狂気

自来也は、枝の上で息を殺していた。

何と戦っているのかは分からない。

血に塗れた村の中心で、うちはオビトは確かに何かを見ている。視線は定まり、足運びには迷いがなく、浮遊する血は敵意を持った生き物のように空間を裂いていた。

だが、自来也には見えない。

見えないからこそ、異様だった。

少年の身体が跳ぶ。

何もないはずの場所を避ける。

赤い弾丸が宙を走る。

空間の途中で弾かれる。

見えない何かに阻まれ、見えない何かを削り、見えない何かの動きに合わせて少年が血溜まりの上を滑る。

忍の戦いではない。

少なくとも、自来也が知るどの戦場とも違っていた。

だが、立ち止まっているわけにはいかない。

目の前には死体の山がある。村はすでに壊滅しているかもしれない。けれど、生存者がいる可能性はある。何より、あの少年は一人で戦っている。

敵が見えないから動けない。

理解できないから見ているだけ。

そんな言い訳を、自来也は自分へ許せなかった。

見えぬ敵でも、少年の位置は分かる。

血の軌道も見える。

ならば、せめてオビトを引き離すか、退路を作るか、何かしらできるはずだ。

オビトの元へ。

そう意識し、枝を蹴ろうとした瞬間だった。

自来也の視界が、ぐらりと歪んだ。

鼻を突く血臭。

皮膚を撫でる冷たい気配。

死が、あまりに近い場所で口を開けている感覚。

それまで何もなかった空間に、黒い影が浮かび上がった。

自来也は瞠目した。

死を間近にして初めて視認する。

そうとしか思えない唐突さだった。

それを見た。

化物。

人より大きい。

獣ではない。

影が固まったような身体に、能面じみた白い顔が張りついている。頬の端まで裂けた口。血に濡れた長い舌。地面を這い、空中を泳ぎ、刃のように形を変える無数の触手。

到底、人が相手にするものではない。

忍術で作られた傀儡でも、口寄せ獣でもない。

生き物の理屈から外れている。

それが、オビトへ向かって口を開けていた。

自来也は息を呑んだ。

少年は逃げない。

むしろ、向かっている。

小さな身体で、血に濡れた地面を蹴り、黒い化物の真正面へ踏み込んでいく。

狂っている。

そう思うより先に、音がした。

鈍く、湿った、肉を噛み千切る音。

オビトの身体に、衝撃が襲った。

黒い影が少年を呑み込むように広がり、裂けた口が左側へ食らいついた。骨が砕ける音が夜の村へ響く。

次の瞬間、オビトの左肩から先が消えた。

腕ごと。

肩口から。

噛みちぎられるようにして奪われた。

血が噴き上がった。

赤が闇へ散る。

小さな身体が大きく傾く。

さらに、腹部へ黒い槍のようなものが突き刺さった。触手か、舌か、自来也には一瞬分からなかった。ただ、少年の背中側へ何かが抜け、血がぼたぼたと地面へ落ちるのだけが見えた。

「オビト!」

自来也は叫びかけた。

声になりきらない。

焦りが胸を灼く。

助けねば。

今すぐ飛び込んで、あの子どもを引き離さなければならない。

そう理解している。

忍としても、大人としても、それ以外の選択肢はない。

なのに。

身体が、一歩を拒んだ。

本能が叫んでいた。

近づくな。

あれに触れるな。

見えてしまった瞬間、死が形を持った。

目の前の化物は、ただ強い敵ではない。人間の命を食い物にする、理屈の外側にいるものだ。踏み込めば、自分も同じように噛み砕かれる。術が届くのかも分からない。どう攻撃すればいいのかも分からない。

その一瞬の硬直を、自来也は自分で理解した。

理解したからこそ、背筋が凍った。

動け。

動けよ。

子どもが喰われているんだぞ。

自来也が歯を食いしばった、その時だった。

半身を奪われた少年が、倒れなかった。

左肩から先を失い、腹部を貫かれ、血が足元へ流れている。

普通なら絶叫して崩れ落ちる。

意識を保つことすらできない。

まして攻撃など。

あり得ない。

だが、オビトは地面を踏み締めていた。

残った右腕が、血に濡れた拳を握る。

噴き出した自分の血すら、周囲へ赤い軌跡を描いて絡みついている。痛みに歪むはずの顔は、無表情のままだった。唇だけが少し開き、息を吐く。

その目の奥には、冷えきった怒りがあった。

怯えではない。

絶望でもない。

喰われかけた獲物の目ではない。

狩る側の目だった。

無堕も、それに気づいたのだろう。

白い顔が近くで歪む。

裂けた口が、さらに笑う。

喰ったはずなのに。

砕いたはずなのに。

その子どもは、まだこちらを見ている。

オビトの右拳が、無堕の内側へ向いた。

距離はない。

逃げ場もない。

無堕が口を閉じきるより早く。

呪力が、拳へ収束した。

空間が、歪んだ。

ほんの一瞬。

世界そのものが呼吸を止めたように。

打撃と呪力が、寸分の狂いなく重なる。

黒い閃光が迸った。

「黒閃!」

音が爆ぜた。

ただの打撃ではなかった。

ただの術でもなかった。

黒く歪んだ閃光が、無堕の口腔から身体の奥へ突き抜ける。影の肉が抉れ、白い顔の下から黒い体液のようなものが弾け飛んだ。

無堕の巨体が吹き飛ぶ。

家屋の残骸を巻き込み、血溜まりを裂き、地面を削りながら後方へ叩きつけられた。

村全体が揺れた。

自来也は、枝の上で声を失っていた。

今、何が起きた。

少年の左肩から腕はない。

腹からは血が流れている。

立っているだけで異常だ。

それなのに、怯むどころか攻撃に転じた。

しかも、その一撃で化物の身体を抉り、吹き飛ばした。

理解が追いつかない。

傷の深さ。

出血量。

年齢。

相手の異様さ。

どれを取っても、普通なら戦闘を続けられる状況ではない。

なのに、オビトは立っている。

血溜まりの中で。

左肩から血を流し。

腹部からも赤を落としながら。

右手だけを前へ向け、無堕の方を見据えている。

痛くないはずがない。

怖くないはずがない。

死が近くないはずがない。

それでも退かない。

その姿は、勇敢という言葉では足りなかった。

覚悟という言葉でも足りない。

まさに狂気の沙汰にしか見えなかった。

この少年は、何なんだ。

自来也の喉が、音もなく動く。

戦場で子どもが無理をする姿なら見たことがある。

恐怖で壊れた者も。

怒りで突っ込む者も。

死に急ぐ者も。

だが、オビトはそのどれとも違った。

痛みを無視しているのではない。

恐怖を知らないのでもない。

死にたいわけでもない。

ただ、必要だから動いた。

喰われても、切られても、貫かれても、勝つための一手として受け入れた。

それが、恐ろしい。

七歳の少年がする判断ではない。

七歳の身体でしていい戦い方ではない。

自来也はようやく枝を蹴った。

本能の硬直を、力ずくで踏み潰す。

見える。

今は見えている。

なら、動ける。

あの少年を一人にしていいはずがない。

だが、足を踏み出した瞬間、オビトがわずかに首を動かした。

気づいたのか。

こちらを見ていないのに、気配だけで察したのか。

血に濡れた横顔が、低く告げる。

「来るな」

短い声だった。

冷たく、鋭い。

命令に近い。

「見えてるなら、なおさら近づくな」

自来也は足を止めた。

言葉の意味は分かる。

近づけば巻き込まれる。

敵の標的が増える。

今の自来也には、敵を見られるようになっただけで、対処法が分からない。

足手まといになる可能性がある。

だが、それでも。

「馬鹿言え」

自来也の声が低く返る。

「子ども一人に任せて見てろってのか」

オビトは答えない。

答える余裕がない。

吹き飛ばされた無堕が、瓦礫の中で蠢いた。

黒い影が再び膨らむ。

抉られた部分は深い。

先ほどまでより再生が鈍っている。

黒閃は通った。

だが、祓えていない。

無堕の裂けた口が震えた。

笑っている。

苦しみながら。

怒りながら。

それでも、まだ喰らうつもりで。

オビトは右拳を握り直した。

血が足元へ落ちる。

左肩から腕は失われたまま。

腹の穴も塞がっていない。

反転術式を回すべきだ。

だが、今この瞬間に回す余裕があるか。

再生に呪力を回せば、攻撃の手が鈍る。

無堕は待たない。

だからオビトは、まだ治さない。

自来也には、その判断の意味までは分からなかった。

分かったのは一つだけだ。

このままでは、少年が死ぬ。

それでも少年は、死を前提にしていない。

勝つつもりで立っている。

血の夜の中心で、無堕が再び身を起こす。

自来也は、見えたばかりの化物と、片腕を失ってなお前へ出ようとする少年を見比べた。

そして、胸の奥で何かが軋むのを感じた。

この世界には、見えないものがいる。

それと戦える子どもがいる。

そして、その子どもは、自分の命を賭けることに慣れすぎている。

自来也は奥歯を噛み締めた。

次の一手を、見逃してはならない。


〆栞
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