揺るがぬ指針

村落の人々は、誰一人として生き残っていない。

自来也は、そう思った。

そう思うしかない光景だった。

夜の村に残っているのは、血の臭いと、肉の残骸と、壊された家々だけだった。広場には人だったものが散らばり、家の戸は開け放たれ、逃げようとした者たちの跡だけが地面に残っている。

呻き声はない。

助けを求める声もない。

忍として多くの死地を見てきた自来也でさえ、喉の奥が重くなるような惨状だった。

全滅。

その言葉が、頭の中に浮かんだ。

だが、血に濡れた石垣にもたれていたオビトが、ふと顔を上げた。

「いる」

短い声だった。

自来也は目を向ける。

「何がじゃ」

「生きてる」

オビトは立ち上がった。

増血丸が効き始めているとはいえ、顔色はまだ悪い。腕も腹も治っている。失われた部位はもうない。それでも、さっきまで左肩から腕を奪われ、腹を貫かれていた事実までは消えない。

身体は回復しても、失った血と疲労まではすぐ戻らない。

それなのに、オビトは迷わず歩き出した。

血溜まりへ足を踏み入れる。

肉片の横を通る。

崩れた身体の間を抜ける。

七歳の子どもが、血と死体と肉塊の中を平然と進んでいく。

その異様な光景に、自来也は思わず叫んだ。

「おいおいおい、待て待て待て! 何でそんな普通に進めるんじゃお前は!」

オビトが振り返る。

人差し指を口元に立てた。

「シー」

静かにしろ。

五月蝿い。

そう言外に抗議している顔だった。

自来也の眉が跳ねる。

「今わしが怒られたのか?」

オビトは答えない。

耳を澄ませるように、わずかに顔の角度を変えた。

自来也には聞こえない。

血の匂いと、壊れた家の軋みと、夜風の音だけだ。

だが、オビトには届いていた。

とても弱く、か細い鳴き声。

声というより、息に近い。

泣き続けて疲れ果て、それでも泣かずにはいられない赤子の声。

その奥に、もう一つ。

震える呼吸。

必死に声を殺している、小さな子どもの気配。

「こっち」

オビトは一軒の家へ向かった。

戸は外れていた。

玄関先には、男と思われる遺体が倒れている。正面を、何かでガリガリと削り取られたような有様だった。顔も胸も判別できない。指先だけが、家の奥へ伸びている。

止めようとしたのか。

入口を塞ごうとしたのか。

あるいは、奥へ逃がした誰かを守ろうとしたのか。

家の中へ入ると、さらに血の臭いが濃くなった。

奥の部屋の前には、女と思われる遺体があった。

遺体と呼ぶのもためらうほど、身体は残っていない。辛うじて手先だけが形を保ち、畳へ爪を立てた跡があった。

自来也は唇を引き結んだ。

村の惨状を見てきた後でも、これはきつい。

だが、オビトは足を止めなかった。

見ていないわけではない。

無視しているわけでもない。

ただ、今優先すべきものがあると分かっている歩き方だった。

奥間へ入る。

戸棚が倒れ、供え物に使うらしい器や布が散らばっていた。床板の一部がずれている。普通なら気づかないほどのわずかな違和感だった。

オビトは膝をつき、床板へ手をかける。

重い。

だが、滑らせるように少しずつ動かすと、下に暗い穴が見えた。

地下穴だった。

食料や供え物を保管するための場所だろう。

冷たい空気が下から上がってくる。

その中に、かすかな泣き声が混じっていた。

「大丈夫」

オビトは声を落とした。

「もう、あいつはいない」

返事はない。

だが、奥で小さな息が跳ねた。

オビトは先に降りようとして、自来也に肩を掴まれた。

「お前は待て。わしが先に見る」

「大丈夫。呪いの残りは薄い」

「そういう問題じゃないわ」

自来也の声が低い。

オビトは一瞬だけ見上げ、それから素直に身を引いた。

自来也は地下穴へ降りた。

狭い。

大人が身を屈めて入るのがやっとだ。土の壁は乾いておらず、しっとりとした匂いがする。血の臭いが薄い。上とは別の場所のようだった。

奥に、子どもがいた。

四歳くらいの女の子だ。

泥に汚れた服を着て、壁際に膝を抱えている。その腕の中に、赤ん坊がいた。泣き疲れた赤ん坊は、弱々しく口を開けたり閉じたりしている。

女の子は震えていた。

自来也を見た瞬間、息を呑み、赤ん坊をさらに強く抱きしめる。

「怖がらせるつもりはない」

自来也はできるだけ声を低く、穏やかにした。

「木ノ葉の忍じゃ。助けに来た」

女の子は答えない。

目が固まっている。

恐怖で言葉を失っているのだろう。

上から、オビトの声がした。

「俺も降りる」

「ゆっくり来い」

「分かってる」

オビトが降りてくると、女の子の視線がそちらへ移った。

自来也より小さいからか。

それとも、声の調子が違ったからか。

ほんのわずか、警戒が揺らいだ。

オビトは少し離れた場所でしゃがんだ。近づきすぎない。手を伸ばせば届く距離ではない。逃げ場を塞がない位置。

「怖かったな」

女の子の唇が震える。

赤ん坊がまた小さく泣いた。

「もう大丈夫。あの黒いやつは祓った」

女の子の目が、大きく見開かれた。

見えていたのかもしれない。

死の間際まで追い詰められ、あの化け物の輪郭を。

「赤ちゃん、見せてくれる?」

女の子はすぐには動かなかった。

当然だ。

つい先ほどまで、家族を奪われ、姿の分からない化け物に襲われていたのだ。見知らぬ忍を信じろという方が無理だった。

オビトは焦らない。

「怪我してないか見るだけ。取らない」

女の子が小さく首を振る。

拒絶ではなく、分からないという反応だった。

オビトは自分の手を見せた。

「ここから動かない。自来也さん、赤ちゃんを見て」

「わしがか」

「俺より大人だろ」

「そういう時だけ子ども扱いを受け入れるな」

ぼやきながらも、自来也は膝をついて距離を詰めた。

女の子は怯えたが、オビトがその場から動かないのを見て、少しだけ腕を緩めた。

赤ん坊に大きな外傷はなかった。

冷えている。

泣き疲れている。

だが、生きている。

女の子の方も、細かな擦り傷はあるが、命に関わる怪我は見当たらない。

「生きてる」

自来也が低く言った。

その言葉を聞いた瞬間、オビトの肩から力が抜けた。

「ああ」

短く息を吐く。

「土が守ったのか」

「土?」

自来也が問い返す。

オビトは地下穴の壁へ手を触れた。

湿り気を帯びた土。

冷たく、濃く、けれど穢れの薄い土。

上の村には血と恐怖と死の気配が満ちている。だが、この穴の中だけは違った。豊かな土の匂いがする。供え物を保管するために、清められ、大切に使われてきた場所なのだろう。

米。

塩。

酒。

果物。

山へ捧げるためのものを置く場所。

人の恐れだけではなく、祈りや感謝も染み込んでいる。

純粋な自然の気配が強い。

「ここは、無堕が触れにくかったんだと思う」

「無堕?」

「あの化け物の名前」

「お前がつけたのか」

「違う。呪いの名みたいなもの」

それ以上は今説明しない。

オビトは土壁から手を離し、女の子へ視線を戻した。

「ここに隠してくれた人がいたんだな」

女の子の瞳から、涙が零れた。

声は出ない。

それでも、その涙だけで充分だった。

あの入口の男。

奥間の前の女。

おそらく、この子と赤ん坊を地下穴へ隠し、上から板を戻したのだ。

自分たちは逃げられなかった。

だが、守った。

守りきった命が、ここにある。

手の届く範囲でいい。

人を助けろ。

誰の言葉だったか。

いくつもの人生の中で、何度も形を変えて聞いてきた指針だった。

気づくのが遅かった。

村の人々を助けられなかった。

老夫婦も、若い男も、広場にいた者たちも、家の中で喰われた者たちも、救えなかった。

それでも。

守れた命が、ここにあった。

オビトの顔が、ふっと柔らかくなった。

さっきまで無堕へ向けていた冷えた怒りは消えている。血の中で片腕を奪われ、腹を貫かれ、それでも黒閃を叩き込んだ少年と同じ人物とは思えないほど、その表情には優しさが満ちていた。

「よかった」

たった一言。

本当に安堵した声だった。

女の子は、声を上げずに泣き始めた。

抱えた赤ん坊も、つられるように弱く泣く。

オビトは少し迷い、けれど近づきすぎず、ただそこにいた。

泣けるならいい。

怖かったと言えるなら、なおいい。

今は、泣けるだけでいい。

自来也は、その横顔を見つめていた。

先ほどまでの狂気じみた戦い。

自分の腕を喰わせ、腹を貫かれたまま黒閃を放った姿。

あれは、普通ではなかった。

痛みも恐怖も置き去りにして、勝つためだけに動く戦闘者の顔だった。

だが今、目の前にいる少年は、泣く子どもと赤ん坊を怯えさせないよう、距離を測ってしゃがんでいる。

同じ人物とは思えない。

いや、同じだからこそ分からない。

この少年は、何をもって戦うのか。

才能か。

怒りか。

義務か。

過去か。

それとも、もっと単純な何かか。

興味が湧いた。

同時に、聞かずにはいられなかった。

「オビト」

「何」

「お前は、何のために戦っとる」

地下穴の中に、短い沈黙が落ちた。

女の子はまだ泣いている。

赤ん坊も小さく声を上げている。

オビトはその二人を見たまま、すぐには答えなかった。

言葉を選んでいるのではない。

どこまで言うかを考えているのだと、自来也には分かった。

やがて、オビトは静かに口を開いた。

「全部は助けられない」

火影室で、ヒルゼンへ語ったことと同じように。

けれど、今は血の臭いと子どもの泣き声の中で語る。

「俺一人で、世界中の人を救えるわけじゃない。見えたもの全部に手を伸ばせるわけでもない。届かないものは、どうしたってある」

女の子の腕の中で、赤ん坊が身じろぎした。

オビトは声を少しだけ和らげる。

「でも、手が届くなら。今、目の前にいて、助けられるかもしれないなら、見捨てたくない」

「それだけか」

自来也が問う。

「それだけ」

オビトは答えた。

「感謝されたいわけじゃない。褒められたいわけでもない。命令されたからでもない。俺が、そうしたいからそうする」

「それで自分が死にかけてもか」

「死ぬつもりでやってるわけじゃない」

即座に返ってきた。

「さっきのは、勝つために必要だっただけ」

「腕を喰わせて腹を貫かれるのがか」

「結果的に」

「結果的にで済むか!」

地下穴に声が響き、女の子がびくりと震えた。

今度はオビトが自来也を見る。

人差し指を口に当てる。

「シー」

「……すまん」

自来也は声を落とした。

オビトは小さく頷き、女の子へ「大丈夫」と目で示す。

それから、また自来也へ向き直った。

「危険へ踏み込むのと、命を捨てるのは違う」

「お前のはだいぶ境目が怪しいがの」

「それは……否定しづらい」

自覚はあるらしい。

少なくとも、完全に無謀なわけではない。

だが、自分を計算へ入れる位置がおかしい。

自来也はそう感じた。

「俺は火影になりたい」

オビトが言った。

自来也は目を瞬く。

その言葉は、唐突なようでいて、今までのすべてへ繋がっていた。

「火影は、一番安全な場所から命令するだけの人じゃない。強いなら前に立つ。守りたいなら手を伸ばす。拾えるものを拾う」

「誰かに言われたのか」

「俺がそう思ってる」

答えは静かだった。

揺らがない。

七歳の言葉ではない。

だが、借り物にも聞こえなかった。

「里の真ん中にいる人だけじゃなくて、端にいる人も。声が大きい人だけじゃなくて、声が出せない人も。そういうところまで見える火影になりたい」

オビトは地下穴の土へ視線を落とした。

「この村は、木ノ葉から少し離れてる。でも、助けを求める声が届かなかっただけで、守らなくていい命だったわけじゃない」

自来也は黙った。

言葉が刺さる。

木ノ葉の忍として。

戦争を知る者として。

何度も、届かなかった命を見てきた者として。

「だから戦う」

オビトは言った。

「俺の手が届くなら」

単純だ。

驚くほど単純な指針だった。

だが、その単純さを貫くには、信じがたいほどの強さがいる。

痛みを受ける覚悟。

届かなかった命を背負う覚悟。

助けた命があることに安堵しながら、救えなかった死から目を逸らさない覚悟。

それを、この少年は持っている。

少なくとも、持とうとしている。

自来也は、オビトを見た。

狂気じみた戦闘者。

血を操る異能の子ども。

見えない化物を祓う者。

そして、泣く子どもを怯えさせないよう、距離を守ってしゃがむ少年。

「……とんでもねぇな」

「何が」

「お前じゃ」

「今さら?」

「今さらじゃ」

自来也は苦く笑った。

興味が、はっきりと形を持つ。

この少年は危うい。

隠し事が多い。

常識から外れている。

それでも、芯は奇妙なほど真っ直ぐだった。

だからこそ、放っておけない。

自来也は赤ん坊を抱いた女の子へ視線を戻した。

「まずは、この二人を連れて戻るぞ」

「うん」

「お前は無理に抱くな。まだ血が足りん」

「片方くらいなら」

「駄目だ」

「でも」

「駄目だ」

「はい」

今度は素直だった。

オビトは女の子へ声をかける。

「ここから出る。怖いと思うけど、俺たちが一緒に行く」

女の子は涙で濡れた顔を上げた。

声は出ない。

だが、小さく頷いた。

守られた命が、地下の暗がりから少しずつ外へ向かう。

地上にはまだ血と死が広がっている。

それでも、完全な終わりではなかった。

自来也は赤ん坊を受け取り、オビトは女の子の歩幅に合わせて隣に立つ。

その姿を見ながら、自来也は胸の奥で静かに思った。

見えない世界を見てしまった。

そして、その世界で戦う少年を見てしまった。

この夜は、きっと簡単には忘れられない。


〆栞
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