火影の目
特別授業が終わったあとも、演習場にはしばらく張りつめた空気が残っていた。
子どもたちは教師に促され、少しずつ列を整えていく。先ほどまで歓声や驚きの声を上げていた者たちも、今は妙に静かだった。
その中心で、猿飛ヒルゼンは二人の少年を見ていた。
一人は、はたけカカシ。
もう一人は、うちはオビト。
カカシは組手を終えたあとも、ほとんど表情を変えなかった。息を整え、土のついた服を払い、列へ戻る。年齢を考えれば十分以上に見事な立ち居振る舞いだった。
相手の力を正面から受けない。
わずかな動きから次を読み、先に有利な位置を取ろうとする。
無駄を嫌い、最短の手を選ぶ。
身体はまだ幼く、歩幅も体重も足りない。それでも、技術と判断で補おうとしている。教えられたことをなぞるだけではなく、自分で考え、修正する力がある。
白い牙の息子。
そう呼ばれるにふさわしい才だった。
ただし、先を見ようとする意識が強すぎる。
相手の次を読もうとするあまり、自分が想定した流れへ囚われる瞬間がある。失敗を嫌い、外すことを恐れ、正しさを急ぐ。
まだ四歳だ。
それを欠点と決めるには早すぎる。
正しく導けば、いくらでも変わる。
ヒルゼンはそう見た。
そして、オビト。
こちらは、書面から受けた印象よりはるかに厄介だった。
最初、少年は明らかに周囲へ合わせていた。
先に組手を終えた生徒たちの速度。
踏み込み。
攻撃の角度。
見せる工夫の程度。
それらを基準にし、自分もその範囲へ収まろうとしていた。
下手に見せようとしていたわけではない。
できる範囲を狭め、忍者学校へ入ったばかりの生徒として振る舞おうとしていた。
だが、動きを抑えても、根にあるものまでは消せていなかった。
間合いの取り方。
重心の置き方。
触れた瞬間に力の向きを変える判断。
こちらが出す誘いへの反応。
攻撃を避けるか、受けるか、その一瞬の選択。
どれも、五歳の子どもが持つものではない。
ヒルゼンが少しずつ速度を上げると、オビトも変わった。
初めはまだ、自分を抑えようとしていた。
やがて、それよりもこちらの一手を読み、次へ届くことを優先し始めた。
そして最後には、隠すことそのものを忘れていた。
足裏へ集めたチャクラ。
一歩で間合いを潰す加速。
低い重心を利用した潜り込み。
一撃を受けられる危険があっても、こちらの懐へ入れるなら退かない判断。
攻撃を完全に避けるのではなく、掠める距離を選ぶ。
打撃を一度で終わらせず、遅れて二度目の衝撃を重ねる。
何より。
危険が増すほど、少年の思考は澄んでいた。
呼吸は乱れても、判断は乱れない。
痛みを受けても、退路を探すより次の一手を組み立てる。
口元には笑みが浮かんでいた。
無邪気に遊ぶ子どもの笑顔ではない。
強い相手との極限の駆け引きに昂り、その中でこそ自分を解放する者の顔だった。
あの子は戦いを知っている。
技ではない。
危険の中で、何を捨て、何を取るべきかを知っている。
その事実だけが、どうしても説明できなかった。
ヒルゼンは傍らの教師へ顔を向けた。
「はたけカカシは、評に違わぬ」
教師が姿勢を正す。
「はい。入学時点から、どの分野でも高い成績を示しています」
「理解が早い。己で考える力もある。ただ、正解を急ぎすぎるところがあるのう」
教師は少し考え、頷いた。
「失敗を嫌う傾向はあります」
「失敗せぬよう学ぶことは大切じゃ。されど、失敗からしか得られぬものもある。あの子には、正しさ以外を許せる場が要る」
「承知しました」
ヒルゼンは次に、少し離れたところでリンと話しているオビトへ目を向けた。
先ほどまでの笑みは、もうない。
肩を気にしながら、何でもないように振る舞っている。リンに怪我を心配され、平気だと答え、ガイから大声で称賛されて困った顔をしていた。
戦いが終われば、また年相応に見える。
少なくとも、そう見せようとしている。
「あの子は」
ヒルゼンが言葉を切る。
教師も同じ方角を見た。
「これまでの評価を、改めねばならぬな」
教師の顔が強張った。
「やはり、そうでしょうか」
「技量だけではない。あれは、今の授業の枠で測れるものではない」
「私も、そう感じました」
「ただし、急いで決めつけてはならぬ」
ヒルゼンは静かに続けた。
「強いから先へ出せばよい、という話ではない。何を考え、何のために力を使うのか。そこを見ねばならぬ」
教師は頷いた。
ヒルゼンは、演習場の端へ視線を巡らせた。
子どもたちが並び直し、教室へ戻る準備をしている。オビトもその中に混ざっていた。
だが、先ほどまでの組手を見たあとでは、同じ場所へ戻しただけで済むとは思えなかった。
あの子には、ここは窮屈であろうな。
教える内容が易しすぎるというだけではない。
見せるものを抑え、考えを隠し、自分を小さく畳み続けなければならない。
それは、いずれ歪みになる。
「うちはオビトは、後ほど火影塔へ」
ヒルゼンが告げると、教師はわずかに目を見開いた。
「本日ですか」
「うむ。本人と話がしたい」
「祖母君には」
「先に帰宅の連絡を入れよう。長くは拘束せぬ」
ヒルゼンは再びオビトを見た。
実力だけなら、すでに十分すぎるほど見えた。
だが、それだけで扱いを決めるわけにはいかない。
知るべきは、少年の中身だった。
何を守ろうとしているのか。
なぜ危険へ踏み込むのか。
力を持つことを、どう捉えているのか。
その答えによっては、強さそのものが危うさへ変わる。
演習場を離れる前、ヒルゼンはオビトを呼び止めた。
「うちはオビト」
「はい」
少年の肩が、わずかに強張る。
「授業のあと、わしと火影塔へ来てもらいたい」
「……俺だけですか?」
「そうじゃ」
顔には出していない。
だが、内心で何かを諦めたような気配があった。
やはり、やりすぎたと思っているのだろう。
「分かりました」
返事は素直だった。
その日の午後。
オビトは火影塔の執務室へ通された。
室内にはヒルゼン一人しかいなかった。
護衛も、教師もいない。
机の上には、忍者学校から上げられた書類が何枚か置かれている。自分の名が記された評価表も見えた。
嫌な予感しかしない。
オビトは机の前で足を止めた。
「失礼します」
「来たか。そこへ座るとよい」
示された椅子へ腰を下ろす。
五歳の身体には少し大きい。足が床へ届かず、わずかに浮いた。
この状況だけなら子どもらしい。
今日の組手を見られたあとでは、何の慰めにもならないが。
ヒルゼンはすぐに問い詰めなかった。
湯呑みに茶を注ぎ、オビトの前へ置く。
「飲めるかの」
「はい」
「熱いから気をつけるのじゃぞ」
「分かってます」
妙に普通のやり取りだった。
そのせいで、かえって落ち着かない。
オビトは湯呑みへ手を添えた。まだ熱い。口はつけず、膝の上へ戻す。
ヒルゼンは評価表へ一度目を落とし、それから少年を見た。
「お主については、忍者学校とも話をせねばならぬ」
オビトは目を瞬いた。
「俺のことで?」
「今日の組手を見た以上、これまでと同じように扱うわけにはいかぬのでな」
来た。
オビトは背筋を正した。
やり過ぎたことへの注意だろうか。
授業の場で、火影を相手に本気になりすぎた。周囲の生徒や教師を驚かせ、演習場にも多少の負担をかけた。
処分まではいかないにしても、厳しく言われる可能性はある。
あるいは、学校内での監視が増えるか。
今後は授業で力を抑えるよう、具体的に指示されるかもしれない。
「すみません」
先に謝ると、ヒルゼンの眉がわずかに上がった。
「何について謝っておる?」
「……組手で、やり過ぎたことです」
「やり過ぎた自覚はあるのじゃな」
「あります」
今さら否定しても無意味だ。
「途中から、五歳児らしくするの忘れました」
口に出してから、まずかったかと思った。
ヒルゼンの目が細くなる。
「やはり、普段は寄せておるのか」
しまった。
自分で認めた。
オビトは湯呑みを見た。
茶の表面が静かに揺れている。
「……なるべく、周りに合わせようとはしてます」
「なぜじゃ」
「目立つから」
「目立ちたくないのか」
「面倒になるので」
正直に答えすぎた。
だが、ヒルゼンは咎めなかった。
「今日、わしが少しずつ動きを変えたことには気づいておったな」
「はい」
「お主の反応を見ていた」
「それも、途中で」
「それでも応じた」
オビトは少し黙った。
「……楽しくなったので」
ヒルゼンの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「正直でよろしい」
怒られなかった。
それが逆に怖い。
ヒルゼンは机の上で両手を組んだ。
「無理に隠さずとも良い。本来のお主と話がしたい」
その言葉に、オビトはゆっくり顔を上げた。
見抜かれている。
学校での受け答え。
授業中の振る舞い。
五歳児へ寄せた言葉の選び方。
全部ではない。
前々世も、前世も、知られてはいない。
だが、少なくとも目の前の老人は、自分が年齢相応の子どもとして作った表面だけを見ていない。
だからといって、過去を話すつもりはなかった。
話せない。
話す必要もない。
今ここで問われているのは、自分が何者だったかではなく、今の自分が何を考えているかだ。
オビトは湯呑みを机へ戻した。
「何を聞きたいんですか」
声から、少しだけ幼い調子を抜いた。
ヒルゼンはその変化を見逃さなかった。
「今日の組手で、お主は攻撃を避けきらず、あえて懐へ入った」
「はい」
「受ければ痛むと分かっておったはずじゃ」
「分かってました」
「なぜ退かなかった」
オビトは答える前に少し考えた。
飾る必要はない。
「退いたら、届かなかったからです」
「一撃を受けてでも、か」
「受けて終わるなら駄目です。でも、その先へ行けるなら選びます」
ヒルゼンの目が静かになる。
「己の身を軽く見ておるのではないか」
「軽くは見てません」
答えはすぐに出た。
「命を懸けることと、投げ捨てることは違うので」
「どう違う」
「戻るつもりがあるかどうかです」
オビトは自分の手を見た。
小さい。
五歳の手。
それでも、掴めるものはある。
「死んでもいいと思って入るのと、生きて戻るために必要な危険を取るのは違います」
「今日のお主は、随分と危うく見えたがの」
「火影様なら、殺されないと思ってました」
ヒルゼンの眉が動いた。
「信用されておったか」
「子どもの授業で殺す火影なら、里が先に終わってます」
一瞬。
室内へ妙な沈黙が落ちた。
ヒルゼンが低く笑う。
「違いない」
少しだけ空気が和らいだ。
だが、問いは終わらない。
「人へ手を貸すことが多いそうじゃな」
「そうですか?」
「登校中に老人を助け、学校でも同級生を支え、分からぬ者へ教えておる」
どこからそこまで。
お年寄りの情報網か。
学校の報告か。
たぶん両方だ。
「見てたら、放っておけないだけです」
「感謝されたいからか」
「違います」
「良い子と思われたい?」
「それも別に」
オビトは少し眉を寄せた。
「俺がそうしたいからです」
ヒルゼンは黙って続きを待つ。
「全員を助けられるとは思ってません。無理なものは無理だし、届かないこともある。でも、手が届くのに見捨てたら、たぶん俺が後悔する」
「己のためか」
「そうです」
オビトは頷いた。
「助けた相手が感謝するかどうかは、その人の勝手です。俺は、俺が見捨てたくないから手を出す」
「嫌われても?」
「必要なら」
「助けを拒まれても?」
「無理やりはしません。でも、死にそうなら別です」
ヒルゼンの目に、わずかな光が宿る。
子ども向けに整えた善い答えではない。
人を助けるべきだから助ける、とも言わない。
正義だからでも、褒められるからでもない。
自分がそうしたい。
その選択を、自分で引き受ける。
組手で見せた姿と同じだった。
オビトは危険へ踏み込む時、誰かに命じられていない。
自分で選び、自分で入る。
「強い者は、何をすべきだと思う」
ヒルゼンが問う。
オビトは少し視線を落とした。
「前に立つべき時があります」
「常にか」
「ずっとじゃないです。何でも一人でやるのは違う。でも、誰かを前へ出さないといけない時、自分だけ安全なところにいて、戦えとは言いたくない」
「お主が立つと?」
「立てるなら」
「怖くはないか」
「怖いです」
答えは早かった。
「怖くても、やる時はやります」
「なぜそこまで背負う」
「俺が選んだからです」
言葉は短い。
だが、ヒルゼンには十分だった。
組手で見せた踏み込み。
受ければ痛む攻撃を、自分の間合いへ入るために選んだ判断。
危険が増すほど澄んでいった目。
あれは無謀ではない。
死を求める者の動きでもない。
危険を理解した上で、自分が前へ出ることを選ぶ者の動きだった。
まだ幼い。
あまりにも幼い。
それでも、言葉と行動が一致している。
ヒルゼンはしばらく少年を見たあと、別の問いを投げた。
「お主の夢は何じゃ」
オビトの目が、わずかに変わった。
この問いには、迷いがなかった。
「火影です」
「なぜなりたい」
「守るために前へ立つ役目だと思ってるから」
「里の上に立つ者とは思わぬか」
「上にいるだけじゃ、意味ないです」
オビトは机の端へ目を落とし、言葉を選んだ。
「火影は、偉い人ってだけじゃない。誰かに責任を押しつけないで、自分で引き受ける人だと思います」
ヒルゼンは黙って聞く。
「里の中で目立つ人だけじゃなくて、端にいる人も、こぼれた人も、ちゃんと木ノ葉だって拾う人」
「こぼれた者を?」
「はい」
「なぜ、そこまで」
オビトは少しだけ笑った。
「俺の家、集落の端なので」
答えは軽かった。
だが、それだけではないとヒルゼンには分かった。
「表にいる人だけ見てたら、里じゃないと思うんです。見えにくいところにいる人も、うまく馴染めない人も、全部まとめて木ノ葉だって言える方がいい」
「それを、お主がするのか」
「できるとは言い切れません」
オビトは正直に答えた。
「でも、そういう火影になりたいです」
断言はしない。
己なら必ずできる、とも言わない。
それでも、目を逸らさない。
憧れを語るだけの目ではなかった。
その役目が重いと分かった上で、なお望んでいる。
ヒルゼンは椅子の背へゆっくり身体を預けた。
実力。
判断力。
覚悟。
思想。
責任感。
今日の組手だけでは見えなかったものが、ようやく繋がり始める。
危険へ入る理由。
人へ手を伸ばす理由。
力を使う先。
そのどれも、口先だけではない。
少年はすでに行動している。
学校で。
道端で。
組手の中で。
ただ強いだけの子どもではない。
そして、今の忍者学校へ置き続けるだけでは、その力も考えも持て余す。
ヒルゼンは机の上に置かれた評価表へ手を伸ばした。
「うちはオビト」
「はい」
「今日の組手と、これまでの成績。そして今の話を合わせて考えた」
オビトの背筋が、わずかに伸びる。
「お主は、忍者学校の卒業相当と認める」
一瞬。
言葉の意味が入ってこなかった。
「……え」
「正式な手続きは、忍者学校と火影側で進める」
「ちょっと待ってください」
オビトが思わず身を乗り出した。
「卒業?」
「そうじゃ」
「俺、入学したばっかりなんですけど」
「知っておる」
「まだ一週間ちょっとですよね?」
「日数ではなく、身につけたものを見る」
さらりと言われた。
オビトは固まった。
火影室。
五歳。
入学して間もない。
卒業相当。
話が飛びすぎている。
やり過ぎた。
そうは思っていた。
注意される。
監視される。
授業内容を変えられる。
その辺りまでは予想した。
卒業は予想していない。
「いや、でも」
「不満かの」
「不満というか、早くないですか?」
「早い」
ヒルゼンはあっさり認めた。
「じゃあ」
「されど、お主を今までと同じ形で教室へ置く方が不自然じゃ」
オビトは言葉に詰まった。
否定できない。
授業ではすでに、何をしても教師を困らせている。
黒板へ出れば教師以上に解答を書く。
実技では抑えても一位。
組手では火影相手に楽しくなって五歳児を捨てた。
自業自得である。
「卒業後は、下忍として扱う方針じゃ」
さらに来た。
オビトは目を見開く。
「下忍」
「うむ」
「すぐ任務に?」
「そこは別に判断する。登録したからといって、明日から危険な任務へ放り込むわけではない」
ヒルゼンの声は穏やかだった。
「お主の年齢も考える。班編成、指導役、任務の種類も含めて、火影側で慎重に決める」
「……拒否権は」
「理由を聞こう」
「普通の学校生活が」
言いかけて、止まる。
普通。
この一週間、散々失敗した言葉だった。
ヒルゼンの目が、少しだけ笑った。
「お主にとって、今の授業は普通であったかの」
「……努力はしてました」
「それは見れば分かる」
「見抜かないでくださいよ」
「火影なのでな」
強い。
何を言っても返される。
オビトは椅子へ沈み込んだ。
足は相変わらず床へ届いていない。
この姿だけ見れば、卒業を告げられる子どもには見えない。
だが、ヒルゼンの判断は変わらないようだった。
「明日か、遅くとも明後日には正式な通知を出す」
「祖母ちゃんにも?」
「当然、説明する」
そこが最大の難関ではないか。
祖母ちゃんは喜ぶだろうか。
心配するだろうか。
たぶん両方だ。
そして、卒業した瞬間から安全確認項目が三倍くらい増える。
帰宅時間。
任務先。
同行者。
食事。
怪我。
知らない人についていくな。
火影の命令でも内容を確認しろ。
そこまで言いそうだ。
オビトは額を押さえたくなった。
「大丈夫かの」
「ちょっと人生が急に動いたので」
「五歳で言う台詞ではないな」
「今日それ言います?」
ヒルゼンが笑う。
先ほど演習場で見せたものとは違う、穏やかな笑みだった。
「最後に一つだけ」
ヒルゼンの声が、少し静かになる。
「お主は、己の命を大切にせよ」
オビトは顔を上げた。
「命を懸けることと、投げ捨てることは違う。そう言ったな」
「はい」
「ならば、その違いを忘れるな。前へ立つ者ほど、自分が倒れたあとのことまで考えねばならぬ」
すぐには答えなかった。
その言葉は、軽く受け取れるものではなかった。
オビトはやがて、小さく頷いた。
「分かりました」
「本当にかの」
「努力します」
「そこは断言せぬのじゃな」
「絶対って言うと嘘になるので」
ヒルゼンはしばらく少年を見つめ、それから静かに頷いた。
「それでよい」
対話は終わった。
オビトは椅子から降り、火影へ一礼する。
戸へ向かう途中で、もう一度振り返った。
「火影様」
「何じゃ」
「本当に、卒業なんですか」
「本当じゃ」
「取り消しは」
「今のところない」
「ですよね……」
肩を落とし、戸を開ける。
その小さな背中が部屋を出ていったあと、ヒルゼンはしばらく閉じた戸を見ていた。
五歳の子ども。
されど、ただの子どもとして扱えば、その内にあるものを見失う。
強さだけではない。
危うさだけでもない。
誰かへ手を伸ばそうとする意志。
自分が前へ立とうとする覚悟。
里の端まで木ノ葉として拾おうとする夢。
それらを、正しく育てなければならない。
ヒルゼンは机上の書類を引き寄せ、卒業認定に必要な手続きへ目を通し始めた。
翌日か、翌々日。
忍者学校へ正式な通知が届く。
うちはの落ちこぼれと呼ばれた少年は、入学からわずかな日数で、その教室を離れることになる。
本人だけが、まだまったく心の準備をできていなかった。
子どもたちは教師に促され、少しずつ列を整えていく。先ほどまで歓声や驚きの声を上げていた者たちも、今は妙に静かだった。
その中心で、猿飛ヒルゼンは二人の少年を見ていた。
一人は、はたけカカシ。
もう一人は、うちはオビト。
カカシは組手を終えたあとも、ほとんど表情を変えなかった。息を整え、土のついた服を払い、列へ戻る。年齢を考えれば十分以上に見事な立ち居振る舞いだった。
相手の力を正面から受けない。
わずかな動きから次を読み、先に有利な位置を取ろうとする。
無駄を嫌い、最短の手を選ぶ。
身体はまだ幼く、歩幅も体重も足りない。それでも、技術と判断で補おうとしている。教えられたことをなぞるだけではなく、自分で考え、修正する力がある。
白い牙の息子。
そう呼ばれるにふさわしい才だった。
ただし、先を見ようとする意識が強すぎる。
相手の次を読もうとするあまり、自分が想定した流れへ囚われる瞬間がある。失敗を嫌い、外すことを恐れ、正しさを急ぐ。
まだ四歳だ。
それを欠点と決めるには早すぎる。
正しく導けば、いくらでも変わる。
ヒルゼンはそう見た。
そして、オビト。
こちらは、書面から受けた印象よりはるかに厄介だった。
最初、少年は明らかに周囲へ合わせていた。
先に組手を終えた生徒たちの速度。
踏み込み。
攻撃の角度。
見せる工夫の程度。
それらを基準にし、自分もその範囲へ収まろうとしていた。
下手に見せようとしていたわけではない。
できる範囲を狭め、忍者学校へ入ったばかりの生徒として振る舞おうとしていた。
だが、動きを抑えても、根にあるものまでは消せていなかった。
間合いの取り方。
重心の置き方。
触れた瞬間に力の向きを変える判断。
こちらが出す誘いへの反応。
攻撃を避けるか、受けるか、その一瞬の選択。
どれも、五歳の子どもが持つものではない。
ヒルゼンが少しずつ速度を上げると、オビトも変わった。
初めはまだ、自分を抑えようとしていた。
やがて、それよりもこちらの一手を読み、次へ届くことを優先し始めた。
そして最後には、隠すことそのものを忘れていた。
足裏へ集めたチャクラ。
一歩で間合いを潰す加速。
低い重心を利用した潜り込み。
一撃を受けられる危険があっても、こちらの懐へ入れるなら退かない判断。
攻撃を完全に避けるのではなく、掠める距離を選ぶ。
打撃を一度で終わらせず、遅れて二度目の衝撃を重ねる。
何より。
危険が増すほど、少年の思考は澄んでいた。
呼吸は乱れても、判断は乱れない。
痛みを受けても、退路を探すより次の一手を組み立てる。
口元には笑みが浮かんでいた。
無邪気に遊ぶ子どもの笑顔ではない。
強い相手との極限の駆け引きに昂り、その中でこそ自分を解放する者の顔だった。
あの子は戦いを知っている。
技ではない。
危険の中で、何を捨て、何を取るべきかを知っている。
その事実だけが、どうしても説明できなかった。
ヒルゼンは傍らの教師へ顔を向けた。
「はたけカカシは、評に違わぬ」
教師が姿勢を正す。
「はい。入学時点から、どの分野でも高い成績を示しています」
「理解が早い。己で考える力もある。ただ、正解を急ぎすぎるところがあるのう」
教師は少し考え、頷いた。
「失敗を嫌う傾向はあります」
「失敗せぬよう学ぶことは大切じゃ。されど、失敗からしか得られぬものもある。あの子には、正しさ以外を許せる場が要る」
「承知しました」
ヒルゼンは次に、少し離れたところでリンと話しているオビトへ目を向けた。
先ほどまでの笑みは、もうない。
肩を気にしながら、何でもないように振る舞っている。リンに怪我を心配され、平気だと答え、ガイから大声で称賛されて困った顔をしていた。
戦いが終われば、また年相応に見える。
少なくとも、そう見せようとしている。
「あの子は」
ヒルゼンが言葉を切る。
教師も同じ方角を見た。
「これまでの評価を、改めねばならぬな」
教師の顔が強張った。
「やはり、そうでしょうか」
「技量だけではない。あれは、今の授業の枠で測れるものではない」
「私も、そう感じました」
「ただし、急いで決めつけてはならぬ」
ヒルゼンは静かに続けた。
「強いから先へ出せばよい、という話ではない。何を考え、何のために力を使うのか。そこを見ねばならぬ」
教師は頷いた。
ヒルゼンは、演習場の端へ視線を巡らせた。
子どもたちが並び直し、教室へ戻る準備をしている。オビトもその中に混ざっていた。
だが、先ほどまでの組手を見たあとでは、同じ場所へ戻しただけで済むとは思えなかった。
あの子には、ここは窮屈であろうな。
教える内容が易しすぎるというだけではない。
見せるものを抑え、考えを隠し、自分を小さく畳み続けなければならない。
それは、いずれ歪みになる。
「うちはオビトは、後ほど火影塔へ」
ヒルゼンが告げると、教師はわずかに目を見開いた。
「本日ですか」
「うむ。本人と話がしたい」
「祖母君には」
「先に帰宅の連絡を入れよう。長くは拘束せぬ」
ヒルゼンは再びオビトを見た。
実力だけなら、すでに十分すぎるほど見えた。
だが、それだけで扱いを決めるわけにはいかない。
知るべきは、少年の中身だった。
何を守ろうとしているのか。
なぜ危険へ踏み込むのか。
力を持つことを、どう捉えているのか。
その答えによっては、強さそのものが危うさへ変わる。
演習場を離れる前、ヒルゼンはオビトを呼び止めた。
「うちはオビト」
「はい」
少年の肩が、わずかに強張る。
「授業のあと、わしと火影塔へ来てもらいたい」
「……俺だけですか?」
「そうじゃ」
顔には出していない。
だが、内心で何かを諦めたような気配があった。
やはり、やりすぎたと思っているのだろう。
「分かりました」
返事は素直だった。
その日の午後。
オビトは火影塔の執務室へ通された。
室内にはヒルゼン一人しかいなかった。
護衛も、教師もいない。
机の上には、忍者学校から上げられた書類が何枚か置かれている。自分の名が記された評価表も見えた。
嫌な予感しかしない。
オビトは机の前で足を止めた。
「失礼します」
「来たか。そこへ座るとよい」
示された椅子へ腰を下ろす。
五歳の身体には少し大きい。足が床へ届かず、わずかに浮いた。
この状況だけなら子どもらしい。
今日の組手を見られたあとでは、何の慰めにもならないが。
ヒルゼンはすぐに問い詰めなかった。
湯呑みに茶を注ぎ、オビトの前へ置く。
「飲めるかの」
「はい」
「熱いから気をつけるのじゃぞ」
「分かってます」
妙に普通のやり取りだった。
そのせいで、かえって落ち着かない。
オビトは湯呑みへ手を添えた。まだ熱い。口はつけず、膝の上へ戻す。
ヒルゼンは評価表へ一度目を落とし、それから少年を見た。
「お主については、忍者学校とも話をせねばならぬ」
オビトは目を瞬いた。
「俺のことで?」
「今日の組手を見た以上、これまでと同じように扱うわけにはいかぬのでな」
来た。
オビトは背筋を正した。
やり過ぎたことへの注意だろうか。
授業の場で、火影を相手に本気になりすぎた。周囲の生徒や教師を驚かせ、演習場にも多少の負担をかけた。
処分まではいかないにしても、厳しく言われる可能性はある。
あるいは、学校内での監視が増えるか。
今後は授業で力を抑えるよう、具体的に指示されるかもしれない。
「すみません」
先に謝ると、ヒルゼンの眉がわずかに上がった。
「何について謝っておる?」
「……組手で、やり過ぎたことです」
「やり過ぎた自覚はあるのじゃな」
「あります」
今さら否定しても無意味だ。
「途中から、五歳児らしくするの忘れました」
口に出してから、まずかったかと思った。
ヒルゼンの目が細くなる。
「やはり、普段は寄せておるのか」
しまった。
自分で認めた。
オビトは湯呑みを見た。
茶の表面が静かに揺れている。
「……なるべく、周りに合わせようとはしてます」
「なぜじゃ」
「目立つから」
「目立ちたくないのか」
「面倒になるので」
正直に答えすぎた。
だが、ヒルゼンは咎めなかった。
「今日、わしが少しずつ動きを変えたことには気づいておったな」
「はい」
「お主の反応を見ていた」
「それも、途中で」
「それでも応じた」
オビトは少し黙った。
「……楽しくなったので」
ヒルゼンの口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。
「正直でよろしい」
怒られなかった。
それが逆に怖い。
ヒルゼンは机の上で両手を組んだ。
「無理に隠さずとも良い。本来のお主と話がしたい」
その言葉に、オビトはゆっくり顔を上げた。
見抜かれている。
学校での受け答え。
授業中の振る舞い。
五歳児へ寄せた言葉の選び方。
全部ではない。
前々世も、前世も、知られてはいない。
だが、少なくとも目の前の老人は、自分が年齢相応の子どもとして作った表面だけを見ていない。
だからといって、過去を話すつもりはなかった。
話せない。
話す必要もない。
今ここで問われているのは、自分が何者だったかではなく、今の自分が何を考えているかだ。
オビトは湯呑みを机へ戻した。
「何を聞きたいんですか」
声から、少しだけ幼い調子を抜いた。
ヒルゼンはその変化を見逃さなかった。
「今日の組手で、お主は攻撃を避けきらず、あえて懐へ入った」
「はい」
「受ければ痛むと分かっておったはずじゃ」
「分かってました」
「なぜ退かなかった」
オビトは答える前に少し考えた。
飾る必要はない。
「退いたら、届かなかったからです」
「一撃を受けてでも、か」
「受けて終わるなら駄目です。でも、その先へ行けるなら選びます」
ヒルゼンの目が静かになる。
「己の身を軽く見ておるのではないか」
「軽くは見てません」
答えはすぐに出た。
「命を懸けることと、投げ捨てることは違うので」
「どう違う」
「戻るつもりがあるかどうかです」
オビトは自分の手を見た。
小さい。
五歳の手。
それでも、掴めるものはある。
「死んでもいいと思って入るのと、生きて戻るために必要な危険を取るのは違います」
「今日のお主は、随分と危うく見えたがの」
「火影様なら、殺されないと思ってました」
ヒルゼンの眉が動いた。
「信用されておったか」
「子どもの授業で殺す火影なら、里が先に終わってます」
一瞬。
室内へ妙な沈黙が落ちた。
ヒルゼンが低く笑う。
「違いない」
少しだけ空気が和らいだ。
だが、問いは終わらない。
「人へ手を貸すことが多いそうじゃな」
「そうですか?」
「登校中に老人を助け、学校でも同級生を支え、分からぬ者へ教えておる」
どこからそこまで。
お年寄りの情報網か。
学校の報告か。
たぶん両方だ。
「見てたら、放っておけないだけです」
「感謝されたいからか」
「違います」
「良い子と思われたい?」
「それも別に」
オビトは少し眉を寄せた。
「俺がそうしたいからです」
ヒルゼンは黙って続きを待つ。
「全員を助けられるとは思ってません。無理なものは無理だし、届かないこともある。でも、手が届くのに見捨てたら、たぶん俺が後悔する」
「己のためか」
「そうです」
オビトは頷いた。
「助けた相手が感謝するかどうかは、その人の勝手です。俺は、俺が見捨てたくないから手を出す」
「嫌われても?」
「必要なら」
「助けを拒まれても?」
「無理やりはしません。でも、死にそうなら別です」
ヒルゼンの目に、わずかな光が宿る。
子ども向けに整えた善い答えではない。
人を助けるべきだから助ける、とも言わない。
正義だからでも、褒められるからでもない。
自分がそうしたい。
その選択を、自分で引き受ける。
組手で見せた姿と同じだった。
オビトは危険へ踏み込む時、誰かに命じられていない。
自分で選び、自分で入る。
「強い者は、何をすべきだと思う」
ヒルゼンが問う。
オビトは少し視線を落とした。
「前に立つべき時があります」
「常にか」
「ずっとじゃないです。何でも一人でやるのは違う。でも、誰かを前へ出さないといけない時、自分だけ安全なところにいて、戦えとは言いたくない」
「お主が立つと?」
「立てるなら」
「怖くはないか」
「怖いです」
答えは早かった。
「怖くても、やる時はやります」
「なぜそこまで背負う」
「俺が選んだからです」
言葉は短い。
だが、ヒルゼンには十分だった。
組手で見せた踏み込み。
受ければ痛む攻撃を、自分の間合いへ入るために選んだ判断。
危険が増すほど澄んでいった目。
あれは無謀ではない。
死を求める者の動きでもない。
危険を理解した上で、自分が前へ出ることを選ぶ者の動きだった。
まだ幼い。
あまりにも幼い。
それでも、言葉と行動が一致している。
ヒルゼンはしばらく少年を見たあと、別の問いを投げた。
「お主の夢は何じゃ」
オビトの目が、わずかに変わった。
この問いには、迷いがなかった。
「火影です」
「なぜなりたい」
「守るために前へ立つ役目だと思ってるから」
「里の上に立つ者とは思わぬか」
「上にいるだけじゃ、意味ないです」
オビトは机の端へ目を落とし、言葉を選んだ。
「火影は、偉い人ってだけじゃない。誰かに責任を押しつけないで、自分で引き受ける人だと思います」
ヒルゼンは黙って聞く。
「里の中で目立つ人だけじゃなくて、端にいる人も、こぼれた人も、ちゃんと木ノ葉だって拾う人」
「こぼれた者を?」
「はい」
「なぜ、そこまで」
オビトは少しだけ笑った。
「俺の家、集落の端なので」
答えは軽かった。
だが、それだけではないとヒルゼンには分かった。
「表にいる人だけ見てたら、里じゃないと思うんです。見えにくいところにいる人も、うまく馴染めない人も、全部まとめて木ノ葉だって言える方がいい」
「それを、お主がするのか」
「できるとは言い切れません」
オビトは正直に答えた。
「でも、そういう火影になりたいです」
断言はしない。
己なら必ずできる、とも言わない。
それでも、目を逸らさない。
憧れを語るだけの目ではなかった。
その役目が重いと分かった上で、なお望んでいる。
ヒルゼンは椅子の背へゆっくり身体を預けた。
実力。
判断力。
覚悟。
思想。
責任感。
今日の組手だけでは見えなかったものが、ようやく繋がり始める。
危険へ入る理由。
人へ手を伸ばす理由。
力を使う先。
そのどれも、口先だけではない。
少年はすでに行動している。
学校で。
道端で。
組手の中で。
ただ強いだけの子どもではない。
そして、今の忍者学校へ置き続けるだけでは、その力も考えも持て余す。
ヒルゼンは机の上に置かれた評価表へ手を伸ばした。
「うちはオビト」
「はい」
「今日の組手と、これまでの成績。そして今の話を合わせて考えた」
オビトの背筋が、わずかに伸びる。
「お主は、忍者学校の卒業相当と認める」
一瞬。
言葉の意味が入ってこなかった。
「……え」
「正式な手続きは、忍者学校と火影側で進める」
「ちょっと待ってください」
オビトが思わず身を乗り出した。
「卒業?」
「そうじゃ」
「俺、入学したばっかりなんですけど」
「知っておる」
「まだ一週間ちょっとですよね?」
「日数ではなく、身につけたものを見る」
さらりと言われた。
オビトは固まった。
火影室。
五歳。
入学して間もない。
卒業相当。
話が飛びすぎている。
やり過ぎた。
そうは思っていた。
注意される。
監視される。
授業内容を変えられる。
その辺りまでは予想した。
卒業は予想していない。
「いや、でも」
「不満かの」
「不満というか、早くないですか?」
「早い」
ヒルゼンはあっさり認めた。
「じゃあ」
「されど、お主を今までと同じ形で教室へ置く方が不自然じゃ」
オビトは言葉に詰まった。
否定できない。
授業ではすでに、何をしても教師を困らせている。
黒板へ出れば教師以上に解答を書く。
実技では抑えても一位。
組手では火影相手に楽しくなって五歳児を捨てた。
自業自得である。
「卒業後は、下忍として扱う方針じゃ」
さらに来た。
オビトは目を見開く。
「下忍」
「うむ」
「すぐ任務に?」
「そこは別に判断する。登録したからといって、明日から危険な任務へ放り込むわけではない」
ヒルゼンの声は穏やかだった。
「お主の年齢も考える。班編成、指導役、任務の種類も含めて、火影側で慎重に決める」
「……拒否権は」
「理由を聞こう」
「普通の学校生活が」
言いかけて、止まる。
普通。
この一週間、散々失敗した言葉だった。
ヒルゼンの目が、少しだけ笑った。
「お主にとって、今の授業は普通であったかの」
「……努力はしてました」
「それは見れば分かる」
「見抜かないでくださいよ」
「火影なのでな」
強い。
何を言っても返される。
オビトは椅子へ沈み込んだ。
足は相変わらず床へ届いていない。
この姿だけ見れば、卒業を告げられる子どもには見えない。
だが、ヒルゼンの判断は変わらないようだった。
「明日か、遅くとも明後日には正式な通知を出す」
「祖母ちゃんにも?」
「当然、説明する」
そこが最大の難関ではないか。
祖母ちゃんは喜ぶだろうか。
心配するだろうか。
たぶん両方だ。
そして、卒業した瞬間から安全確認項目が三倍くらい増える。
帰宅時間。
任務先。
同行者。
食事。
怪我。
知らない人についていくな。
火影の命令でも内容を確認しろ。
そこまで言いそうだ。
オビトは額を押さえたくなった。
「大丈夫かの」
「ちょっと人生が急に動いたので」
「五歳で言う台詞ではないな」
「今日それ言います?」
ヒルゼンが笑う。
先ほど演習場で見せたものとは違う、穏やかな笑みだった。
「最後に一つだけ」
ヒルゼンの声が、少し静かになる。
「お主は、己の命を大切にせよ」
オビトは顔を上げた。
「命を懸けることと、投げ捨てることは違う。そう言ったな」
「はい」
「ならば、その違いを忘れるな。前へ立つ者ほど、自分が倒れたあとのことまで考えねばならぬ」
すぐには答えなかった。
その言葉は、軽く受け取れるものではなかった。
オビトはやがて、小さく頷いた。
「分かりました」
「本当にかの」
「努力します」
「そこは断言せぬのじゃな」
「絶対って言うと嘘になるので」
ヒルゼンはしばらく少年を見つめ、それから静かに頷いた。
「それでよい」
対話は終わった。
オビトは椅子から降り、火影へ一礼する。
戸へ向かう途中で、もう一度振り返った。
「火影様」
「何じゃ」
「本当に、卒業なんですか」
「本当じゃ」
「取り消しは」
「今のところない」
「ですよね……」
肩を落とし、戸を開ける。
その小さな背中が部屋を出ていったあと、ヒルゼンはしばらく閉じた戸を見ていた。
五歳の子ども。
されど、ただの子どもとして扱えば、その内にあるものを見失う。
強さだけではない。
危うさだけでもない。
誰かへ手を伸ばそうとする意志。
自分が前へ立とうとする覚悟。
里の端まで木ノ葉として拾おうとする夢。
それらを、正しく育てなければならない。
ヒルゼンは机上の書類を引き寄せ、卒業認定に必要な手続きへ目を通し始めた。
翌日か、翌々日。
忍者学校へ正式な通知が届く。
うちはの落ちこぼれと呼ばれた少年は、入学からわずかな日数で、その教室を離れることになる。
本人だけが、まだまったく心の準備をできていなかった。
【〆栞】