授業風景
忍者学校へ入ってからというもの、うちはオビトの悩みは一向に減らなかった。
むしろ増えている。
手裏剣。
組手。
忍術。
座学。
何をやっても、それなりにできてしまう。
いや、それなりどころではない。気を抜けば満点。慎重に抑えても上位。わざと失敗しようとすると、今度は動きや視線が不自然になり、カカシの目が刺さる。
何度目か分からない満点の記録を前に、オビトは机へ突っ伏したくなる衝動と戦っていた。
無理。
五歳児、無理。
ほんと無理。
前々世では忍として三十一年を生きた。前世では呪術師として二十一年を過ごした。戦い、学び、教え、報告書を書き、呪術界の面倒な仕組みに揉まれ、特級として各地へ駆り出された。
そんな人間が、入学したばかりの五歳児として振る舞う。
どう考えても無理がある。
さらに、呪力とチャクラの総量が桁違いだった。
学校で教わる初歩の練り方に合わせ、ほんの少しだけ動かしたつもりでも、教師の想定より安定してしまう。術を成立させないよう出力を落とせば、今度は制御だけが妙に精密になる。
力を出せば目立つ。
抑えても目立つ。
どうしろと。
脳内で、白い髪の男が腹を抱えて笑っていた。
『いやあ、さすが最強の教え子。五歳児にもなれないんだ?』
うざっ。
オビトは心の中で五条悟の幻を蹴り飛ばした。
本人が生きていた頃なら、絶対に言う。むしろもっと腹の立つ言い方をする。笑いながら頭を撫で、こちらが怒ればさらに楽しむところまで見える。
前世の師を思い出して懐かしむ場面のはずなのに、最初に出てくる感情が苛立ちなのはどうなんだろう。
まあ、五条先生だしな。
教室の外では、手裏剣の授業が行われていた。
一列に並び、順番に的へ投げる。以前より距離が少し伸びている。教師は命中位置だけでなく、構え、足運び、投げた後の姿勢も見ていた。
ガイの手裏剣が的の外縁へ刺さる。
「よしっ!」
当たったこと自体が嬉しいらしい。拳を握り、全身で喜んでいる。次の一枚は外れたが、落ち込むより先に姿勢を直した。
真っ直ぐだ。
見ているとこちらまで少し元気になる。
アスマは面倒そうな顔をしながら、きちんと的へ当てた。紅も慎重に狙い、中心から少し外れた位置へ刺す。リンは一枚目を外したものの、教師の助言を聞いて二枚目を当てた。
カカシの番になる。
小さな身体が的へ向く。余計な力はない。三枚の手裏剣が続けて飛び、狭い範囲へまとまって刺さった。
周囲から声が上がる。
カカシは振り返らない。
当然の結果だと言わんばかりに列へ戻り、その途中でオビトを見た。
来る。
次は自分だ。
「うちはオビト」
教師に呼ばれ、前へ出る。
手裏剣を持つ。
今日は中心を避ける。
ただし、わざと外したと分かるような投げ方はしない。的の内側、中心から少し離れた場所。それくらいなら十分な成績でありながら、教師を引かせることもない。
一枚目。
中心から指二本ほど外。
いい。
二枚目。
一枚目の少し下。
これもいい。
三枚目。
別の場所へ散らす。
そう思って投げた手裏剣は、最初の二枚の間へ刺さった。
狭い範囲へ三角形を作るように。
やった。
いや、やってない。
何でまとまる。
教師が記録へ何かを書き込んだ。
カカシの視線が飛んでくる。
見るな。
今のは事故だ。
オビトが列へ戻ると、カカシが小さく言った。
「今日は中心じゃないんだ」
「毎回同じところに投げる必要ないだろ」
「三枚とも同じ幅で外れてる」
「細かいな、お前」
「揃える方が難しいんじゃないの」
言わないで。
気づかないで。
可愛げがないにもほどがある。
オビトは答えず、前を向いた。横からなお視線を感じたが、無視する。反応すれば、さらに突かれる。
次は組手だった。
今回は足運びと防御の確認が中心で、相手を倒す必要はない。決められた範囲内で攻撃を避け、受け、体勢を保つ。単純な内容だ。
単純だからこそ難しい。
相手の拳が遅い。
踏み込みも分かりやすい。
身体の軸が傾き、次にどちらへ動くかが全部見える。反射に任せれば、相手が打つ前に制圧できる。もちろん、そんなことはしない。
オビトはぎりぎりまで待った。
拳を受ける。
少し下がる。
次を避ける。
相手の動きに合わせて、五歳児らしい速度へ落とす。
教師の合図で交代するまで、相手を一度も転ばせなかった。
よし。
今度こそ普通。
「うちは」
教師に呼び止められた。
嫌な予感がした。
「今、相手の攻撃を全部受けられたな」
「はい」
「なぜ二撃目だけ避けた?」
オビトは少し考えた。
「受けたら、相手の手首に負担がかかりそうだったので」
教師が黙った。
しまった。
五歳児の回答ではなかったかもしれない。
「……そうか」
記録へまた何かが書かれる。
何を書いた。
見せてくれ。
いや、見たくない。
カカシが離れた位置からこちらを見ていた。その目は、もう単なる好奇心ではなかった。
次の忍術の授業では、チャクラを練る感覚と、印の形を確かめた。
術を成立させるところまでは求められていない。教師が見せた印をまねし、身体の中にある力を意識する。それだけだ。
オビトは周囲へ合わせた。
印を結ぶ。
ゆっくり。
少しぎこちなく。
チャクラは最小限。
呪力は完全に内側へ留める。
これなら大丈夫。
「オビト、指が違うよ」
隣のリンが小声で教えてくれた。
見ると、わざと不慣れに見せようと意識しすぎて、本当に印を一つ間違えていた。
「あ」
「こっち」
リンが自分の手を見せる。
「こう?」
「うん、合ってる」
天使。
ではなく。
ありがたい。
危ないところだった。わざと間違えたのではない。本気で間違えた。普通にしようと考えすぎて、かえって基本を外したらしい。
五歳児になるために、忍術の印まで間違える忍。
何をしているんだ俺は。
脳内五条悟がまた笑っている。
うざい。
授業の後半は、簡単なチャクラ操作の確認だった。
オビトの手元に置かれた葉が、ぴたりと吸いつく。
落ちない。
揺れない。
教師が見ている。
まずい。
少し不安定にする。
そう思って流れを乱したが、葉は一度だけ端を浮かせ、また正しい位置へ戻った。
教師の眉が動く。
ほらー。
また引いてるじゃねぇか。
チャクラの総量が多いだけなら、まだ誤魔化せる。
問題は制御だった。
前々世で忍として生き、前世では呪力を極限まで練り上げてきた。力の種類は違っても、内側にあるものを捉え、動かし、必要な量だけ外へ出す感覚は根深く染みついている。
経験は身を助く。
助けすぎる。
本当に助けすぎる。
午後の座学で、オビトは少しだけ安心していた。
実技ほど身体が勝手に動くことはない。問題が分かっても、答えを書く速度を周囲へ合わせればいい。間違いを混ぜるのも、実技よりは簡単だ。
教師は黒板に簡単な地図を描いた。
川。
森。
小さな集落。
二つの道。
その横に、移動速度や距離を示す数字が書かれていく。
「この地点から出発し、川を避けて集落へ向かう場合、どの道を選べば最も早いか。前へ出て、考え方も書いてもらう」
何人かの子どもが順番に指名された。
最初の子は、目についた近い道を選んだ。
次の子は、川沿いの道がぬかるんでいる可能性に気づいた。
カカシは距離だけでなく、森の中を進む時の速度低下まで考え、短い言葉で答えた。
正解だった。
教師は頷き、少し考えたあと、教室を見渡した。
目が合う。
嫌な予感。
「最後に、うちはオビト」
「え、俺?」
思わず声が出た。
教室の視線が集まる。
オビトは黒板を見た。
待って。
この問題、明らかに高学年向きだよな。
距離だけの計算ではない。地形、移動速度、足場、荷物の有無、合流地点まで考えなければならない。しかも教師は、カカシが出した正答の先を求めるような顔をしている。
試されている。
確実に試されている。
何で。
入学してまだ日も浅い五歳児だぞ。
うちはの落ちこぼれだぞ。
わかるけど。
分かってしまうけど。
え、何。
どういうこと。
「前へ」
逃げられなかった。
オビトは立ち上がり、黒板の前へ向かった。受け取った白墨を握る。教室を振り返ると、リンが応援するように小さく頷いた。ガイは期待に満ちた目を向けている。
カカシだけは、表情を動かさず見ていた。
書きすぎるな。
五歳児。
入学したばかり。
最低限。
そう自分へ言い聞かせ、オビトは白墨を動かした。
まず、カカシが選んだ道へ印をつける。
距離と、森を通過する際の速度低下を書く。
それだけで終わるつもりだった。
だが、黒板に描かれた川の形が目に入る。
上流の幅が狭い。
水量が少ない時期なら、渡れる可能性がある。
さらに、集落までの道には小さな崖があり、荷物を持っている場合は帰路で負担になる。任務対象が負傷者なら使えない。敵の存在を想定するなら、見通しのいい道をそのまま進むのも危険だ。
気づけば、手が動いていた。
複数の条件。
通常時の最短経路。
追跡を避ける場合。
負傷者を伴う場合。
川の水量による経路変更。
森を抜ける前に一度高所から集落周辺を確認する必要。
全部書いた。
最後に白墨を置いてから、オビトは黒板を見上げた。
やっべ。
やった。
完全にやった。
教室が静かだった。
教師が黒板とオビトを交互に見る。
明らかに動揺している。
ですよね。
分かります。
俺も同じ気持ちです。
泣きたい。
「……なぜ、ここで周囲を確認する必要があると思った?」
教師が、高所を示す印を指した。
オビトは答えを選ぼうとした。
五歳児らしい答え。
簡単な答え。
だが、黒板にはすでに完璧な判断を書いてしまっている。ここから急に分からないふりをしても遅い。
「集落の近くまで何も見ないで進むと、待ち伏せがあった時に逃げ道が少なくなるから」
「負傷者がいる場合の経路まで分けたのは?」
「同じ速さでは動けないし、崖を通れないかもしれないから」
「川の水量は」
「季節と前の日の雨で変わるから。地図だけで決めない方がいいと思って」
教師は黙った。
教室も静かなままだった。
オビトは心の中で頭を抱えた。
何で全部答える。
もう少し黙れ。
教師が聞いたからって、律儀に全部返すな。
忍兼特級呪術師、五十七歳。
五歳児として盛大にやらかした。
「席へ戻っていい」
「はい……」
オビトは白墨を置き、席へ戻った。
途中、ガイが小声で言った。
「すごいぞ、オビト!」
やめて。
善意が痛い。
リンは素直に笑っていた。
「分かりやすかったよ」
ありがとう。
でも今は痛い。
席へ座る。
前方のカカシが振り向いた。
目が合う。
何も言わない。
だが、その目だけで十分だった。
おかしい。
そう確信した目だった。
その日の授業が終わるまで、カカシは何度もオビトを見た。
手裏剣をわずかに外した時。
組手で相手の手首を庇った時。
チャクラを不自然に乱そうとした時。
リンへ印を直された時。
黒板の前で、教師の想定を越えた答えを書いた時。
一つだけなら、偶然で済む。
座学が得意な子どもはいる。
手裏剣を家で習った子どももいる。
体術の勘がいい者もいる。
だが、全部が揃う。
しかも、そのたびにオビトは喜ばない。
褒められても得意げにならない。
失敗したような顔をする。
自分が何をしたか分からない顔ではない。どこまで見せたかを気にする顔だ。
落ちこぼれではない。
噂が間違っているだけでもない。
隠している。
カカシの中で、それはもう疑いではなくなっていた。
放課後。
生徒たちが帰った教室で、担当教師は今日の記録をまとめていた。
机には、手裏剣の命中位置、組手での所見、チャクラ操作の安定性、座学の答案が並んでいる。
うちはオビト。
何度見直しても、評価欄の上位に同じ名が並ぶ。
「またか」
同僚の教師が、記録を覗き込んだ。
「ああ」
「前回の査定だけじゃなかったんだな」
「むしろ、抑えようとしているように見える」
「五歳の子どもが?」
担当教師は、黒板の写しを机へ置いた。授業後、消す前に控えたものだ。
「今日の問題に対する解答だ」
同僚の表情が変わる。
「これを、うちはの子が?」
「地形だけではなく、負傷者の有無、天候、待ち伏せまで考えている」
「家で教わったという範囲か?」
「判断の根拠が、知識だけではない」
教師は組手の記録へ目を落とした。
相手の手首への負担を避けた。
攻撃を受けられると分かっていながら、相手を傷めない方を選んだ。
「実際に似た状況を知っているような答え方だった」
「まさか」
「分かっている。五歳だ」
だからこそ、説明がつかない。
記録は再び火影塔へ上げられることになった。
一度の好成績なら、早熟な子どもとして扱える。
だが、授業のたびに結果を積み上げ、教える側の想定を越え続けている。見落とすわけにはいかなかった。
その頃、うちは集落でも、別の形で話が広がり始めていた。
「マヒトさんのところのオビトくん、学校で随分できるらしいねえ」
井戸端で水を汲んでいた女が言った。
「落ちこぼれだと聞いていたけど」
「手裏剣はほとんど外さないそうだよ」
「座学もよくできるって」
「あの子、昔から妙にしっかりしてたじゃないか」
「この前も荷物を持ってくれてねえ」
話す者によって、内容は少しずつ変わる。
忍者学校で満点を取った。
年上の子にも負けない。
影分身を使える。
困っている者をよく助ける。
教師が驚いている。
初めは年配者たちの間で交わされていた話が、やがて若い忍や子どもを持つ家へも届いていく。
集落の中心から外れた家。
祖母と二人で暮らす、マヒトとツムギの息子。
目立った才を聞かず、落ちこぼれと呼ばれていた少年。
その呼び名と実際の姿が、どうも噛み合わない。
噂は、否定されて消えるのではなく、別の噂へ形を変えていった。
隠していたのではないか。
誰かに教わっているのではないか。
本当は、かなりできる子なのではないか。
夕暮れのうちは集落を、囁きが静かに巡る。
その頃、当の本人は何も知らず、帰り道でカカシの視線に耐えていた。
「何だよ」
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「オビトこそ」
カカシの声は短い。
目だけが鋭い。
「何を隠してるの」
また来た。
オビトは頭を抱えたくなった。
授業は難しくない。
五歳児が難しい。
そして、四歳のカカシはもっと難しい。
六道仙人の忠告が、今さら身に染みる。
自分の普通は、普通ではない。
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
今日も満点を増やしてしまった。
むしろ増えている。
手裏剣。
組手。
忍術。
座学。
何をやっても、それなりにできてしまう。
いや、それなりどころではない。気を抜けば満点。慎重に抑えても上位。わざと失敗しようとすると、今度は動きや視線が不自然になり、カカシの目が刺さる。
何度目か分からない満点の記録を前に、オビトは机へ突っ伏したくなる衝動と戦っていた。
無理。
五歳児、無理。
ほんと無理。
前々世では忍として三十一年を生きた。前世では呪術師として二十一年を過ごした。戦い、学び、教え、報告書を書き、呪術界の面倒な仕組みに揉まれ、特級として各地へ駆り出された。
そんな人間が、入学したばかりの五歳児として振る舞う。
どう考えても無理がある。
さらに、呪力とチャクラの総量が桁違いだった。
学校で教わる初歩の練り方に合わせ、ほんの少しだけ動かしたつもりでも、教師の想定より安定してしまう。術を成立させないよう出力を落とせば、今度は制御だけが妙に精密になる。
力を出せば目立つ。
抑えても目立つ。
どうしろと。
脳内で、白い髪の男が腹を抱えて笑っていた。
『いやあ、さすが最強の教え子。五歳児にもなれないんだ?』
うざっ。
オビトは心の中で五条悟の幻を蹴り飛ばした。
本人が生きていた頃なら、絶対に言う。むしろもっと腹の立つ言い方をする。笑いながら頭を撫で、こちらが怒ればさらに楽しむところまで見える。
前世の師を思い出して懐かしむ場面のはずなのに、最初に出てくる感情が苛立ちなのはどうなんだろう。
まあ、五条先生だしな。
教室の外では、手裏剣の授業が行われていた。
一列に並び、順番に的へ投げる。以前より距離が少し伸びている。教師は命中位置だけでなく、構え、足運び、投げた後の姿勢も見ていた。
ガイの手裏剣が的の外縁へ刺さる。
「よしっ!」
当たったこと自体が嬉しいらしい。拳を握り、全身で喜んでいる。次の一枚は外れたが、落ち込むより先に姿勢を直した。
真っ直ぐだ。
見ているとこちらまで少し元気になる。
アスマは面倒そうな顔をしながら、きちんと的へ当てた。紅も慎重に狙い、中心から少し外れた位置へ刺す。リンは一枚目を外したものの、教師の助言を聞いて二枚目を当てた。
カカシの番になる。
小さな身体が的へ向く。余計な力はない。三枚の手裏剣が続けて飛び、狭い範囲へまとまって刺さった。
周囲から声が上がる。
カカシは振り返らない。
当然の結果だと言わんばかりに列へ戻り、その途中でオビトを見た。
来る。
次は自分だ。
「うちはオビト」
教師に呼ばれ、前へ出る。
手裏剣を持つ。
今日は中心を避ける。
ただし、わざと外したと分かるような投げ方はしない。的の内側、中心から少し離れた場所。それくらいなら十分な成績でありながら、教師を引かせることもない。
一枚目。
中心から指二本ほど外。
いい。
二枚目。
一枚目の少し下。
これもいい。
三枚目。
別の場所へ散らす。
そう思って投げた手裏剣は、最初の二枚の間へ刺さった。
狭い範囲へ三角形を作るように。
やった。
いや、やってない。
何でまとまる。
教師が記録へ何かを書き込んだ。
カカシの視線が飛んでくる。
見るな。
今のは事故だ。
オビトが列へ戻ると、カカシが小さく言った。
「今日は中心じゃないんだ」
「毎回同じところに投げる必要ないだろ」
「三枚とも同じ幅で外れてる」
「細かいな、お前」
「揃える方が難しいんじゃないの」
言わないで。
気づかないで。
可愛げがないにもほどがある。
オビトは答えず、前を向いた。横からなお視線を感じたが、無視する。反応すれば、さらに突かれる。
次は組手だった。
今回は足運びと防御の確認が中心で、相手を倒す必要はない。決められた範囲内で攻撃を避け、受け、体勢を保つ。単純な内容だ。
単純だからこそ難しい。
相手の拳が遅い。
踏み込みも分かりやすい。
身体の軸が傾き、次にどちらへ動くかが全部見える。反射に任せれば、相手が打つ前に制圧できる。もちろん、そんなことはしない。
オビトはぎりぎりまで待った。
拳を受ける。
少し下がる。
次を避ける。
相手の動きに合わせて、五歳児らしい速度へ落とす。
教師の合図で交代するまで、相手を一度も転ばせなかった。
よし。
今度こそ普通。
「うちは」
教師に呼び止められた。
嫌な予感がした。
「今、相手の攻撃を全部受けられたな」
「はい」
「なぜ二撃目だけ避けた?」
オビトは少し考えた。
「受けたら、相手の手首に負担がかかりそうだったので」
教師が黙った。
しまった。
五歳児の回答ではなかったかもしれない。
「……そうか」
記録へまた何かが書かれる。
何を書いた。
見せてくれ。
いや、見たくない。
カカシが離れた位置からこちらを見ていた。その目は、もう単なる好奇心ではなかった。
次の忍術の授業では、チャクラを練る感覚と、印の形を確かめた。
術を成立させるところまでは求められていない。教師が見せた印をまねし、身体の中にある力を意識する。それだけだ。
オビトは周囲へ合わせた。
印を結ぶ。
ゆっくり。
少しぎこちなく。
チャクラは最小限。
呪力は完全に内側へ留める。
これなら大丈夫。
「オビト、指が違うよ」
隣のリンが小声で教えてくれた。
見ると、わざと不慣れに見せようと意識しすぎて、本当に印を一つ間違えていた。
「あ」
「こっち」
リンが自分の手を見せる。
「こう?」
「うん、合ってる」
天使。
ではなく。
ありがたい。
危ないところだった。わざと間違えたのではない。本気で間違えた。普通にしようと考えすぎて、かえって基本を外したらしい。
五歳児になるために、忍術の印まで間違える忍。
何をしているんだ俺は。
脳内五条悟がまた笑っている。
うざい。
授業の後半は、簡単なチャクラ操作の確認だった。
オビトの手元に置かれた葉が、ぴたりと吸いつく。
落ちない。
揺れない。
教師が見ている。
まずい。
少し不安定にする。
そう思って流れを乱したが、葉は一度だけ端を浮かせ、また正しい位置へ戻った。
教師の眉が動く。
ほらー。
また引いてるじゃねぇか。
チャクラの総量が多いだけなら、まだ誤魔化せる。
問題は制御だった。
前々世で忍として生き、前世では呪力を極限まで練り上げてきた。力の種類は違っても、内側にあるものを捉え、動かし、必要な量だけ外へ出す感覚は根深く染みついている。
経験は身を助く。
助けすぎる。
本当に助けすぎる。
午後の座学で、オビトは少しだけ安心していた。
実技ほど身体が勝手に動くことはない。問題が分かっても、答えを書く速度を周囲へ合わせればいい。間違いを混ぜるのも、実技よりは簡単だ。
教師は黒板に簡単な地図を描いた。
川。
森。
小さな集落。
二つの道。
その横に、移動速度や距離を示す数字が書かれていく。
「この地点から出発し、川を避けて集落へ向かう場合、どの道を選べば最も早いか。前へ出て、考え方も書いてもらう」
何人かの子どもが順番に指名された。
最初の子は、目についた近い道を選んだ。
次の子は、川沿いの道がぬかるんでいる可能性に気づいた。
カカシは距離だけでなく、森の中を進む時の速度低下まで考え、短い言葉で答えた。
正解だった。
教師は頷き、少し考えたあと、教室を見渡した。
目が合う。
嫌な予感。
「最後に、うちはオビト」
「え、俺?」
思わず声が出た。
教室の視線が集まる。
オビトは黒板を見た。
待って。
この問題、明らかに高学年向きだよな。
距離だけの計算ではない。地形、移動速度、足場、荷物の有無、合流地点まで考えなければならない。しかも教師は、カカシが出した正答の先を求めるような顔をしている。
試されている。
確実に試されている。
何で。
入学してまだ日も浅い五歳児だぞ。
うちはの落ちこぼれだぞ。
わかるけど。
分かってしまうけど。
え、何。
どういうこと。
「前へ」
逃げられなかった。
オビトは立ち上がり、黒板の前へ向かった。受け取った白墨を握る。教室を振り返ると、リンが応援するように小さく頷いた。ガイは期待に満ちた目を向けている。
カカシだけは、表情を動かさず見ていた。
書きすぎるな。
五歳児。
入学したばかり。
最低限。
そう自分へ言い聞かせ、オビトは白墨を動かした。
まず、カカシが選んだ道へ印をつける。
距離と、森を通過する際の速度低下を書く。
それだけで終わるつもりだった。
だが、黒板に描かれた川の形が目に入る。
上流の幅が狭い。
水量が少ない時期なら、渡れる可能性がある。
さらに、集落までの道には小さな崖があり、荷物を持っている場合は帰路で負担になる。任務対象が負傷者なら使えない。敵の存在を想定するなら、見通しのいい道をそのまま進むのも危険だ。
気づけば、手が動いていた。
複数の条件。
通常時の最短経路。
追跡を避ける場合。
負傷者を伴う場合。
川の水量による経路変更。
森を抜ける前に一度高所から集落周辺を確認する必要。
全部書いた。
最後に白墨を置いてから、オビトは黒板を見上げた。
やっべ。
やった。
完全にやった。
教室が静かだった。
教師が黒板とオビトを交互に見る。
明らかに動揺している。
ですよね。
分かります。
俺も同じ気持ちです。
泣きたい。
「……なぜ、ここで周囲を確認する必要があると思った?」
教師が、高所を示す印を指した。
オビトは答えを選ぼうとした。
五歳児らしい答え。
簡単な答え。
だが、黒板にはすでに完璧な判断を書いてしまっている。ここから急に分からないふりをしても遅い。
「集落の近くまで何も見ないで進むと、待ち伏せがあった時に逃げ道が少なくなるから」
「負傷者がいる場合の経路まで分けたのは?」
「同じ速さでは動けないし、崖を通れないかもしれないから」
「川の水量は」
「季節と前の日の雨で変わるから。地図だけで決めない方がいいと思って」
教師は黙った。
教室も静かなままだった。
オビトは心の中で頭を抱えた。
何で全部答える。
もう少し黙れ。
教師が聞いたからって、律儀に全部返すな。
忍兼特級呪術師、五十七歳。
五歳児として盛大にやらかした。
「席へ戻っていい」
「はい……」
オビトは白墨を置き、席へ戻った。
途中、ガイが小声で言った。
「すごいぞ、オビト!」
やめて。
善意が痛い。
リンは素直に笑っていた。
「分かりやすかったよ」
ありがとう。
でも今は痛い。
席へ座る。
前方のカカシが振り向いた。
目が合う。
何も言わない。
だが、その目だけで十分だった。
おかしい。
そう確信した目だった。
その日の授業が終わるまで、カカシは何度もオビトを見た。
手裏剣をわずかに外した時。
組手で相手の手首を庇った時。
チャクラを不自然に乱そうとした時。
リンへ印を直された時。
黒板の前で、教師の想定を越えた答えを書いた時。
一つだけなら、偶然で済む。
座学が得意な子どもはいる。
手裏剣を家で習った子どももいる。
体術の勘がいい者もいる。
だが、全部が揃う。
しかも、そのたびにオビトは喜ばない。
褒められても得意げにならない。
失敗したような顔をする。
自分が何をしたか分からない顔ではない。どこまで見せたかを気にする顔だ。
落ちこぼれではない。
噂が間違っているだけでもない。
隠している。
カカシの中で、それはもう疑いではなくなっていた。
放課後。
生徒たちが帰った教室で、担当教師は今日の記録をまとめていた。
机には、手裏剣の命中位置、組手での所見、チャクラ操作の安定性、座学の答案が並んでいる。
うちはオビト。
何度見直しても、評価欄の上位に同じ名が並ぶ。
「またか」
同僚の教師が、記録を覗き込んだ。
「ああ」
「前回の査定だけじゃなかったんだな」
「むしろ、抑えようとしているように見える」
「五歳の子どもが?」
担当教師は、黒板の写しを机へ置いた。授業後、消す前に控えたものだ。
「今日の問題に対する解答だ」
同僚の表情が変わる。
「これを、うちはの子が?」
「地形だけではなく、負傷者の有無、天候、待ち伏せまで考えている」
「家で教わったという範囲か?」
「判断の根拠が、知識だけではない」
教師は組手の記録へ目を落とした。
相手の手首への負担を避けた。
攻撃を受けられると分かっていながら、相手を傷めない方を選んだ。
「実際に似た状況を知っているような答え方だった」
「まさか」
「分かっている。五歳だ」
だからこそ、説明がつかない。
記録は再び火影塔へ上げられることになった。
一度の好成績なら、早熟な子どもとして扱える。
だが、授業のたびに結果を積み上げ、教える側の想定を越え続けている。見落とすわけにはいかなかった。
その頃、うちは集落でも、別の形で話が広がり始めていた。
「マヒトさんのところのオビトくん、学校で随分できるらしいねえ」
井戸端で水を汲んでいた女が言った。
「落ちこぼれだと聞いていたけど」
「手裏剣はほとんど外さないそうだよ」
「座学もよくできるって」
「あの子、昔から妙にしっかりしてたじゃないか」
「この前も荷物を持ってくれてねえ」
話す者によって、内容は少しずつ変わる。
忍者学校で満点を取った。
年上の子にも負けない。
影分身を使える。
困っている者をよく助ける。
教師が驚いている。
初めは年配者たちの間で交わされていた話が、やがて若い忍や子どもを持つ家へも届いていく。
集落の中心から外れた家。
祖母と二人で暮らす、マヒトとツムギの息子。
目立った才を聞かず、落ちこぼれと呼ばれていた少年。
その呼び名と実際の姿が、どうも噛み合わない。
噂は、否定されて消えるのではなく、別の噂へ形を変えていった。
隠していたのではないか。
誰かに教わっているのではないか。
本当は、かなりできる子なのではないか。
夕暮れのうちは集落を、囁きが静かに巡る。
その頃、当の本人は何も知らず、帰り道でカカシの視線に耐えていた。
「何だよ」
「別に」
「絶対何かあるだろ」
「オビトこそ」
カカシの声は短い。
目だけが鋭い。
「何を隠してるの」
また来た。
オビトは頭を抱えたくなった。
授業は難しくない。
五歳児が難しい。
そして、四歳のカカシはもっと難しい。
六道仙人の忠告が、今さら身に染みる。
自分の普通は、普通ではない。
分かっていた。
分かっていたはずなのに。
今日も満点を増やしてしまった。
【〆栞】