特級呪霊

木ノ葉の里から少し離れた山間部に、小さな村落があった。

深い山々に囲まれ、細い道を辿らなければ外へ出ることも難しい。段々畑とわずかな水田を耕し、山菜を採り、獣を狩り、季節ごとの恵みを分け合って暮らす。村人の数は多くない。ほとんどが互いの顔と家族構成を知り、誰かが病めば隣家が食事を運び、子どもが生まれれば村中で祝った。

村人たちは、周囲の山々を神の住まう場所として崇めていた。

同時に、恐れてもいた。

山は恵みを与える。

水を流し、木の実を育て、獣を棲まわせる。

けれど一度荒れれば、人の命など容易く奪う。

豪雨。

崖崩れ。

雪崩。

飢えた獣。

山へ入り、帰らなかった者も過去にはいた。

だから村のさらに奥、獣道を登った先にある古い祠へ、供え物を欠かしたことはない。

米。

塩。

酒。

季節の果物。

山で得たものを少しずつ返し、平穏を願う。

それが村に古くから伝わる習わしだった。

祠がいつ建てられたものなのか、正確に知る者はいない。最も年長の老人でさえ、子どもの頃にはすでに苔むし、木の柱は黒ずんでいたという。

そこへ供え物をすれば、山は静まる。

供えを怠れば、よくないことが起こる。

迷信だと笑う若者もいた。

それでも、誰も本当にやめようとはしなかった。

恐れは、信仰よりも長く残る。

第三次忍界大戦が始まるまでは、その恐れも慎ましいものだった。

山へ感謝し。

山を畏れ。

山と共に生きる。

小さな村の中で完結する、古い習わしにすぎなかった。

だが、戦争はその均衡を壊した。

忍同士の戦いが、村の近くまで迫った。

どこの里の忍だったのか、村人には分からなかった。額当てを見る余裕もなく、術の名を聞き取る知識もない。ただ、山の中で轟音が続き、火が上がり、木々が倒れた。

朝になって恐る恐る外へ出ると、道には血が飛び散っていた。

畑には、誰かの腕が落ちていた。

祠へ続く山道では、忍の死体が二つ、折り重なるように転がっていた。

一人は腹を裂かれ。

一人は首を失っていた。

村人たちは震えながら死体を運び、山の端へ埋めた。

その後も、戦いは何度か起きた。

血は土へ染みた。

死体は転がった。

怨嗟。

恐怖。

痛み。

死にきれない思い。

誰にも見えないものが、少しずつ山へ溜まっていった。

村人たちは、それを穢れと呼んだ。

祠へ供え物を増やした。

酒を二本にした。

米を山盛りにした。

塩を新しくした。

それでも、山の空気は以前のようには戻らなかった。

鳥の鳴き声が減った。

獣が村へ近づかなくなった。

夜になると、祠の方角から何かを引きずるような音が聞こえた。

それでも人は暮らさなければならない。

戦争が終わったわけではない。

忍の里へ訴え出るにも、明確な敵がいるわけではなかった。

誰かが襲ってくるわけでもない。

ただ、山が変わった。

それだけだった。

村人たちは以前と同じように供え物を続けた。

そうしていれば、いつか元へ戻ると信じた。

ある朝。

祠へ供え物をしに行った老夫婦が、昼を過ぎても帰ってこなかった。

夫婦は長年、その役目を担っていた。

足腰は弱っていたが、道には慣れている。途中で休みながらでも、午前のうちには戻るはずだった。

最初は、時間がかかっているだけだと思われた。

妻の膝が悪くなったと聞いていた。

どこかで休んでいるのかもしれない。

だが、日が傾き始めても姿が見えない。

隣家に住む若い男が、二人を探しに山へ入った。

「俺が見てくる」

鍬を置き、上着を羽織る。

妻は心配そうに彼の腕を掴んだ。

「暗くなる前に戻ってきて」

「ああ。道は分かってる」

男はそう言い残し、祠への道を登っていった。

彼もまた、帰ってこなかった。

辺りが赤く染まり、やがて山の向こうへ日が沈む。

村人たちは広場へ集まった。

老夫婦だけなら事故かもしれない。

道を踏み外した。

獣に襲われた。

急に具合が悪くなった。

だが、探しに行った若者まで戻らない。

偶然では済まされなかった。

「山へ入るべきじゃない」

誰かが言った。

「でも、あのままにはできん」

「夜の山だぞ」

「明るくなるまで待つのか?」

「その間に生きていたらどうする」

声が重なる。

誰も決められない。

誰も行きたいとは言わない。

それでも、行かなければならないと思っている。

老人が震える声で口を開いた。

「祠じゃ」

皆の視線が向く。

「祠に、何か起きたんじゃないか」

否定する声は上がらなかった。

戦争のあとから続く異変。

減った獣。

夜の音。

戻らない三人。

村人たちが心の奥で避けていた恐れが、形を持ち始める。

神が怒った。

山が穢れた。

供え物では足りなかった。

広場を囲む家々の間を、冷たい風が抜けた。

誰かの手から提灯が落ちた。

灯りが地面で揺れる。

その時だった。

村の端から、悲鳴が上がった。

短い。

喉を絞られたような声。

集まっていた者たちが一斉に振り返る。

「何だ?」

「誰かいるのか!」

男たちが道具を手に取る。

鍬。

鎌。

鉈。

武器と呼ぶには頼りない。それでも素手よりはましだった。

再び悲鳴。

今度は別の場所。

女の声。

続いて子どもの泣き声。

「家へ入れ!」

誰かが叫んだ。

村人たちが散る。

親は子どもの手を引き、老人は互いに支え合う。男たちは周囲を見回しながら、家族を庇うように前へ出た。

何が起きているのか分からない。

敵の姿はない。

忍の襲撃なら、術の音や武器の気配がある。

獣なら唸り声が聞こえる。

何もない。

ただ、影が落ちた。

月を隠す雲でもない。

家の灯りを遮る何かが、村の上を這うように広がった。

空気が重くなる。

息を吸うだけで、喉へ冷たい泥を流し込まれるようだった。

村人の一人が、頭上を見上げた。

何も見えない。

だが、いる。

何かが。

村の中に。

「ひっ」

小さな声が漏れる。

その直後、目の前にいた男の上半身が消えた。

何の前触れもなかった。

叫ぶ間もない。

腰から上だけが、何かに食いちぎられたように引き裂かれた。

下半身だけが、その場へ残る。

一拍遅れて血が噴き上がった。

真横にいた男が、頭から血飛沫を浴びる。

温かい。

鉄臭い。

何が起きたのか理解できないまま、男は尻餅をついた。

「な……」

声が出ない。

残された下半身が、膝から崩れる。

血が地面へ広がる。

「いやあああああっ!」

女の悲鳴が村中へ響いた。

人々が逃げる。

家へ駆け込もうとする。

子どもを抱える。

誰かが転ぶ。

誰かが踏み越える。

混乱の中で、また一人消えた。

今度は肩から先。

何かに引きずられるように身体が傾き、そのまま腕ごと噛み千切られる。

男が絶叫した。

見えない何かへ向けて鎌を振るう。

刃は空を切る。

次の瞬間、顔面が潰れた。

骨の砕ける音。

男の身体が地面へ叩きつけられる。

悲鳴。

泣き声。

助けを求める声。

村の中へ、恐怖が一気に満ちていく。

その恐怖を吸い上げるように、黒い影が濃くなった。

尻餅をついた男は動けなかった。

血を浴びたまま、目の前の空間を見つめている。

何もいなかった場所。

そこへ、輪郭が浮かび始める。

最初は影だった。

人より大きく、形の定まらない黒。

煙のように揺れながら、地面へ何本もの腕を這わせている。

その中心に、白いものがあった。

能面に似た顔。

だが、目の穴は深く黒い。

鼻は小さく潰れ。

口だけが異様に大きい。

頬の端まで裂けた口から、赤黒い歯が並んでいる。

口元は血に濡れていた。

つい先ほど食いちぎった人間のものだ。

長い舌がぬるりと伸び、唇の周りについた血を舐め取る。

人ではない。

獣でもない。

神でもない。

男が生まれて初めて見る、明確な化け物だった。

「な、んだ……」

声が震える。

なぜ見える。

それまで、影しかなかった。

確かに何かはいた。

けれど姿は見えなかった。

今は見える。

白い顔。

裂けた口。

血に濡れた舌。

黒い身体。

そのすべてが、はっきりと。

理由を考える余裕などなかった。

ただ、魂のどこかが理解していた。

今際の際に立たされたからだ。

死が目前まで迫り、人の感覚が境界を越えた。

見えてはいけないものが、見えるようになった。

化け物の顔が、ゆっくりと傾く。

黒い穴のような目が、男を捉える。

裂けた口が笑った。

男の喉から、息だけが漏れた。

逃げろ。

身体へ命じる。

脚は動かない。

腕も上がらない。

腰が抜けたまま、地面を掻く。

後ろへ下がろうとしても、指が血で滑る。

化け物が近づく。

音はない。

それでも距離が縮まる。

長い舌が伸びる。

男の頬へ触れた。

ぬるい。

血と唾液に濡れている。

「や……」

声にならない。

白い顔が、目の前まで迫った。

口が開く。

人間の頭など、簡単に収まるほど大きく。

暗い喉の奥が見えた。

そこには、噛み砕かれた肉と髪が残っている。

今、死ぬ。

男はそう理解した。

バクン、と。

湿った音がした。

頭を食いちぎられた身体が、ゆっくりと横へ倒れる。

黒い影は咀嚼する。

白い顔に血が流れ。

裂けた口の奥で、骨が砕けた。

村人たちの悲鳴を浴びながら、それは満足そうに舌を這わせる。

山へ積もった恐れ。

戦争で撒かれた死。

祠へ向けられた長年の畏怖。

逃げられぬ村人たちの絶望。

それらを呑み込み、形を得たもの。

特級呪霊。

名を、無堕。

領域を持たぬ、特級下層。

それでも、小さな村一つを喰らい尽くすには、充分すぎる怪物だった。


〆栞
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