赤ん坊

父の名は、うちはマヒトというらしい。

柔らかな声でそう呼ばれた瞬間、赤ん坊の身体の奥で、オビトは思いきり固まった。

マヒト。

……マヒト?

同じ音が、前世の記憶の底からぬるりと浮かんでくる。人の形をして、人の魂を玩具のように歪めた呪い。笑いながら踏み込んできた、あの不快な気配。名前の響きが同じというだけで、喉の奥に嫌なものが引っ掛かった。

いや、違う。同じ音なだけだ。

そう自分に言い聞かせる。抱き上げてくる男の腕は穏やかで、そこに悪意はない。黒髪に黒目、うちはらしい整った顔立ちをしているが、目元はどこか柔らかい。赤ん坊を抱く手つきは慎重で、怖がるほど大きな力を持っているくせに、壊れ物を扱うように指を添えてくる。

その顔がふっと笑った瞬間、オビトは妙な居心地の悪さを覚えた。

似ている。

誰に、と問われれば、たぶん自分にだ。前々世の自分に、というより、まだ何も壊していなかった頃のうちはオビトに。人が良くて、少し困ったように笑うところが、嫌になるほど近い。

母の名は、うちはツムギ。

こちらは静かで、やさしい人だった。派手に笑う人ではない。声を荒げることも少ない。ただ、抱き上げる手はいつも温かく、泣けばすぐに気づき、眠れない時には背中をゆっくり撫でてくれる。目を合わせると、赤ん坊相手にもきちんとこちらを見ているような、そんな眼差しを向けてきた。

家は、うちは集落の外れにあった。

中心から少し離れたその家には、妙な息苦しさがなかった。前々世の記憶にあるうちはの空気は、もっと硬かった気がする。血の濃さ、名の重さ、里の中での立場、誇りと不満が入り混じった閉じた熱。幼い頃の自分はその全部を理解していたわけではないが、肌にまとわりつくような重さだけは覚えている。

けれど、この家は違った。

父は穏やかで、母は静かでやさしい。祖母は少し口うるさいが、その口うるささも家を守るためのものだと分かる。薪の匂い、炊事の音、洗い立ての布の感触、縁側に差す光。どれも特別なものではないのに、胸の奥にゆっくり染みてくる。

前世の両親を、少し思い出した。

裏葉宗一郎と綾乃。あの二人は、まあ、もう少し全力で親馬鹿だった。いや、少しではない。かなりだった。赤ん坊の自分が妙な術を暴発させても、まず驚くより先に「綺麗だな」とか言うタイプだった。あれはあれでどうかと思う。思うが、温かかった。

マヒトとツムギは、そこまで突き抜けてはいない。

けれど、ちゃんと温かい。

前々世にはなかったものだ。あったのかもしれないが、少なくともオビトの手元には長く残らなかったもの。失う前の記憶が薄すぎて、形を思い出せないもの。

家。

そう呼ぶには、まだ怖い。怖いが、赤ん坊の身体は正直だった。抱かれると安心する。撫でられると眠くなる。腹が減ると泣く。

そして、その腹が減るという問題が、オビトにとってはなかなか深刻だった。

はっきりした意識で赤ん坊を経験するのは、これで二回目である。

前々世三十一年。前世二十一年。合計五十二年分の意識がある。つまり中身だけなら立派な大人だ。戦場も見た。地獄も見た。世界を壊しかけたし、呪いの王とも殴り合った。今さら赤ん坊の身体に振り回されるほど柔な精神ではない。

そう思っていた時期が、確かにあった。

乳を飲まなければならない。

大人の意識で。

これは試練だった。かなりの試練だった。生きるためだ。仕方がない。赤ん坊なのだから当然であり、やましい心など一切ない。ないのだが、意識がある。記憶がある。こちらには五十二年分の自我がある。

違うからな。

本当に違うからな。

誰に言い訳しているのか自分でも分からないまま、オビトは必死に赤ん坊として生きた。生きるとは、時に尊厳を横に置く作業である。前世でもかなり学んだつもりだったが、赤ん坊生活はその辺り容赦がなかった。

特にオムツ替えは最悪だった。

二度目でも最悪だった。

慣れるとかそういう話ではない。身体が赤ん坊である以上どうにもならないのだが、どうにもならないからこそ余計に最悪だった。ツムギは穏やかに世話をしてくれるし、祖母も手際よく替えてくれる。父のマヒトが慣れない手つきで挑戦した時など、ツムギに静かに直され、祖母に横から口を出され、本人は真剣な顔で汗をかいていた。

それを見て、オビトは内心で少しだけ笑った。

いや、笑ってる場合じゃない。今まさに替えられているのは俺だ。

赤ん坊生活は、精神より身体の方が先に進んだ。

寝返りは早かった。ハイハイも早かった。視線の焦点が合い始める頃には、部屋の中の位置関係をだいたい把握できた。腕や足の筋肉が発達してくると、身体を動かす感覚が戻ってくる。前世の時もそうだったが、意識と経験がある赤ん坊の成長は、どうしても不自然になる。

普通の赤ん坊として自然に見せたい。

そう思って調整しているつもりだった。

つもりだったのだが、生後半年を過ぎた辺りから、どうにも怪しくなってきた。欲しいものへ迷わず手を伸ばす。転びかけても受け身に近い動きをしてしまう。音のした方へ反応するのが早い。大人の会話を聞いている時、つい目で追ってしまう。

しまった、と思う頃には遅い。

祖母が目を細める。

「この子は、ずいぶん賢いねえ」

ツムギが少し困ったように笑う。

「ええ。本当に、よく見ている子です」

マヒトは何も言わず、ただこちらを見ていた。その目はやわらかいままだが、忍の目でもあった。赤ん坊相手に警戒しているわけではない。ただ、異変を異変として見落とさない目だ。

やめろ。そんな目で見るな。俺は普通の赤ん坊です。たぶん。いや、普通の赤ん坊ってなんだ。前世でも赤ん坊だったけど、あの時点で普通ではなかった気がする。

そんなことを考えていたある日の夜。

部屋の隅に、黒い靄がいた。

小さい。形もはっきりしない。虫のように壁を這い、湿った悪意をぼんやり滲ませている。忍の世界にあってはならない気配。けれど、オビトには見覚えがありすぎた。

呪霊だ。

前世の赤ん坊の頃は、これを虫か何かだと思っていた。実際、最初はよく分からずに潰した。自分の周りに寄ってくる黒いものを、邪魔だな、くらいの感覚で払っていた気がする。あとから考えると、赤ん坊にしては物騒すぎる。

懐かしいな。

いや、懐かしがっている場合じゃない。

黒い靄は、眠るツムギの枕元へじわじわ近づいていた。弱い。大したものではない。けれど、普通の人間にとっては害になる。特に、眠っている相手にはよくない。

オビトは小さな指を布団の中で動かした。

血を使うには身体が幼い。量も出せない。だが、針一本分なら足りる。赤血操術の感覚は、魂に染みついていた。指先に小さな痛みを作り、滲んだ血を細く尖らせる。赤い針が、音もなく闇を裂いた。

黒い靄が弾ける。

声にならない悲鳴のようなものが、部屋の空気を一瞬だけ震わせた。すぐに消える。ツムギは目を覚まさない。祖母の寝息も変わらない。マヒトは別室だ。誰にも見られていない。

よし。

そう思った直後、背筋に妙な感覚が走った。

チャクラだ。

呪力ではない。呪霊の残滓でもない。もっと古く、深く、この世界の根に近いもの。視線を向けるというより、気配の方へ意識を滑らせた瞬間、部屋の片隅に誰かがいた。

老人だった。

長い髭。角のようなもの。杖。浮世離れした姿。見間違えるはずもない。

六道仙人。

オビトは赤ん坊の身体のまま固まった。

六道仙人も固まっていた。

沈黙が落ちる。

眠っている家族の部屋で、赤ん坊と六道仙人が見つめ合う。片方は布団の中、片方はこの世のものとも思えない気配をまとって立っている。状況だけ見れば、かなり厳かなはずだった。

なのに、六道仙人の顔には明らかに困惑が浮かんでいた。

え、見えておるのか。

そんな顔だった。

いや、見えてるけど。

なんで見えてるのかは、こっちが聞きたい。

オビトは声を出せない。赤ん坊なので当然だ。仕方なく、じっと見る。六道仙人もじっと見返してくる。その視線は、オビトの中にある何かを探るようで、しかし途中で何度も引っ掛かっているようだった。

分かっていない。

たぶん、この老人にも分からないのだ。

オビトの魂に、通常のチャクラだけでは説明できないものが混ざっていること。忍の理では捉えきれない異物があること。その程度は感じ取っているのだろう。だが、それが何なのか、どこから来たのか、どういう仕組みなのかまでは掴めていない。

六道仙人ほどの存在が、赤ん坊を前にして困っている。

オビトも困っている。

何だこの絵面。

かなりシュールだった。

しばらくして、六道仙人は深く目を細めた。責めるでもなく、裁くでもなく、ただ観測する者の目だった。前々世で会った時とは違う。あの時のオビトは戦いの果てにいた。今は、生まれて半年ほどの赤ん坊で、布団の中から見上げている。

何かを言おうとしたのかもしれない。

だが、その前に赤ん坊の身体が限界を迎えた。眠気が唐突に襲ってくる。大人の意識がどうこう言ったところで、身体は赤ん坊だ。抗えない。まぶたが落ちる。六道仙人の姿がぼやける。

待て。せめて何か言え。いや、俺が喋れないんだけど。そっちだけでも何か説明しろ。というか、なんで来た。

内心で文句を並べても、口から出るのは小さな寝息だけだった。

眠りに落ちる直前、六道仙人がますます困ったような顔をした気がした。

それを最後に、意識はふつりと途切れた。

翌朝、オビトは何事もなかったようにツムギの腕の中で目を覚ました。

マヒトが覗き込み、穏やかに笑う。

「よく眠れたか、オビト」

眠れた。

眠れたけど、そういう問題じゃない。

赤ん坊の口からは当然、答えらしい答えなど出ない。代わりに、妙に力の入った声だけが漏れた。マヒトはそれを機嫌の良い声だと思ったのか、少し嬉しそうに目を細める。

ツムギがその横で小さく笑った。

「この子、あなたの顔を見るとよく声を出すわね」

「そうか?」

「ええ。何か言いたそう」

鋭い。

かなり鋭い。

オビトは父と母に挟まれながら、赤ん坊らしく手を動かした。普通に。自然に。年相応に。今度こそ不自然にならないように。

その手の動きが、なぜか父の指をしっかり握る形になった。

マヒトが一瞬驚き、それから破顔する。ツムギも表情をやわらげた。祖母が横から「あらまあ」と笑う。

あ、違う。

これは普通の赤ん坊の範囲だ。たぶん。たぶん大丈夫だ。赤ん坊は指を握る。これは自然。問題ない。

そう思いながら、オビトは父の指を握ったまま離せなかった。

マヒトの手は温かかった。

前々世では長く持てなかったもの。前世で一度知り、また失ったもの。今世で、もう一度触れているもの。

守れるかどうかは分からない。

何が起こるかも知っているようで、知らない。自分の記憶にある流れと、今この腕の温度は、きっと完全には重ならない。同じ名。同じ里。同じ一族。同じ始まり。けれど、そこにいる父は、自分の知る過去にはなかった顔で笑っている。

オビトは小さな指に、ほんの少し力を込めた。

手の届く範囲でいい。

救える者は救え。

赤ん坊の身体では、まだ何もできない。泣くことと、眠ることと、乳を飲むことと、たまに呪霊を血の針で刺すことくらいしかできない。

いや、最後のは赤ん坊の範囲ではない。

それでも、今はこの家の中にいる。

この温かさを、今度は見失わない。

オビトはそう思いながら、父の指を握ったまま、もう一度眠気に負けた。


〆栞
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