黄色と赤と

任務を終えて帰宅したサクモは、庭から聞こえる風切り音に足を止めた。

夕暮れの薄明かりの中、カカシが一人で木刀を振っている。

上段からの振り下ろし。

切り返し。

踏み込み。

動きに無駄は少ない。四歳の子どもとして見れば、十分すぎるほど完成されている。それでも今日は、普段よりわずかに力が入りすぎていた。

木刀が空を切るたび、右肩が上がる。

踏み込む足も、いつもより強く土を噛んでいる。

サクモは縁側へ腰を下ろした。

「ただいま、カカシ」

木刀が止まる。

「おかえり」

振り返った顔には汗が滲んでいた。

「精が出るね」

「普通だよ」

「そうかい」

サクモはそれ以上追及せず、息子が構え直すのを見守った。

再び木刀が振られる。

一度。

二度。

三度。

やはり、焦りがある。

特別授業以来、カカシは以前にも増して修練へ時間を使うようになった。忍者学校でも手を抜いてはいない。それどころか、教師が出す課題の先まで自分で調べ、帰宅すればすぐに庭へ出る。

その理由を、サクモは知っている。

「今日、オビトくんを見かけたよ」

木刀が、ぴたりと止まった。

カカシは振り返らなかった。

「どこで」

「第三演習場だ」

「何してたの」

声は平静だった。

だが、返事が早い。

サクモは演習場で目にした光景を思い出した。

一人であるにもかかわらず、まるで見えない誰かと戦っているような動き。

相手の武器を避け、受け、懐へ入り、崩されればすぐに立て直す。クナイを手だけでなく足でも扱い、投げ、蹴り、拾い、次の一手へ繋げていた。

型を繰り返していたのではない。

明確に相手を想定していた。

しかも、その相手はオビトより大きく、長い武器を持ち、接近戦にも優れているらしい。

「一人で組手をしていた」

カカシがようやくこちらを見た。

「一人で?」

「相手を思い描いていたんだろうね。オビトくんには、そこに誰かがいるように見えていたのかもしれない」

「どんな相手」

「長い武器を使う、体格の大きな相手だと思う。少なくとも、そう動いていた」

カカシの眉が寄る。

「一人なのに?」

「一人だからこそ、自分の中で相手を動かしていたんだろう」

「そんなこと、できるの」

「簡単ではないよ」

サクモは正直に答えた。

想像した相手と戦うだけなら、珍しい訓練ではない。

仮想の攻撃を避ける。

間合いを測る。

次の動きを組み立てる。

だが、オビトがしていたことは、それより一段深かった。相手が予想どおりに動かなかった場合まで組み込み、途中で対応を変えているように見えた。

見えない武器を避ける動きにも、毎回違う重さがあった。

自分で決めた順序をなぞっているだけではない。

記憶の中に、実際の相手がいる。

サクモには、そう思えた。

「クナイを使っていた。投げるだけでなく、足で受けて蹴り上げたり、跳びながら別の方向へ飛ばしたりしてね」

カカシの手に力が入る。

木刀の柄が、小さく軋んだ。

「それから?」

「体術も使っていたよ」

「火影様とやった時みたいな?」

「近い部分はあった」

カカシの顔が険しくなる。

あの日、演習場で見たオビトの動きが蘇っているのだろう。

火影の懐へ迷わず入り込む。

攻撃を完全には避けず、届くために掠める距離を選ぶ。

一撃のあとへ、遅れてもう一つの衝撃を重ねる。

速さだけではない。

自分には理解できないほど先を読んだ戦い方。

「どれくらいやってたの」

「私が見ていた間だけでも、かなり長く」

「ずっと一人で?」

「そうだね」

カカシが黙る。

木刀を持ったまま、足元の土へ視線を落とした。

学校では何でも一位。

火影との組手では、教師たちすら言葉を失わせた。

下忍へ昇格し、教室から先に出ていった。

それでも足りないように、一人で演習場へ向かい、見えない相手と戦い続けている。

差がある。

カカシも、それは認めていた。

認めたからこそ、悔しかった。

「……オレだって、毎日やってる」

声が低い。

「うん」

「授業も、手裏剣も、体術も。父さんとの修行だって」

「分かっているよ」

「なのに、何で」

木刀を握る指が白くなる。

「何で、あいつの方があんなに強いの」

サクモはすぐに答えなかった。

何を言っても、今のカカシには慰めに聞こえるかもしれない。

才能が違う。

経験が違う。

年齢が一つ上だから。

そんな言葉では、あの動きの理由を説明できない。サクモ自身、答えを持っていなかった。

「私にも、分からない」

カカシが顔を上げる。

「けれど、今日一つ分かったことがある」

「何」

「オビトくんは、誰も見ていないところでも同じように積み重ねている」

カカシの目が揺れた。

「火影様へ見せるためでも、先生に褒められるためでもない。一人で演習場へ行き、自分に必要なものを考え、試していた」

「だから強いってこと?」

「それだけではないだろうね」

サクモは穏やかに言った。

「あの子には、私たちの知らないものがある。それでも、見えない部分を全部、才能という一言で片づけてしまうのは違うと思う」

カカシは返事をしない。

「相手を追う時は、今いる場所だけを見るものではないよ」

「……どういう意味」

「どこまで進んでいるかだけを見れば、差ばかりが目に入る。けれど、その人が何を見て、何を考え、何を積み重ねているかを見れば、自分が次にすべきことも分かるかもしれない」

「オビトの真似をしろってこと?」

「真似をする必要はない」

サクモは首を振った。

「あの子のやり方が、そのままカカシに合うとは限らない。長所も身体も考え方も違う。ただ、強さの結果だけでなく、そこへ至る過程を見るんだ」

カカシは再び木刀へ目を落とした。

追いつく。

超える。

その意思は変わらない。

だが、ただ回数を増やせばいいわけではないのかもしれない。

オビトは何を想定していた。

なぜ足でクナイを扱った。

なぜ一人でも組手を続けられる。

なぜ、火影の前であれほど動けた。

疑問は増えた。

以前のように、ただ隠していることへ腹を立てるだけでは済まなくなっている。

知りたい。

見たい。

そして、自分の力で追いつきたい。

カカシは木刀を構え直した。

先ほどより、肩の力が少し抜ける。

「父さん」

「うん?」

「今の踏み込み、見て」

サクモは微笑んだ。

「もちろん」

翌日。

班編成を待つオビトの生活は、忍者学校へ通っていた頃より自由になった。

自由になったはずだった。

朝食の片づけを手伝い、家の前を掃き、祖母ちゃんに頼まれた買い物へ出る。

その途中で呪霊を見つける。

「解」

祓う。

少し先で、別の呪霊が人の背へ取りつこうとしている。

「解」

祓う。

その角を曲がると、腰の曲がった老人が大きな包みを抱えていた。

「持つよ」

運ぶ。

届けた先で、今度は戸棚の扉が外れかけている。

「直すよ」

直す。

家を出てから、まだ半刻も経っていなかった。

それなのに買い物籠へ品物は入っておらず、介護ヘルパーとしての仕事だけが順調に増えている。

忍者学校へ行かなくなれば、時間に余裕ができる。

そう思っていた。

実際には、登校という明確な目的地が消えたことで、老人たちに捕まった際の逃げ道まで失われていた。

「オビトくん、急いでるのかい?」

「……いや、別に」

「じゃあ、ちょっとだけ」

この流れである。

ちょっとだけ。

すぐそこ。

簡単なこと。

お年寄りが使う三大危険語だった。

ちょっとだけは半刻。

すぐそこは通り三つ分。

簡単なことは、戸棚修理から屋根掃除へ発展する。

今日も特級お年寄りキラーの能力は絶好調だった。

「下忍になったんだって?」

庭木の剪定を手伝っている最中、家主の老婆が嬉しそうに聞いた。

「うん」

「まあ、立派になって」

「学校入ったばっかりだったけどな」

「それだけ優秀だったんだろう?」

「どうだろ」

「火影様も認めたって聞いたよ」

情報が早い。

やはりお年寄りの情報網は侮れない。

根より先に何でも把握しているのではないか。

オビトは枝をまとめ、紐で括った。

「はい、これでいい?」

「助かったよ。お礼に煮物を持っていきな」

「祖母ちゃんが喜ぶ」

断らない。

もう学んだ。

断れば、食べていけ、茶を飲め、遠慮するな、と話が長くなる。素直に受け取った方が早い。

煮物の入った容器を買い物籠へ入れ、ようやく本来の買い物へ向かう。

道すがら、呪霊を二体祓った。

老人を一人送った。

迷子を母親のところへ戻した。

家へ帰る頃には、午前が半分以上終わっている。

祖母ちゃんは籠の中を見て、頼んだ品物より先に煮物の容器を見つけた。

「また何か手伝ったのかい」

「庭木」

「買い物へ行ったんじゃなかったのかい」

「途中にあった」

「庭木が?」

「困ってる祖母ちゃんが」

祖母ちゃんは息を吐いた。

呆れているようで、口元は少し緩んでいる。

「午後はどうするんだい」

「演習場に行く。今度こそ」

「影分身を置いていくんじゃないよ」

ばれている。

どこから。

影分身の一体が、茶飲み話の最中に余計なことを喋ったか。

「今日はちゃんと手伝ってから行く」

「それが当たり前だよ」

昼食を終え、洗い物を片づけ、家の修繕を一つ済ませる。

それから演習場へ向かい、体術とクナイ術を一通り確認した。前日の仮想組手で見つけた動きを、今の身体へ馴染ませていく。

もう五歳児に見える動きを考える必要はない。

見せてもよいものを使う。

伏せるべきものは伏せる。

それだけだ。

体術。

クナイ術。

チャクラによる身体強化。

火遁や基本的な忍術。

このあたりは、下忍として知られても困らない。

一方で、写輪眼はまだ見せない。

呪力も、外から見て分かる使い方は避ける。

切断も血の術も、説明できる形へ落とし込めるまでは不用意に出さない。

任務へ出れば、その場で選ぶ必要がある。

今は、その境目を確かめる時期だった。

夕方近くまで身体を動かし、帰宅する。

今度は老人に捕まらないよう、屋根を伝おうかと思った。

だが、籠を抱えた老婆が道端で困っているのが見えた。

結局、地上へ下りた。

夕食前。

祖母ちゃんは少し上等な着物へ袖を通していた。

「似合うな」

「そうかい?」

「うん。どこ行くの?」

「友達と食事だよ」

珍しい。

祖母ちゃんにも、昔から付き合いのある友人がいる。時折、家へ来て茶を飲んでいる姿は見たことがあるが、外へ食事に出るのは久しぶりだった。

「帰りは?」

「遅くならないよ。あんたも今夜は好きなものを食べてきな」

「外で?」

「お金はそこに置いてある。余らせたら戻すんだよ」

「分かってる」

「変なものばかり食べるんじゃないよ」

「分かってるって」

「知らない人についていかない」

「下忍になったんだけど」

「下忍でも五歳は五歳だよ」

それはそう。

祖母ちゃんは最後に戸締まりについて念を押し、友人との待ち合わせへ向かった。

一人になったオビトは、卓上の銭を見た。

外食。

何を食べるか。

考えるまでもなかった。

「一楽行くか」

前々世から馴染みのある店だ。

まだ店構えも新しく、今の店主も若い。それでも、暖簾の向こうから漂う香りには覚えがあった。

前世では、虎杖とラーメンを食べに行くことが多かった。

任務帰り。

休日。

用事のついで。

新しい店を見つければ入り、気に入れば別の日にまた行く。何軒か梯子し、同じ系統の味を比べたこともある。

二人とも、それだけラーメンが好きだった。

釘崎は、同じ麺でもパスタ専攻だった。

店選びにうるさく、盛りつけにも内装にも注文が多い。だが、連れていかれた店の料理は確かに美味かった。

伏黒は付き合いが悪かった。

騒がしい店を避け、こってりしたものより和食を選ぶ。

うどん巡りなら乗ったのだろうか。

いや、伏黒なら蕎麦かもしれない。

「うどんか……」

任務先で寄った香川の店々を思い出す。

朝からうどん。

昼もうどん。

移動の途中にまたうどん。

虎杖は最後まで喜んでいた。釘崎は途中から別のものを寄越せと騒ぎ、伏黒は呆れながらも全部食べていた。

あれは、なかなかよかった。

そんなことを考えているうちに、一楽へ着いた。

暖簾をくぐる。

「いらっしゃい!」

店主の明るい声が迎えた。

夕食時には少し早い。

それでも客は何人かいて、横並びの席はところどころ埋まっている。

オビトは空いている席へ座った。

端ではない。

左右に一席ずつ空きがあり、隣の客との距離もほどよい。

「何にする?」

「味噌ラーメン」

「はいよ!」

注文した瞬間だった。

後ろから暖簾の揺れる音がした。

「二人、空いてるってばね?」

明るく強い女の声。

オビトの肩が、わずかに止まる。

聞き覚えがある。

ありすぎる。

「並びでは空いてないみたいだね」

今度は、柔らかな男の声。

聞き間違えるはずがなかった。

振り返れない。

身体が固まる。

店主が店内を見回した。

「悪いね。今は一人分ずつしか空いてなくて」

「仕方ないってばね。すぐ空くでしょ」

右側の椅子が引かれた。

赤い髪が視界へ入る。

うずまきクシナ。

同時に、左側の椅子も引かれた。

明るい金髪。

波風ミナト。

右にクシナ。

左にミナト。

真ん中に、俺。

何故挟む。

確かに二人並べる席はなかった。

なかったけども。

よりによって、どうして自分の左右へ座る。

オビトは正面を見たまま、動けなかった。

心臓が嫌な音を立てている。

前々世の記憶が、一気に浮かび上がった。

ミナト先生。

クシナさん。

九尾の夜。

血。

鎖。

子どもを守るために前へ出た二人。

自分が壊した夜。

深く沈めていたものが、予告なく胸元へ突き上げてくる。

まだ会う準備などできていなかった。

遠くから見かける可能性は考えていた。

ミナトが自分の配属に関わるかもしれないとも思っていた。

だが。

一楽のカウンターで、突然左右から挟まれるとは思わない。

「本当に取材?」

右側で、クシナが言った。

「先生はそう言ってたけど」

左側からミナトが答える。

会話が、オビトの頭上を通る。

「絶対に覗きに行ったってばね」

「はは……否定はできない、かな」

「女湯じゃないでしょうね」

「そこは大丈夫だと思うよ」

「先生だから信用できないってばね」

「それも否定できないなあ」

恋人同士の会話が、自分を挟んで続いている。

非常に居たたまれない。

内容も内容だが、距離が近すぎる。

クシナはミナトへ話しかけるたび、オビトの前へ少し身を乗り出す。ミナトもそれに答えるため、こちら側へ顔を向ける。

間にいる自分だけが、何も聞こえていないふりをして正面を見ていた。

無理がある。

席を移ろう。

ちょうど少し離れた場所で、客が一人立ち上がった。

好機。

オビトは椅子から腰を浮かせた。

その時。

「君」

左側から声をかけられた。

身体が止まった。

「うちはオビトくん、だよね?」

心の準備ができてねぇんだけど!

内心では叫んだ。

だが、振り向かないわけにはいかない。

オビトはぎこちなく左を向いた。

青い瞳。

穏やかな笑み。

記憶の中より若い。

まだ火影ではない。

自分たちの先生にもなっていない。

それでも、間違いなく波風ミナトだった。

向こうにとっては初対面。

こちらにとっては、そうではない。

喉が詰まる。

言わなければ。

普通に挨拶を。

初めまして。

うちはオビトです。

それでいい。

それだけでいいのに。

「ごめんなさい」

第一声が、謝罪になった。

沈黙。

ミナトが目を瞬く。

クシナも会話を止め、オビトを見た。

店主まで、何となくこちらへ視線を向けている。

オビト自身が、一番驚いていた。

何で謝罪から入った。

違う。

今ではない。

何もされていない。

何も起きていない。

この二人は、自分を知らない。

謝られる理由など一つもない。

「……え?」

ミナトの声は柔らかいままだったが、明らかに困惑していた。

オビトの頭が高速で回る。

何か言え。

誤魔化せ。

理由を作れ。

足を踏んだ。

いや、踏んでいない。

席を取った。

先に座っていたのは自分だ。

会話を聞いた。

聞こえる位置で話していた。

何も使えない。

「いや、その」

目が泳ぐ。

「何ていうか」

落ち着け。

火影と戦った時は、もう少しまともだっただろう。

ダンゾウの監視にも気づいた。

うちはの実力者とも組手をした。

なのに、ミナトとクシナに挟まれた程度で、完全に挙動不審になっている。

「俺、別に」

何が別になのか。

自分でも分からない。

オビトは正面を向き、また左を見て、なぜか右のクシナまで確認した。

クシナの眉が上がる。

「この子、大丈夫?」

「うん……たぶん」

ミナトは少し困ったように笑った。

声をかけた相手が、いきなり謝罪し、その後明らかに動揺している。

自分の接し方が急すぎたのかもしれない。

そう考えたらしい。

「ごめんね。急に名前を呼んで驚かせたかな」

謝らせた。

違う。

完全に違う。

「いや、ミナトさんは悪くないです」

今度は名前が出た。

ミナトが再び目を瞬く。

名乗っていない。

オビトは口を閉じた。

もう遅い。

左右から、黄色と赤の視線が集まる。

注文した味噌ラーメンは、まだ来ない。

逃げ場もない。

オビトはカウンターの木目を見つめながら、心の中で頭を抱えた。

初対面。

開始から数秒。

すでに事故である。


〆栞
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