特別授業開始
夜間の仮想組手と、その帰り道での祓除。
どちらも自分で始めたことだった。
眠れないから、少し身体を動かそうと思っただけだ。虎杖を相手に逕庭拳を打ち合い、汗をかけば、家へ戻って素直に眠れると思っていた。
そこまではよかった。
問題は、帰る途中で見つけてしまったことだ。
人通りの絶えた路地に一体。
屋根の上に二体。
使われていない倉の陰に、育ちかけたものが三体。
放っておけるはずがない。
一体祓えば、少し先でもう一体見つかる。ついでに周囲を確かめれば、さらに別の気配が引っかかる。気づけば夜間祓除散歩は、散歩と呼ぶには少々本格的なものになっていた。
家へ戻った頃には、空の端がわずかに明るくなり始めていた。
布団へ入って、目を閉じた。
そして、朝が来た。
一限目。
オビトは机に座り、必死に目を開いていた。
教師の声が遠い。
黒板へ白墨が走る音も聞こえる。文字も見える。内容も理解できる。眠ってはいけないことも、よく分かっている。
忍者学校へ通い始めてから、満点を連発し、教師を困惑させ、カカシから疑いの視線を浴びている。
ここで居眠りまで加われば、どうなるか。
成績はいいが授業中に寝る子。
完全に五条先生の生徒である。
いや、実際に生徒だった。
それはそれとして、避けたい。
オビトは膝の上で拳を握った。
頑張れ。
まだ一限目だ。
昨日の夜を乗り越えた男だろう。呪いの王とも戦った。自爆法術にも巻き込まれた。前々世では第四次忍界大戦まで起こした。
眠気くらい何だ。
負けるな。
瞼が落ちる。
上げる。
落ちる。
上げる。
黒板の文字が二重に見えた。
教師の声が、次第に柔らかな子守歌のように聞こえてくる。
無理。
一限目から敗北した。
額が机へ落ちる直前、腕を枕にすることだけは成功した。ゴーグルが机へ当たらない角度へ顔を傾ける。
そこで意識が途切れた。
「オビト」
リンの小さな声が、遠くから聞こえた気がした。
返事はできなかった。
二限目。
一度は起きた。
休み時間にリンから声をかけられ、顔を上げた記憶がある。
「眠いの?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとに見えないけど」
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。
二限目が始まり、教師が黒板へ簡単な計算を書き始めたところまでは覚えている。
次に気づいた時には、頬が腕へ深く沈み込んでいた。
爆睡だった。
三限目。
もはや起きた記憶が曖昧だった。
教師が席の横へ来た気配はあった。
「うちは」
呼ばれた。
たぶん。
肩へ手が伸びかける。
その気配も、何となく分かった。
だが教師は、すぐには触れなかった。
机の上に置かれた昨日までの答案。
授業で何度も並んだ満点。
黒板へ書かせれば、教える側より丁寧な解答。
手裏剣、体術、忍術、座学のすべてで首位。
教師の沈黙が続く。
起こすべきか。
寝かせておくべきか。
少なくとも、今の授業内容についていけず眠っているわけではない。普段は他の生徒へ手を貸し、質問されれば答え、教師の話も聞いている。
今日だけだ。
教師はしばらく考えた末、伸ばしかけた手を引いた。
「……今日は、寝かせておくか」
小さな呟きが落ちる。
オビトは知らない。
完全に熟睡していた。
教室では、子どもたちがちらちらとこちらを見ていた。
ガイは心配そうだった。
アスマは少し羨ましそうだった。
紅は教師に叱られないことを不思議そうにしている。
カカシは、明らかに疑っていた。
何をすれば授業中にここまで眠れるのか。
昨日の帰り道までは、いつも通りだった。三人で歩き、リンと話し、自分へ余計な言葉を返す余裕もあった。
その夜に、何かをしていた。
そう考えている顔だった。
リンは時折、オビトの方へ目を向けた。
腕を枕にしたまま、まったく動かない。呼吸は穏やかだから、体調が悪いわけではなさそうだ。それでも心配なのだろう。休み時間になるたび、そっと様子を確認していた。
オビトは眠り続けた。
教室の戸が開くまでは。
授業の途中だった。
廊下側から足音が近づき、教師がわずかに姿勢を正す。戸が引かれる。
入ってきた老人の姿を見て、教室中の空気が止まった。
猿飛ヒルゼン。
三代目火影。
火影装束ではなく、動きやすい忍装束姿だったが、見間違える者はいない。里を治める者の顔は、忍者学校へ入ったばかりの子どもたちでも知っている。
ガイが目を見開いた。
アスマの眠そうな顔が一気に引き締まる。
紅もリンも固まった。
カカシだけは驚きを表へ出さなかったが、視線はすぐに教師とヒルゼンの間を往復した。
上級生の間で流れていた小さな噂。
教師たちの不自然な動き。
訓練場の使用予定。
どうやら事実だったらしい。
教室の中で、ただ一人。
うちはオビトだけが熟睡していた。
ヒルゼンは教室を見回し、机へ突っ伏している黒髪の子どもへ目を留めた。
額にはゴーグル。
腕を枕にし、顔を半分伏せている。
繰り返し報告書に名が上がった子どもは、火影が教室へ入ってきても起きなかった。
ヒルゼンの目に、わずかな可笑しさが滲む。
教師は困った顔でオビトの席へ近づいた。
「うちは」
反応はない。
「うちはオビト」
起きない。
教室中の視線が集まる。
教師が肩へ手を伸ばそうとした時、リンが小さく手を上げた。
「あの、先生。私が起こしてもいいですか?」
教師は一瞬考え、頷いた。
リンが隣から身を寄せ、オビトの肩へ手を置く。
「オビト」
揺する。
反応なし。
「オビト、起きて」
もう少し強く揺すった。
オビトの肩が、ビクンッと大きく跳ねた。
「っ!」
勢いよく顔が上がる。
黒い瞳が見開かれ、周囲を見回す。
「……?」
寝起きの頭が働かない。
リン。
教室。
教師。
固まっている同級生たち。
そして、教壇の近くに立つ三代目火影。
ヒルゼンが穏やかに口を開いた。
「よう眠っておったのう」
「ふぁ!?」
声が裏返った。
一瞬で眠気が吹き飛んだ。
何で。
どうして。
火影様がここに。
今日だったのか。
いや、そもそも何が今日なのか知らない。知らないが、教師たちの様子と、教室の空気と、動きやすい格好をしたヒルゼンを見れば、ただの挨拶ではないことくらい分かる。
寝起きの頭が、無理やり回り始めた。
オビトは姿勢を正した。
机の上に涎が落ちていないことだけを素早く確認する。
セーフ。
たぶん。
「火影様……」
「起こしてしまったかの」
「いえ、俺が勝手に寝てただけなので」
その通りである。
教室の何人かが笑いを堪えた。
リンも少しだけ口元を緩めている。
カカシは笑っていない。
こちらをじっと見ている。
昨日の夜に何をしていた、と目で聞かれている気がした。
知らん顔をするしかない。
ヒルゼンは教室の前へ立ち、子どもたちを見渡した。
「今日は、普段とは少し違う授業をさせてもらう」
教室の空気がざわつく。
教師が手を上げ、静かにするよう促した。
「これから訓練場へ移動する。火影様に、一人ずつ組手の相手をしていただく」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、声が上がった。
「火影様と!?」
最も大きかったのはガイだった。
椅子から立ち上がりかけ、教師に視線で座るよう促される。それでも目は輝き、身体中からやる気が溢れていた。
アスマは露骨に顔をしかめた。
やりにくいだろう。
父親を相手に、同級生たちの前で組手をする。しかも相手は火影として来ている。普段の親子の距離ではいられない。
紅は緊張したように背筋を伸ばした。
リンも驚いている。
カカシは、すでに組手の条件を考え始めているような顔をしていた。
オビトは固まったままだった。
火影との、一対一組手。
今日。
今から。
内心で盛大に絶叫した。
聞いてない。
何も聞いてない。
普通の授業だと思って来た。
いや、普通の授業すら寝ていた。
睡眠不足で三限目まで熟睡した直後に、三代目火影と組手。
最高の目覚ましだった。
眠気は完全に消えた。
代わりに、別の意味で頭が痛い。
どこまで出す。
何を見せる。
体術だけか。
忍術も使うのか。
写輪眼は絶対に出さない。
呪力も前へは出さない。
術式など論外。
だが、抑えすぎればまた不自然になる。教師たちの報告が火影の耳へ入っている可能性は高い。むしろ、そのための授業だろう。
まずい。
かなりまずい。
ヒルゼンの視線が、一瞬だけこちらへ向いた。
穏やかな目。
だが、ただの好々爺の目ではない。
見られている。
試される。
そのことだけは分かった。
子どもたちは荷物を置き、教師に連れられて訓練場へ移動した。
陽は高く、土の上には薄い影が落ちている。訓練場の中央には、すでに簡単な境界線が引かれていた。周囲には教師が数人立ち、安全確認をしている。
ヒルゼンが中央へ進む。
「勝敗だけを見るものではない。今、自分に何ができるか。それを見せてくれればよい」
穏やかな言葉だった。
「無理に勝とうとせずともよい。されど、最初から諦める必要もない」
子どもたちの顔が引き締まる。
順番が告げられた。
最初に呼ばれたのはガイだった。
「よろしくお願いします!」
訓練場中へ響くほどの声で頭を下げる。
元気だ。
本当に元気だ。
開始の合図と同時に、真正面から飛び込んだ。
迷いがない。
速さも技術もまだ粗い。それでも、今持っている力を全部ぶつけようとする姿勢は、見ていて気持ちがよかった。蹴りを避けられても、転んでも、すぐに立つ。ヒルゼンは必要以上に攻撃せず、ガイがどう立て直すかを見ている。
最後は足を払われ、尻から土へ落ちた。
それでもガイは、悔しそうにしながら笑っていた。
「ありがとうございました!」
真っ直ぐだ。
オビトも自然に笑みが浮かんだ。
次々と子どもたちが呼ばれる。
アスマの番になる。
「……よろしくお願いします」
声が少し硬い。
ヒルゼンは火影として息子を見ている。アスマもそれが分かっているのだろう。普段の父へ向ける感情と、火影へ挑む緊張が混じり、動きに少し迷いが出ていた。
やりにくいよな。
オビトは同情した。
攻めれば読まれる。
下手に引けば、普段より気持ちが逃げていることまで見抜かれる。
アスマは最後まで顔をしかめたままだったが、途中からは迷いを捨てた。低く踏み込み、一撃だけでも届かせようとする。結局、腕を取られて止められたものの、最初より動きはよくなっていた。
紅は慎重だった。
正面から入らず、距離を測り、ヒルゼンが動くのを待つ。だが待ちすぎたところへ一歩で間合いを詰められ、驚いて動きが止まった。すぐに立て直そうとしたが、肩へ手を置かれたところで終了となる。
悔しそうだった。
けれど、何が足りなかったかを考えている顔だった。
リンの番が来る。
「よろしくお願いします」
声は少し緊張している。
オビトは無意識に姿勢を正した。
リンは攻撃の巧さより、相手の動きをよく見ていた。ヒルゼンが一歩踏み込むと、避けるだけでなく、周囲の境界線まで確認する。後ろへ下がりすぎて場外にならないよう気をつけている。
防御が中心だ。
無理に手を出さない。
ヒルゼンがわざと隙を見せた時、リンは一瞬迷った。
攻めるか。
待つか。
結局、慎重に手を伸ばしたところで腕を取られた。
組手は短く終わったが、ヒルゼンは穏やかに頷いた。
「周囲をよく見ておった。ただ、好機と思った時は、もう少し己の判断を信じてもよい」
「はい」
リンは素直に返事をした。
列へ戻る途中、その視線がカカシへ向く。
頑張って、と言うような小さな笑み。
やはり、カカシが好きらしい。
前々世の頃と、そのあたりは変わらない。
オビトはそう思った。
それだけだった。
胸が痛むこともない。
嫉妬もない。
寂しさもない。
不思議なくらい、何も引っかからなかった。
どうしてだろう、と一瞬考える。
前々世では、リンがカカシを見るたびに胸の奥がざわついた。追いつきたくて、振り向いてほしくて、勝手に張り合っていた。
今は、リンの好意を見ても、微笑ましいとしか思わない。
年齢を重ねすぎたからか。
今世のリンを、前々世と同じように見ていないからか。
それもある。
けれど、もう一つ。
頭に浮かんだのは、前世で何だかんだと自分を扱き使った女だった。
釘崎野薔薇。
任務中でも、買い物でも、遠慮がない。
「それ持って」
「遅い」
「何ぼさっとしてんの」
「今日空いてるでしょ。荷物持ち決定」
だいたい命令か、罵倒か、当然のような使役だった。
けれど、案外ああいう相手の方が気楽だった。
こちらの顔色を窺わない。
遠回しに察してもらおうとしない。
腹が立てば怒る。
嬉しければ笑う。
嫌なら嫌と言う。
自分が沈みそうになれば、容赦なく襟首を掴んで引きずり上げる。
あの空気は、案外好きだった。
いや、案外どころではない。
恋人だったのだから、好きで当然なのだが。
オビトは少しだけ目を伏せた。
リンへの感情が消えたというより、形が変わったのだろう。
今のリンは、大切にしたい子どもであり、仲間になっていく相手だ。
前々世の恋心を、そのまま重ねる相手ではない。
そこまで考えたところで、周囲の空気が変わった。
カカシの番だった。
「はたけカカシ」
呼ばれ、カカシが前へ出る。
小さな身体。
白い髪。
表情は淡い。
だが、目は鋭くヒルゼンを見ている。
「よろしくお願いします」
構えに無駄がない。
開始の合図。
カカシはすぐには飛び込まなかった。
相手が火影だと分かっている。
正面から行けば簡単に止められる。距離を測り、足元を見て、ヒルゼンの重心がわずかに動いた瞬間に横へ回った。
速い。
四歳としては、やはり異常なほどに。
ヒルゼンの手が伸びる。
カカシは低く潜り、足元へ入る。だが、その動きも読まれている。体勢を崩す前に肩へ手が来る。
カカシは触れられる直前に身体を捻り、袖を抜いた。
周囲から小さな声が上がる。
ヒルゼンの目がわずかに細くなった。
次は、先ほどより速い。
カカシは後ろへ下がらず、懐へ入ろうとする。手首を狙い、肘を押さえ、体格差を使わせないよう動く。
上手い。
本当に上手い。
しかし、まだ小さい。
一度流れを外されると、足の長さも体重も足りない。ヒルゼンがわずかに軸をずらしただけで、カカシの身体が前へ流れる。
それでも倒れない。
手をつき、即座に蹴りへ繋ぐ。
ヒルゼンはそれを腕で受け、軽く押し返した。
カカシの足が土を滑る。
そこで教師が終了を告げた。
カカシは息を乱しながらも、最後まで目を逸らさなかった。
「よい判断じゃった」
ヒルゼンが言う。
「相手の力を正面から受けぬよう、よく考えておる。ただ、先を読みすぎて身体が硬くなる時がある。相手は必ずしも、予想した通りには動かぬ」
「はい」
カカシは短く答え、列へ戻った。
悔しそうだった。
だが、その悔しさを顔へ大きく出さない。
戻ってきたカカシへ、リンが笑いかける。
「すごかったよ、カカシ」
「別に」
返事は素っ気ない。
けれど、完全に無視はしない。
この辺りも、記憶と大きな差はなかった。
オビトは少しだけ息を吐いた。
残っている生徒が減っている。
次は誰だ。
自分の順番は、できれば真ん中くらいで流してほしかった。最後になると注目が集まる。報告書を見て組まれた順番なら、なおさら嫌な予感がする。
教師が名簿を見る。
残った子どもを一人呼ぶ。
その組手が終わる。
また一人。
終わる。
そして。
気づけば、立っているのはオビトだけだった。
え。
待って。
周囲の視線がこちらへ集まる。
リン。
カカシ。
ガイ。
アスマ。
紅。
教師たち。
中央に立つヒルゼン。
教師が名を呼んだ。
「最後。うちはオビト」
オビトは固まった。
大トリ。
何で。
やっぱり狙われている。
内心で頭を抱えた。
眠気はとっくに吹き飛んでいる。
代わりに、胃の辺りが重い。
見せすぎるな。
抑えすぎるな。
写輪眼は出すな。
呪力も術式も使うな。
五歳の身体に合わせる。
だが、火影を相手に不自然な手抜きは通じない。
無理難題の山だった。
ヒルゼンは中央で、穏やかにこちらを待っている。
オビトは一度だけ深く息を吸った。
それから列を離れ、訓練場へ足を踏み出した。
どちらも自分で始めたことだった。
眠れないから、少し身体を動かそうと思っただけだ。虎杖を相手に逕庭拳を打ち合い、汗をかけば、家へ戻って素直に眠れると思っていた。
そこまではよかった。
問題は、帰る途中で見つけてしまったことだ。
人通りの絶えた路地に一体。
屋根の上に二体。
使われていない倉の陰に、育ちかけたものが三体。
放っておけるはずがない。
一体祓えば、少し先でもう一体見つかる。ついでに周囲を確かめれば、さらに別の気配が引っかかる。気づけば夜間祓除散歩は、散歩と呼ぶには少々本格的なものになっていた。
家へ戻った頃には、空の端がわずかに明るくなり始めていた。
布団へ入って、目を閉じた。
そして、朝が来た。
一限目。
オビトは机に座り、必死に目を開いていた。
教師の声が遠い。
黒板へ白墨が走る音も聞こえる。文字も見える。内容も理解できる。眠ってはいけないことも、よく分かっている。
忍者学校へ通い始めてから、満点を連発し、教師を困惑させ、カカシから疑いの視線を浴びている。
ここで居眠りまで加われば、どうなるか。
成績はいいが授業中に寝る子。
完全に五条先生の生徒である。
いや、実際に生徒だった。
それはそれとして、避けたい。
オビトは膝の上で拳を握った。
頑張れ。
まだ一限目だ。
昨日の夜を乗り越えた男だろう。呪いの王とも戦った。自爆法術にも巻き込まれた。前々世では第四次忍界大戦まで起こした。
眠気くらい何だ。
負けるな。
瞼が落ちる。
上げる。
落ちる。
上げる。
黒板の文字が二重に見えた。
教師の声が、次第に柔らかな子守歌のように聞こえてくる。
無理。
一限目から敗北した。
額が机へ落ちる直前、腕を枕にすることだけは成功した。ゴーグルが机へ当たらない角度へ顔を傾ける。
そこで意識が途切れた。
「オビト」
リンの小さな声が、遠くから聞こえた気がした。
返事はできなかった。
二限目。
一度は起きた。
休み時間にリンから声をかけられ、顔を上げた記憶がある。
「眠いの?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとに見えないけど」
「大丈夫」
大丈夫ではなかった。
二限目が始まり、教師が黒板へ簡単な計算を書き始めたところまでは覚えている。
次に気づいた時には、頬が腕へ深く沈み込んでいた。
爆睡だった。
三限目。
もはや起きた記憶が曖昧だった。
教師が席の横へ来た気配はあった。
「うちは」
呼ばれた。
たぶん。
肩へ手が伸びかける。
その気配も、何となく分かった。
だが教師は、すぐには触れなかった。
机の上に置かれた昨日までの答案。
授業で何度も並んだ満点。
黒板へ書かせれば、教える側より丁寧な解答。
手裏剣、体術、忍術、座学のすべてで首位。
教師の沈黙が続く。
起こすべきか。
寝かせておくべきか。
少なくとも、今の授業内容についていけず眠っているわけではない。普段は他の生徒へ手を貸し、質問されれば答え、教師の話も聞いている。
今日だけだ。
教師はしばらく考えた末、伸ばしかけた手を引いた。
「……今日は、寝かせておくか」
小さな呟きが落ちる。
オビトは知らない。
完全に熟睡していた。
教室では、子どもたちがちらちらとこちらを見ていた。
ガイは心配そうだった。
アスマは少し羨ましそうだった。
紅は教師に叱られないことを不思議そうにしている。
カカシは、明らかに疑っていた。
何をすれば授業中にここまで眠れるのか。
昨日の帰り道までは、いつも通りだった。三人で歩き、リンと話し、自分へ余計な言葉を返す余裕もあった。
その夜に、何かをしていた。
そう考えている顔だった。
リンは時折、オビトの方へ目を向けた。
腕を枕にしたまま、まったく動かない。呼吸は穏やかだから、体調が悪いわけではなさそうだ。それでも心配なのだろう。休み時間になるたび、そっと様子を確認していた。
オビトは眠り続けた。
教室の戸が開くまでは。
授業の途中だった。
廊下側から足音が近づき、教師がわずかに姿勢を正す。戸が引かれる。
入ってきた老人の姿を見て、教室中の空気が止まった。
猿飛ヒルゼン。
三代目火影。
火影装束ではなく、動きやすい忍装束姿だったが、見間違える者はいない。里を治める者の顔は、忍者学校へ入ったばかりの子どもたちでも知っている。
ガイが目を見開いた。
アスマの眠そうな顔が一気に引き締まる。
紅もリンも固まった。
カカシだけは驚きを表へ出さなかったが、視線はすぐに教師とヒルゼンの間を往復した。
上級生の間で流れていた小さな噂。
教師たちの不自然な動き。
訓練場の使用予定。
どうやら事実だったらしい。
教室の中で、ただ一人。
うちはオビトだけが熟睡していた。
ヒルゼンは教室を見回し、机へ突っ伏している黒髪の子どもへ目を留めた。
額にはゴーグル。
腕を枕にし、顔を半分伏せている。
繰り返し報告書に名が上がった子どもは、火影が教室へ入ってきても起きなかった。
ヒルゼンの目に、わずかな可笑しさが滲む。
教師は困った顔でオビトの席へ近づいた。
「うちは」
反応はない。
「うちはオビト」
起きない。
教室中の視線が集まる。
教師が肩へ手を伸ばそうとした時、リンが小さく手を上げた。
「あの、先生。私が起こしてもいいですか?」
教師は一瞬考え、頷いた。
リンが隣から身を寄せ、オビトの肩へ手を置く。
「オビト」
揺する。
反応なし。
「オビト、起きて」
もう少し強く揺すった。
オビトの肩が、ビクンッと大きく跳ねた。
「っ!」
勢いよく顔が上がる。
黒い瞳が見開かれ、周囲を見回す。
「……?」
寝起きの頭が働かない。
リン。
教室。
教師。
固まっている同級生たち。
そして、教壇の近くに立つ三代目火影。
ヒルゼンが穏やかに口を開いた。
「よう眠っておったのう」
「ふぁ!?」
声が裏返った。
一瞬で眠気が吹き飛んだ。
何で。
どうして。
火影様がここに。
今日だったのか。
いや、そもそも何が今日なのか知らない。知らないが、教師たちの様子と、教室の空気と、動きやすい格好をしたヒルゼンを見れば、ただの挨拶ではないことくらい分かる。
寝起きの頭が、無理やり回り始めた。
オビトは姿勢を正した。
机の上に涎が落ちていないことだけを素早く確認する。
セーフ。
たぶん。
「火影様……」
「起こしてしまったかの」
「いえ、俺が勝手に寝てただけなので」
その通りである。
教室の何人かが笑いを堪えた。
リンも少しだけ口元を緩めている。
カカシは笑っていない。
こちらをじっと見ている。
昨日の夜に何をしていた、と目で聞かれている気がした。
知らん顔をするしかない。
ヒルゼンは教室の前へ立ち、子どもたちを見渡した。
「今日は、普段とは少し違う授業をさせてもらう」
教室の空気がざわつく。
教師が手を上げ、静かにするよう促した。
「これから訓練場へ移動する。火影様に、一人ずつ組手の相手をしていただく」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、声が上がった。
「火影様と!?」
最も大きかったのはガイだった。
椅子から立ち上がりかけ、教師に視線で座るよう促される。それでも目は輝き、身体中からやる気が溢れていた。
アスマは露骨に顔をしかめた。
やりにくいだろう。
父親を相手に、同級生たちの前で組手をする。しかも相手は火影として来ている。普段の親子の距離ではいられない。
紅は緊張したように背筋を伸ばした。
リンも驚いている。
カカシは、すでに組手の条件を考え始めているような顔をしていた。
オビトは固まったままだった。
火影との、一対一組手。
今日。
今から。
内心で盛大に絶叫した。
聞いてない。
何も聞いてない。
普通の授業だと思って来た。
いや、普通の授業すら寝ていた。
睡眠不足で三限目まで熟睡した直後に、三代目火影と組手。
最高の目覚ましだった。
眠気は完全に消えた。
代わりに、別の意味で頭が痛い。
どこまで出す。
何を見せる。
体術だけか。
忍術も使うのか。
写輪眼は絶対に出さない。
呪力も前へは出さない。
術式など論外。
だが、抑えすぎればまた不自然になる。教師たちの報告が火影の耳へ入っている可能性は高い。むしろ、そのための授業だろう。
まずい。
かなりまずい。
ヒルゼンの視線が、一瞬だけこちらへ向いた。
穏やかな目。
だが、ただの好々爺の目ではない。
見られている。
試される。
そのことだけは分かった。
子どもたちは荷物を置き、教師に連れられて訓練場へ移動した。
陽は高く、土の上には薄い影が落ちている。訓練場の中央には、すでに簡単な境界線が引かれていた。周囲には教師が数人立ち、安全確認をしている。
ヒルゼンが中央へ進む。
「勝敗だけを見るものではない。今、自分に何ができるか。それを見せてくれればよい」
穏やかな言葉だった。
「無理に勝とうとせずともよい。されど、最初から諦める必要もない」
子どもたちの顔が引き締まる。
順番が告げられた。
最初に呼ばれたのはガイだった。
「よろしくお願いします!」
訓練場中へ響くほどの声で頭を下げる。
元気だ。
本当に元気だ。
開始の合図と同時に、真正面から飛び込んだ。
迷いがない。
速さも技術もまだ粗い。それでも、今持っている力を全部ぶつけようとする姿勢は、見ていて気持ちがよかった。蹴りを避けられても、転んでも、すぐに立つ。ヒルゼンは必要以上に攻撃せず、ガイがどう立て直すかを見ている。
最後は足を払われ、尻から土へ落ちた。
それでもガイは、悔しそうにしながら笑っていた。
「ありがとうございました!」
真っ直ぐだ。
オビトも自然に笑みが浮かんだ。
次々と子どもたちが呼ばれる。
アスマの番になる。
「……よろしくお願いします」
声が少し硬い。
ヒルゼンは火影として息子を見ている。アスマもそれが分かっているのだろう。普段の父へ向ける感情と、火影へ挑む緊張が混じり、動きに少し迷いが出ていた。
やりにくいよな。
オビトは同情した。
攻めれば読まれる。
下手に引けば、普段より気持ちが逃げていることまで見抜かれる。
アスマは最後まで顔をしかめたままだったが、途中からは迷いを捨てた。低く踏み込み、一撃だけでも届かせようとする。結局、腕を取られて止められたものの、最初より動きはよくなっていた。
紅は慎重だった。
正面から入らず、距離を測り、ヒルゼンが動くのを待つ。だが待ちすぎたところへ一歩で間合いを詰められ、驚いて動きが止まった。すぐに立て直そうとしたが、肩へ手を置かれたところで終了となる。
悔しそうだった。
けれど、何が足りなかったかを考えている顔だった。
リンの番が来る。
「よろしくお願いします」
声は少し緊張している。
オビトは無意識に姿勢を正した。
リンは攻撃の巧さより、相手の動きをよく見ていた。ヒルゼンが一歩踏み込むと、避けるだけでなく、周囲の境界線まで確認する。後ろへ下がりすぎて場外にならないよう気をつけている。
防御が中心だ。
無理に手を出さない。
ヒルゼンがわざと隙を見せた時、リンは一瞬迷った。
攻めるか。
待つか。
結局、慎重に手を伸ばしたところで腕を取られた。
組手は短く終わったが、ヒルゼンは穏やかに頷いた。
「周囲をよく見ておった。ただ、好機と思った時は、もう少し己の判断を信じてもよい」
「はい」
リンは素直に返事をした。
列へ戻る途中、その視線がカカシへ向く。
頑張って、と言うような小さな笑み。
やはり、カカシが好きらしい。
前々世の頃と、そのあたりは変わらない。
オビトはそう思った。
それだけだった。
胸が痛むこともない。
嫉妬もない。
寂しさもない。
不思議なくらい、何も引っかからなかった。
どうしてだろう、と一瞬考える。
前々世では、リンがカカシを見るたびに胸の奥がざわついた。追いつきたくて、振り向いてほしくて、勝手に張り合っていた。
今は、リンの好意を見ても、微笑ましいとしか思わない。
年齢を重ねすぎたからか。
今世のリンを、前々世と同じように見ていないからか。
それもある。
けれど、もう一つ。
頭に浮かんだのは、前世で何だかんだと自分を扱き使った女だった。
釘崎野薔薇。
任務中でも、買い物でも、遠慮がない。
「それ持って」
「遅い」
「何ぼさっとしてんの」
「今日空いてるでしょ。荷物持ち決定」
だいたい命令か、罵倒か、当然のような使役だった。
けれど、案外ああいう相手の方が気楽だった。
こちらの顔色を窺わない。
遠回しに察してもらおうとしない。
腹が立てば怒る。
嬉しければ笑う。
嫌なら嫌と言う。
自分が沈みそうになれば、容赦なく襟首を掴んで引きずり上げる。
あの空気は、案外好きだった。
いや、案外どころではない。
恋人だったのだから、好きで当然なのだが。
オビトは少しだけ目を伏せた。
リンへの感情が消えたというより、形が変わったのだろう。
今のリンは、大切にしたい子どもであり、仲間になっていく相手だ。
前々世の恋心を、そのまま重ねる相手ではない。
そこまで考えたところで、周囲の空気が変わった。
カカシの番だった。
「はたけカカシ」
呼ばれ、カカシが前へ出る。
小さな身体。
白い髪。
表情は淡い。
だが、目は鋭くヒルゼンを見ている。
「よろしくお願いします」
構えに無駄がない。
開始の合図。
カカシはすぐには飛び込まなかった。
相手が火影だと分かっている。
正面から行けば簡単に止められる。距離を測り、足元を見て、ヒルゼンの重心がわずかに動いた瞬間に横へ回った。
速い。
四歳としては、やはり異常なほどに。
ヒルゼンの手が伸びる。
カカシは低く潜り、足元へ入る。だが、その動きも読まれている。体勢を崩す前に肩へ手が来る。
カカシは触れられる直前に身体を捻り、袖を抜いた。
周囲から小さな声が上がる。
ヒルゼンの目がわずかに細くなった。
次は、先ほどより速い。
カカシは後ろへ下がらず、懐へ入ろうとする。手首を狙い、肘を押さえ、体格差を使わせないよう動く。
上手い。
本当に上手い。
しかし、まだ小さい。
一度流れを外されると、足の長さも体重も足りない。ヒルゼンがわずかに軸をずらしただけで、カカシの身体が前へ流れる。
それでも倒れない。
手をつき、即座に蹴りへ繋ぐ。
ヒルゼンはそれを腕で受け、軽く押し返した。
カカシの足が土を滑る。
そこで教師が終了を告げた。
カカシは息を乱しながらも、最後まで目を逸らさなかった。
「よい判断じゃった」
ヒルゼンが言う。
「相手の力を正面から受けぬよう、よく考えておる。ただ、先を読みすぎて身体が硬くなる時がある。相手は必ずしも、予想した通りには動かぬ」
「はい」
カカシは短く答え、列へ戻った。
悔しそうだった。
だが、その悔しさを顔へ大きく出さない。
戻ってきたカカシへ、リンが笑いかける。
「すごかったよ、カカシ」
「別に」
返事は素っ気ない。
けれど、完全に無視はしない。
この辺りも、記憶と大きな差はなかった。
オビトは少しだけ息を吐いた。
残っている生徒が減っている。
次は誰だ。
自分の順番は、できれば真ん中くらいで流してほしかった。最後になると注目が集まる。報告書を見て組まれた順番なら、なおさら嫌な予感がする。
教師が名簿を見る。
残った子どもを一人呼ぶ。
その組手が終わる。
また一人。
終わる。
そして。
気づけば、立っているのはオビトだけだった。
え。
待って。
周囲の視線がこちらへ集まる。
リン。
カカシ。
ガイ。
アスマ。
紅。
教師たち。
中央に立つヒルゼン。
教師が名を呼んだ。
「最後。うちはオビト」
オビトは固まった。
大トリ。
何で。
やっぱり狙われている。
内心で頭を抱えた。
眠気はとっくに吹き飛んでいる。
代わりに、胃の辺りが重い。
見せすぎるな。
抑えすぎるな。
写輪眼は出すな。
呪力も術式も使うな。
五歳の身体に合わせる。
だが、火影を相手に不自然な手抜きは通じない。
無理難題の山だった。
ヒルゼンは中央で、穏やかにこちらを待っている。
オビトは一度だけ深く息を吸った。
それから列を離れ、訓練場へ足を踏み出した。
【〆栞】