二度目の邂逅
一歳になった。
赤ん坊としての一年は、長いようで短い。身体の成長に引きずられて眠る時間は多いし、自由に動ける範囲は狭い。前世のように任務へ走り回ることも、前々世のように修業で汗を流すこともできない。できることといえば、這い、立ち、転び、泣き、食べ、眠るくらいのものだ。
ただ、それでも一歳である。
一年前よりは、だいぶ動けるようになった。足はまだ頼りないが、壁や家具に手をつけば立てる。短い距離なら歩こうとして転べる。転べる、というのは重要だ。受け身を取りたくなる身体を抑えて、赤ん坊らしく尻餅をつく努力をしなければならない。
普通の子どもは難しい。
本当に難しい。
オビトは畳の上に座り込み、目の前に置かれた木の玩具を見つめていた。丸く削られた積み木のようなもので、握っても怪我をしないよう丁寧に角が取られている。父が作ったものだ。うちはマヒトは忍でありながら、こういう細かな手仕事もできるらしい。
父は、穏やかな人だった。
集落の外れの家で過ごすマヒトは、声を荒げることがほとんどない。帰ってくる時は玄関先で必ず足音を少し緩め、家の中の空気を乱さないように入ってくる。母に声をかけ、祖母に頭を下げ、オビトが起きていれば必ずこちらへ視線を向ける。
人当たりが良い。けれど、軽いわけではない。
訪ねてくる者への応対を見ているとよく分かる。マヒトは誰に対しても柔らかいが、必要以上にへりくだらない。言うべきことは静かに言い、引くべきところは引く。うちはらしい硬さは薄いのに、忍としての芯はきちんとある。
母のツムギは、静かでやさしい人だった。
声は柔らかく、手つきは丁寧で、オビトが泣く前に気づくことが多い。赤ん坊の様子を見る目に、妙な鋭さがある。母だから、というだけではない。うちはの家で育ち、忍の世界に生きてきた人間の目だ。けれど、その目で見られても、この家の空気は息苦しくならなかった。
祖母も含めて、この家はやわらかい。
甘い、とは違う。何でも許してくれるわけではないし、危ないことをすればきちんと止められる。けれど、家の中に満ちているものが、張り詰めた誇りや不満ではない。誰かを値踏みする視線でもない。小さな子どもが転べば手を伸ばし、飯時になれば湯気が立ち、夜になれば灯りを落として眠る。
それだけのことが、ひどく温かかった。
前々世の記憶にある“うちはの家”と同じ場所に生まれたはずなのに、違う。いや、家そのものは同じなのかもしれない。同じ一族、同じ里、同じ名。けれどオビトが今ここで見ている父と母は、前々世ではほとんど知らないまま失った人たちだった。
初めて両親を知る。
その事実は、時々、胸の奥に静かに沈む。
マヒトが庭先で薪を割る音。ツムギが台所で包丁を動かす音。祖母が針仕事をしながら小さく鼻歌をこぼす気配。どれも何気ない。何気なさすぎて、油断すると息が詰まる。
……参るな。
オビトは積み木を握ったまま、内心で小さく息を吐いた。
こういう家は、失った時に絶対効く。
分かっている。知っている。温かいものほど、失った時に傷になる。前々世でも前世でも、それは嫌というほど思い知った。大事に思えば思うほど、壊れた時の痛みは深くなる。なら最初から距離を取ればいい、などとは、もう思わない。
思わないが、怖いものは怖い。
「オビト」
呼ばれて顔を上げると、ツムギがこちらを見ていた。手には小さな椀がある。柔らかく煮た粥の匂いがした。
「お腹、空いたでしょう」
腹は空いている。赤ん坊の身体は正直だ。精神がどれだけ大人でも、食べなければ動けないし、眠らなければ機嫌が悪くなる。そこに年齢の積み重ねはあまり関係なかった。
オビトは積み木を置き、両手を伸ばした。ツムギが目を細める。
「はいはい。ちゃんと待てるのね」
待てる。中身は五十二歳なので。
そう言えるはずもなく、オビトは大人しく口を開いた。食事を与えられるのも、最初はなかなか精神に来たが、乳に比べればまだましだった。いや、比べる対象がすでにおかしい。生きるとは尊厳を少しずつ畳んでいくことなのかもしれない。
粥は薄味で、温かかった。
食べながら、ふと庭の方へ意識が引かれた。
チャクラの気配がある。
家族のものではない。近くを通る一族の忍でもない。もっと古く、もっと遠いはずなのに、なぜかすぐそこにいるような気配。以前にも感じた、あの異様な深さ。
オビトは匙をくわえたまま、庭の隅へ視線を向けた。
いた。
六道仙人が。
庭の柿の木の陰、というにはあまりにも場違いな姿で、老人が立っていた。半透明というほど薄くはないが、普通の人間の存在感でもない。そこにいるのに、家族は気づいていない。ツムギは椀を持ったまま、オビトが食べるのを見守っているだけだ。
六道仙人は、オビトと目が合った瞬間、明らかに固まった。
だからなんでそこにいる。
オビトも固まった。
口には匙が入っている。赤ん坊である。非常に締まらない。六道仙人と二度目の邂逅を果たす姿としては、かなりどうかと思う。せめて立っている時にしてほしかった。いや、そういう問題でもない。
六道仙人はしばらく動かなかった。見えているのか、という顔をまたしている。いや、前にも見えていただろう。そちらこそなぜ毎回驚くのか。来るなら来るで、もう少し心構えをしてから来てほしい。
「……オビト?」
ツムギの声に、オビトははっとした。
しまった。見すぎた。
赤ん坊らしく、庭の何かに興味を持ったふりをする。小さく手を伸ばし、意味のない声を出す。ツムギは庭へ目を向けたが、当然何も見えていない。
「鳥でもいたのかしら」
違います。六道仙人です。
そんな返答ができるはずもないので、オビトは曖昧に声を上げた。ツムギは不思議そうにしながらも、食事を再開する。六道仙人はその間も、庭先からじっとこちらを見ていた。
食事を終え、しばらくしてツムギが台所へ下がった。祖母は奥の部屋で針仕事をしている。マヒトはまだ戻っていない。オビトは畳の上を這い、縁側の方へ向かった。
一歳児としては、なかなか自然な移動だったと思う。たぶん。少なくとも、全力で走り出さなかっただけ偉い。
縁側の近くまで来ると、六道仙人の姿がいくらかはっきり見えた。
老人はこちらを見下ろしていた。表情は厳しいというより、困惑に近い。前々世で出会った時のような、すべてを見透かすような超然さは薄い。いや、超越した存在ではあるのだろうが、今は明らかに分からないものを前にしている顔だった。
しげしげと見られる。
魂の奥まで覗かれているような感覚がある。気分の良いものではない。だが、敵意はなかった。探り、確かめ、そして理解できずにいる。
やがて六道仙人が口を開いた。
「お主、何者じゃ?」
……え?
オビトは瞬きをした。
何者、と言われても困る。うちはオビトです。今は一歳です。前々世で世界を壊しかけて、前世で呪い相手にブラック的に働きまくって、また赤ん坊になりました。よろしくお願いします。
言えるか。
そもそも声帯が追いつかない。
六道仙人は、眉間に深い皺を刻んだまま続けた。
「なぜ、わしが見えるのだ」
それはこっちが聞きたい。
オビトは小さな手を畳についたまま、じっと六道仙人を見上げた。声は出せない。出せたところで説明が難しい。前世で特級呪術師として働いていたからではないですかね、などと言って通じる相手ではない。そもそもこの世界の理からすれば、呪力も呪術も術式も、完全に別物だ。
ただ、見える側ではあった。
前世でオビトは呪霊を見て、祓い、呪いの気配を追い、術式の流れを捉えてきた。見えないものを見ることは、息をするくらい当たり前だった。特級呪術師は伊達ではない。伊達で済むなら、あんなに任務を詰め込まれていない。特級という肩書きは、本当に便利屋の別名だったのではないかと今でも思う。
六道仙人は呪霊ではない。
けれど、普通の人間でもない。肉体を持たず、チャクラの流れの奥に残る、魂に近い存在。前世の感覚で言えば、呪霊や残穢とは違うが、近い距離で認識できる“何か”ではある。見えないものを見る目が、そこに引っかかっているのかもしれない。
それに、自分の中には六道の力の残滓もある。
前々世で十尾の人柱力となり、六道に近い形へ足を踏み入れた。力そのものはもうない。だが、魂の構造や感覚の奥には何かが残っている。チャクラの理に触れた痕跡。普通のうちはの魂ではあり得ない歪み。
それが、六道仙人を見せているのかもしれない。
たぶん。
たぶん、が多い。
六道仙人の方も同じらしかった。
「妙なものが混じっておる。チャクラだけではない。されど、尾獣の類でも、わしらの知る理でもない」
老人の声は低く、遠い。直接耳に届いているというより、意識の奥へ響くような声だった。オビトは赤ん坊の顔で黙って聞くしかない。
「お主の魂は、幾度も火をくぐったように傷だらけじゃ。だが、壊れてはおらぬ。別の理に触れた痕もある。……何を見てきた」
オビトは答えられない。
答えるつもりがない、というより、答える手段がない。赤ん坊の口から出るのは、せいぜい意味のない音だけだ。六道仙人相手に「あー」とか「うー」で説明できる人生ではなかった。
それでも、黙っているだけでは落ち着かないので、オビトは一応声を出した。
「あ、う」
六道仙人がさらに困った顔をした。
分かるわけがない。
何をしているんだ俺は。
オビトは畳に座り込んだまま、少し遠い気持ちになった。前々世で会った時は、もっと状況が切迫していた。ナルトとサスケがいて、世界の命運がかかっていて、六道仙人の言葉には重みがあった。今は、一歳児と縁側の老人である。しかも片方は言葉が喋れない。
シュールにも程がある。
六道仙人はしばらく考え込むように黙っていた。風が庭の草を揺らし、台所からツムギが椀を片づける音が聞こえる。日常の音のすぐ隣に、世界の根に触れるような存在が立っている。その落差が妙におかしかった。
「わしにも、まだ分からぬ」
やがて、六道仙人はそう言った。
オビトは内心で頷いた。
でしょうね。
「ただ、お主はこの世の理だけで生まれたわけではない。異なるものを持ち、なおこの地に戻っておる。うちはの血、わしの力の残り香、そして別種の……いや、言葉にできぬもの」
六道仙人が目を細める。
その視線は鋭いが、断罪ではなかった。理解できないものを、理解できないまま見ている。超越者というより、観測者。困惑者。そういう呼び方の方が近い。
「お主自身は、それを知っておるのか」
知っている部分と、知らない部分がある。
前世の記憶はある。呪力の扱いも、術式の感覚も、呪霊を祓う術も覚えている。御厨子を写し取ったことも、反転術式も、血を操る感覚も、全部自分の中にある。けれど、六道仙人が言う“言葉にできぬもの”のすべてを、自分が把握しているかと言われると怪しい。
世界をまたいで赤ん坊になる時点で、もうだいぶ意味が分からない。
オビトは小さく首を傾げた。
赤ん坊としては自然な仕草だったはずだ。だが六道仙人は、それを何かの返答と受け取ったのか、少しだけ目を伏せた。
「……そうか。お主にも分からぬか」
分からない同士で見つめ合う。
本当に何なんだ、この時間。
その時、廊下の向こうから足音がした。マヒトのものだ。帰ってきたらしい。忍の足音は普通ならもっと消えるが、家の中ではわざと気配を残しているのだろう。家族を驚かせないための歩き方だった。
六道仙人の姿が薄くなる。
「また来よう」
来るのか。
オビトは思わず目を見開いた。
いや、来るなとは言わない。言わないが、来るならせめて事前に何か合図がほしい。赤ん坊が六道仙人と見つめ合っているところを家族に見られたら、普通にまずい。いや、家族には見えないのだろうが、見えない相手を凝視する赤ん坊はそれはそれで怖い。
六道仙人は、最後まで困惑を残した顔のまま消えた。
直後、マヒトが部屋へ入ってくる。
「ただいま、オビト」
オビトは反射的に父の方を向いた。マヒトは少し驚いたように瞬き、それから柔らかく笑う。
「出迎えてくれたのか」
違う。
六道仙人を見送っていました。
もちろん言えない。
オビトは両手を伸ばした。抱き上げられる。父の腕は今日も温かく、外の風の匂いが少しした。マヒトは片腕でオビトを支えながら、庭の方へ一瞬だけ目を向けた。
「……何かいたか?」
心臓が、赤ん坊の身体の中で小さく跳ねた。
マヒトの表情は穏やかなままだ。けれど、声の奥に忍の感覚があった。何も見えてはいない。ただ、場の空気がわずかに違うことには気づいたのかもしれない。
ツムギだけではない。
父も鋭い。
この家、温かいのに油断ならない。
オビトは父の襟元を握り、赤ん坊らしい声を出した。マヒトはしばらく庭を見ていたが、やがて小さく首を振る。
「気のせいか」
気のせいじゃないです。
六道仙人です。
言えないまま、オビトは父の肩に額を預けた。マヒトの手が背中を軽く叩く。そのリズムは穏やかで、眠気を誘う。先ほどまで世界の理がどうとか、魂がどうとか、ややこしい話をしていたのに、赤ん坊の身体はもう眠りたがっている。
本当に自由が利かない。
それでも、父の腕の中で眠くなること自体は、嫌ではなかった。
六道仙人はまた来るだろう。呪霊も出る。自分の中に何が混ざっているのかも、いずれ考えなければならない。これから起こるはずの災いもある。知っている過去と、知らない今が、少しずつ絡まり始めている。
だが今は、マヒトの腕の中だった。
温かい家の中で、母の足音がして、祖母の声が聞こえて、外では風が木の葉を揺らしている。
失えば効く。
それは分かっている。
分かっているからこそ、オビトは小さな手で父の服を握った。
今度は、失う前に手を伸ばす。
そう思ったところで、眠気に負けた。
赤ん坊の身体は、覚悟にも容赦がなかった。
赤ん坊としての一年は、長いようで短い。身体の成長に引きずられて眠る時間は多いし、自由に動ける範囲は狭い。前世のように任務へ走り回ることも、前々世のように修業で汗を流すこともできない。できることといえば、這い、立ち、転び、泣き、食べ、眠るくらいのものだ。
ただ、それでも一歳である。
一年前よりは、だいぶ動けるようになった。足はまだ頼りないが、壁や家具に手をつけば立てる。短い距離なら歩こうとして転べる。転べる、というのは重要だ。受け身を取りたくなる身体を抑えて、赤ん坊らしく尻餅をつく努力をしなければならない。
普通の子どもは難しい。
本当に難しい。
オビトは畳の上に座り込み、目の前に置かれた木の玩具を見つめていた。丸く削られた積み木のようなもので、握っても怪我をしないよう丁寧に角が取られている。父が作ったものだ。うちはマヒトは忍でありながら、こういう細かな手仕事もできるらしい。
父は、穏やかな人だった。
集落の外れの家で過ごすマヒトは、声を荒げることがほとんどない。帰ってくる時は玄関先で必ず足音を少し緩め、家の中の空気を乱さないように入ってくる。母に声をかけ、祖母に頭を下げ、オビトが起きていれば必ずこちらへ視線を向ける。
人当たりが良い。けれど、軽いわけではない。
訪ねてくる者への応対を見ているとよく分かる。マヒトは誰に対しても柔らかいが、必要以上にへりくだらない。言うべきことは静かに言い、引くべきところは引く。うちはらしい硬さは薄いのに、忍としての芯はきちんとある。
母のツムギは、静かでやさしい人だった。
声は柔らかく、手つきは丁寧で、オビトが泣く前に気づくことが多い。赤ん坊の様子を見る目に、妙な鋭さがある。母だから、というだけではない。うちはの家で育ち、忍の世界に生きてきた人間の目だ。けれど、その目で見られても、この家の空気は息苦しくならなかった。
祖母も含めて、この家はやわらかい。
甘い、とは違う。何でも許してくれるわけではないし、危ないことをすればきちんと止められる。けれど、家の中に満ちているものが、張り詰めた誇りや不満ではない。誰かを値踏みする視線でもない。小さな子どもが転べば手を伸ばし、飯時になれば湯気が立ち、夜になれば灯りを落として眠る。
それだけのことが、ひどく温かかった。
前々世の記憶にある“うちはの家”と同じ場所に生まれたはずなのに、違う。いや、家そのものは同じなのかもしれない。同じ一族、同じ里、同じ名。けれどオビトが今ここで見ている父と母は、前々世ではほとんど知らないまま失った人たちだった。
初めて両親を知る。
その事実は、時々、胸の奥に静かに沈む。
マヒトが庭先で薪を割る音。ツムギが台所で包丁を動かす音。祖母が針仕事をしながら小さく鼻歌をこぼす気配。どれも何気ない。何気なさすぎて、油断すると息が詰まる。
……参るな。
オビトは積み木を握ったまま、内心で小さく息を吐いた。
こういう家は、失った時に絶対効く。
分かっている。知っている。温かいものほど、失った時に傷になる。前々世でも前世でも、それは嫌というほど思い知った。大事に思えば思うほど、壊れた時の痛みは深くなる。なら最初から距離を取ればいい、などとは、もう思わない。
思わないが、怖いものは怖い。
「オビト」
呼ばれて顔を上げると、ツムギがこちらを見ていた。手には小さな椀がある。柔らかく煮た粥の匂いがした。
「お腹、空いたでしょう」
腹は空いている。赤ん坊の身体は正直だ。精神がどれだけ大人でも、食べなければ動けないし、眠らなければ機嫌が悪くなる。そこに年齢の積み重ねはあまり関係なかった。
オビトは積み木を置き、両手を伸ばした。ツムギが目を細める。
「はいはい。ちゃんと待てるのね」
待てる。中身は五十二歳なので。
そう言えるはずもなく、オビトは大人しく口を開いた。食事を与えられるのも、最初はなかなか精神に来たが、乳に比べればまだましだった。いや、比べる対象がすでにおかしい。生きるとは尊厳を少しずつ畳んでいくことなのかもしれない。
粥は薄味で、温かかった。
食べながら、ふと庭の方へ意識が引かれた。
チャクラの気配がある。
家族のものではない。近くを通る一族の忍でもない。もっと古く、もっと遠いはずなのに、なぜかすぐそこにいるような気配。以前にも感じた、あの異様な深さ。
オビトは匙をくわえたまま、庭の隅へ視線を向けた。
いた。
六道仙人が。
庭の柿の木の陰、というにはあまりにも場違いな姿で、老人が立っていた。半透明というほど薄くはないが、普通の人間の存在感でもない。そこにいるのに、家族は気づいていない。ツムギは椀を持ったまま、オビトが食べるのを見守っているだけだ。
六道仙人は、オビトと目が合った瞬間、明らかに固まった。
だからなんでそこにいる。
オビトも固まった。
口には匙が入っている。赤ん坊である。非常に締まらない。六道仙人と二度目の邂逅を果たす姿としては、かなりどうかと思う。せめて立っている時にしてほしかった。いや、そういう問題でもない。
六道仙人はしばらく動かなかった。見えているのか、という顔をまたしている。いや、前にも見えていただろう。そちらこそなぜ毎回驚くのか。来るなら来るで、もう少し心構えをしてから来てほしい。
「……オビト?」
ツムギの声に、オビトははっとした。
しまった。見すぎた。
赤ん坊らしく、庭の何かに興味を持ったふりをする。小さく手を伸ばし、意味のない声を出す。ツムギは庭へ目を向けたが、当然何も見えていない。
「鳥でもいたのかしら」
違います。六道仙人です。
そんな返答ができるはずもないので、オビトは曖昧に声を上げた。ツムギは不思議そうにしながらも、食事を再開する。六道仙人はその間も、庭先からじっとこちらを見ていた。
食事を終え、しばらくしてツムギが台所へ下がった。祖母は奥の部屋で針仕事をしている。マヒトはまだ戻っていない。オビトは畳の上を這い、縁側の方へ向かった。
一歳児としては、なかなか自然な移動だったと思う。たぶん。少なくとも、全力で走り出さなかっただけ偉い。
縁側の近くまで来ると、六道仙人の姿がいくらかはっきり見えた。
老人はこちらを見下ろしていた。表情は厳しいというより、困惑に近い。前々世で出会った時のような、すべてを見透かすような超然さは薄い。いや、超越した存在ではあるのだろうが、今は明らかに分からないものを前にしている顔だった。
しげしげと見られる。
魂の奥まで覗かれているような感覚がある。気分の良いものではない。だが、敵意はなかった。探り、確かめ、そして理解できずにいる。
やがて六道仙人が口を開いた。
「お主、何者じゃ?」
……え?
オビトは瞬きをした。
何者、と言われても困る。うちはオビトです。今は一歳です。前々世で世界を壊しかけて、前世で呪い相手にブラック的に働きまくって、また赤ん坊になりました。よろしくお願いします。
言えるか。
そもそも声帯が追いつかない。
六道仙人は、眉間に深い皺を刻んだまま続けた。
「なぜ、わしが見えるのだ」
それはこっちが聞きたい。
オビトは小さな手を畳についたまま、じっと六道仙人を見上げた。声は出せない。出せたところで説明が難しい。前世で特級呪術師として働いていたからではないですかね、などと言って通じる相手ではない。そもそもこの世界の理からすれば、呪力も呪術も術式も、完全に別物だ。
ただ、見える側ではあった。
前世でオビトは呪霊を見て、祓い、呪いの気配を追い、術式の流れを捉えてきた。見えないものを見ることは、息をするくらい当たり前だった。特級呪術師は伊達ではない。伊達で済むなら、あんなに任務を詰め込まれていない。特級という肩書きは、本当に便利屋の別名だったのではないかと今でも思う。
六道仙人は呪霊ではない。
けれど、普通の人間でもない。肉体を持たず、チャクラの流れの奥に残る、魂に近い存在。前世の感覚で言えば、呪霊や残穢とは違うが、近い距離で認識できる“何か”ではある。見えないものを見る目が、そこに引っかかっているのかもしれない。
それに、自分の中には六道の力の残滓もある。
前々世で十尾の人柱力となり、六道に近い形へ足を踏み入れた。力そのものはもうない。だが、魂の構造や感覚の奥には何かが残っている。チャクラの理に触れた痕跡。普通のうちはの魂ではあり得ない歪み。
それが、六道仙人を見せているのかもしれない。
たぶん。
たぶん、が多い。
六道仙人の方も同じらしかった。
「妙なものが混じっておる。チャクラだけではない。されど、尾獣の類でも、わしらの知る理でもない」
老人の声は低く、遠い。直接耳に届いているというより、意識の奥へ響くような声だった。オビトは赤ん坊の顔で黙って聞くしかない。
「お主の魂は、幾度も火をくぐったように傷だらけじゃ。だが、壊れてはおらぬ。別の理に触れた痕もある。……何を見てきた」
オビトは答えられない。
答えるつもりがない、というより、答える手段がない。赤ん坊の口から出るのは、せいぜい意味のない音だけだ。六道仙人相手に「あー」とか「うー」で説明できる人生ではなかった。
それでも、黙っているだけでは落ち着かないので、オビトは一応声を出した。
「あ、う」
六道仙人がさらに困った顔をした。
分かるわけがない。
何をしているんだ俺は。
オビトは畳に座り込んだまま、少し遠い気持ちになった。前々世で会った時は、もっと状況が切迫していた。ナルトとサスケがいて、世界の命運がかかっていて、六道仙人の言葉には重みがあった。今は、一歳児と縁側の老人である。しかも片方は言葉が喋れない。
シュールにも程がある。
六道仙人はしばらく考え込むように黙っていた。風が庭の草を揺らし、台所からツムギが椀を片づける音が聞こえる。日常の音のすぐ隣に、世界の根に触れるような存在が立っている。その落差が妙におかしかった。
「わしにも、まだ分からぬ」
やがて、六道仙人はそう言った。
オビトは内心で頷いた。
でしょうね。
「ただ、お主はこの世の理だけで生まれたわけではない。異なるものを持ち、なおこの地に戻っておる。うちはの血、わしの力の残り香、そして別種の……いや、言葉にできぬもの」
六道仙人が目を細める。
その視線は鋭いが、断罪ではなかった。理解できないものを、理解できないまま見ている。超越者というより、観測者。困惑者。そういう呼び方の方が近い。
「お主自身は、それを知っておるのか」
知っている部分と、知らない部分がある。
前世の記憶はある。呪力の扱いも、術式の感覚も、呪霊を祓う術も覚えている。御厨子を写し取ったことも、反転術式も、血を操る感覚も、全部自分の中にある。けれど、六道仙人が言う“言葉にできぬもの”のすべてを、自分が把握しているかと言われると怪しい。
世界をまたいで赤ん坊になる時点で、もうだいぶ意味が分からない。
オビトは小さく首を傾げた。
赤ん坊としては自然な仕草だったはずだ。だが六道仙人は、それを何かの返答と受け取ったのか、少しだけ目を伏せた。
「……そうか。お主にも分からぬか」
分からない同士で見つめ合う。
本当に何なんだ、この時間。
その時、廊下の向こうから足音がした。マヒトのものだ。帰ってきたらしい。忍の足音は普通ならもっと消えるが、家の中ではわざと気配を残しているのだろう。家族を驚かせないための歩き方だった。
六道仙人の姿が薄くなる。
「また来よう」
来るのか。
オビトは思わず目を見開いた。
いや、来るなとは言わない。言わないが、来るならせめて事前に何か合図がほしい。赤ん坊が六道仙人と見つめ合っているところを家族に見られたら、普通にまずい。いや、家族には見えないのだろうが、見えない相手を凝視する赤ん坊はそれはそれで怖い。
六道仙人は、最後まで困惑を残した顔のまま消えた。
直後、マヒトが部屋へ入ってくる。
「ただいま、オビト」
オビトは反射的に父の方を向いた。マヒトは少し驚いたように瞬き、それから柔らかく笑う。
「出迎えてくれたのか」
違う。
六道仙人を見送っていました。
もちろん言えない。
オビトは両手を伸ばした。抱き上げられる。父の腕は今日も温かく、外の風の匂いが少しした。マヒトは片腕でオビトを支えながら、庭の方へ一瞬だけ目を向けた。
「……何かいたか?」
心臓が、赤ん坊の身体の中で小さく跳ねた。
マヒトの表情は穏やかなままだ。けれど、声の奥に忍の感覚があった。何も見えてはいない。ただ、場の空気がわずかに違うことには気づいたのかもしれない。
ツムギだけではない。
父も鋭い。
この家、温かいのに油断ならない。
オビトは父の襟元を握り、赤ん坊らしい声を出した。マヒトはしばらく庭を見ていたが、やがて小さく首を振る。
「気のせいか」
気のせいじゃないです。
六道仙人です。
言えないまま、オビトは父の肩に額を預けた。マヒトの手が背中を軽く叩く。そのリズムは穏やかで、眠気を誘う。先ほどまで世界の理がどうとか、魂がどうとか、ややこしい話をしていたのに、赤ん坊の身体はもう眠りたがっている。
本当に自由が利かない。
それでも、父の腕の中で眠くなること自体は、嫌ではなかった。
六道仙人はまた来るだろう。呪霊も出る。自分の中に何が混ざっているのかも、いずれ考えなければならない。これから起こるはずの災いもある。知っている過去と、知らない今が、少しずつ絡まり始めている。
だが今は、マヒトの腕の中だった。
温かい家の中で、母の足音がして、祖母の声が聞こえて、外では風が木の葉を揺らしている。
失えば効く。
それは分かっている。
分かっているからこそ、オビトは小さな手で父の服を握った。
今度は、失う前に手を伸ばす。
そう思ったところで、眠気に負けた。
赤ん坊の身体は、覚悟にも容赦がなかった。
【〆栞】