揺るがぬ指針
村落の人々は、誰一人として生き残っていない。
自来也は、そう思った。
そう思うしかない光景だった。
夜の村に残っているのは、血の臭いと、肉の残骸と、壊された家々だけだった。広場には人だったものが散らばり、家の戸は開け放たれ、逃げようとした者たちの跡だけが地面に残っている。
呻き声はない。
助けを求める声もない。
忍として多くの死地を見てきた自来也でさえ、喉の奥が重くなるような惨状だった。
全滅。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
だが、血に濡れた石垣にもたれていたオビトが、ふと顔を上げた。
「いる」
短い声だった。
自来也は目を向ける。
「何がじゃ」
「生きてる」
オビトは立ち上がった。
増血丸が効き始めているとはいえ、顔色はまだ悪い。腕も腹も治っている。失われた部位はもうない。それでも、さっきまで左肩から腕を奪われ、腹を貫かれていた事実までは消えない。
身体は回復しても、失った血と疲労まではすぐ戻らない。
それなのに、オビトは迷わず歩き出した。
血溜まりへ足を踏み入れる。
肉片の横を通る。
崩れた身体の間を抜ける。
七歳の子どもが、血と死体と肉塊の中を平然と進んでいく。
その異様な光景に、自来也は思わず叫んだ。
「おいおいおい、待て待て待て! 何でそんな普通に進めるんじゃお前は!」
オビトが振り返る。
人差し指を口元に立てた。
「シー」
静かにしろ。
五月蝿い。
そう言外に抗議している顔だった。
自来也の眉が跳ねる。
「今わしが怒られたのか?」
オビトは答えない。
耳を澄ませるように、わずかに顔の角度を変えた。
自来也には聞こえない。
血の匂いと、壊れた家の軋みと、夜風の音だけだ。
だが、オビトには届いていた。
とても弱く、か細い鳴き声。
声というより、息に近い。
泣き続けて疲れ果て、それでも泣かずにはいられない赤子の声。
その奥に、もう一つ。
震える呼吸。
必死に声を殺している、小さな子どもの気配。
「こっち」
オビトは一軒の家へ向かった。
戸は外れていた。
玄関先には、男と思われる遺体が倒れている。正面を、何かでガリガリと削り取られたような有様だった。顔も胸も判別できない。指先だけが、家の奥へ伸びている。
止めようとしたのか。
入口を塞ごうとしたのか。
あるいは、奥へ逃がした誰かを守ろうとしたのか。
家の中へ入ると、さらに血の臭いが濃くなった。
奥の部屋の前には、女と思われる遺体があった。
遺体と呼ぶのもためらうほど、身体は残っていない。辛うじて手先だけが形を保ち、畳へ爪を立てた跡があった。
自来也は唇を引き結んだ。
村の惨状を見てきた後でも、これはきつい。
だが、オビトは足を止めなかった。
見ていないわけではない。
無視しているわけでもない。
ただ、今優先すべきものがあると分かっている歩き方だった。
奥間へ入る。
戸棚が倒れ、供え物に使うらしい器や布が散らばっていた。床板の一部がずれている。普通なら気づかないほどのわずかな違和感だった。
オビトは膝をつき、床板へ手をかける。
重い。
だが、滑らせるように少しずつ動かすと、下に暗い穴が見えた。
地下穴だった。
食料や供え物を保管するための場所だろう。
冷たい空気が下から上がってくる。
その中に、かすかな泣き声が混じっていた。
「大丈夫」
オビトは声を落とした。
「もう、あいつはいない」
返事はない。
だが、奥で小さな息が跳ねた。
オビトは先に降りようとして、自来也に肩を掴まれた。
「お前は待て。わしが先に見る」
「大丈夫。呪いの残りは薄い」
「そういう問題じゃないわ」
自来也の声が低い。
オビトは一瞬だけ見上げ、それから素直に身を引いた。
自来也は地下穴へ降りた。
狭い。
大人が身を屈めて入るのがやっとだ。土の壁は乾いておらず、しっとりとした匂いがする。血の臭いが薄い。上とは別の場所のようだった。
奥に、子どもがいた。
四歳くらいの女の子だ。
泥に汚れた服を着て、壁際に膝を抱えている。その腕の中に、赤ん坊がいた。泣き疲れた赤ん坊は、弱々しく口を開けたり閉じたりしている。
女の子は震えていた。
自来也を見た瞬間、息を呑み、赤ん坊をさらに強く抱きしめる。
「怖がらせるつもりはない」
自来也はできるだけ声を低く、穏やかにした。
「木ノ葉の忍じゃ。助けに来た」
女の子は答えない。
目が固まっている。
恐怖で言葉を失っているのだろう。
上から、オビトの声がした。
「俺も降りる」
「ゆっくり来い」
「分かってる」
オビトが降りてくると、女の子の視線がそちらへ移った。
自来也より小さいからか。
それとも、声の調子が違ったからか。
ほんのわずか、警戒が揺らいだ。
オビトは少し離れた場所でしゃがんだ。近づきすぎない。手を伸ばせば届く距離ではない。逃げ場を塞がない位置。
「怖かったな」
女の子の唇が震える。
赤ん坊がまた小さく泣いた。
「もう大丈夫。あの黒いやつは祓った」
女の子の目が、大きく見開かれた。
見えていたのかもしれない。
死の間際まで追い詰められ、あの化け物の輪郭を。
「赤ちゃん、見せてくれる?」
女の子はすぐには動かなかった。
当然だ。
つい先ほどまで、家族を奪われ、姿の分からない化け物に襲われていたのだ。見知らぬ忍を信じろという方が無理だった。
オビトは焦らない。
「怪我してないか見るだけ。取らない」
女の子が小さく首を振る。
拒絶ではなく、分からないという反応だった。
オビトは自分の手を見せた。
「ここから動かない。自来也さん、赤ちゃんを見て」
「わしがか」
「俺より大人だろ」
「そういう時だけ子ども扱いを受け入れるな」
ぼやきながらも、自来也は膝をついて距離を詰めた。
女の子は怯えたが、オビトがその場から動かないのを見て、少しだけ腕を緩めた。
赤ん坊に大きな外傷はなかった。
冷えている。
泣き疲れている。
だが、生きている。
女の子の方も、細かな擦り傷はあるが、命に関わる怪我は見当たらない。
「生きてる」
自来也が低く言った。
その言葉を聞いた瞬間、オビトの肩から力が抜けた。
「ああ」
短く息を吐く。
「土が守ったのか」
「土?」
自来也が問い返す。
オビトは地下穴の壁へ手を触れた。
湿り気を帯びた土。
冷たく、濃く、けれど穢れの薄い土。
上の村には血と恐怖と死の気配が満ちている。だが、この穴の中だけは違った。豊かな土の匂いがする。供え物を保管するために、清められ、大切に使われてきた場所なのだろう。
米。
塩。
酒。
果物。
山へ捧げるためのものを置く場所。
人の恐れだけではなく、祈りや感謝も染み込んでいる。
純粋な自然の気配が強い。
「ここは、無堕が触れにくかったんだと思う」
「無堕?」
「あの化け物の名前」
「お前がつけたのか」
「違う。呪いの名みたいなもの」
それ以上は今説明しない。
オビトは土壁から手を離し、女の子へ視線を戻した。
「ここに隠してくれた人がいたんだな」
女の子の瞳から、涙が零れた。
声は出ない。
それでも、その涙だけで充分だった。
あの入口の男。
奥間の前の女。
おそらく、この子と赤ん坊を地下穴へ隠し、上から板を戻したのだ。
自分たちは逃げられなかった。
だが、守った。
守りきった命が、ここにある。
手の届く範囲でいい。
人を助けろ。
誰の言葉だったか。
いくつもの人生の中で、何度も形を変えて聞いてきた指針だった。
気づくのが遅かった。
村の人々を助けられなかった。
老夫婦も、若い男も、広場にいた者たちも、家の中で喰われた者たちも、救えなかった。
それでも。
守れた命が、ここにあった。
オビトの顔が、ふっと柔らかくなった。
さっきまで無堕へ向けていた冷えた怒りは消えている。血の中で片腕を奪われ、腹を貫かれ、それでも黒閃を叩き込んだ少年と同じ人物とは思えないほど、その表情には優しさが満ちていた。
「よかった」
たった一言。
本当に安堵した声だった。
女の子は、声を上げずに泣き始めた。
抱えた赤ん坊も、つられるように弱く泣く。
オビトは少し迷い、けれど近づきすぎず、ただそこにいた。
泣けるならいい。
怖かったと言えるなら、なおいい。
今は、泣けるだけでいい。
自来也は、その横顔を見つめていた。
先ほどまでの狂気じみた戦い。
自分の腕を喰わせ、腹を貫かれたまま黒閃を放った姿。
あれは、普通ではなかった。
痛みも恐怖も置き去りにして、勝つためだけに動く戦闘者の顔だった。
だが今、目の前にいる少年は、泣く子どもと赤ん坊を怯えさせないよう、距離を測ってしゃがんでいる。
同じ人物とは思えない。
いや、同じだからこそ分からない。
この少年は、何をもって戦うのか。
才能か。
怒りか。
義務か。
過去か。
それとも、もっと単純な何かか。
興味が湧いた。
同時に、聞かずにはいられなかった。
「オビト」
「何」
「お前は、何のために戦っとる」
地下穴の中に、短い沈黙が落ちた。
女の子はまだ泣いている。
赤ん坊も小さく声を上げている。
オビトはその二人を見たまま、すぐには答えなかった。
言葉を選んでいるのではない。
どこまで言うかを考えているのだと、自来也には分かった。
やがて、オビトは静かに口を開いた。
「全部は助けられない」
火影室で、ヒルゼンへ語ったことと同じように。
けれど、今は血の臭いと子どもの泣き声の中で語る。
「俺一人で、世界中の人を救えるわけじゃない。見えたもの全部に手を伸ばせるわけでもない。届かないものは、どうしたってある」
女の子の腕の中で、赤ん坊が身じろぎした。
オビトは声を少しだけ和らげる。
「でも、手が届くなら。今、目の前にいて、助けられるかもしれないなら、見捨てたくない」
「それだけか」
自来也が問う。
「それだけ」
オビトは答えた。
「感謝されたいわけじゃない。褒められたいわけでもない。命令されたからでもない。俺が、そうしたいからそうする」
「それで自分が死にかけてもか」
「死ぬつもりでやってるわけじゃない」
即座に返ってきた。
「さっきのは、勝つために必要だっただけ」
「腕を喰わせて腹を貫かれるのがか」
「結果的に」
「結果的にで済むか!」
地下穴に声が響き、女の子がびくりと震えた。
今度はオビトが自来也を見る。
人差し指を口に当てる。
「シー」
「……すまん」
自来也は声を落とした。
オビトは小さく頷き、女の子へ「大丈夫」と目で示す。
それから、また自来也へ向き直った。
「危険へ踏み込むのと、命を捨てるのは違う」
「お前のはだいぶ境目が怪しいがの」
「それは……否定しづらい」
自覚はあるらしい。
少なくとも、完全に無謀なわけではない。
だが、自分を計算へ入れる位置がおかしい。
自来也はそう感じた。
「俺は火影になりたい」
オビトが言った。
自来也は目を瞬く。
その言葉は、唐突なようでいて、今までのすべてへ繋がっていた。
「火影は、一番安全な場所から命令するだけの人じゃない。強いなら前に立つ。守りたいなら手を伸ばす。拾えるものを拾う」
「誰かに言われたのか」
「俺がそう思ってる」
答えは静かだった。
揺らがない。
七歳の言葉ではない。
だが、借り物にも聞こえなかった。
「里の真ん中にいる人だけじゃなくて、端にいる人も。声が大きい人だけじゃなくて、声が出せない人も。そういうところまで見える火影になりたい」
オビトは地下穴の土へ視線を落とした。
「この村は、木ノ葉から少し離れてる。でも、助けを求める声が届かなかっただけで、守らなくていい命だったわけじゃない」
自来也は黙った。
言葉が刺さる。
木ノ葉の忍として。
戦争を知る者として。
何度も、届かなかった命を見てきた者として。
「だから戦う」
オビトは言った。
「俺の手が届くなら」
単純だ。
驚くほど単純な指針だった。
だが、その単純さを貫くには、信じがたいほどの強さがいる。
痛みを受ける覚悟。
届かなかった命を背負う覚悟。
助けた命があることに安堵しながら、救えなかった死から目を逸らさない覚悟。
それを、この少年は持っている。
少なくとも、持とうとしている。
自来也は、オビトを見た。
狂気じみた戦闘者。
血を操る異能の子ども。
見えない化物を祓う者。
そして、泣く子どもを怯えさせないよう、距離を守ってしゃがむ少年。
「……とんでもねぇな」
「何が」
「お前じゃ」
「今さら?」
「今さらじゃ」
自来也は苦く笑った。
興味が、はっきりと形を持つ。
この少年は危うい。
隠し事が多い。
常識から外れている。
それでも、芯は奇妙なほど真っ直ぐだった。
だからこそ、放っておけない。
自来也は赤ん坊を抱いた女の子へ視線を戻した。
「まずは、この二人を連れて戻るぞ」
「うん」
「お前は無理に抱くな。まだ血が足りん」
「片方くらいなら」
「駄目だ」
「でも」
「駄目だ」
「はい」
今度は素直だった。
オビトは女の子へ声をかける。
「ここから出る。怖いと思うけど、俺たちが一緒に行く」
女の子は涙で濡れた顔を上げた。
声は出ない。
だが、小さく頷いた。
守られた命が、地下の暗がりから少しずつ外へ向かう。
地上にはまだ血と死が広がっている。
それでも、完全な終わりではなかった。
自来也は赤ん坊を受け取り、オビトは女の子の歩幅に合わせて隣に立つ。
その姿を見ながら、自来也は胸の奥で静かに思った。
見えない世界を見てしまった。
そして、その世界で戦う少年を見てしまった。
この夜は、きっと簡単には忘れられない。
自来也は、そう思った。
そう思うしかない光景だった。
夜の村に残っているのは、血の臭いと、肉の残骸と、壊された家々だけだった。広場には人だったものが散らばり、家の戸は開け放たれ、逃げようとした者たちの跡だけが地面に残っている。
呻き声はない。
助けを求める声もない。
忍として多くの死地を見てきた自来也でさえ、喉の奥が重くなるような惨状だった。
全滅。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
だが、血に濡れた石垣にもたれていたオビトが、ふと顔を上げた。
「いる」
短い声だった。
自来也は目を向ける。
「何がじゃ」
「生きてる」
オビトは立ち上がった。
増血丸が効き始めているとはいえ、顔色はまだ悪い。腕も腹も治っている。失われた部位はもうない。それでも、さっきまで左肩から腕を奪われ、腹を貫かれていた事実までは消えない。
身体は回復しても、失った血と疲労まではすぐ戻らない。
それなのに、オビトは迷わず歩き出した。
血溜まりへ足を踏み入れる。
肉片の横を通る。
崩れた身体の間を抜ける。
七歳の子どもが、血と死体と肉塊の中を平然と進んでいく。
その異様な光景に、自来也は思わず叫んだ。
「おいおいおい、待て待て待て! 何でそんな普通に進めるんじゃお前は!」
オビトが振り返る。
人差し指を口元に立てた。
「シー」
静かにしろ。
五月蝿い。
そう言外に抗議している顔だった。
自来也の眉が跳ねる。
「今わしが怒られたのか?」
オビトは答えない。
耳を澄ませるように、わずかに顔の角度を変えた。
自来也には聞こえない。
血の匂いと、壊れた家の軋みと、夜風の音だけだ。
だが、オビトには届いていた。
とても弱く、か細い鳴き声。
声というより、息に近い。
泣き続けて疲れ果て、それでも泣かずにはいられない赤子の声。
その奥に、もう一つ。
震える呼吸。
必死に声を殺している、小さな子どもの気配。
「こっち」
オビトは一軒の家へ向かった。
戸は外れていた。
玄関先には、男と思われる遺体が倒れている。正面を、何かでガリガリと削り取られたような有様だった。顔も胸も判別できない。指先だけが、家の奥へ伸びている。
止めようとしたのか。
入口を塞ごうとしたのか。
あるいは、奥へ逃がした誰かを守ろうとしたのか。
家の中へ入ると、さらに血の臭いが濃くなった。
奥の部屋の前には、女と思われる遺体があった。
遺体と呼ぶのもためらうほど、身体は残っていない。辛うじて手先だけが形を保ち、畳へ爪を立てた跡があった。
自来也は唇を引き結んだ。
村の惨状を見てきた後でも、これはきつい。
だが、オビトは足を止めなかった。
見ていないわけではない。
無視しているわけでもない。
ただ、今優先すべきものがあると分かっている歩き方だった。
奥間へ入る。
戸棚が倒れ、供え物に使うらしい器や布が散らばっていた。床板の一部がずれている。普通なら気づかないほどのわずかな違和感だった。
オビトは膝をつき、床板へ手をかける。
重い。
だが、滑らせるように少しずつ動かすと、下に暗い穴が見えた。
地下穴だった。
食料や供え物を保管するための場所だろう。
冷たい空気が下から上がってくる。
その中に、かすかな泣き声が混じっていた。
「大丈夫」
オビトは声を落とした。
「もう、あいつはいない」
返事はない。
だが、奥で小さな息が跳ねた。
オビトは先に降りようとして、自来也に肩を掴まれた。
「お前は待て。わしが先に見る」
「大丈夫。呪いの残りは薄い」
「そういう問題じゃないわ」
自来也の声が低い。
オビトは一瞬だけ見上げ、それから素直に身を引いた。
自来也は地下穴へ降りた。
狭い。
大人が身を屈めて入るのがやっとだ。土の壁は乾いておらず、しっとりとした匂いがする。血の臭いが薄い。上とは別の場所のようだった。
奥に、子どもがいた。
四歳くらいの女の子だ。
泥に汚れた服を着て、壁際に膝を抱えている。その腕の中に、赤ん坊がいた。泣き疲れた赤ん坊は、弱々しく口を開けたり閉じたりしている。
女の子は震えていた。
自来也を見た瞬間、息を呑み、赤ん坊をさらに強く抱きしめる。
「怖がらせるつもりはない」
自来也はできるだけ声を低く、穏やかにした。
「木ノ葉の忍じゃ。助けに来た」
女の子は答えない。
目が固まっている。
恐怖で言葉を失っているのだろう。
上から、オビトの声がした。
「俺も降りる」
「ゆっくり来い」
「分かってる」
オビトが降りてくると、女の子の視線がそちらへ移った。
自来也より小さいからか。
それとも、声の調子が違ったからか。
ほんのわずか、警戒が揺らいだ。
オビトは少し離れた場所でしゃがんだ。近づきすぎない。手を伸ばせば届く距離ではない。逃げ場を塞がない位置。
「怖かったな」
女の子の唇が震える。
赤ん坊がまた小さく泣いた。
「もう大丈夫。あの黒いやつは祓った」
女の子の目が、大きく見開かれた。
見えていたのかもしれない。
死の間際まで追い詰められ、あの化け物の輪郭を。
「赤ちゃん、見せてくれる?」
女の子はすぐには動かなかった。
当然だ。
つい先ほどまで、家族を奪われ、姿の分からない化け物に襲われていたのだ。見知らぬ忍を信じろという方が無理だった。
オビトは焦らない。
「怪我してないか見るだけ。取らない」
女の子が小さく首を振る。
拒絶ではなく、分からないという反応だった。
オビトは自分の手を見せた。
「ここから動かない。自来也さん、赤ちゃんを見て」
「わしがか」
「俺より大人だろ」
「そういう時だけ子ども扱いを受け入れるな」
ぼやきながらも、自来也は膝をついて距離を詰めた。
女の子は怯えたが、オビトがその場から動かないのを見て、少しだけ腕を緩めた。
赤ん坊に大きな外傷はなかった。
冷えている。
泣き疲れている。
だが、生きている。
女の子の方も、細かな擦り傷はあるが、命に関わる怪我は見当たらない。
「生きてる」
自来也が低く言った。
その言葉を聞いた瞬間、オビトの肩から力が抜けた。
「ああ」
短く息を吐く。
「土が守ったのか」
「土?」
自来也が問い返す。
オビトは地下穴の壁へ手を触れた。
湿り気を帯びた土。
冷たく、濃く、けれど穢れの薄い土。
上の村には血と恐怖と死の気配が満ちている。だが、この穴の中だけは違った。豊かな土の匂いがする。供え物を保管するために、清められ、大切に使われてきた場所なのだろう。
米。
塩。
酒。
果物。
山へ捧げるためのものを置く場所。
人の恐れだけではなく、祈りや感謝も染み込んでいる。
純粋な自然の気配が強い。
「ここは、無堕が触れにくかったんだと思う」
「無堕?」
「あの化け物の名前」
「お前がつけたのか」
「違う。呪いの名みたいなもの」
それ以上は今説明しない。
オビトは土壁から手を離し、女の子へ視線を戻した。
「ここに隠してくれた人がいたんだな」
女の子の瞳から、涙が零れた。
声は出ない。
それでも、その涙だけで充分だった。
あの入口の男。
奥間の前の女。
おそらく、この子と赤ん坊を地下穴へ隠し、上から板を戻したのだ。
自分たちは逃げられなかった。
だが、守った。
守りきった命が、ここにある。
手の届く範囲でいい。
人を助けろ。
誰の言葉だったか。
いくつもの人生の中で、何度も形を変えて聞いてきた指針だった。
気づくのが遅かった。
村の人々を助けられなかった。
老夫婦も、若い男も、広場にいた者たちも、家の中で喰われた者たちも、救えなかった。
それでも。
守れた命が、ここにあった。
オビトの顔が、ふっと柔らかくなった。
さっきまで無堕へ向けていた冷えた怒りは消えている。血の中で片腕を奪われ、腹を貫かれ、それでも黒閃を叩き込んだ少年と同じ人物とは思えないほど、その表情には優しさが満ちていた。
「よかった」
たった一言。
本当に安堵した声だった。
女の子は、声を上げずに泣き始めた。
抱えた赤ん坊も、つられるように弱く泣く。
オビトは少し迷い、けれど近づきすぎず、ただそこにいた。
泣けるならいい。
怖かったと言えるなら、なおいい。
今は、泣けるだけでいい。
自来也は、その横顔を見つめていた。
先ほどまでの狂気じみた戦い。
自分の腕を喰わせ、腹を貫かれたまま黒閃を放った姿。
あれは、普通ではなかった。
痛みも恐怖も置き去りにして、勝つためだけに動く戦闘者の顔だった。
だが今、目の前にいる少年は、泣く子どもと赤ん坊を怯えさせないよう、距離を測ってしゃがんでいる。
同じ人物とは思えない。
いや、同じだからこそ分からない。
この少年は、何をもって戦うのか。
才能か。
怒りか。
義務か。
過去か。
それとも、もっと単純な何かか。
興味が湧いた。
同時に、聞かずにはいられなかった。
「オビト」
「何」
「お前は、何のために戦っとる」
地下穴の中に、短い沈黙が落ちた。
女の子はまだ泣いている。
赤ん坊も小さく声を上げている。
オビトはその二人を見たまま、すぐには答えなかった。
言葉を選んでいるのではない。
どこまで言うかを考えているのだと、自来也には分かった。
やがて、オビトは静かに口を開いた。
「全部は助けられない」
火影室で、ヒルゼンへ語ったことと同じように。
けれど、今は血の臭いと子どもの泣き声の中で語る。
「俺一人で、世界中の人を救えるわけじゃない。見えたもの全部に手を伸ばせるわけでもない。届かないものは、どうしたってある」
女の子の腕の中で、赤ん坊が身じろぎした。
オビトは声を少しだけ和らげる。
「でも、手が届くなら。今、目の前にいて、助けられるかもしれないなら、見捨てたくない」
「それだけか」
自来也が問う。
「それだけ」
オビトは答えた。
「感謝されたいわけじゃない。褒められたいわけでもない。命令されたからでもない。俺が、そうしたいからそうする」
「それで自分が死にかけてもか」
「死ぬつもりでやってるわけじゃない」
即座に返ってきた。
「さっきのは、勝つために必要だっただけ」
「腕を喰わせて腹を貫かれるのがか」
「結果的に」
「結果的にで済むか!」
地下穴に声が響き、女の子がびくりと震えた。
今度はオビトが自来也を見る。
人差し指を口に当てる。
「シー」
「……すまん」
自来也は声を落とした。
オビトは小さく頷き、女の子へ「大丈夫」と目で示す。
それから、また自来也へ向き直った。
「危険へ踏み込むのと、命を捨てるのは違う」
「お前のはだいぶ境目が怪しいがの」
「それは……否定しづらい」
自覚はあるらしい。
少なくとも、完全に無謀なわけではない。
だが、自分を計算へ入れる位置がおかしい。
自来也はそう感じた。
「俺は火影になりたい」
オビトが言った。
自来也は目を瞬く。
その言葉は、唐突なようでいて、今までのすべてへ繋がっていた。
「火影は、一番安全な場所から命令するだけの人じゃない。強いなら前に立つ。守りたいなら手を伸ばす。拾えるものを拾う」
「誰かに言われたのか」
「俺がそう思ってる」
答えは静かだった。
揺らがない。
七歳の言葉ではない。
だが、借り物にも聞こえなかった。
「里の真ん中にいる人だけじゃなくて、端にいる人も。声が大きい人だけじゃなくて、声が出せない人も。そういうところまで見える火影になりたい」
オビトは地下穴の土へ視線を落とした。
「この村は、木ノ葉から少し離れてる。でも、助けを求める声が届かなかっただけで、守らなくていい命だったわけじゃない」
自来也は黙った。
言葉が刺さる。
木ノ葉の忍として。
戦争を知る者として。
何度も、届かなかった命を見てきた者として。
「だから戦う」
オビトは言った。
「俺の手が届くなら」
単純だ。
驚くほど単純な指針だった。
だが、その単純さを貫くには、信じがたいほどの強さがいる。
痛みを受ける覚悟。
届かなかった命を背負う覚悟。
助けた命があることに安堵しながら、救えなかった死から目を逸らさない覚悟。
それを、この少年は持っている。
少なくとも、持とうとしている。
自来也は、オビトを見た。
狂気じみた戦闘者。
血を操る異能の子ども。
見えない化物を祓う者。
そして、泣く子どもを怯えさせないよう、距離を守ってしゃがむ少年。
「……とんでもねぇな」
「何が」
「お前じゃ」
「今さら?」
「今さらじゃ」
自来也は苦く笑った。
興味が、はっきりと形を持つ。
この少年は危うい。
隠し事が多い。
常識から外れている。
それでも、芯は奇妙なほど真っ直ぐだった。
だからこそ、放っておけない。
自来也は赤ん坊を抱いた女の子へ視線を戻した。
「まずは、この二人を連れて戻るぞ」
「うん」
「お前は無理に抱くな。まだ血が足りん」
「片方くらいなら」
「駄目だ」
「でも」
「駄目だ」
「はい」
今度は素直だった。
オビトは女の子へ声をかける。
「ここから出る。怖いと思うけど、俺たちが一緒に行く」
女の子は涙で濡れた顔を上げた。
声は出ない。
だが、小さく頷いた。
守られた命が、地下の暗がりから少しずつ外へ向かう。
地上にはまだ血と死が広がっている。
それでも、完全な終わりではなかった。
自来也は赤ん坊を受け取り、オビトは女の子の歩幅に合わせて隣に立つ。
その姿を見ながら、自来也は胸の奥で静かに思った。
見えない世界を見てしまった。
そして、その世界で戦う少年を見てしまった。
この夜は、きっと簡単には忘れられない。
【〆栞】