二度目の邂逅

一歳になった。

赤ん坊としての一年は、長いようで短い。身体の成長に引きずられて眠る時間は多いし、自由に動ける範囲は狭い。前世のように任務へ走り回ることも、前々世のように修業で汗を流すこともできない。できることといえば、這い、立ち、転び、泣き、食べ、眠るくらいのものだ。

ただ、それでも一歳である。

一年前よりは、だいぶ動けるようになった。足はまだ頼りないが、壁や家具に手をつけば立てる。短い距離なら歩こうとして転べる。転べる、というのは重要だ。受け身を取りたくなる身体を抑えて、赤ん坊らしく尻餅をつく努力をしなければならない。

普通の子どもは難しい。

本当に難しい。

オビトは畳の上に座り込み、目の前に置かれた木の玩具を見つめていた。丸く削られた積み木のようなもので、握っても怪我をしないよう丁寧に角が取られている。父が作ったものだ。うちはマヒトは忍でありながら、こういう細かな手仕事もできるらしい。

父は、穏やかな人だった。

集落の外れの家で過ごすマヒトは、声を荒げることがほとんどない。帰ってくる時は玄関先で必ず足音を少し緩め、家の中の空気を乱さないように入ってくる。母に声をかけ、祖母に頭を下げ、オビトが起きていれば必ずこちらへ視線を向ける。

人当たりが良い。けれど、軽いわけではない。

訪ねてくる者への応対を見ているとよく分かる。マヒトは誰に対しても柔らかいが、必要以上にへりくだらない。言うべきことは静かに言い、引くべきところは引く。うちはらしい硬さは薄いのに、忍としての芯はきちんとある。

母のツムギは、静かでやさしい人だった。

声は柔らかく、手つきは丁寧で、オビトが泣く前に気づくことが多い。赤ん坊の様子を見る目に、妙な鋭さがある。母だから、というだけではない。うちはの家で育ち、忍の世界に生きてきた人間の目だ。けれど、その目で見られても、この家の空気は息苦しくならなかった。

祖母も含めて、この家はやわらかい。

甘い、とは違う。何でも許してくれるわけではないし、危ないことをすればきちんと止められる。けれど、家の中に満ちているものが、張り詰めた誇りや不満ではない。誰かを値踏みする視線でもない。小さな子どもが転べば手を伸ばし、飯時になれば湯気が立ち、夜になれば灯りを落として眠る。

それだけのことが、ひどく温かかった。

前々世の記憶にある“うちはの家”と同じ場所に生まれたはずなのに、違う。いや、家そのものは同じなのかもしれない。同じ一族、同じ里、同じ名。けれどオビトが今ここで見ている父と母は、前々世ではほとんど知らないまま失った人たちだった。

初めて両親を知る。

その事実は、時々、胸の奥に静かに沈む。

マヒトが庭先で薪を割る音。ツムギが台所で包丁を動かす音。祖母が針仕事をしながら小さく鼻歌をこぼす気配。どれも何気ない。何気なさすぎて、油断すると息が詰まる。

……参るな。

オビトは積み木を握ったまま、内心で小さく息を吐いた。

こういう家は、失った時に絶対効く。

分かっている。知っている。温かいものほど、失った時に傷になる。前々世でも前世でも、それは嫌というほど思い知った。大事に思えば思うほど、壊れた時の痛みは深くなる。なら最初から距離を取ればいい、などとは、もう思わない。

思わないが、怖いものは怖い。

「オビト」

呼ばれて顔を上げると、ツムギがこちらを見ていた。手には小さな椀がある。柔らかく煮た粥の匂いがした。

「お腹、空いたでしょう」

腹は空いている。赤ん坊の身体は正直だ。精神がどれだけ大人でも、食べなければ動けないし、眠らなければ機嫌が悪くなる。そこに年齢の積み重ねはあまり関係なかった。

オビトは積み木を置き、両手を伸ばした。ツムギが目を細める。

「はいはい。ちゃんと待てるのね」

待てる。中身は五十二歳なので。

そう言えるはずもなく、オビトは大人しく口を開いた。食事を与えられるのも、最初はなかなか精神に来たが、乳に比べればまだましだった。いや、比べる対象がすでにおかしい。生きるとは尊厳を少しずつ畳んでいくことなのかもしれない。

粥は薄味で、温かかった。

食べながら、ふと庭の方へ意識が引かれた。

チャクラの気配がある。

家族のものではない。近くを通る一族の忍でもない。もっと古く、もっと遠いはずなのに、なぜかすぐそこにいるような気配。以前にも感じた、あの異様な深さ。

オビトは匙をくわえたまま、庭の隅へ視線を向けた。

いた。

六道仙人が。

庭の柿の木の陰、というにはあまりにも場違いな姿で、老人が立っていた。半透明というほど薄くはないが、普通の人間の存在感でもない。そこにいるのに、家族は気づいていない。ツムギは椀を持ったまま、オビトが食べるのを見守っているだけだ。

六道仙人は、オビトと目が合った瞬間、明らかに固まった。

だからなんでそこにいる。

オビトも固まった。

口には匙が入っている。赤ん坊である。非常に締まらない。六道仙人と二度目の邂逅を果たす姿としては、かなりどうかと思う。せめて立っている時にしてほしかった。いや、そういう問題でもない。

六道仙人はしばらく動かなかった。見えているのか、という顔をまたしている。いや、前にも見えていただろう。そちらこそなぜ毎回驚くのか。来るなら来るで、もう少し心構えをしてから来てほしい。

「……オビト?」

ツムギの声に、オビトははっとした。

しまった。見すぎた。

赤ん坊らしく、庭の何かに興味を持ったふりをする。小さく手を伸ばし、意味のない声を出す。ツムギは庭へ目を向けたが、当然何も見えていない。

「鳥でもいたのかしら」

違います。六道仙人です。

そんな返答ができるはずもないので、オビトは曖昧に声を上げた。ツムギは不思議そうにしながらも、食事を再開する。六道仙人はその間も、庭先からじっとこちらを見ていた。

食事を終え、しばらくしてツムギが台所へ下がった。祖母は奥の部屋で針仕事をしている。マヒトはまだ戻っていない。オビトは畳の上を這い、縁側の方へ向かった。

一歳児としては、なかなか自然な移動だったと思う。たぶん。少なくとも、全力で走り出さなかっただけ偉い。

縁側の近くまで来ると、六道仙人の姿がいくらかはっきり見えた。

老人はこちらを見下ろしていた。表情は厳しいというより、困惑に近い。前々世で出会った時のような、すべてを見透かすような超然さは薄い。いや、超越した存在ではあるのだろうが、今は明らかに分からないものを前にしている顔だった。

しげしげと見られる。

魂の奥まで覗かれているような感覚がある。気分の良いものではない。だが、敵意はなかった。探り、確かめ、そして理解できずにいる。

やがて六道仙人が口を開いた。

「お主、何者じゃ?」

……え?

オビトは瞬きをした。

何者、と言われても困る。うちはオビトです。今は一歳です。前々世で世界を壊しかけて、前世で呪い相手にブラック的に働きまくって、また赤ん坊になりました。よろしくお願いします。

言えるか。

そもそも声帯が追いつかない。

六道仙人は、眉間に深い皺を刻んだまま続けた。

「なぜ、わしが見えるのだ」

それはこっちが聞きたい。

オビトは小さな手を畳についたまま、じっと六道仙人を見上げた。声は出せない。出せたところで説明が難しい。前世で特級呪術師として働いていたからではないですかね、などと言って通じる相手ではない。そもそもこの世界の理からすれば、呪力も呪術も術式も、完全に別物だ。

ただ、見える側ではあった。

前世でオビトは呪霊を見て、祓い、呪いの気配を追い、術式の流れを捉えてきた。見えないものを見ることは、息をするくらい当たり前だった。特級呪術師は伊達ではない。伊達で済むなら、あんなに任務を詰め込まれていない。特級という肩書きは、本当に便利屋の別名だったのではないかと今でも思う。

六道仙人は呪霊ではない。

けれど、普通の人間でもない。肉体を持たず、チャクラの流れの奥に残る、魂に近い存在。前世の感覚で言えば、呪霊や残穢とは違うが、近い距離で認識できる“何か”ではある。見えないものを見る目が、そこに引っかかっているのかもしれない。

それに、自分の中には六道の力の残滓もある。

前々世で十尾の人柱力となり、六道に近い形へ足を踏み入れた。力そのものはもうない。だが、魂の構造や感覚の奥には何かが残っている。チャクラの理に触れた痕跡。普通のうちはの魂ではあり得ない歪み。

それが、六道仙人を見せているのかもしれない。

たぶん。

たぶん、が多い。

六道仙人の方も同じらしかった。

「妙なものが混じっておる。チャクラだけではない。されど、尾獣の類でも、わしらの知る理でもない」

老人の声は低く、遠い。直接耳に届いているというより、意識の奥へ響くような声だった。オビトは赤ん坊の顔で黙って聞くしかない。

「お主の魂は、幾度も火をくぐったように傷だらけじゃ。だが、壊れてはおらぬ。別の理に触れた痕もある。……何を見てきた」

オビトは答えられない。

答えるつもりがない、というより、答える手段がない。赤ん坊の口から出るのは、せいぜい意味のない音だけだ。六道仙人相手に「あー」とか「うー」で説明できる人生ではなかった。

それでも、黙っているだけでは落ち着かないので、オビトは一応声を出した。

「あ、う」

六道仙人がさらに困った顔をした。

分かるわけがない。

何をしているんだ俺は。

オビトは畳に座り込んだまま、少し遠い気持ちになった。前々世で会った時は、もっと状況が切迫していた。ナルトとサスケがいて、世界の命運がかかっていて、六道仙人の言葉には重みがあった。今は、一歳児と縁側の老人である。しかも片方は言葉が喋れない。

シュールにも程がある。

六道仙人はしばらく考え込むように黙っていた。風が庭の草を揺らし、台所からツムギが椀を片づける音が聞こえる。日常の音のすぐ隣に、世界の根に触れるような存在が立っている。その落差が妙におかしかった。

「わしにも、まだ分からぬ」

やがて、六道仙人はそう言った。

オビトは内心で頷いた。

でしょうね。

「ただ、お主はこの世の理だけで生まれたわけではない。異なるものを持ち、なおこの地に戻っておる。うちはの血、わしの力の残り香、そして別種の……いや、言葉にできぬもの」

六道仙人が目を細める。

その視線は鋭いが、断罪ではなかった。理解できないものを、理解できないまま見ている。超越者というより、観測者。困惑者。そういう呼び方の方が近い。

「お主自身は、それを知っておるのか」

知っている部分と、知らない部分がある。

前世の記憶はある。呪力の扱いも、術式の感覚も、呪霊を祓う術も覚えている。御厨子を写し取ったことも、反転術式も、血を操る感覚も、全部自分の中にある。けれど、六道仙人が言う“言葉にできぬもの”のすべてを、自分が把握しているかと言われると怪しい。

世界をまたいで赤ん坊になる時点で、もうだいぶ意味が分からない。

オビトは小さく首を傾げた。

赤ん坊としては自然な仕草だったはずだ。だが六道仙人は、それを何かの返答と受け取ったのか、少しだけ目を伏せた。

「……そうか。お主にも分からぬか」

分からない同士で見つめ合う。

本当に何なんだ、この時間。

その時、廊下の向こうから足音がした。マヒトのものだ。帰ってきたらしい。忍の足音は普通ならもっと消えるが、家の中ではわざと気配を残しているのだろう。家族を驚かせないための歩き方だった。

六道仙人の姿が薄くなる。

「また来よう」

来るのか。

オビトは思わず目を見開いた。

いや、来るなとは言わない。言わないが、来るならせめて事前に何か合図がほしい。赤ん坊が六道仙人と見つめ合っているところを家族に見られたら、普通にまずい。いや、家族には見えないのだろうが、見えない相手を凝視する赤ん坊はそれはそれで怖い。

六道仙人は、最後まで困惑を残した顔のまま消えた。

直後、マヒトが部屋へ入ってくる。

「ただいま、オビト」

オビトは反射的に父の方を向いた。マヒトは少し驚いたように瞬き、それから柔らかく笑う。

「出迎えてくれたのか」

違う。

六道仙人を見送っていました。

もちろん言えない。

オビトは両手を伸ばした。抱き上げられる。父の腕は今日も温かく、外の風の匂いが少しした。マヒトは片腕でオビトを支えながら、庭の方へ一瞬だけ目を向けた。

「……何かいたか?」

心臓が、赤ん坊の身体の中で小さく跳ねた。

マヒトの表情は穏やかなままだ。けれど、声の奥に忍の感覚があった。何も見えてはいない。ただ、場の空気がわずかに違うことには気づいたのかもしれない。

ツムギだけではない。

父も鋭い。

この家、温かいのに油断ならない。

オビトは父の襟元を握り、赤ん坊らしい声を出した。マヒトはしばらく庭を見ていたが、やがて小さく首を振る。

「気のせいか」

気のせいじゃないです。

六道仙人です。

言えないまま、オビトは父の肩に額を預けた。マヒトの手が背中を軽く叩く。そのリズムは穏やかで、眠気を誘う。先ほどまで世界の理がどうとか、魂がどうとか、ややこしい話をしていたのに、赤ん坊の身体はもう眠りたがっている。

本当に自由が利かない。

それでも、父の腕の中で眠くなること自体は、嫌ではなかった。

六道仙人はまた来るだろう。呪霊も出る。自分の中に何が混ざっているのかも、いずれ考えなければならない。これから起こるはずの災いもある。知っている過去と、知らない今が、少しずつ絡まり始めている。

だが今は、マヒトの腕の中だった。

温かい家の中で、母の足音がして、祖母の声が聞こえて、外では風が木の葉を揺らしている。

失えば効く。

それは分かっている。

分かっているからこそ、オビトは小さな手で父の服を握った。

今度は、失う前に手を伸ばす。

そう思ったところで、眠気に負けた。

赤ん坊の身体は、覚悟にも容赦がなかった。


〆栞
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