少年vs無堕

山へ近づくにつれて、血の臭いが濃くなった。

最初は、夜気に混じる違和感だった。湿った土と枯れ葉の匂いの奥に、わずかに鉄が混じっている。山道を駆ける足がさらに速くなる。枝が頬を掠め、足元の石が崩れ、闇の中で獣が逃げる気配がした。

それでも、オビトは止まらなかった。

里から離れるほど、呪いの気配は重くなる。

ひとつの場所に、濃い恐怖が凝っている。

人の死に際の叫び。

助けを求める思い。

何が起きているのか分からないまま奪われる命。

それらが夜の山から流れ出し、肌へまとわりついてくる。

まだ消えている。

今も消えている。

命が、ひとつ、またひとつ。

刈り取られるように。

「間に合え……」

小さく吐き捨てる。

背後を追う気配には気づかなかった。

普段なら拾えたはずだ。自来也ほどの忍が気配を殺していても、どこかで違和感を覚えたかもしれない。だが今のオビトは、前方から押し寄せる死と呪いに意識を奪われていた。

見えない怪物がいる。

特級。

その事実だけで、他のものが遠ざかる。

山道を抜け、木々の間に村の灯りが見えた。

いや。

灯りだったものが見えた。

火の消えかけた提灯が地面に転がり、家の戸が開け放たれ、倒れた灯籠の中で残り火が赤く揺れている。村全体が、何かに食い荒らされた後のように静まり返っていた。

オビトは屋根へ上がらず、正面から村へ入った。

足が血を踏んだ。

ぬるりと、忍靴の裏が滑る。

村の中心に、血溜まりが広がっていた。

月は雲に隠れ、光はほとんどない。だが、オビトには充分だった。

血。

肉片。

肉塊。

腕。

脚。

裂けた腹。

人の形を保っていても、頭部がない。

背中だけ残り、胸から上が失われた身体。

子どもを庇うように折り重なったまま、二人とも胴を食い破られている親子。

逃げようとしたのだろう。戸口に爪痕を残し、下半身だけになった老人が倒れていた。

人間が死んだ場所の臭いは、前々世でも前世でも知っている。

戦場も見た。

呪霊に喰われた現場も見た。

それでも、目の前の光景は酷かった。

あまりにも一方的だった。

抵抗の跡がほとんどない。

村人たちは、何に襲われたのかも分からないまま死んでいる。

見えないものに噛み砕かれ、引き裂かれ、喰われた。

オビトは血溜まりの中で立ち尽くした。

息を吸う。

鉄臭い空気が肺へ入る。

怒りが、ゆっくりと身体の底へ沈んだ。

熱く燃える怒りではない。

叫び出したくなるような激情でもない。

もっと冷たい。

もっと深い。

無駄に震えず、無駄に暴れず、ただ確実に殺すための怒りだった。

影はいない。

普通の人間には見えない。

だが、オビトには見えていた。

村の中心、血溜まりの向こう。

黒い影が、家屋の屋根よりも高く膨らんでいる。

能面じみた白い顔。

裂けた口。

血に濡れた長い舌。

腹の中でまだ咀嚼しているように、黒い身体の奥が蠢いていた。

無堕は、ニタリと笑った。

子供がまだいたか。

人の声ではない。

声帯を持たない呪いが、怨嗟と欲望を擦り合わせたような響きだった。

だが、オビトには意味が届く。

無堕は白い顔を傾けた。

目の前の小さな子どもから、他の村人たちとは違う香りがした。

肉の香りではない。

血の香りだけでもない。

もっと濃い。

もっと深い。

呪いにとって甘く、強く、底知れないもの。

極上の香り。

無堕の裂けた口が、さらに広がる。

これは我の糧だ。

より強く。

より高く。

上り詰めるための。

まさにご馳走だ。

黒い影が伸びた。

血溜まりを這うように腕が広がる。

一息で喰らう。

頭から砕き、腹へ落とし、血も骨も魂の端まで呑み込む。

そうして力に変える。

無堕が小さな子どもへ襲いかかろうとした、その瞬間。

「赤血操術」

子どもの声が、静かに落ちた。

低く。

冷えていた。

血溜まりに沈んだ赤が、ぴくりと震える。

村人たちの血ではない。

オビトの指先に、細い傷が開いていた。

そこから滲んだ血が、夜気へ浮かび上がる。

鮮烈な赤。

闇の中で、まるで火のように濃い赤が、細く、鋭く、幾筋にも分かれて伸びる。

無堕の動きが一瞬止まった。

何だ。

何が起きた。

問いが形になるより早く、オビトの声が続く。

「苅祓」

赤い血が舞った。

刃となり、鎌となり、細い糸となって、無堕の黒い身体へ襲いかかる。

血溜まりの上を走り、空を裂き、白い顔の下を掠め、伸びかけた腕をまとめて刈り取る。

無堕の身体が裂けた。

黒い影が飛び散る。

初めて、化け物の口から音が漏れた。

悲鳴ではない。

驚愕だった。

何が起きたのか、分からなかった。

人間には見えないはずだ。

この村の者たちは、死の間際にようやく無堕の姿を見た。見えた時には、もう逃げられなかった。だから喰った。だから肥えた。

なのに。

目の前の子どもは、最初からこちらを見ている。

攻撃してきた。

確かに、無堕へ向けて。

無堕は、子どもの顔を見た。

黒髪。

小さな身体。

額にゴーグル。

血飛沫と闇の中に立つ顔は、無表情だった。

だが、その奥は怒りで満ちている。

子どもの目が、鋭く無堕を射抜いていた。

見えている?

無堕は疑念を抱いた。

すぐに、その疑念は悦びへ変わった。

ああ。

だから極上の香りがするのか。

見える。

触れられる。

こちらを殺そうとしている。

ならば、なおさら喰う価値がある。

無堕は口を裂ける限りに広げた。

喰らう。

この子どもを喰らう。

そうすれば、もっと強くなれる。

もっと高く、格を上げられる。

黒い影が地面を叩いた。

血溜まりが跳ねる。

その水面に、白い能面が歪んで映った。

少し離れた木々の上で、自来也は枝に足をかけたまま踏み止まった。

追ってきた少年の背中を見失わないよう、距離を保っていた。だが、村へ近づくにつれ、鼻を突く血の臭いが強くなり、ただ事ではないと悟った。

それでも、実際に目にした光景は想像を超えていた。

村が、死んでいる。

家々の戸は開け放たれ、地面は血で濡れ、広場には人だったものが散らばっていた。

戦場なら見たことがある。

忍同士の殺し合いも知っている。

敵を壊すための術も、残酷な拷問の跡も、任務で何度も目にしてきた。

だが、これは違う。

人間が成すにしても、ここまで酷い有様はそうない。

殺すだけではない。

喰っている。

そう思わせる欠損だった。

身体の一部が、武器で断たれたのではなく、歯で奪われたように消えている。頭のない死体。胴を失った脚。噛み潰された骨。そこら中に飛び散った肉片。

自来也の喉が、わずかに詰まった。

そして、その血の海の中心に、少年が立っていた。

うちはオビト。

七歳の中忍。

火影が気にかける、異例の子ども。

なぜここに来たのか。

いや、それよりも。

あの少年の精神は大丈夫なのか。

こんな惨状、忍であろうと、大人であろうと、目にしたいものではない。

まして子どもだ。

どれほど戦えるとしても、どれほど異質な才能を持つとしても、目の前に広がる死は軽くない。

飛び出すべきか。

声をかけるべきか。

そう思った瞬間、自来也の耳に、子どもの声が届いた。

「赤血操術」

聞いたことのない言葉だった。

忍術の名ではない。

少なくとも、自来也の知るどの系統にもない響きだった。

血溜まりの中で、赤が浮いた。

自来也は目を見開いた。

血だ。

少年の指先から滲んだ血が、空中に浮いている。

それが細く伸び、形を変え、刃のように鋭くなる。

何だ。

何をしている。

自来也が理解するより早く、オビトの声がさらに落ちた。

「苅祓」

赤が舞い上がった。

敵意を剥き出しにして。

だが、自来也には標的が見えない。

血の刃は、何もない空間へ向かって走った。

何もいないはずの場所で、弾けるように軌道を変える。

見えない壁に当たったように赤が跳ね、何かを切り裂くように空を走る。黒い影のようなものが、一瞬だけ歪んだ気がした。

本当に見えたのか。

それとも、血の動きがそう思わせただけなのか。

自来也は枝の上で動けなかった。

声も出なかった。

ただ目の前で起きていることを、必死に飲み込もうとしていた。

この世界には、見えない何かが存在する。

少なくとも、あの少年はそれを視認している。

そして、戦っている。

血に塗れた村で、血が舞い上がる。

忍の術とも、体術とも違う。

印はない。

口にした名も、術名としてはあまりに異質だ。

だが、確かに攻撃だった。

確かに、何かを刈り取った。

「……何なんだよ、ありゃ」

自来也の呟きは、夜の空気に消えた。

村の中心で、無堕が笑う。

見えない怪物の笑いは、自来也には届かない。

けれど、オビトには届いている。

少年は血の刃を周囲へ浮かべたまま、一歩踏み出した。

足元の血溜まりが波紋を作る。

無堕の黒い影が広がる。

喰らうために。

格を上げるために。

その特級呪霊は、初めて自分を見る人間へ、裂けた口を開いた。

オビトの瞳は、冷えた怒りを宿したまま微動だにしない。

村は死にかけている。

あるいは、もうほとんど死んでいる。

それでも、まだ終わっていない。

見えない怪物と、それを見る少年。

血の夜の中で、戦いが始まろうとしていた。


〆栞
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