黄色と赤と
任務を終えて帰宅したサクモは、庭から聞こえる風切り音に足を止めた。
夕暮れの薄明かりの中、カカシが一人で木刀を振っている。
上段からの振り下ろし。
切り返し。
踏み込み。
動きに無駄は少ない。四歳の子どもとして見れば、十分すぎるほど完成されている。それでも今日は、普段よりわずかに力が入りすぎていた。
木刀が空を切るたび、右肩が上がる。
踏み込む足も、いつもより強く土を噛んでいる。
サクモは縁側へ腰を下ろした。
「ただいま、カカシ」
木刀が止まる。
「おかえり」
振り返った顔には汗が滲んでいた。
「精が出るね」
「普通だよ」
「そうかい」
サクモはそれ以上追及せず、息子が構え直すのを見守った。
再び木刀が振られる。
一度。
二度。
三度。
やはり、焦りがある。
特別授業以来、カカシは以前にも増して修練へ時間を使うようになった。忍者学校でも手を抜いてはいない。それどころか、教師が出す課題の先まで自分で調べ、帰宅すればすぐに庭へ出る。
その理由を、サクモは知っている。
「今日、オビトくんを見かけたよ」
木刀が、ぴたりと止まった。
カカシは振り返らなかった。
「どこで」
「第三演習場だ」
「何してたの」
声は平静だった。
だが、返事が早い。
サクモは演習場で目にした光景を思い出した。
一人であるにもかかわらず、まるで見えない誰かと戦っているような動き。
相手の武器を避け、受け、懐へ入り、崩されればすぐに立て直す。クナイを手だけでなく足でも扱い、投げ、蹴り、拾い、次の一手へ繋げていた。
型を繰り返していたのではない。
明確に相手を想定していた。
しかも、その相手はオビトより大きく、長い武器を持ち、接近戦にも優れているらしい。
「一人で組手をしていた」
カカシがようやくこちらを見た。
「一人で?」
「相手を思い描いていたんだろうね。オビトくんには、そこに誰かがいるように見えていたのかもしれない」
「どんな相手」
「長い武器を使う、体格の大きな相手だと思う。少なくとも、そう動いていた」
カカシの眉が寄る。
「一人なのに?」
「一人だからこそ、自分の中で相手を動かしていたんだろう」
「そんなこと、できるの」
「簡単ではないよ」
サクモは正直に答えた。
想像した相手と戦うだけなら、珍しい訓練ではない。
仮想の攻撃を避ける。
間合いを測る。
次の動きを組み立てる。
だが、オビトがしていたことは、それより一段深かった。相手が予想どおりに動かなかった場合まで組み込み、途中で対応を変えているように見えた。
見えない武器を避ける動きにも、毎回違う重さがあった。
自分で決めた順序をなぞっているだけではない。
記憶の中に、実際の相手がいる。
サクモには、そう思えた。
「クナイを使っていた。投げるだけでなく、足で受けて蹴り上げたり、跳びながら別の方向へ飛ばしたりしてね」
カカシの手に力が入る。
木刀の柄が、小さく軋んだ。
「それから?」
「体術も使っていたよ」
「火影様とやった時みたいな?」
「近い部分はあった」
カカシの顔が険しくなる。
あの日、演習場で見たオビトの動きが蘇っているのだろう。
火影の懐へ迷わず入り込む。
攻撃を完全には避けず、届くために掠める距離を選ぶ。
一撃のあとへ、遅れてもう一つの衝撃を重ねる。
速さだけではない。
自分には理解できないほど先を読んだ戦い方。
「どれくらいやってたの」
「私が見ていた間だけでも、かなり長く」
「ずっと一人で?」
「そうだね」
カカシが黙る。
木刀を持ったまま、足元の土へ視線を落とした。
学校では何でも一位。
火影との組手では、教師たちすら言葉を失わせた。
下忍へ昇格し、教室から先に出ていった。
それでも足りないように、一人で演習場へ向かい、見えない相手と戦い続けている。
差がある。
カカシも、それは認めていた。
認めたからこそ、悔しかった。
「……オレだって、毎日やってる」
声が低い。
「うん」
「授業も、手裏剣も、体術も。父さんとの修行だって」
「分かっているよ」
「なのに、何で」
木刀を握る指が白くなる。
「何で、あいつの方があんなに強いの」
サクモはすぐに答えなかった。
何を言っても、今のカカシには慰めに聞こえるかもしれない。
才能が違う。
経験が違う。
年齢が一つ上だから。
そんな言葉では、あの動きの理由を説明できない。サクモ自身、答えを持っていなかった。
「私にも、分からない」
カカシが顔を上げる。
「けれど、今日一つ分かったことがある」
「何」
「オビトくんは、誰も見ていないところでも同じように積み重ねている」
カカシの目が揺れた。
「火影様へ見せるためでも、先生に褒められるためでもない。一人で演習場へ行き、自分に必要なものを考え、試していた」
「だから強いってこと?」
「それだけではないだろうね」
サクモは穏やかに言った。
「あの子には、私たちの知らないものがある。それでも、見えない部分を全部、才能という一言で片づけてしまうのは違うと思う」
カカシは返事をしない。
「相手を追う時は、今いる場所だけを見るものではないよ」
「……どういう意味」
「どこまで進んでいるかだけを見れば、差ばかりが目に入る。けれど、その人が何を見て、何を考え、何を積み重ねているかを見れば、自分が次にすべきことも分かるかもしれない」
「オビトの真似をしろってこと?」
「真似をする必要はない」
サクモは首を振った。
「あの子のやり方が、そのままカカシに合うとは限らない。長所も身体も考え方も違う。ただ、強さの結果だけでなく、そこへ至る過程を見るんだ」
カカシは再び木刀へ目を落とした。
追いつく。
超える。
その意思は変わらない。
だが、ただ回数を増やせばいいわけではないのかもしれない。
オビトは何を想定していた。
なぜ足でクナイを扱った。
なぜ一人でも組手を続けられる。
なぜ、火影の前であれほど動けた。
疑問は増えた。
以前のように、ただ隠していることへ腹を立てるだけでは済まなくなっている。
知りたい。
見たい。
そして、自分の力で追いつきたい。
カカシは木刀を構え直した。
先ほどより、肩の力が少し抜ける。
「父さん」
「うん?」
「今の踏み込み、見て」
サクモは微笑んだ。
「もちろん」
翌日。
班編成を待つオビトの生活は、忍者学校へ通っていた頃より自由になった。
自由になったはずだった。
朝食の片づけを手伝い、家の前を掃き、祖母ちゃんに頼まれた買い物へ出る。
その途中で呪霊を見つける。
「解」
祓う。
少し先で、別の呪霊が人の背へ取りつこうとしている。
「解」
祓う。
その角を曲がると、腰の曲がった老人が大きな包みを抱えていた。
「持つよ」
運ぶ。
届けた先で、今度は戸棚の扉が外れかけている。
「直すよ」
直す。
家を出てから、まだ半刻も経っていなかった。
それなのに買い物籠へ品物は入っておらず、介護ヘルパーとしての仕事だけが順調に増えている。
忍者学校へ行かなくなれば、時間に余裕ができる。
そう思っていた。
実際には、登校という明確な目的地が消えたことで、老人たちに捕まった際の逃げ道まで失われていた。
「オビトくん、急いでるのかい?」
「……いや、別に」
「じゃあ、ちょっとだけ」
この流れである。
ちょっとだけ。
すぐそこ。
簡単なこと。
お年寄りが使う三大危険語だった。
ちょっとだけは半刻。
すぐそこは通り三つ分。
簡単なことは、戸棚修理から屋根掃除へ発展する。
今日も特級お年寄りキラーの能力は絶好調だった。
「下忍になったんだって?」
庭木の剪定を手伝っている最中、家主の老婆が嬉しそうに聞いた。
「うん」
「まあ、立派になって」
「学校入ったばっかりだったけどな」
「それだけ優秀だったんだろう?」
「どうだろ」
「火影様も認めたって聞いたよ」
情報が早い。
やはりお年寄りの情報網は侮れない。
根より先に何でも把握しているのではないか。
オビトは枝をまとめ、紐で括った。
「はい、これでいい?」
「助かったよ。お礼に煮物を持っていきな」
「祖母ちゃんが喜ぶ」
断らない。
もう学んだ。
断れば、食べていけ、茶を飲め、遠慮するな、と話が長くなる。素直に受け取った方が早い。
煮物の入った容器を買い物籠へ入れ、ようやく本来の買い物へ向かう。
道すがら、呪霊を二体祓った。
老人を一人送った。
迷子を母親のところへ戻した。
家へ帰る頃には、午前が半分以上終わっている。
祖母ちゃんは籠の中を見て、頼んだ品物より先に煮物の容器を見つけた。
「また何か手伝ったのかい」
「庭木」
「買い物へ行ったんじゃなかったのかい」
「途中にあった」
「庭木が?」
「困ってる祖母ちゃんが」
祖母ちゃんは息を吐いた。
呆れているようで、口元は少し緩んでいる。
「午後はどうするんだい」
「演習場に行く。今度こそ」
「影分身を置いていくんじゃないよ」
ばれている。
どこから。
影分身の一体が、茶飲み話の最中に余計なことを喋ったか。
「今日はちゃんと手伝ってから行く」
「それが当たり前だよ」
昼食を終え、洗い物を片づけ、家の修繕を一つ済ませる。
それから演習場へ向かい、体術とクナイ術を一通り確認した。前日の仮想組手で見つけた動きを、今の身体へ馴染ませていく。
もう五歳児に見える動きを考える必要はない。
見せてもよいものを使う。
伏せるべきものは伏せる。
それだけだ。
体術。
クナイ術。
チャクラによる身体強化。
火遁や基本的な忍術。
このあたりは、下忍として知られても困らない。
一方で、写輪眼はまだ見せない。
呪力も、外から見て分かる使い方は避ける。
切断も血の術も、説明できる形へ落とし込めるまでは不用意に出さない。
任務へ出れば、その場で選ぶ必要がある。
今は、その境目を確かめる時期だった。
夕方近くまで身体を動かし、帰宅する。
今度は老人に捕まらないよう、屋根を伝おうかと思った。
だが、籠を抱えた老婆が道端で困っているのが見えた。
結局、地上へ下りた。
夕食前。
祖母ちゃんは少し上等な着物へ袖を通していた。
「似合うな」
「そうかい?」
「うん。どこ行くの?」
「友達と食事だよ」
珍しい。
祖母ちゃんにも、昔から付き合いのある友人がいる。時折、家へ来て茶を飲んでいる姿は見たことがあるが、外へ食事に出るのは久しぶりだった。
「帰りは?」
「遅くならないよ。あんたも今夜は好きなものを食べてきな」
「外で?」
「お金はそこに置いてある。余らせたら戻すんだよ」
「分かってる」
「変なものばかり食べるんじゃないよ」
「分かってるって」
「知らない人についていかない」
「下忍になったんだけど」
「下忍でも五歳は五歳だよ」
それはそう。
祖母ちゃんは最後に戸締まりについて念を押し、友人との待ち合わせへ向かった。
一人になったオビトは、卓上の銭を見た。
外食。
何を食べるか。
考えるまでもなかった。
「一楽行くか」
前々世から馴染みのある店だ。
まだ店構えも新しく、今の店主も若い。それでも、暖簾の向こうから漂う香りには覚えがあった。
前世では、虎杖とラーメンを食べに行くことが多かった。
任務帰り。
休日。
用事のついで。
新しい店を見つければ入り、気に入れば別の日にまた行く。何軒か梯子し、同じ系統の味を比べたこともある。
二人とも、それだけラーメンが好きだった。
釘崎は、同じ麺でもパスタ専攻だった。
店選びにうるさく、盛りつけにも内装にも注文が多い。だが、連れていかれた店の料理は確かに美味かった。
伏黒は付き合いが悪かった。
騒がしい店を避け、こってりしたものより和食を選ぶ。
うどん巡りなら乗ったのだろうか。
いや、伏黒なら蕎麦かもしれない。
「うどんか……」
任務先で寄った香川の店々を思い出す。
朝からうどん。
昼もうどん。
移動の途中にまたうどん。
虎杖は最後まで喜んでいた。釘崎は途中から別のものを寄越せと騒ぎ、伏黒は呆れながらも全部食べていた。
あれは、なかなかよかった。
そんなことを考えているうちに、一楽へ着いた。
暖簾をくぐる。
「いらっしゃい!」
店主の明るい声が迎えた。
夕食時には少し早い。
それでも客は何人かいて、横並びの席はところどころ埋まっている。
オビトは空いている席へ座った。
端ではない。
左右に一席ずつ空きがあり、隣の客との距離もほどよい。
「何にする?」
「味噌ラーメン」
「はいよ!」
注文した瞬間だった。
後ろから暖簾の揺れる音がした。
「二人、空いてるってばね?」
明るく強い女の声。
オビトの肩が、わずかに止まる。
聞き覚えがある。
ありすぎる。
「並びでは空いてないみたいだね」
今度は、柔らかな男の声。
聞き間違えるはずがなかった。
振り返れない。
身体が固まる。
店主が店内を見回した。
「悪いね。今は一人分ずつしか空いてなくて」
「仕方ないってばね。すぐ空くでしょ」
右側の椅子が引かれた。
赤い髪が視界へ入る。
うずまきクシナ。
同時に、左側の椅子も引かれた。
明るい金髪。
波風ミナト。
右にクシナ。
左にミナト。
真ん中に、俺。
何故挟む。
確かに二人並べる席はなかった。
なかったけども。
よりによって、どうして自分の左右へ座る。
オビトは正面を見たまま、動けなかった。
心臓が嫌な音を立てている。
前々世の記憶が、一気に浮かび上がった。
ミナト先生。
クシナさん。
九尾の夜。
血。
鎖。
子どもを守るために前へ出た二人。
自分が壊した夜。
深く沈めていたものが、予告なく胸元へ突き上げてくる。
まだ会う準備などできていなかった。
遠くから見かける可能性は考えていた。
ミナトが自分の配属に関わるかもしれないとも思っていた。
だが。
一楽のカウンターで、突然左右から挟まれるとは思わない。
「本当に取材?」
右側で、クシナが言った。
「先生はそう言ってたけど」
左側からミナトが答える。
会話が、オビトの頭上を通る。
「絶対に覗きに行ったってばね」
「はは……否定はできない、かな」
「女湯じゃないでしょうね」
「そこは大丈夫だと思うよ」
「先生だから信用できないってばね」
「それも否定できないなあ」
恋人同士の会話が、自分を挟んで続いている。
非常に居たたまれない。
内容も内容だが、距離が近すぎる。
クシナはミナトへ話しかけるたび、オビトの前へ少し身を乗り出す。ミナトもそれに答えるため、こちら側へ顔を向ける。
間にいる自分だけが、何も聞こえていないふりをして正面を見ていた。
無理がある。
席を移ろう。
ちょうど少し離れた場所で、客が一人立ち上がった。
好機。
オビトは椅子から腰を浮かせた。
その時。
「君」
左側から声をかけられた。
身体が止まった。
「うちはオビトくん、だよね?」
心の準備ができてねぇんだけど!
内心では叫んだ。
だが、振り向かないわけにはいかない。
オビトはぎこちなく左を向いた。
青い瞳。
穏やかな笑み。
記憶の中より若い。
まだ火影ではない。
自分たちの先生にもなっていない。
それでも、間違いなく波風ミナトだった。
向こうにとっては初対面。
こちらにとっては、そうではない。
喉が詰まる。
言わなければ。
普通に挨拶を。
初めまして。
うちはオビトです。
それでいい。
それだけでいいのに。
「ごめんなさい」
第一声が、謝罪になった。
沈黙。
ミナトが目を瞬く。
クシナも会話を止め、オビトを見た。
店主まで、何となくこちらへ視線を向けている。
オビト自身が、一番驚いていた。
何で謝罪から入った。
違う。
今ではない。
何もされていない。
何も起きていない。
この二人は、自分を知らない。
謝られる理由など一つもない。
「……え?」
ミナトの声は柔らかいままだったが、明らかに困惑していた。
オビトの頭が高速で回る。
何か言え。
誤魔化せ。
理由を作れ。
足を踏んだ。
いや、踏んでいない。
席を取った。
先に座っていたのは自分だ。
会話を聞いた。
聞こえる位置で話していた。
何も使えない。
「いや、その」
目が泳ぐ。
「何ていうか」
落ち着け。
火影と戦った時は、もう少しまともだっただろう。
ダンゾウの監視にも気づいた。
うちはの実力者とも組手をした。
なのに、ミナトとクシナに挟まれた程度で、完全に挙動不審になっている。
「俺、別に」
何が別になのか。
自分でも分からない。
オビトは正面を向き、また左を見て、なぜか右のクシナまで確認した。
クシナの眉が上がる。
「この子、大丈夫?」
「うん……たぶん」
ミナトは少し困ったように笑った。
声をかけた相手が、いきなり謝罪し、その後明らかに動揺している。
自分の接し方が急すぎたのかもしれない。
そう考えたらしい。
「ごめんね。急に名前を呼んで驚かせたかな」
謝らせた。
違う。
完全に違う。
「いや、ミナトさんは悪くないです」
今度は名前が出た。
ミナトが再び目を瞬く。
名乗っていない。
オビトは口を閉じた。
もう遅い。
左右から、黄色と赤の視線が集まる。
注文した味噌ラーメンは、まだ来ない。
逃げ場もない。
オビトはカウンターの木目を見つめながら、心の中で頭を抱えた。
初対面。
開始から数秒。
すでに事故である。
夕暮れの薄明かりの中、カカシが一人で木刀を振っている。
上段からの振り下ろし。
切り返し。
踏み込み。
動きに無駄は少ない。四歳の子どもとして見れば、十分すぎるほど完成されている。それでも今日は、普段よりわずかに力が入りすぎていた。
木刀が空を切るたび、右肩が上がる。
踏み込む足も、いつもより強く土を噛んでいる。
サクモは縁側へ腰を下ろした。
「ただいま、カカシ」
木刀が止まる。
「おかえり」
振り返った顔には汗が滲んでいた。
「精が出るね」
「普通だよ」
「そうかい」
サクモはそれ以上追及せず、息子が構え直すのを見守った。
再び木刀が振られる。
一度。
二度。
三度。
やはり、焦りがある。
特別授業以来、カカシは以前にも増して修練へ時間を使うようになった。忍者学校でも手を抜いてはいない。それどころか、教師が出す課題の先まで自分で調べ、帰宅すればすぐに庭へ出る。
その理由を、サクモは知っている。
「今日、オビトくんを見かけたよ」
木刀が、ぴたりと止まった。
カカシは振り返らなかった。
「どこで」
「第三演習場だ」
「何してたの」
声は平静だった。
だが、返事が早い。
サクモは演習場で目にした光景を思い出した。
一人であるにもかかわらず、まるで見えない誰かと戦っているような動き。
相手の武器を避け、受け、懐へ入り、崩されればすぐに立て直す。クナイを手だけでなく足でも扱い、投げ、蹴り、拾い、次の一手へ繋げていた。
型を繰り返していたのではない。
明確に相手を想定していた。
しかも、その相手はオビトより大きく、長い武器を持ち、接近戦にも優れているらしい。
「一人で組手をしていた」
カカシがようやくこちらを見た。
「一人で?」
「相手を思い描いていたんだろうね。オビトくんには、そこに誰かがいるように見えていたのかもしれない」
「どんな相手」
「長い武器を使う、体格の大きな相手だと思う。少なくとも、そう動いていた」
カカシの眉が寄る。
「一人なのに?」
「一人だからこそ、自分の中で相手を動かしていたんだろう」
「そんなこと、できるの」
「簡単ではないよ」
サクモは正直に答えた。
想像した相手と戦うだけなら、珍しい訓練ではない。
仮想の攻撃を避ける。
間合いを測る。
次の動きを組み立てる。
だが、オビトがしていたことは、それより一段深かった。相手が予想どおりに動かなかった場合まで組み込み、途中で対応を変えているように見えた。
見えない武器を避ける動きにも、毎回違う重さがあった。
自分で決めた順序をなぞっているだけではない。
記憶の中に、実際の相手がいる。
サクモには、そう思えた。
「クナイを使っていた。投げるだけでなく、足で受けて蹴り上げたり、跳びながら別の方向へ飛ばしたりしてね」
カカシの手に力が入る。
木刀の柄が、小さく軋んだ。
「それから?」
「体術も使っていたよ」
「火影様とやった時みたいな?」
「近い部分はあった」
カカシの顔が険しくなる。
あの日、演習場で見たオビトの動きが蘇っているのだろう。
火影の懐へ迷わず入り込む。
攻撃を完全には避けず、届くために掠める距離を選ぶ。
一撃のあとへ、遅れてもう一つの衝撃を重ねる。
速さだけではない。
自分には理解できないほど先を読んだ戦い方。
「どれくらいやってたの」
「私が見ていた間だけでも、かなり長く」
「ずっと一人で?」
「そうだね」
カカシが黙る。
木刀を持ったまま、足元の土へ視線を落とした。
学校では何でも一位。
火影との組手では、教師たちすら言葉を失わせた。
下忍へ昇格し、教室から先に出ていった。
それでも足りないように、一人で演習場へ向かい、見えない相手と戦い続けている。
差がある。
カカシも、それは認めていた。
認めたからこそ、悔しかった。
「……オレだって、毎日やってる」
声が低い。
「うん」
「授業も、手裏剣も、体術も。父さんとの修行だって」
「分かっているよ」
「なのに、何で」
木刀を握る指が白くなる。
「何で、あいつの方があんなに強いの」
サクモはすぐに答えなかった。
何を言っても、今のカカシには慰めに聞こえるかもしれない。
才能が違う。
経験が違う。
年齢が一つ上だから。
そんな言葉では、あの動きの理由を説明できない。サクモ自身、答えを持っていなかった。
「私にも、分からない」
カカシが顔を上げる。
「けれど、今日一つ分かったことがある」
「何」
「オビトくんは、誰も見ていないところでも同じように積み重ねている」
カカシの目が揺れた。
「火影様へ見せるためでも、先生に褒められるためでもない。一人で演習場へ行き、自分に必要なものを考え、試していた」
「だから強いってこと?」
「それだけではないだろうね」
サクモは穏やかに言った。
「あの子には、私たちの知らないものがある。それでも、見えない部分を全部、才能という一言で片づけてしまうのは違うと思う」
カカシは返事をしない。
「相手を追う時は、今いる場所だけを見るものではないよ」
「……どういう意味」
「どこまで進んでいるかだけを見れば、差ばかりが目に入る。けれど、その人が何を見て、何を考え、何を積み重ねているかを見れば、自分が次にすべきことも分かるかもしれない」
「オビトの真似をしろってこと?」
「真似をする必要はない」
サクモは首を振った。
「あの子のやり方が、そのままカカシに合うとは限らない。長所も身体も考え方も違う。ただ、強さの結果だけでなく、そこへ至る過程を見るんだ」
カカシは再び木刀へ目を落とした。
追いつく。
超える。
その意思は変わらない。
だが、ただ回数を増やせばいいわけではないのかもしれない。
オビトは何を想定していた。
なぜ足でクナイを扱った。
なぜ一人でも組手を続けられる。
なぜ、火影の前であれほど動けた。
疑問は増えた。
以前のように、ただ隠していることへ腹を立てるだけでは済まなくなっている。
知りたい。
見たい。
そして、自分の力で追いつきたい。
カカシは木刀を構え直した。
先ほどより、肩の力が少し抜ける。
「父さん」
「うん?」
「今の踏み込み、見て」
サクモは微笑んだ。
「もちろん」
翌日。
班編成を待つオビトの生活は、忍者学校へ通っていた頃より自由になった。
自由になったはずだった。
朝食の片づけを手伝い、家の前を掃き、祖母ちゃんに頼まれた買い物へ出る。
その途中で呪霊を見つける。
「解」
祓う。
少し先で、別の呪霊が人の背へ取りつこうとしている。
「解」
祓う。
その角を曲がると、腰の曲がった老人が大きな包みを抱えていた。
「持つよ」
運ぶ。
届けた先で、今度は戸棚の扉が外れかけている。
「直すよ」
直す。
家を出てから、まだ半刻も経っていなかった。
それなのに買い物籠へ品物は入っておらず、介護ヘルパーとしての仕事だけが順調に増えている。
忍者学校へ行かなくなれば、時間に余裕ができる。
そう思っていた。
実際には、登校という明確な目的地が消えたことで、老人たちに捕まった際の逃げ道まで失われていた。
「オビトくん、急いでるのかい?」
「……いや、別に」
「じゃあ、ちょっとだけ」
この流れである。
ちょっとだけ。
すぐそこ。
簡単なこと。
お年寄りが使う三大危険語だった。
ちょっとだけは半刻。
すぐそこは通り三つ分。
簡単なことは、戸棚修理から屋根掃除へ発展する。
今日も特級お年寄りキラーの能力は絶好調だった。
「下忍になったんだって?」
庭木の剪定を手伝っている最中、家主の老婆が嬉しそうに聞いた。
「うん」
「まあ、立派になって」
「学校入ったばっかりだったけどな」
「それだけ優秀だったんだろう?」
「どうだろ」
「火影様も認めたって聞いたよ」
情報が早い。
やはりお年寄りの情報網は侮れない。
根より先に何でも把握しているのではないか。
オビトは枝をまとめ、紐で括った。
「はい、これでいい?」
「助かったよ。お礼に煮物を持っていきな」
「祖母ちゃんが喜ぶ」
断らない。
もう学んだ。
断れば、食べていけ、茶を飲め、遠慮するな、と話が長くなる。素直に受け取った方が早い。
煮物の入った容器を買い物籠へ入れ、ようやく本来の買い物へ向かう。
道すがら、呪霊を二体祓った。
老人を一人送った。
迷子を母親のところへ戻した。
家へ帰る頃には、午前が半分以上終わっている。
祖母ちゃんは籠の中を見て、頼んだ品物より先に煮物の容器を見つけた。
「また何か手伝ったのかい」
「庭木」
「買い物へ行ったんじゃなかったのかい」
「途中にあった」
「庭木が?」
「困ってる祖母ちゃんが」
祖母ちゃんは息を吐いた。
呆れているようで、口元は少し緩んでいる。
「午後はどうするんだい」
「演習場に行く。今度こそ」
「影分身を置いていくんじゃないよ」
ばれている。
どこから。
影分身の一体が、茶飲み話の最中に余計なことを喋ったか。
「今日はちゃんと手伝ってから行く」
「それが当たり前だよ」
昼食を終え、洗い物を片づけ、家の修繕を一つ済ませる。
それから演習場へ向かい、体術とクナイ術を一通り確認した。前日の仮想組手で見つけた動きを、今の身体へ馴染ませていく。
もう五歳児に見える動きを考える必要はない。
見せてもよいものを使う。
伏せるべきものは伏せる。
それだけだ。
体術。
クナイ術。
チャクラによる身体強化。
火遁や基本的な忍術。
このあたりは、下忍として知られても困らない。
一方で、写輪眼はまだ見せない。
呪力も、外から見て分かる使い方は避ける。
切断も血の術も、説明できる形へ落とし込めるまでは不用意に出さない。
任務へ出れば、その場で選ぶ必要がある。
今は、その境目を確かめる時期だった。
夕方近くまで身体を動かし、帰宅する。
今度は老人に捕まらないよう、屋根を伝おうかと思った。
だが、籠を抱えた老婆が道端で困っているのが見えた。
結局、地上へ下りた。
夕食前。
祖母ちゃんは少し上等な着物へ袖を通していた。
「似合うな」
「そうかい?」
「うん。どこ行くの?」
「友達と食事だよ」
珍しい。
祖母ちゃんにも、昔から付き合いのある友人がいる。時折、家へ来て茶を飲んでいる姿は見たことがあるが、外へ食事に出るのは久しぶりだった。
「帰りは?」
「遅くならないよ。あんたも今夜は好きなものを食べてきな」
「外で?」
「お金はそこに置いてある。余らせたら戻すんだよ」
「分かってる」
「変なものばかり食べるんじゃないよ」
「分かってるって」
「知らない人についていかない」
「下忍になったんだけど」
「下忍でも五歳は五歳だよ」
それはそう。
祖母ちゃんは最後に戸締まりについて念を押し、友人との待ち合わせへ向かった。
一人になったオビトは、卓上の銭を見た。
外食。
何を食べるか。
考えるまでもなかった。
「一楽行くか」
前々世から馴染みのある店だ。
まだ店構えも新しく、今の店主も若い。それでも、暖簾の向こうから漂う香りには覚えがあった。
前世では、虎杖とラーメンを食べに行くことが多かった。
任務帰り。
休日。
用事のついで。
新しい店を見つければ入り、気に入れば別の日にまた行く。何軒か梯子し、同じ系統の味を比べたこともある。
二人とも、それだけラーメンが好きだった。
釘崎は、同じ麺でもパスタ専攻だった。
店選びにうるさく、盛りつけにも内装にも注文が多い。だが、連れていかれた店の料理は確かに美味かった。
伏黒は付き合いが悪かった。
騒がしい店を避け、こってりしたものより和食を選ぶ。
うどん巡りなら乗ったのだろうか。
いや、伏黒なら蕎麦かもしれない。
「うどんか……」
任務先で寄った香川の店々を思い出す。
朝からうどん。
昼もうどん。
移動の途中にまたうどん。
虎杖は最後まで喜んでいた。釘崎は途中から別のものを寄越せと騒ぎ、伏黒は呆れながらも全部食べていた。
あれは、なかなかよかった。
そんなことを考えているうちに、一楽へ着いた。
暖簾をくぐる。
「いらっしゃい!」
店主の明るい声が迎えた。
夕食時には少し早い。
それでも客は何人かいて、横並びの席はところどころ埋まっている。
オビトは空いている席へ座った。
端ではない。
左右に一席ずつ空きがあり、隣の客との距離もほどよい。
「何にする?」
「味噌ラーメン」
「はいよ!」
注文した瞬間だった。
後ろから暖簾の揺れる音がした。
「二人、空いてるってばね?」
明るく強い女の声。
オビトの肩が、わずかに止まる。
聞き覚えがある。
ありすぎる。
「並びでは空いてないみたいだね」
今度は、柔らかな男の声。
聞き間違えるはずがなかった。
振り返れない。
身体が固まる。
店主が店内を見回した。
「悪いね。今は一人分ずつしか空いてなくて」
「仕方ないってばね。すぐ空くでしょ」
右側の椅子が引かれた。
赤い髪が視界へ入る。
うずまきクシナ。
同時に、左側の椅子も引かれた。
明るい金髪。
波風ミナト。
右にクシナ。
左にミナト。
真ん中に、俺。
何故挟む。
確かに二人並べる席はなかった。
なかったけども。
よりによって、どうして自分の左右へ座る。
オビトは正面を見たまま、動けなかった。
心臓が嫌な音を立てている。
前々世の記憶が、一気に浮かび上がった。
ミナト先生。
クシナさん。
九尾の夜。
血。
鎖。
子どもを守るために前へ出た二人。
自分が壊した夜。
深く沈めていたものが、予告なく胸元へ突き上げてくる。
まだ会う準備などできていなかった。
遠くから見かける可能性は考えていた。
ミナトが自分の配属に関わるかもしれないとも思っていた。
だが。
一楽のカウンターで、突然左右から挟まれるとは思わない。
「本当に取材?」
右側で、クシナが言った。
「先生はそう言ってたけど」
左側からミナトが答える。
会話が、オビトの頭上を通る。
「絶対に覗きに行ったってばね」
「はは……否定はできない、かな」
「女湯じゃないでしょうね」
「そこは大丈夫だと思うよ」
「先生だから信用できないってばね」
「それも否定できないなあ」
恋人同士の会話が、自分を挟んで続いている。
非常に居たたまれない。
内容も内容だが、距離が近すぎる。
クシナはミナトへ話しかけるたび、オビトの前へ少し身を乗り出す。ミナトもそれに答えるため、こちら側へ顔を向ける。
間にいる自分だけが、何も聞こえていないふりをして正面を見ていた。
無理がある。
席を移ろう。
ちょうど少し離れた場所で、客が一人立ち上がった。
好機。
オビトは椅子から腰を浮かせた。
その時。
「君」
左側から声をかけられた。
身体が止まった。
「うちはオビトくん、だよね?」
心の準備ができてねぇんだけど!
内心では叫んだ。
だが、振り向かないわけにはいかない。
オビトはぎこちなく左を向いた。
青い瞳。
穏やかな笑み。
記憶の中より若い。
まだ火影ではない。
自分たちの先生にもなっていない。
それでも、間違いなく波風ミナトだった。
向こうにとっては初対面。
こちらにとっては、そうではない。
喉が詰まる。
言わなければ。
普通に挨拶を。
初めまして。
うちはオビトです。
それでいい。
それだけでいいのに。
「ごめんなさい」
第一声が、謝罪になった。
沈黙。
ミナトが目を瞬く。
クシナも会話を止め、オビトを見た。
店主まで、何となくこちらへ視線を向けている。
オビト自身が、一番驚いていた。
何で謝罪から入った。
違う。
今ではない。
何もされていない。
何も起きていない。
この二人は、自分を知らない。
謝られる理由など一つもない。
「……え?」
ミナトの声は柔らかいままだったが、明らかに困惑していた。
オビトの頭が高速で回る。
何か言え。
誤魔化せ。
理由を作れ。
足を踏んだ。
いや、踏んでいない。
席を取った。
先に座っていたのは自分だ。
会話を聞いた。
聞こえる位置で話していた。
何も使えない。
「いや、その」
目が泳ぐ。
「何ていうか」
落ち着け。
火影と戦った時は、もう少しまともだっただろう。
ダンゾウの監視にも気づいた。
うちはの実力者とも組手をした。
なのに、ミナトとクシナに挟まれた程度で、完全に挙動不審になっている。
「俺、別に」
何が別になのか。
自分でも分からない。
オビトは正面を向き、また左を見て、なぜか右のクシナまで確認した。
クシナの眉が上がる。
「この子、大丈夫?」
「うん……たぶん」
ミナトは少し困ったように笑った。
声をかけた相手が、いきなり謝罪し、その後明らかに動揺している。
自分の接し方が急すぎたのかもしれない。
そう考えたらしい。
「ごめんね。急に名前を呼んで驚かせたかな」
謝らせた。
違う。
完全に違う。
「いや、ミナトさんは悪くないです」
今度は名前が出た。
ミナトが再び目を瞬く。
名乗っていない。
オビトは口を閉じた。
もう遅い。
左右から、黄色と赤の視線が集まる。
注文した味噌ラーメンは、まだ来ない。
逃げ場もない。
オビトはカウンターの木目を見つめながら、心の中で頭を抱えた。
初対面。
開始から数秒。
すでに事故である。
【〆栞】