の用事で別の道を選ぶ日もある。それでも、三人の帰り道は少しずつ増えていた。
リンが話す。
オビトが答える。
カカシが横から刺す。
オビトが言い返す。
リンが笑う。
まだ友人と呼ぶには、カカシとの間に棘が多い。カカシはオビトを疑っているし、オビトもそれを分かっている。けれど、同じ道を歩くこと自体は、いつの間にか不自然ではなくなっていた。
分かれ道で、リンが足を止めた。
「じゃあ、また明日ね」
「また明日」
オビトが手を上げる。
カカシは小さく頷いた。
「また明日、カカシ」
リンに名を呼ばれ、カカシは一拍置いてから答えた。
「うん」
短いが、最初の頃よりわずかに硬さが薄い。
リンが道の向こうへ消えるまで見送ったあと、オビトは自分の家へ続く方角へ足を向けた。カカシも途中までは同じ道だ。
「なあ」
「何」
「毎回俺のこと見張るのやめろよ」
「見張ってない」
「じゃあ観察」
「オビトが隠すのをやめたら、見る必要もなくなる」
「何も隠してねぇって」
「嘘」
「即答すんなって何回言わせんだ」
カカシは返事をせず、前を向いた。
しばらく歩いたところで道が分かれる。
「じゃあな」
オビトが言うと、カカシは足を止めないまま片手をわずかに上げた。
「明日」
可愛げがない。
だが、それでいい。
オビトは小さく笑い、自宅へ戻った。
家では祖母ちゃんが夕飯の支度を始めていた。台所には切った野菜が並び、鍋から湯気が立っている。
「おかえり、オビト」
「ただいま」
「悪いけど、味噌を買ってきてくれるかい。少し足りなくてね」
「いいよ」
鞄を置くと、祖母ちゃんが小さな財布を差し出した。
「日が落ちる前に戻るんだよ」
「分かってる」
「寄り道しない」
「しない」
「困ってる人を見つけても、周りを見てから」
「……分かってるって」
最後だけ返事が少し遅れた。
祖母ちゃんの目が細くなる。
「その間が心配なんよ」
「ちゃんと帰ってくるから」
「当たり前だよ」
以前にも交わした言葉だった。
オビトはゴーグルの位置を直し、財布を握って家を出た。
夕方の里は、昼とは違う顔をしている。
任務帰りの忍が通り、店先では夕餉の品を求める者たちが行き交う。家々から煮炊きの匂いが漂い、子どもを呼ぶ声が道の向こうから聞こえる。日が傾き、長く伸びた影が塀や屋根へ重なっていた。
その影の中に、異形がいる。
学校へ通い始めてから、日中は意識して見ないようにしていた。見えても、すぐに反応しない。人前で何もない場所を目で追えば、不審に思われる。低級のものなら、通り過ぎるまで放っておくこともある。
だが、数を改めて見ると多い。
塀に張りつく、痩せた手のようなもの。
軒下に丸まる、黒い肉塊。
人混みの隙間を這い、誰かの肩へ指を伸ばす細長い影。
戦の最中だ。
人が死ぬ。
残された者が嘆く。
任務へ向かう者は恐れ、帰りを待つ者は不安を抱える。憎しみも、後悔も、怒りも、悲しみも、行き場を失ったまま里の中へ積もっている。
第三次忍界大戦絡みだろうな。
すべてが戦だけから生まれたわけではないにせよ、これだけ感情が乱れれば増えるのも当然だった。
人がいるだけ、呪いは生まれる。
当たり前か。
オビトは歩調を変えず、周囲を見渡した。
すべて祓えばいいというものでもない。
形を得たばかりで、誰にも触れず、ただ薄暗い場所へ留まっているもの。力も弱く、害意すら定まっていないものまで追い回せば、時間がいくらあっても足りない。
人へ明確に手を伸ばすもの。
身体や心へ取りつこうとするもの。
放置すれば育ち、害を及ぼす可能性が高いもの。
まずはそこを基準にする。
味噌を買いに出ただけだ。
祖母ちゃんを待たせるわけにはいかない。
オビトは人の流れへ紛れながら、細く意識を広げた。
店の軒先。
老婆の背後へ、歪んだ口を開いた呪霊が近づいている。
視線は向けない。
指先も動かさない。
ただ、呪力で対象を捉える。
「解」
声にはしなかった。
細い切断が走る。
呪霊の身体が音もなく分かれ、黒い塵となって消えた。老婆は何も知らず、買った野菜を籠へ入れている。
少し先では、犬ほどの大きさの呪霊が、泣いている幼子の影へ潜ろうとしていた。
形と強度を測る。
先ほどより硬い。
「捌」
相手に合わせて切断が走る。
黒い身体が細かく裂け、地面へ届く前に崩れた。
便利だ。
便利すぎる。
宿儺の術式、有能すぎて草なんだが。
奪っておいて良かった。
ありがとう、呪いの王。
どこかで宿儺が聞いていれば、軽くどころではなく怒る気がする。自分の術式を、五歳児が夕飯の買い物ついでに低級呪霊の処理へ使っているのだ。しかも感謝までされている。
不敬にもほどがある。
だが、使えるものは使う。
写輪眼に焼きついた術の構造は、すでに自分の中へ落ちている。元の持ち主がどう思うかは知らない。もう殴り合うこともないのだから、文句があるなら夢にでも出てくればいい。
いや、出てくるな。
睡眠の質が落ちる。
味噌を買い、包みを受け取る。
帰り道へ入る頃には、日はさらに傾いていた。人通りの少ない路地を選び、オビトは一度立ち止まる。
屋根の上に一体。
井戸の陰に二体。
道の先に、複数の小さな気配。
人目はない。
オビトは近くの桶へ視線を向けた。底に少しだけ残った水が震える。細い糸となって持ち上がり、空中で幾つにも分かれた。
血を操る時と同じ。
圧縮。
加速。
軌道を変える。
水の針が音もなく飛ぶ。
屋根の上の呪霊を貫き、そのまま軌道を折って井戸の陰へ回る。一体の喉を裂き、もう一体の胴へ巻きつく。逃げようとした黒い塊を水の糸が締め上げた。
赤血操術の運用練習にもなるな。
血では目立つ。
水なら、多少の痕跡が残っても不自然ではない。周囲の水分を拾い、形を与え、速度と圧力を制御する。術式そのものを知らない者が見れば、特殊な水遁にしか見えないだろう。
水の糸をほどく。
残った呪霊が壁を這い、屋根へ逃れようとした。
オビトは指を軽く上げた。
水滴が一点へ集まる。
圧縮された水が、細い線となって放たれた。
呪霊の頭部を貫き、その背後の壁へ小さな傷を残す。
「……ちょっと強いな」
威力を落とす必要がある。
呪霊だけを抜き、建物には届かせない。前世なら周囲を気にせず祓う場面もあったが、ここは木ノ葉の里だ。家も、道も、人の暮らしもある。術の出力より、止める位置の方が大事になる。
また調整しよう。
水を桶へ戻し、壁の傷へ手を触れる。浅い。目立つほどではない。念のため、土と水で表面を馴染ませておく。
そこまでしてから、オビトは味噌の包みを抱え直した。
自分は今、何をしているのだろう。
忍者学校の帰りに、祖母ちゃんから夕飯の買い物を頼まれ、道すがら呪霊を選別して祓い、宿儺の術式を使い、水で赤血操術の練習をしている。
五歳児の夕方ではない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
呪いを見つける。
害を測る。
必要なら祓う。
誰にも知られず、誰かが傷つく前に終わらせる。
その判断は、もう身体の深いところへ根づいている。
前々世の自分なら、想像もしなかっただろう。
忍として生まれ、うちはの名を背負い、火影を夢見て、やがて世界を敵に回した自分が、別の世界で呪術師になった。呪いを見て、祓い、反転術式で人を治し、仲間と並んで戦った。
その時間は、今も自分の中にある。
「根っこは、もう呪術師なんだな」
小さく呟き、オビトは苦笑した。
忍であることを捨てたわけではない。
うちはであることも、木ノ葉の子であることも変わらない。
ただ、その根に別のものが絡んでいる。血とチャクラだけではない。呪力と術式、前世で得た戦い方、人を救うために選び続けた判断。
どちらか一つではなく、全部が自分なのだろう。
路地の出口へ近づいた時、背後で小さな気配が動いた。
振り返る。
塀の上に、子どもの顔ほどの呪霊が一体いた。こちらを見ている。人へ近づく様子はなく、ただ身体を丸めて震えていた。
オビトは少しだけ観察した。
害意は薄い。
力も弱い。
今すぐ祓う必要はない。
「そっちから出てくんなよ」
通じるとは思わず、低く言う。
呪霊は首らしき部分を引っ込めた。
オビトはそれ以上構わず、歩き出した。
全部を祓う必要はない。
全部へ手を伸ばせるわけでもない。
だが、害を成すものは見過ごさない。
今は、それでいい。
家へ戻ると、空にはまだわずかに明るさが残っていた。
「ただいま」
「おかえり。遅くならなかったね」
祖母ちゃんが台所から顔を出す。
「味噌」
「ありがとう」
包みを渡すと、祖母ちゃんはオビトの服へ目を向けた。土もついていない。水も跳ねていない。呪霊を祓ってきたことなど、当然分かるはずもない。
「寄り道しなかったかい」
「してない」
祓除は道中である。
たぶん寄り道には入らない。
祖母ちゃんは少し疑わしそうに見たが、やがて味噌の包みを開いた。
「手を洗っておいで」
「はーい」
オビトは素直に返事をし、手洗い場へ向かった。
水に触れた指先へ、先ほど操った感覚がわずかに残っている。水の針。糸。圧縮。切断。まだ調整できる。もっと小さく、もっと正確に、周囲へ何も残さず祓える。
考え始めてから、ふと止まった。
夕飯前だ。
今は術のことより、手を洗う。
当たり前の生活を守るために祓っているのに、術のことばかり考えて日常を置き去りにしたら本末転倒だ。
台所から祖母ちゃんの声が飛んだ。
「オビト、ぼんやりしてないで早くおし」
「分かってるって」
返事をして、手を洗う。
湯気の立つ鍋。
味噌の匂い。
祖母ちゃんの背中。
外では、見えない呪いがまだ蠢いている。
それでも家の中には、夕飯を待つ時間があった。
オビトは布で手を拭き、台所へ戻った。
結論から言えば、五歳児は難しい。
授業の内容そのものではない。文字も計算も、忍具の基礎も、身体の使い方も、困るほどではなかった。むしろ、できすぎることの方が問題だった。分かる問題を適度に迷い、避けられる攻撃を少し遅れて避け、投げれば当たる手裏剣を不自然にならない場所へ散らす。
それらを同時に考えながら、周囲の子どもに合わせて振る舞う。
宿儺と殴り合うより神経を使う。
少なくとも、今のオビトにはそう思えた。
そのうえ、カカシがいる。
「今の、わざと外したでしょ」
放課後の帰り道、隣を歩く白い頭が、また妙に鋭いことを言った。
「何の話だよ」
「手裏剣」
「外れただけだって」
「昨日は三枚とも同じ場所に当てた」
「昨日が調子良かったんじゃね?」
「今日は投げる前に的の端を見てた」
可愛げがねぇ。
オビトは心の中で吐き捨てた。
四歳児だぞ。
もう少し子どもらしく、失敗を見て笑うとか、素直に信じるとか、そういう可愛らしい反応があってもいいのではないか。どうして投げる前の視線まで確認している。忍者学校へ入って一週間の子どもがする観察ではない。
いや、こちらが言えることではなかった。
中身を考えれば、圧倒的に自分の方が反則である。
「カカシ、そんなにオビトのこと見てたの?」
二人の間を歩いていたリンが、柔らかく首を傾げた。
カカシの足が、ほんの少しだけ鈍る。
「見てない」
「見てるだろ」
オビトが即座に返すと、カカシの目が細くなった。
「オビトが変なことするから目につくだけ」
「俺は普通に授業受けてんの」
「普通?」
「そこで疑問形にすんな」
「二人とも、また喧嘩?」
リンが困ったように笑う。
「喧嘩じゃない」
「こいつが勝手に絡んでくるだけ」
返事が重なった。
リンは一度瞬きをし、それから小さく笑った。
「息ぴったりだね」
「どこが」
今度も二人の声が揃った。
リンの笑みが少し深くなる。
天使だ。
オビトの胸中に、反射的な言葉が浮かんだ。
待て。
踏み止まれ、五十七歳。
いや、その年齢概念は廃棄したはずだ。三十一と二十一と五を足すな。足したところで何の意味もない。今ここにいる自分は五歳で、リンも五歳。娘だの孫だのと考え始めるから情緒がおかしくなる。
オビトは心の中に十トンほどありそうな巨大な槌を用意し、精神年齢という札ごと叩き割った。
砕けろ。
粉々になれ。
今だけは子どもになれ、俺。
「オビト?」
リンが顔を覗き込んでいた。
「何でもない」
「急に遠い目してたけど」
「ちょっと自分の中の余計な概念を壊してた」
「何それ」
リンは不思議そうに笑った。
カカシは笑わなかった。
「やっぱり変」
「お前にだけは言われたくねぇよ」
「オレのどこが変なの」
「四歳のくせに人の手裏剣投げる前の視線まで見てるところ」
「見るでしょ、普通」
「見ねぇよ」
「見れば分かる」
「だから可愛げがねぇんだよ」
口に出た。
カカシが足を止めた。
「……可愛げ?」
しまった。
オビトも止まる。
リンが二人を交互に見た。
カカシの顔は無表情に近かったが、目だけが明らかに不機嫌になっている。四歳児の男児に可愛げを求める五歳児。言葉だけ拾うと、かなり妙だった。
「言葉の綾」
「便利だね、それ」
「覚えなくていいからな」
「使ってる本人が言う?」
また刺された。
本当に可愛げがない。
けれど、その生意気な返しも、短い言葉も、前々世で知っていたカカシによく似ていた。まだ父を失っていない。まだ、すべてを規則で切り分けるほど硬くはなっていない。それでも元から持っている鋭さと不器用さは、もう十分に表へ出ている。
オビトは一瞬だけ、白い横顔を見た。
カカシがすぐにこちらを振り向く。
「何」
「別に」
「今見てた」
「自意識過剰なんじゃないの」
前に言われた言葉をそのまま返すと、カカシの眉間に皺が寄った。
少しだけ勝った気がした。
「ほら、二人とも。置いていくよ」
先へ進んだリンが振り返り、手を振る。
オビトとカカシは顔を見合わせた。
「お前のせいで遅れた」
「オビトが止まったんでしょ」
「先に止まったのはカカシだろ」
言い合いながら、二人でリンを追う。
学校へ通い始めてから、一緒に帰るのはこれで何度目かになる。毎日ではない。カカシが父との修行で先に帰る日もあれば、リンが家の用事で別の道を選ぶ日もある。それでも、三人の帰り道は少しずつ増えていた。
リンが話す。
オビトが答える。
カカシが横から刺す。
オビトが言い返す。
リンが笑う。
まだ友人と呼ぶには、カカシとの間に棘が多い。カカシはオビトを疑っているし、オビトもそれを分かっている。けれど、同じ道を歩くこと自体は、いつの間にか不自然ではなくなっていた。
分かれ道で、リンが足を止めた。
「じゃあ、また明日ね」
「また明日」
オビトが手を上げる。
カカシは小さく頷いた。
「また明日、カカシ」
リンに名を呼ばれ、カカシは一拍置いてから答えた。
「うん」
短いが、最初の頃よりわずかに硬さが薄い。
リンが道の向こうへ消えるまで見送ったあと、オビトは自分の家へ続く方角へ足を向けた。カカシも途中までは同じ道だ。
「なあ」
「何」
「毎回俺のこと見張るのやめろよ」
「見張ってない」
「じゃあ観察」
「オビトが隠すのをやめたら、見る必要もなくなる」
「何も隠してねぇって」
「嘘」
「即答すんなって何回言わせんだ」
カカシは返事をせず、前を向いた。
しばらく歩いたところで道が分かれる。
「じゃあな」
オビトが言うと、カカシは足を止めないまま片手をわずかに上げた。
「明日」
可愛げがない。
だが、それでいい。
オビトは小さく笑い、自宅へ戻った。
家では祖母ちゃんが夕飯の支度を始めていた。台所には切った野菜が並び、鍋から湯気が立っている。
「おかえり、オビト」
「ただいま」
「悪いけど、味噌を買ってきてくれるかい。少し足りなくてね」
「いいよ」
鞄を置くと、祖母ちゃんが小さな財布を差し出した。
「日が落ちる前に戻るんだよ」
「分かってる」
「寄り道しない」
「しない」
「困ってる人を見つけても、周りを見てから」
「……分かってるって」
最後だけ返事が少し遅れた。
祖母ちゃんの目が細くなる。
「その間が心配なんよ」
「ちゃんと帰ってくるから」
「当たり前だよ」
以前にも交わした言葉だった。
オビトはゴーグルの位置を直し、財布を握って家を出た。
夕方の里は、昼とは違う顔をしている。
任務帰りの忍が通り、店先では夕餉の品を求める者たちが行き交う。家々から煮炊きの匂いが漂い、子どもを呼ぶ声が道の向こうから聞こえる。日が傾き、長く伸びた影が塀や屋根へ重なっていた。
その影の中に、異形がいる。
学校へ通い始めてから、日中は意識して見ないようにしていた。見えても、すぐに反応しない。人前で何もない場所を目で追えば、不審に思われる。低級のものなら、通り過ぎるまで放っておくこともある。
だが、数を改めて見ると多い。
塀に張りつく、痩せた手のようなもの。
軒下に丸まる、黒い肉塊。
人混みの隙間を這い、誰かの肩へ指を伸ばす細長い影。
戦の最中だ。
人が死ぬ。
残された者が嘆く。
任務へ向かう者は恐れ、帰りを待つ者は不安を抱える。憎しみも、後悔も、怒りも、悲しみも、行き場を失ったまま里の中へ積もっている。
第三次忍界大戦絡みだろうな。
すべてが戦だけから生まれたわけではないにせよ、これだけ感情が乱れれば増えるのも当然だった。
人がいるだけ、呪いは生まれる。
当たり前か。
オビトは歩調を変えず、周囲を見渡した。
すべて祓えばいいというものでもない。
形を得たばかりで、誰にも触れず、ただ薄暗い場所へ留まっているもの。力も弱く、害意すら定まっていないものまで追い回せば、時間がいくらあっても足りない。
人へ明確に手を伸ばすもの。
身体や心へ取りつこうとするもの。
放置すれば育ち、害を及ぼす可能性が高いもの。
まずはそこを基準にする。
味噌を買いに出ただけだ。
祖母ちゃんを待たせるわけにはいかない。
オビトは人の流れへ紛れながら、細く意識を広げた。
店の軒先。
老婆の背後へ、歪んだ口を開いた呪霊が近づいている。
視線は向けない。
指先も動かさない。
ただ、呪力で対象を捉える。
「解」
声にはしなかった。
細い切断が走る。
呪霊の身体が音もなく分かれ、黒い塵となって消えた。老婆は何も知らず、買った野菜を籠へ入れている。
少し先では、犬ほどの大きさの呪霊が、泣いている幼子の影へ潜ろうとしていた。
形と強度を測る。
先ほどより硬い。
「捌」
相手に合わせて切断が走る。
黒い身体が細かく裂け、地面へ届く前に崩れた。
便利だ。
便利すぎる。
宿儺の術式、有能すぎて草なんだが。
奪っておいて良かった。
ありがとう、呪いの王。
どこかで宿儺が聞いていれば、軽くどころではなく怒る気がする。自分の術式を、五歳児が夕飯の買い物ついでに低級呪霊の処理へ使っているのだ。しかも感謝までされている。
不敬にもほどがある。
だが、使えるものは使う。
写輪眼に焼きついた術の構造は、すでに自分の中へ落ちている。元の持ち主がどう思うかは知らない。もう殴り合うこともないのだから、文句があるなら夢にでも出てくればいい。
いや、出てくるな。
睡眠の質が落ちる。
味噌を買い、包みを受け取る。
帰り道へ入る頃には、日はさらに傾いていた。人通りの少ない路地を選び、オビトは一度立ち止まる。
屋根の上に一体。
井戸の陰に二体。
道の先に、複数の小さな気配。
人目はない。
オビトは近くの桶へ視線を向けた。底に少しだけ残った水が震える。細い糸となって持ち上がり、空中で幾つにも分かれた。
血を操る時と同じ。
圧縮。
加速。
軌道を変える。
水の針が音もなく飛ぶ。
屋根の上の呪霊を貫き、そのまま軌道を折って井戸の陰へ回る。一体の喉を裂き、もう一体の胴へ巻きつく。逃げようとした黒い塊を水の糸が締め上げた。
赤血操術の運用練習にもなるな。
血では目立つ。
水なら、多少の痕跡が残っても不自然ではない。周囲の水分を拾い、形を与え、速度と圧力を制御する。術式そのものを知らない者が見れば、特殊な水遁にしか見えないだろう。
水の糸をほどく。
残った呪霊が壁を這い、屋根へ逃れようとした。
オビトは指を軽く上げた。
水滴が一点へ集まる。
圧縮された水が、細い線となって放たれた。
呪霊の頭部を貫き、その背後の壁へ小さな傷を残す。
「……ちょっと強いな」
威力を落とす必要がある。
呪霊だけを抜き、建物には届かせない。前世なら周囲を気にせず祓う場面もあったが、ここは木ノ葉の里だ。家も、道も、人の暮らしもある。術の出力より、止める位置の方が大事になる。
また調整しよう。
水を桶へ戻し、壁の傷へ手を触れる。浅い。目立つほどではない。念のため、土と水で表面を馴染ませておく。
そこまでしてから、オビトは味噌の包みを抱え直した。
自分は今、何をしているのだろう。
忍者学校の帰りに、祖母ちゃんから夕飯の買い物を頼まれ、道すがら呪霊を選別して祓い、宿儺の術式を使い、水で赤血操術の練習をしている。
五歳児の夕方ではない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
呪いを見つける。
害を測る。
必要なら祓う。
誰にも知られず、誰かが傷つく前に終わらせる。
その判断は、もう身体の深いところへ根づいている。
前々世の自分なら、想像もしなかっただろう。
忍として生まれ、うちはの名を背負い、火影を夢見て、やがて世界を敵に回した自分が、別の世界で呪術師になった。呪いを見て、祓い、反転術式で人を治し、仲間と並んで戦った。
その時間は、今も自分の中にある。
「根っこは、もう呪術師なんだな」
小さく呟き、オビトは苦笑した。
忍であることを捨てたわけではない。
うちはであることも、木ノ葉の子であることも変わらない。
ただ、その根に別のものが絡んでいる。血とチャクラだけではない。呪力と術式、前世で得た戦い方、人を救うために選び続けた判断。
どちらか一つではなく、全部が自分なのだろう。
路地の出口へ近づいた時、背後で小さな気配が動いた。
振り返る。
塀の上に、子どもの顔ほどの呪霊が一体いた。こちらを見ている。人へ近づく様子はなく、ただ身体を丸めて震えていた。
オビトは少しだけ観察した。
害意は薄い。
力も弱い。
今すぐ祓う必要はない。
「そっちから出てくんなよ」
通じるとは思わず、低く言う。
呪霊は首らしき部分を引っ込めた。
オビトはそれ以上構わず、歩き出した。
全部を祓う必要はない。
全部へ手を伸ばせるわけでもない。
だが、害を成すものは見過ごさない。
今は、それでいい。
家へ戻ると、空にはまだわずかに明るさが残っていた。
「ただいま」
「おかえり。遅くならなかったね」
祖母ちゃんが台所から顔を出す。
「味噌」
「ありがとう」
包みを渡すと、祖母ちゃんはオビトの服へ目を向けた。土もついていない。水も跳ねていない。呪霊を祓ってきたことなど、当然分かるはずもない。
「寄り道しなかったかい」
「してない」
祓除は道中である。
たぶん寄り道には入らない。
祖母ちゃんは少し疑わしそうに見たが、やがて味噌の包みを開いた。
「手を洗っておいで」
「はーい」
オビトは素直に返事をし、手洗い場へ向かった。
水に触れた指先へ、先ほど操った感覚がわずかに残っている。水の針。糸。圧縮。切断。まだ調整できる。もっと小さく、もっと正確に、周囲へ何も残さず祓える。
考え始めてから、ふと止まった。
夕飯前だ。
今は術のことより、手を洗う。
当たり前の生活を守るために祓っているのに、術のことばかり考えて日常を置き去りにしたら本末転倒だ。
台所から祖母ちゃんの声が飛んだ。
「オビト、ぼんやりしてないで早くおし」
「分かってるって」
返事をして、手を洗う。
湯気の立つ鍋。
味噌の匂い。
祖母ちゃんの背中。
外では、見えない呪いがまだ蠢いている。
それでも家の中には、夕飯を待つ時間があった。
オビトは布で手を拭き、台所へ戻った。
【〆栞】