昂る焔
訓練場の中央へ向かう一歩一歩が、ひどく重かった。
眠気はもうない。
先ほどまで机へ突っ伏して熟睡していたことなど、遠い昔のように思える。頭は冴え、視界も澄んでいる。代わりに、これから何をどこまで見せるべきかという問題が、容赦なくオビトの頭を締めつけていた。
相手は三代目火影。
猿飛ヒルゼン。
今の自分より、はるかに長く忍として生きている男だ。
五歳児らしく下手に動けば、不自然さを見抜かれる。
普段通りに動けば、忍者学校で積み上げてきた疑惑をさらに深める。
本気など論外。
術式も使わない。
写輪眼も開かない。
呪力は内側へ留め、表へ出すのはチャクラだけ。
それでも、体術と判断だけでどこまで誤魔化せるのか。
第四次忍界大戦首謀者と特級呪術師の経験を抱えたまま、入学したばかりの五歳児になる。
本日も超難関任務である。
訓練場の中央で、ヒルゼンが待っていた。
先ほどまで子どもたちを相手にしていた時と同じ、穏やかな立ち姿だった。肩に力はなく、構えらしい構えも取っていない。だが、どこから入っても止められる。
隙があるように見える。
見せているだけだ。
オビトは境界線の内側へ入り、ヒルゼンの前で足を止めた。
「よろしくお願いします」
頭を下げる。
「うむ」
ヒルゼンは柔らかく頷いた。
「気負わず、今できることを見せてくれればよい」
それが難しいんだよ。
オビトは内心でだけ答えた。
今できることを見せたら、確実に大問題になる。
周囲には教師たちが立ち、子どもたちが訓練場の端へ並んでいる。リンは心配そうにこちらを見ていた。ガイは期待に目を輝かせている。アスマは父親を相手にした時の気まずさから解放されたらしく、少しだけ落ち着いた顔をしている。
カカシは、まっすぐオビトを見ていた。
視線が鋭い。
一つも見逃す気がないらしい。
やりにくい。
非常にやりにくい。
オビトは小さく息を吐き、両手を上げた。
まずは、周囲に合わせる。
今までの生徒たちが見せた範囲。
踏み込みは浅く。
速度も抑える。
攻撃は単純に。
受けられる前提で出す。
相手の動きを読みすぎない。
誘いへ乗らない。
何より、戦いそのものへ入り込まない。
教師の手が上がる。
「始め!」
オビトは一歩踏み込んだ。
正面から拳を出す。
速すぎない。
角度も素直。
ヒルゼンの手が軽く動き、拳の外側へ触れた。軌道を逸らされる。オビトは抵抗せず、そのまま横へ流れた。
続けて、低い蹴り。
これも読まれる。
ヒルゼンは足を引くだけで避けた。
オビトは追わず、一度距離を取る。
ここまではいい。
普通。
少なくとも、忍者学校で首位を取っている五歳児の範囲には収まっている。
ヒルゼンも追撃してこない。
穏やかに立ち、こちらを見ている。
オビトはもう一度入った。
今度は右の拳を見せ、途中で左へ切り替える。単純なフェイント。子どもなりに工夫しているように見える程度のものだ。
ヒルゼンは右へ反応したように身体を動かした。
だが、左を出した瞬間、その肘を下から押し上げられる。
崩される。
オビトは一歩退いた。
ヒルゼンの動きは小さい。
必要な分しか動いていない。
そのうえ、今の反応は少し妙だった。
右の拳へ反応したのではない。
左へ切り替えることまで見た上で、右へ動いたように見せた。
誘われた。
こちらがどの程度まで相手の変化を読むか、確かめられている。
オビトは目を細めかけ、すぐに戻した。
まだ。
まだ普通でいろ。
三度目。
今度は踏み込む前に、わずかに重心を左へ置いた。
右へ回るように見せる。
実際には、その場から真っ直ぐ入る。
ヒルゼンの足が半歩動いた。
進路を塞ぐ位置。
オビトはそこで止まった。
止まれた。
だが、ヒルゼンはすぐに反対側へ身体をずらす。今度は、右側が空いた。
誘いだ。
入れば、どう反応するかを見られる。
オビトは一瞬だけ迷ったふりをし、結局入らなかった。
「慎重じゃの」
ヒルゼンが言った。
「火影様相手なので」
「先ほどまでの子らは、もう少し素直に来ておったぞ」
「俺、慎重なんです」
教師の一人が、わずかに眉を動かした。
たぶん信じていない。
ヒルゼンも、目だけが笑っていなかった。
「そうか」
静かな返事。
次の瞬間、ヒルゼンの姿が近づいた。
速い。
先ほどまで、他の子どもへ見せていた速度ではない。
オビトは反射的に半歩下がった。
手が肩へ伸びる。
避けるだけなら簡単だ。
外へ逃げればいい。
だが、ヒルゼンの手は肩を狙っているように見せて、退路を塞いでいる。完全に避ければ、その次に足を払われる。
オビトは手を上げた。
手首へ触れる。
力を受けるのではなく、方向を変える。
触れた瞬間、ヒルゼンの腕がわずかに沈んだ。
重い。
軽く見せているが、こちらの反応を見ながら圧を変えている。
オビトは肘を畳み、懐へ入ろうとした。
その動きに合わせ、ヒルゼンの膝が上がる。
腹へ来る。
避ければ間に合う。
だが、それでは懐へ入れない。
オビトは身体を半分だけ捻った。
膝が脇腹を掠める。
その距離のまま、ヒルゼンの胸元へ掌を伸ばした。
届く。
寸前。
手首を取られた。
小さな身体が持ち上がりかける。
オビトは力に逆らわず、地面を蹴った。掴まれた腕を軸に身体を回し、ヒルゼンの肩越しへ足を振る。
ヒルゼンが頭を引く。
蹴りは空を切った。
着地。
すぐに距離を取る。
訓練場が静かになっていた。
オビトは呼吸を整える。
やった。
今のは完全にやった。
普通の五歳児は、腕を取られてから自分で跳び、関節を守りながら蹴りへ繋げたりしない。
「……見事なものじゃ」
ヒルゼンが言った。
穏やかな声だった。
だが、その視線が変わっている。
先ほどまでの、子どもの力を見守る目ではない。
こちらが何を隠しているのか、探る目だ。
オビトは舌打ちしたい気持ちを堪えた。
やはり、最初から狙われていた。
報告書を読んでいる。
学校で何度もやらかした結果が、全部この男の手元へ届いている。
そして今、実際に確かめている。
ただの首位ではない。
どこまで抑えているか。
何を見せずにいるか。
その境目を探している。
「まだやれるかの?」
問いは柔らかい。
だが、終わらせる気はないらしい。
「……はい」
答えた瞬間、ヒルゼンが動いた。
今度は明確に速かった。
オビトの正面へ入る。
拳ではない。
掌。
押し返すための一撃。
オビトは腕を交差して受けた。
衝撃が走る。
五歳の身体が土の上を滑った。
痛みはある。
だが、それだけだ。
簡単に壊れるほど、この器は脆くない。
足が止まる。
すぐに顔を上げる。
もうヒルゼンがいる。
左から蹴り。
オビトは身を沈めた。
髪を掠めて脚が通る。
そのまま地面へ片手をつき、低い位置から足を刈る。
ヒルゼンが跳ぶ。
着地地点を読む。
オビトは一歩先へ入りかけ、止まった。
また誘いだ。
着地するように見せて、空中で身体を捻っている。
踏み込めば、上から落とされる。
オビトは横へずれた。
ヒルゼンの踵が土を打つ。
砂が跳ねる。
「ほう」
小さな声。
試されている。
完全に。
避けるか。
受けるか。
懐へ入るか。
どの危険を選ぶか。
どれほど先を読んでいるか。
一手ごとに見られている。
面倒だ。
だが。
ヒルゼンが次に動く。
肩がわずかに沈む。
右。
いや、左へ回るための偽装。
足元は真っ直ぐ。
オビトは一歩踏み込んだ。
ヒルゼンの拳が頬の横を通る。
完全には避けない。
掠める距離。
耳元で風が鳴る。
その懐へ入る。
胸元へ拳を置く。
ヒルゼンの掌が下り、オビトの腕を叩き落とそうとする。
オビトは肘を折り、拳の軌道を短く変えた。
脇腹へ。
当たる。
ヒルゼンの身体がわずかにずれた。
浅い。
力は抑えている。
だが、届いた。
オビトの胸が少し熱くなった。
火影へ一撃。
体術だけで。
五歳の身体で。
届いた。
ヒルゼンはすぐに距離を取り、こちらを見る。
驚きがある。
それ以上に、面白がっている。
まずい。
オビトはそう思った。
思ったのに。
口元が、わずかに上がった。
やばい。
楽しくなってきた。
火影がこちらを見ている。
子どもとしてではない。
少なくとも今この瞬間は、相手として見ている。
誘い。
牽制。
間合い。
読み合い。
こちらが一つ隠せば、別の角度から探ってくる。
触れれば次がある。
避ければ、避けた先へもう一手が置かれている。
こういう相手は久しぶりだった。
虎杖との仮想組手ではない。
五条先生の記憶から組み上げた影でもない。
生きた相手が、こちらの判断に応じて変わる。
思考を読もうとし、罠を置き、こちらの反応を見て、さらに上から手を重ねる。
楽しい。
身体の奥で、何かが弾けた。
周囲へ合わせる。
五歳児らしく。
忍者学校の生徒として。
その意識が、少しずつ薄れていく。
代わりに、目の前の男へどこまで届くかという欲が、頭をもたげた。
ヒルゼンが踏み込む。
オビトは足裏へチャクラを集めた。
必要な量だけ。
瞬間的に。
土が小さく爆ぜる。
五歳の身体が、弾丸のように前へ飛んだ。
周囲から息を呑む音が聞こえた。
一歩で間合いを消す。
俊足の縮地。
大人の歩幅には及ばない。
だから、歩幅そのものを無視する。
地面を蹴るのではなく、足裏から一気に力を放ち、短い距離を潰す。
小さな身体が、ヒルゼンの視界の下へ沈む。
低い重心。
短い手足。
今までは不利だったものを、懐へ潜るための形へ変える。
ヒルゼンの手が下りる。
頭を押さえられる前に、オビトは左へ切った。
足元。
脇。
背中側。
視界から消えるほどではない。
だが、一瞬で正面から外れる。
ヒルゼンが腰を回す。
肘が来る。
オビトは腕で受けた。
鈍い衝撃。
身体が沈む。
そのまま踏み止まる。
右拳を出す。
ヒルゼンが掌で受けた。
一撃目。
接触。
その直後。
遅れて、チャクラが拳から響いた。
二度目の衝撃。
ヒルゼンの袖が震える。
足が半歩、土を滑った。
教師の一人が息を呑んだ。
カカシの目が見開かれる。
ヒルゼン自身も、わずかに驚いた顔をした。
「今のは……」
言葉を最後まで待たない。
オビトはさらに入った。
逕庭拳。
最初の打撃と、遅れて重なる第二の衝撃。
前世では呪力で使っていた。
今はチャクラへ置き換えている。
完全ではない。
それでも、打撃を一度で終わらせない。
受けたと思った瞬間、内側へもう一つ届く。
ヒルゼンが腕を引く。
オビトの次の拳が空を切る。
すぐに掌が来た。
胸元。
避ける。
いや。
避けない。
オビトは半歩、さらに入った。
掌が肩を掠める。
衝撃が走る。
身体が傾く。
その危険を使って、懐へ滑り込む。
ヒルゼンの胴が近い。
拳を打ち込む。
一撃。
遅れて二撃目。
今度は受け流された。
ヒルゼンは身体を捻り、オビトの腕を外へ逃がす。そのまま背中へ手が回る。
投げられる。
オビトは地面を蹴った。
逆らわず浮く。
空中で身体を縮め、ヒルゼンの肩へ足をかける。
押し返す。
手を離させる。
着地と同時に、また足裏へチャクラ。
間合いを消す。
拳。
掌。
肘。
蹴り。
短い手足を、届かない言い訳にはしない。
一度の攻撃に固執せず、触れた場所から次へ繋ぐ。
届かなければ、相手の腕を足場にする。
受けられれば、受けた箇所へ遅れて衝撃を重ねる。
避けられれば、その方向へ身体ごと潜り込む。
ヒルゼンの動きもさらに鋭くなる。
子どもへ怪我をさせない範囲は守っている。
だが、もう軽くあしらってはいない。
オビトがどう動くかを見て、次を置く。
進路を塞ぐ。
退路を見せて、そこへ誘う。
攻撃を浅く見せ、踏み込ませたところで重心を変える。
オビトはそれを読み、時に避け、時に受け、時にあえて罠へ入った。
危険がある。
分かっている。
それでも、懐へ入れるなら行く。
安全な場所から手だけを伸ばして、強者へ届くはずがない。
ヒルゼンの拳が肩へ入る。
鈍い痛み。
オビトは退かない。
逆にその腕へ沿って前へ出る。
脇腹へ肘。
受けられる。
そこから遅れて、チャクラの衝撃。
ヒルゼンが腕を落とす。
空いた胸元へ、掌底。
届く寸前で、手首を掴まれた。
今度は逃げずに、さらに踏み込む。
額がぶつかりそうな距離。
ヒルゼンの目が、わずかに見開かれた。
怖くないのか。
そう問われた気がした。
怖いに決まっている。
強い相手の攻撃は痛い。
一手を誤れば倒される。
だが、恐怖と退くことは同じではない。
オビトは掴まれた腕を引かず、反対の拳を振るった。
ヒルゼンが首を傾ける。
拳が頬を掠める。
そのまま身体を回し、背後へ抜ける。
ヒルゼンの足が追う。
オビトは地面へ低く沈み、足払い。
跳ばれる。
上から掌が落ちる。
横へ転がれば安全だ。
だが、それでは終わる。
オビトは地面へ両手をつき、身体を前へ弾いた。
落ちてくる掌の下へ。
掠める。
背中へ風圧。
そのままヒルゼンの足元へ入り、拳を突き上げる。
ヒルゼンは腕で受けた。
一撃目。
遅れて二撃目。
今度はさらに強く。
ヒルゼンの身体が、明確に一歩下がった。
静まり返った訓練場へ、土を踏む音が響く。
オビトは構え直した。
息が上がっている。
額に汗。
腕も肩も痛む。
それでも、思考は冷えていた。
危険になるほど、余計なものが消える。
周囲の視線。
教師の評価。
うちはの噂。
五歳児らしさ。
全部、遠い。
目の前にいる相手。
次の一手。
その先。
それだけでいい。
ヒルゼンがこちらを見る。
オビトも見る。
口元に、笑みが浮かんでいた。
無邪気な笑顔ではなかった。
褒められた子どもの顔でもない。
命を取り合う場を知り、強者とのわずかな隙を奪い合うことに昂る者の顔だった。
教師の一人が、無意識に一歩下がった。
技術や速度だけではない。
攻撃を恐れず、掠める距離まで入る。
受ければ痛むと分かっている一撃を、自分の間合いを作るために選ぶ。
安全を優先しない。
倒れないためではなく、届くために身体を使う。
五歳の子どもが、知っているはずのない戦い方だった。
リンは息を詰め、両手を胸元で握っていた。
ガイは目を見開いたまま、声も出ない。
アスマも、父の動きよりオビトを見ていた。
カカシは動かなかった。
落ちこぼれという噂が間違っていた。
そんな話ではない。
授業で一位を取る。
手裏剣が上手い。
座学ができる。
その程度の差ではなかった。
オビトは、戦い方を知っている。
技を知っているのではない。
危険の中で、何を捨てて何を取るかを知っている。
どうして。
どこで。
何を隠している。
カカシの中にあった疑問は、もう言葉にならないほど膨らんでいた。
ヒルゼンは、構えたまま少年を見ていた。
五歳。
忍者学校へ入ったばかり。
任務経験なし。
戦場へ出た記録もない。
そのはずの子どもが、火影の前で笑っている。
危険を知らない笑みではない。
危険を知り、その中へ入る覚悟を決めた者の笑み。
何かを守ろうとする者が、退路を捨てる時の目。
この子は、見せているものがすべてではない。
まだ何かを伏せている。
それでも今、目の前へ出ているものだけで十分に異常だった。
ヒルゼンの口元が、ゆっくりと上がる。
驚きは消えない。
疑問も尽きない。
だが、その奥にあるものを見て、笑わずにはいられなかった。
小さな身体の底に、火がある。
誰かに焚きつけられた火ではない。
自ら燃え、危険へ向かい、前へ出ようとする焔。
昂りながらも、ただ壊すためには燃えていない。
届くため。
守るため。
自分が前へ立つため。
ヒルゼンは一歩踏み込んだ。
オビトも同時に地面を蹴る。
二人の間合いが消えた。
ヒルゼンの掌。
オビトの拳。
交差する。
オビトは肩へ掌を受けた。
身体が浮く。
それでも拳を止めない。
胸元へ届く。
一撃。
遅れて二撃目。
衝撃が響く。
その直後、オビトの身体が土の上を転がった。
一回。
二回。
片手をつき、止まる。
立とうとする。
だが、教師の声が飛んだ。
「そこまで!」
訓練場に静寂が落ちた。
オビトは片膝をついたまま、荒い息を吐いた。
終わった。
熱が、少しずつ引いていく。
視界の端へ、周囲が戻ってくる。
教師たち。
同級生。
リン。
ガイ。
アスマ。
紅。
そしてカカシ。
誰も喋っていない。
あれ。
何でこんなに静かなんだ。
オビトは瞬きをした。
さっきまでの動きを思い返す。
縮地。
逕庭拳。
掠める距離への踏み込み。
火影相手に、完全に本気寄りの体術。
五歳児らしく見せるという任務は、途中から完全に放棄していた。
「あ」
声が漏れる。
やっべ。
やり過ぎた。
遅い。
あまりにも遅い。
オビトは片膝をついたまま、できることなら地面へ額を打ちつけたかった。
ヒルゼンが近づいてくる。
オビトは恐る恐る顔を上げた。
叱られるだろうか。
問い詰められるだろうか。
何を隠していると聞かれるだろうか。
ヒルゼンは少年の前で足を止めた。
そして。
笑っていた。
穏やかなだけではない。
驚きと、興味と、どこか楽しそうなものを含んだ笑みだった。
「見事じゃった」
オビトは固まる。
「……ありがとうございます」
他に何と言えばいいか分からない。
ヒルゼンは手を差し出した。
オビトはその手を取り、立ち上がる。
「少々、話を聞かせてもらいたくなったのう」
やっぱり。
オビトの背中へ、冷たい汗が流れた。
戦闘の熱は、完全に引いた。
代わりに、別の意味での戦いが始まろうとしていた。
眠気はもうない。
先ほどまで机へ突っ伏して熟睡していたことなど、遠い昔のように思える。頭は冴え、視界も澄んでいる。代わりに、これから何をどこまで見せるべきかという問題が、容赦なくオビトの頭を締めつけていた。
相手は三代目火影。
猿飛ヒルゼン。
今の自分より、はるかに長く忍として生きている男だ。
五歳児らしく下手に動けば、不自然さを見抜かれる。
普段通りに動けば、忍者学校で積み上げてきた疑惑をさらに深める。
本気など論外。
術式も使わない。
写輪眼も開かない。
呪力は内側へ留め、表へ出すのはチャクラだけ。
それでも、体術と判断だけでどこまで誤魔化せるのか。
第四次忍界大戦首謀者と特級呪術師の経験を抱えたまま、入学したばかりの五歳児になる。
本日も超難関任務である。
訓練場の中央で、ヒルゼンが待っていた。
先ほどまで子どもたちを相手にしていた時と同じ、穏やかな立ち姿だった。肩に力はなく、構えらしい構えも取っていない。だが、どこから入っても止められる。
隙があるように見える。
見せているだけだ。
オビトは境界線の内側へ入り、ヒルゼンの前で足を止めた。
「よろしくお願いします」
頭を下げる。
「うむ」
ヒルゼンは柔らかく頷いた。
「気負わず、今できることを見せてくれればよい」
それが難しいんだよ。
オビトは内心でだけ答えた。
今できることを見せたら、確実に大問題になる。
周囲には教師たちが立ち、子どもたちが訓練場の端へ並んでいる。リンは心配そうにこちらを見ていた。ガイは期待に目を輝かせている。アスマは父親を相手にした時の気まずさから解放されたらしく、少しだけ落ち着いた顔をしている。
カカシは、まっすぐオビトを見ていた。
視線が鋭い。
一つも見逃す気がないらしい。
やりにくい。
非常にやりにくい。
オビトは小さく息を吐き、両手を上げた。
まずは、周囲に合わせる。
今までの生徒たちが見せた範囲。
踏み込みは浅く。
速度も抑える。
攻撃は単純に。
受けられる前提で出す。
相手の動きを読みすぎない。
誘いへ乗らない。
何より、戦いそのものへ入り込まない。
教師の手が上がる。
「始め!」
オビトは一歩踏み込んだ。
正面から拳を出す。
速すぎない。
角度も素直。
ヒルゼンの手が軽く動き、拳の外側へ触れた。軌道を逸らされる。オビトは抵抗せず、そのまま横へ流れた。
続けて、低い蹴り。
これも読まれる。
ヒルゼンは足を引くだけで避けた。
オビトは追わず、一度距離を取る。
ここまではいい。
普通。
少なくとも、忍者学校で首位を取っている五歳児の範囲には収まっている。
ヒルゼンも追撃してこない。
穏やかに立ち、こちらを見ている。
オビトはもう一度入った。
今度は右の拳を見せ、途中で左へ切り替える。単純なフェイント。子どもなりに工夫しているように見える程度のものだ。
ヒルゼンは右へ反応したように身体を動かした。
だが、左を出した瞬間、その肘を下から押し上げられる。
崩される。
オビトは一歩退いた。
ヒルゼンの動きは小さい。
必要な分しか動いていない。
そのうえ、今の反応は少し妙だった。
右の拳へ反応したのではない。
左へ切り替えることまで見た上で、右へ動いたように見せた。
誘われた。
こちらがどの程度まで相手の変化を読むか、確かめられている。
オビトは目を細めかけ、すぐに戻した。
まだ。
まだ普通でいろ。
三度目。
今度は踏み込む前に、わずかに重心を左へ置いた。
右へ回るように見せる。
実際には、その場から真っ直ぐ入る。
ヒルゼンの足が半歩動いた。
進路を塞ぐ位置。
オビトはそこで止まった。
止まれた。
だが、ヒルゼンはすぐに反対側へ身体をずらす。今度は、右側が空いた。
誘いだ。
入れば、どう反応するかを見られる。
オビトは一瞬だけ迷ったふりをし、結局入らなかった。
「慎重じゃの」
ヒルゼンが言った。
「火影様相手なので」
「先ほどまでの子らは、もう少し素直に来ておったぞ」
「俺、慎重なんです」
教師の一人が、わずかに眉を動かした。
たぶん信じていない。
ヒルゼンも、目だけが笑っていなかった。
「そうか」
静かな返事。
次の瞬間、ヒルゼンの姿が近づいた。
速い。
先ほどまで、他の子どもへ見せていた速度ではない。
オビトは反射的に半歩下がった。
手が肩へ伸びる。
避けるだけなら簡単だ。
外へ逃げればいい。
だが、ヒルゼンの手は肩を狙っているように見せて、退路を塞いでいる。完全に避ければ、その次に足を払われる。
オビトは手を上げた。
手首へ触れる。
力を受けるのではなく、方向を変える。
触れた瞬間、ヒルゼンの腕がわずかに沈んだ。
重い。
軽く見せているが、こちらの反応を見ながら圧を変えている。
オビトは肘を畳み、懐へ入ろうとした。
その動きに合わせ、ヒルゼンの膝が上がる。
腹へ来る。
避ければ間に合う。
だが、それでは懐へ入れない。
オビトは身体を半分だけ捻った。
膝が脇腹を掠める。
その距離のまま、ヒルゼンの胸元へ掌を伸ばした。
届く。
寸前。
手首を取られた。
小さな身体が持ち上がりかける。
オビトは力に逆らわず、地面を蹴った。掴まれた腕を軸に身体を回し、ヒルゼンの肩越しへ足を振る。
ヒルゼンが頭を引く。
蹴りは空を切った。
着地。
すぐに距離を取る。
訓練場が静かになっていた。
オビトは呼吸を整える。
やった。
今のは完全にやった。
普通の五歳児は、腕を取られてから自分で跳び、関節を守りながら蹴りへ繋げたりしない。
「……見事なものじゃ」
ヒルゼンが言った。
穏やかな声だった。
だが、その視線が変わっている。
先ほどまでの、子どもの力を見守る目ではない。
こちらが何を隠しているのか、探る目だ。
オビトは舌打ちしたい気持ちを堪えた。
やはり、最初から狙われていた。
報告書を読んでいる。
学校で何度もやらかした結果が、全部この男の手元へ届いている。
そして今、実際に確かめている。
ただの首位ではない。
どこまで抑えているか。
何を見せずにいるか。
その境目を探している。
「まだやれるかの?」
問いは柔らかい。
だが、終わらせる気はないらしい。
「……はい」
答えた瞬間、ヒルゼンが動いた。
今度は明確に速かった。
オビトの正面へ入る。
拳ではない。
掌。
押し返すための一撃。
オビトは腕を交差して受けた。
衝撃が走る。
五歳の身体が土の上を滑った。
痛みはある。
だが、それだけだ。
簡単に壊れるほど、この器は脆くない。
足が止まる。
すぐに顔を上げる。
もうヒルゼンがいる。
左から蹴り。
オビトは身を沈めた。
髪を掠めて脚が通る。
そのまま地面へ片手をつき、低い位置から足を刈る。
ヒルゼンが跳ぶ。
着地地点を読む。
オビトは一歩先へ入りかけ、止まった。
また誘いだ。
着地するように見せて、空中で身体を捻っている。
踏み込めば、上から落とされる。
オビトは横へずれた。
ヒルゼンの踵が土を打つ。
砂が跳ねる。
「ほう」
小さな声。
試されている。
完全に。
避けるか。
受けるか。
懐へ入るか。
どの危険を選ぶか。
どれほど先を読んでいるか。
一手ごとに見られている。
面倒だ。
だが。
ヒルゼンが次に動く。
肩がわずかに沈む。
右。
いや、左へ回るための偽装。
足元は真っ直ぐ。
オビトは一歩踏み込んだ。
ヒルゼンの拳が頬の横を通る。
完全には避けない。
掠める距離。
耳元で風が鳴る。
その懐へ入る。
胸元へ拳を置く。
ヒルゼンの掌が下り、オビトの腕を叩き落とそうとする。
オビトは肘を折り、拳の軌道を短く変えた。
脇腹へ。
当たる。
ヒルゼンの身体がわずかにずれた。
浅い。
力は抑えている。
だが、届いた。
オビトの胸が少し熱くなった。
火影へ一撃。
体術だけで。
五歳の身体で。
届いた。
ヒルゼンはすぐに距離を取り、こちらを見る。
驚きがある。
それ以上に、面白がっている。
まずい。
オビトはそう思った。
思ったのに。
口元が、わずかに上がった。
やばい。
楽しくなってきた。
火影がこちらを見ている。
子どもとしてではない。
少なくとも今この瞬間は、相手として見ている。
誘い。
牽制。
間合い。
読み合い。
こちらが一つ隠せば、別の角度から探ってくる。
触れれば次がある。
避ければ、避けた先へもう一手が置かれている。
こういう相手は久しぶりだった。
虎杖との仮想組手ではない。
五条先生の記憶から組み上げた影でもない。
生きた相手が、こちらの判断に応じて変わる。
思考を読もうとし、罠を置き、こちらの反応を見て、さらに上から手を重ねる。
楽しい。
身体の奥で、何かが弾けた。
周囲へ合わせる。
五歳児らしく。
忍者学校の生徒として。
その意識が、少しずつ薄れていく。
代わりに、目の前の男へどこまで届くかという欲が、頭をもたげた。
ヒルゼンが踏み込む。
オビトは足裏へチャクラを集めた。
必要な量だけ。
瞬間的に。
土が小さく爆ぜる。
五歳の身体が、弾丸のように前へ飛んだ。
周囲から息を呑む音が聞こえた。
一歩で間合いを消す。
俊足の縮地。
大人の歩幅には及ばない。
だから、歩幅そのものを無視する。
地面を蹴るのではなく、足裏から一気に力を放ち、短い距離を潰す。
小さな身体が、ヒルゼンの視界の下へ沈む。
低い重心。
短い手足。
今までは不利だったものを、懐へ潜るための形へ変える。
ヒルゼンの手が下りる。
頭を押さえられる前に、オビトは左へ切った。
足元。
脇。
背中側。
視界から消えるほどではない。
だが、一瞬で正面から外れる。
ヒルゼンが腰を回す。
肘が来る。
オビトは腕で受けた。
鈍い衝撃。
身体が沈む。
そのまま踏み止まる。
右拳を出す。
ヒルゼンが掌で受けた。
一撃目。
接触。
その直後。
遅れて、チャクラが拳から響いた。
二度目の衝撃。
ヒルゼンの袖が震える。
足が半歩、土を滑った。
教師の一人が息を呑んだ。
カカシの目が見開かれる。
ヒルゼン自身も、わずかに驚いた顔をした。
「今のは……」
言葉を最後まで待たない。
オビトはさらに入った。
逕庭拳。
最初の打撃と、遅れて重なる第二の衝撃。
前世では呪力で使っていた。
今はチャクラへ置き換えている。
完全ではない。
それでも、打撃を一度で終わらせない。
受けたと思った瞬間、内側へもう一つ届く。
ヒルゼンが腕を引く。
オビトの次の拳が空を切る。
すぐに掌が来た。
胸元。
避ける。
いや。
避けない。
オビトは半歩、さらに入った。
掌が肩を掠める。
衝撃が走る。
身体が傾く。
その危険を使って、懐へ滑り込む。
ヒルゼンの胴が近い。
拳を打ち込む。
一撃。
遅れて二撃目。
今度は受け流された。
ヒルゼンは身体を捻り、オビトの腕を外へ逃がす。そのまま背中へ手が回る。
投げられる。
オビトは地面を蹴った。
逆らわず浮く。
空中で身体を縮め、ヒルゼンの肩へ足をかける。
押し返す。
手を離させる。
着地と同時に、また足裏へチャクラ。
間合いを消す。
拳。
掌。
肘。
蹴り。
短い手足を、届かない言い訳にはしない。
一度の攻撃に固執せず、触れた場所から次へ繋ぐ。
届かなければ、相手の腕を足場にする。
受けられれば、受けた箇所へ遅れて衝撃を重ねる。
避けられれば、その方向へ身体ごと潜り込む。
ヒルゼンの動きもさらに鋭くなる。
子どもへ怪我をさせない範囲は守っている。
だが、もう軽くあしらってはいない。
オビトがどう動くかを見て、次を置く。
進路を塞ぐ。
退路を見せて、そこへ誘う。
攻撃を浅く見せ、踏み込ませたところで重心を変える。
オビトはそれを読み、時に避け、時に受け、時にあえて罠へ入った。
危険がある。
分かっている。
それでも、懐へ入れるなら行く。
安全な場所から手だけを伸ばして、強者へ届くはずがない。
ヒルゼンの拳が肩へ入る。
鈍い痛み。
オビトは退かない。
逆にその腕へ沿って前へ出る。
脇腹へ肘。
受けられる。
そこから遅れて、チャクラの衝撃。
ヒルゼンが腕を落とす。
空いた胸元へ、掌底。
届く寸前で、手首を掴まれた。
今度は逃げずに、さらに踏み込む。
額がぶつかりそうな距離。
ヒルゼンの目が、わずかに見開かれた。
怖くないのか。
そう問われた気がした。
怖いに決まっている。
強い相手の攻撃は痛い。
一手を誤れば倒される。
だが、恐怖と退くことは同じではない。
オビトは掴まれた腕を引かず、反対の拳を振るった。
ヒルゼンが首を傾ける。
拳が頬を掠める。
そのまま身体を回し、背後へ抜ける。
ヒルゼンの足が追う。
オビトは地面へ低く沈み、足払い。
跳ばれる。
上から掌が落ちる。
横へ転がれば安全だ。
だが、それでは終わる。
オビトは地面へ両手をつき、身体を前へ弾いた。
落ちてくる掌の下へ。
掠める。
背中へ風圧。
そのままヒルゼンの足元へ入り、拳を突き上げる。
ヒルゼンは腕で受けた。
一撃目。
遅れて二撃目。
今度はさらに強く。
ヒルゼンの身体が、明確に一歩下がった。
静まり返った訓練場へ、土を踏む音が響く。
オビトは構え直した。
息が上がっている。
額に汗。
腕も肩も痛む。
それでも、思考は冷えていた。
危険になるほど、余計なものが消える。
周囲の視線。
教師の評価。
うちはの噂。
五歳児らしさ。
全部、遠い。
目の前にいる相手。
次の一手。
その先。
それだけでいい。
ヒルゼンがこちらを見る。
オビトも見る。
口元に、笑みが浮かんでいた。
無邪気な笑顔ではなかった。
褒められた子どもの顔でもない。
命を取り合う場を知り、強者とのわずかな隙を奪い合うことに昂る者の顔だった。
教師の一人が、無意識に一歩下がった。
技術や速度だけではない。
攻撃を恐れず、掠める距離まで入る。
受ければ痛むと分かっている一撃を、自分の間合いを作るために選ぶ。
安全を優先しない。
倒れないためではなく、届くために身体を使う。
五歳の子どもが、知っているはずのない戦い方だった。
リンは息を詰め、両手を胸元で握っていた。
ガイは目を見開いたまま、声も出ない。
アスマも、父の動きよりオビトを見ていた。
カカシは動かなかった。
落ちこぼれという噂が間違っていた。
そんな話ではない。
授業で一位を取る。
手裏剣が上手い。
座学ができる。
その程度の差ではなかった。
オビトは、戦い方を知っている。
技を知っているのではない。
危険の中で、何を捨てて何を取るかを知っている。
どうして。
どこで。
何を隠している。
カカシの中にあった疑問は、もう言葉にならないほど膨らんでいた。
ヒルゼンは、構えたまま少年を見ていた。
五歳。
忍者学校へ入ったばかり。
任務経験なし。
戦場へ出た記録もない。
そのはずの子どもが、火影の前で笑っている。
危険を知らない笑みではない。
危険を知り、その中へ入る覚悟を決めた者の笑み。
何かを守ろうとする者が、退路を捨てる時の目。
この子は、見せているものがすべてではない。
まだ何かを伏せている。
それでも今、目の前へ出ているものだけで十分に異常だった。
ヒルゼンの口元が、ゆっくりと上がる。
驚きは消えない。
疑問も尽きない。
だが、その奥にあるものを見て、笑わずにはいられなかった。
小さな身体の底に、火がある。
誰かに焚きつけられた火ではない。
自ら燃え、危険へ向かい、前へ出ようとする焔。
昂りながらも、ただ壊すためには燃えていない。
届くため。
守るため。
自分が前へ立つため。
ヒルゼンは一歩踏み込んだ。
オビトも同時に地面を蹴る。
二人の間合いが消えた。
ヒルゼンの掌。
オビトの拳。
交差する。
オビトは肩へ掌を受けた。
身体が浮く。
それでも拳を止めない。
胸元へ届く。
一撃。
遅れて二撃目。
衝撃が響く。
その直後、オビトの身体が土の上を転がった。
一回。
二回。
片手をつき、止まる。
立とうとする。
だが、教師の声が飛んだ。
「そこまで!」
訓練場に静寂が落ちた。
オビトは片膝をついたまま、荒い息を吐いた。
終わった。
熱が、少しずつ引いていく。
視界の端へ、周囲が戻ってくる。
教師たち。
同級生。
リン。
ガイ。
アスマ。
紅。
そしてカカシ。
誰も喋っていない。
あれ。
何でこんなに静かなんだ。
オビトは瞬きをした。
さっきまでの動きを思い返す。
縮地。
逕庭拳。
掠める距離への踏み込み。
火影相手に、完全に本気寄りの体術。
五歳児らしく見せるという任務は、途中から完全に放棄していた。
「あ」
声が漏れる。
やっべ。
やり過ぎた。
遅い。
あまりにも遅い。
オビトは片膝をついたまま、できることなら地面へ額を打ちつけたかった。
ヒルゼンが近づいてくる。
オビトは恐る恐る顔を上げた。
叱られるだろうか。
問い詰められるだろうか。
何を隠していると聞かれるだろうか。
ヒルゼンは少年の前で足を止めた。
そして。
笑っていた。
穏やかなだけではない。
驚きと、興味と、どこか楽しそうなものを含んだ笑みだった。
「見事じゃった」
オビトは固まる。
「……ありがとうございます」
他に何と言えばいいか分からない。
ヒルゼンは手を差し出した。
オビトはその手を取り、立ち上がる。
「少々、話を聞かせてもらいたくなったのう」
やっぱり。
オビトの背中へ、冷たい汗が流れた。
戦闘の熱は、完全に引いた。
代わりに、別の意味での戦いが始まろうとしていた。
【〆栞】