消えた村

うずまきクシナは、その夜、胸の奥で何かが強く蠢くのを感じた。

痛みではない。

吐き気でもない。

もっと深い場所、腹の底に封じられた巨大な獣が、鎖の奥で身じろぎしたような感覚だった。

九尾。

普段から、そこにいることは分かっている。

眠っているわけではない。黙っているだけだ。怒り、憎み、時折、こちらを試すように気配を揺らす。そのたびにクシナは封印を確かめ、内側の檻を意識し、深く息を吸う。

だが、今の動きは違った。

何の前触れもない。

誰かに襲われたわけでもない。

封印が緩んだ感触もない。

それなのに、九尾が強く反応した。

「……っ」

クシナは思わず胸元を押さえた。

隣にいたミナトが、すぐに気づいた。

「クシナ?」

やわらかい声だったが、目は真剣だった。

クシナは顔を上げる。室内の灯りが揺れている。外からは夜風の音が聞こえるだけで、里の中に異常があるようには思えない。

それでも、腹の底がざわつく。

「九尾が……動いたってばね」

ミナトの表情が変わった。

「封印は?」

「大丈夫。破られた感じじゃない」

「なら、何かを感じた?」

「分からない」

クシナは眉を寄せた。

分からない。

けれど、九尾は反応した。

何かへ。

里の中ではない。もっと遠く。山の向こうのような、闇の奥のような場所。

クシナ自身には、そこに何があるのか分からない。ただ、封印の奥で巨大な獣が、ほんの一瞬だけ目を開いた気がした。

檻の内側。

暗く、赤い場所で、九尾は尾を揺らしていた。

人間には届かないものを、獣は捉えていた。

木ノ葉の里から離れた小さな村落で、命が刈り取られている。

一つ。

また一つ。

恐怖が膨らむ。

絶望が濃くなる。

飛び散った血肉を啜り、人の悲鳴を喰らい、穢れた存在が肥えていく。

九尾はそれを感知していた。

人間の目には見えない。

忍の感知にも引っかからない。

ただ、あまりに濃い負の気配が、夜の山へ染み出している。獣の本能に触れるほどに。

だが、それだけだった。

人間が死のうが、九尾には関係がない。

山の小さな村が一つ消えようと、興味はなかった。泣き叫ぶ声も、命が潰れる音も、九尾にとっては遠い雑音にすぎない。

あれをどうにかできる人間などいない。

そもそも認識すらできないのだ。

見えぬものを恐れ、見えぬものに喰われ、何も分からぬまま死ぬ。

人間らしい末路だ。

このまま放置すれば、いずれそれは木ノ葉の里へ来るだろう。

その頃には、より強く、より凶暴になっている。

血を喰い。

恐怖を喰い。

人間の絶望を腹いっぱいに詰め込んで、さらに大きな影となって。

まあ、どうでもいい。

誰が死のうが。

どれだけ喰われようが。

九尾にとっては、知ったことではなかった。

ミナトはクシナの肩へ手を添えた。

「今も動いてる?」

「……ううん。さっきよりは静か」

「場所は分かる?」

「はっきりはしない。でも、里の中じゃないと思う」

クシナは自分の腹へ触れる。

封印は安定している。

九尾は檻を破ろうとしているのではない。

ただ、何かに反応した。

それがかえって不気味だった。

「火影様に報告しよう」

ミナトが言った。

「うん」

クシナは頷く。

胸騒ぎは消えない。

九尾が何に反応したのか、彼女には分からない。

けれど、何もないはずがなかった。

一方、その頃。

うちは集落の一角で、オビトは玄関口に立っていた。

ひどく疲れた顔をしている。

任務ではない。

戦闘でもない。

怪我もない。

それでも、精神的な疲労が肩へ重く乗っていた。

今日はあまりにも濃い一日だった。

休暇のはずだった。

火影が予定表に差し込んだ、貴重な休暇。

任務もなく、集合もなく、報告書もない。のんびり里内を散歩しつつ、見つけた呪霊を軽く祓う。そんな穏やかな一日を想定していた。

実際には、朝から老人たちに捕まり、影分身介護ヘルパー集団を投入することになった。

お年寄りの愛情は無碍にできない。

できないが、量が多い。

木箱を運び、戸を直し、屋根から布を取り、薬屋へ走り、茶飲み話を聞き、囲碁を打ち、ついでに低級呪霊を祓った。

影分身を解除した時点で、六人分の老人対応の記憶が流れ込んできた。

そこまでは、まだよかった。

いや、よくはない。

よくはないが、慣れている。

問題は、そのあとだった。

本体一人になった途端、顔馴染みの婆さんとばったり会った。

「日頃のお礼に」と言われ、お年寄りたちの三時の茶会へ呼ばれた。

断れなかった。

断れるはずがない。

茶会には、いつもの老人たちが集まっていた。

そこに、うずまきクシナがいた。

何故いる。

心の底からそう思った。

一楽で会った一度きりだ。

なのに、クシナはまるで以前から知っている相手のように手を振り、「オビトじゃない!」と明るく呼んだ。

老人たちは、まあまあ知り合いかい、と笑った。

オビトが返事に詰まる前に、クシナが「この子、放っておけないってばね」と言った。

そこから流れは早かった。

茶が注がれる。

菓子が出る。

隣へ座らされる。

クシナは当然のように、オビトの皿へ菓子を一つ足す。

食べすぎるなと言いながら、もう一つ置く。

どっちなんだ。

老人たちは目を細めた。

「姉弟みたいだねえ」

誰かが言った。

クシナは一瞬きょとんとして、それから満更でもなさそうに笑った。

「弟かあ。悪くないってばね」

悪くないのか。

オビトは茶を飲みながら、遠い目をした。

前々世でも、似たような関係だった気がする。

クシナは明るく、強く、世話焼きで、遠慮なく踏み込んでくる。オビトは怒られ、押され、結局逆らいきれない。

悪くはなかった。

むしろ、胸の奥が少し温かくなった。

問題は、波風ミナトが現れた時である。

茶会の終盤、クシナを迎えに来たらしいミナトが姿を見せた。

老人たちは歓迎した。

クシナは嬉しそうに手を振った。

オビトは、茶菓子を持ったまま固まった。

ミナトは穏やかに笑ったが、こちらを見る目に少しだけ驚きがあった。

そしてクシナが、当たり前のように言った。

「オビト、今日から弟みたいなものになったってばね」

何を言っているんだ。

本当に何を言っているんだ。

ミナトは笑顔のまま、ほんのわずかに固まった。

その反応が若干怖かった。

いや、怒っているわけではない。

嫉妬というほど露骨でもない。

ただ、何とも言えない微妙な間があった。

クシナがオビトの頭を撫で、老人たちが笑い、ミナトが「そうなんだ」と柔らかく返す。

その空気の中で、オビトは一人だけ精神を削られていた。

今日の疲労の半分以上は、あのカップルに違いない。

老人介護より強い。

黄色と赤、恐るべし。

ようやく家へ帰り着き、玄関で息を吐いた。

祖母ちゃんは奥にいる。

夕食の匂いがする。

今日こそ早めに風呂へ入り、飯を食べ、何も考えずに寝よう。

そう思いながら、オビトは忍靴へ手をかけた。

その時だった。

ざわり、と。

嫌な風が背中を撫でた。

冷たい。

ただの夜風ではない。

皮膚の上を通り過ぎたのではなく、魂の裏側を掻くような感覚だった。

オビトの手が止まる。

玄関の薄暗がりで、目が鋭くなる。

どこか。

里から離れた場所で。

命が消えていく。

一つではない。

二つでもない。

刈り取られるように、次々と。

恐怖が爆ぜる。

絶望が濃くなる。

血の匂いは届かないはずなのに、鼻の奥へ鉄の気配が満ちた気がした。

見えているわけではない。

聞こえているわけでもない。

それでも分かる。

濃い。

あまりにも濃い呪いが、夜の山から膨れ上がっている。

低級ではない。

三級でも、二級でもない。

一級に届きかけたものでも足りない。

その重さを、オビトは知っている。

「……特級」

呟いた瞬間、身体はもう動いていた。

忍靴を脱ぎかけていた足を戻す。

扉を開ける。

「オビト?」

奥から祖母ちゃんの声がした。

オビトは振り返らなかった。

「ごめん、すぐ戻る!」

戻れる保証はない。

それでも、そう言うしかなかった。

玄関を飛び出す。

門を越える。

屋根へ上がる。

夜の里を走る。

月は雲に隠れていた。

光の少ない闇夜だった。

家々の屋根を蹴り、電光のように、ではなく、影のように低く速く駆け抜ける。足裏のチャクラで瓦を捉え、塀を越え、路地を抜ける。

里の外だ。

方角は分かる。

濃い呪いの気配が、山の方から押し寄せている。

距離がある。

それでも迷わない。

行かなければならない。

今、誰かが死んでいる。

今、何かが喰っている。

放置すれば、さらに強くなる。

木ノ葉へ来るかもしれない。

いや、そんな理屈より先に。

見えたのだ。

手の届くかもしれない場所で、命が消えていくのを。

オビトは歯を食いしばった。

「くそっ」

今日は休暇だった。

関係ない。

疲れている。

関係ない。

祖母ちゃんに叱られる。

関係ない。

特級だ。

見えない怪物だ。

普通の忍では認識できない。

なら、自分が行くしかない。

その小さな影を、木ノ葉の外れで見かけた者がいた。

自来也だった。

片頬には、まだ赤い手形の跡が残っている。

締まりのない顔で歩いていた理由は、まあ、語るまでもない。取材と言い張った行動がどう受け止められたか、その頬が雄弁に物語っていた。

だが、そんな緩んだ空気は、一瞬で消えた。

屋根から屋根へ跳ぶ小さな影。

黒髪。

小柄な体。

見覚えがある。

「……オビト?」

こんな夜に。

子どもが。

いや、あの少年をただの子どもと呼ぶには、すでに見たものが多すぎる。第三演習場で、一人で見えない相手と戦っていた動き。ミナトから聞いた一楽での様子。火影が気にかけている、うちはの異例の中忍。

それでも、夜中に里を抜け出す理由にはならない。

自来也の目が細くなる。

オビトは明らかに急いでいた。

散歩ではない。

訓練でもない。

誰かに呼ばれたような、何かへ向かって一直線に走る動きだ。

しかも、向かう先は里の外。

「おいおい、どこ行く気だよ」

自来也は足を止めることなく、すぐに後を追った。

気配は殺す。

だが、見失わない。

小さな背中は速かった。

年齢に対してではない。

忍として見ても、十分に速い。

低い姿勢で屋根を渡り、門へ近づく。見張りの目を避けるでもなく、正規の出入り口から出るでもなく、わずかな隙間を縫うように外へ抜けていく。

慣れている。

その事実に、自来也の表情が険しくなった。

「こりゃ、ただの夜歩きじゃねぇな」

頬の手形がまだ熱を持っている。

だが今は、それどころではない。

自来也は山の闇へ視線を向けた。

何も見えない。

異常な気配も、はっきりとは掴めない。

それでも、長年の勘が告げていた。

この先に何かある。

そして、うちはオビトはそれを知っている。

小さな影が、月のない夜へ消えていく。

自来也は距離を保ったまま、その後を追った。


〆栞
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