引き継がれる命

祖母が病院へ来た時、オビトはすでに逃げられないと悟っていた。

木ノ葉病院の一室は、朝の光を受けて白く明るい。昨夜の血の臭いはない。消毒薬の匂いと、洗い立ての布の匂いと、廊下を行き交う医療忍の足音がある。寝台には赤ん坊のハヤトが眠っていて、その隣の椅子にはイトハが座っていた。イトハはまだ言葉をほとんど発しない。ただ、オビトの袖を握っている手は、夜明け前よりずっと弱くなっていた。

オビト自身の身体も、見た目だけならもう何ともない。

左腕はある。指も動く。腹の傷も塞がっている。どこにも昨夜のような裂傷や欠損は残っていない。反転術式と陽の力で修復した部位は、今もきちんと回復後の状態を保っていた。

ただ、顔色は悪い。

血が足りないことと、呪力の消耗と、眠っていないことまでは誤魔化せない。医療忍からは貧血と疲労として扱われ、安静にしていろと言われている。

そこへ祖母が来た。

扉が開いた瞬間、オビトは背筋を伸ばした。

祖母は足音を荒げなかった。

声を張り上げることもなかった。

ただ、病室に入り、寝台の赤ん坊と椅子の女の子へ目を向け、それからオビトを見る。顔色。姿勢。指先。呼吸。服の汚れ。病院の空気の中で、孫がどれほど疲れているかを、何も聞かずに見て取った顔だった。

「オビト」

「……祖母ちゃん」

名前を呼ばれただけで、胸の奥がぎゅっと縮む。

叱られる。

それは分かっていた。

けれど祖母の最初の言葉は、怒鳴り声ではなかった。

「何かを察して飛び出したことは、責めないよ」

静かな声だった。

「助けに行ったことも、人を放っておけなかったことも、責めない」

オビトは言葉を失った。

祖母は、オビトのそういうところを知っている。幼い頃から、困っている人を見れば足を止める。老人に荷物を持たされれば断れず、迷子を見れば送り、危ない気配を感じれば黙って動く。

それを、良いところだとも思っている。

同時に、危ういところだとも知っている。

祖母はゆっくりと近づき、オビトの前に立った。

「けれどね」

その一言で、オビトの喉が詰まった。

「“すぐ戻る”と言った子が戻らず、朝になって病院で顔色を悪くしているのを見せられた側の気持ちは、分かりなさい」

声は荒くない。

だからこそ、逃げ場がなかった。

「……ごめん」

それしか言えなかった。

祖母は目を逸らさない。

「謝れば済む話ではないよ」

「うん」

「お前が強いことは、分かっている。普通の子ではないことも、もう見ていれば分かる。けれど、強いから心配しないで済むわけではない」

オビトは俯いた。

言い返せない。

昨夜の自分は、確かに飛び出した。命が消えていると感じて、考えるより先に走った。行かなければならないと思った。結果として、イトハとハヤトは助かった。

それでも、祖母に「すぐ戻る」と言って戻らなかった事実は変わらない。

あの家で祖母が何を考えていたのか。

夜が明けるまで、どんな気持ちで待っていたのか。

それを想像すれば、胸が痛くなる。

イトハが不安そうにオビトを見上げた。

その小さな手が、袖を握り直す。

祖母はその動きに気づき、視線を和らげた。

「その子が、保護された子かい」

オビトは頷いた。

「風見イトハ。弟がハヤト」

「そう」

祖母はイトハへ目線を合わせるように、少しかがんだ。

「怖かったね」

イトハは返事をしなかった。

ただ、オビトの袖を握ったまま祖母を見ている。

祖母は無理に近づかない。知らない大人に踏み込まれることが怖い子の距離を、自然に守っている。

「オビトのそばにいていいよ」

その一言に、イトハの肩がわずかに下がった。

オビトは少しだけ息を吐いた。

祖母は、こういうところが本当に上手い。

その時、病室の扉が再び開いた。

「おう、様子は――」

入ってきた自来也は、そこで言葉を止めた。

祖母の視線が、ゆっくりと自来也へ向いたからだ。

三忍の一人。

大柄な男。

額当てをつけ、白い髪を背に流し、普段なら軽口の一つでも飛ばす男が、その視線を受けて微妙に背筋を伸ばした。

オビトは内心で思った。

あ、逃げ場ないやつだ。

祖母は自来也を見上げた。

「あなたが、自来也様ですね」

「お、おう。まあ、その、様はいらんがの」

「昨夜、この子と一緒にいたと聞きました」

「途中からじゃがな」

「途中からであっても、大人が一緒にいたのでしょう」

静かだった。

本当に静かだった。

だが自来也の頬が引きつる。

昨夜、子ども二人の保護と病院対応で手一杯だったのは事実だ。イトハとハヤトを木ノ葉病院へ運び、検査を頼み、火影へ報告し、村のことをどう扱うか考えなければならなかった。

だが、家への連絡を怠った。

オビトの祖母がいる。

家で待っている。

それを考える余裕がなかった。

それは言い訳にはならない。

「……すまん」

自来也は頭を下げた。

「保護した子どもらの対応で手一杯だったとはいえ、家への連絡を怠った。これはわしの落ち度じゃ」

祖母はしばらく黙っていた。

オビトは隣で息を殺す。

三忍に頭を下げさせる祖母ちゃん、強い。

いや、笑い事ではない。

祖母はやがて、小さく息を吐いた。

「子どもたちを助けてくださったことには、感謝しています」

「助けたのは――」

自来也は言いかけて止まった。

公式には、オビトは現場にいないことになっている。

祖母の前でどこまで言うか、迷ったのだろう。

祖母の目が少し細くなる。

誤魔化せていない。

だが、祖母もそこを追及しなかった。

「けれど、次は必ず知らせてください。オビトは忍でも、私には孫です」

「……肝に銘じる」

自来也は真面目に答えた。

その流れで、なぜか自来也が咳払いをした。

オビトは嫌な予感がした。

「それとだな」

「自来也さん」

「言うなら今じゃろ」

「今じゃないと思う」

「いや、こういう話は保護者がいる時に通すのが筋じゃ」

それは正しい。

正しいが、今この空気で出すのはどうなのか。

祖母が自来也を見た。

「何の話ですか」

自来也は姿勢を正した。

「オビトを、わしの弟子にしたい」

病室の空気が、少し止まった。

イトハが意味も分からずオビトを見上げる。

ハヤトは寝台で小さく寝息を立てている。

祖母は驚いた顔をしなかった。

ただ、自来也を見て、それからオビトを見た。

「弟子」

「すぐに連れ回すつもりはない。十歳になったら、旅に同行させたい。もちろん、火影とも話を通す。里の任務やうちはの扱いもあるじゃろうし、勝手に決める気はない」

自来也は言葉を選んでいた。

昨夜のような軽い調子ではない。

「だが、こいつは放っておけん」

祖母の視線が動かない。

自来也は続ける。

「強い。頭も回る。危ういほどに腹が据わっとる。だが、それだけじゃない。こいつは自分の指針を持っとる。手が届くものを見捨てたくないと言い切れる。そういう奴を、ただ便利に使わせるだけにはしたくない」

オビトは思わず自来也を見た。

自来也は火影室での報告では、オビトのことを伏せた。

けれどここでは、見たもののうち、言える形で本音を話している。

「仙術も教えられるかもしれん。螺旋丸も教える。だが、それ以上に、こいつが一人で無茶をしすぎんよう、師として見ておきたい」

祖母は、今度こそわずかに表情を変えた。

不安がある。

当然だ。

自来也は三忍であり、強い忍であり、火影の弟子でもある。

だが、旅へ同行させるということは、里の外へ出るということだ。任務よりもさらに予測がつかない場所へ行くこともあるだろう。

オビトはすでに危うい。

その危うさを減らすための弟子入りなのか。

それとも、危険を増やすだけなのか。

祖母がすぐに答えを出せないのは、当たり前だった。

「オビト」

祖母が呼ぶ。

「お前はどう思っているの」

オビトは少し迷った。

嘘はつけない。

「興味はある」

祖母の眉がわずかに上がる。

「仙術と、螺旋丸に?」

「……うん」

自来也が少しだけ得意げな顔をした。

祖母がそちらを見ると、すぐに引っ込める。

「でも、それだけじゃない」

オビトは言った。

「自来也さんに見てもらうのは、たぶん悪くないと思う。俺だけだと、見落とすこともあるから」

昨夜、背後から追われていたのに気づかなかった。

自分の身体の制限も、特級と戦って初めて思い知った。

一人で判断できると思っていても、できないことはある。

祖母は黙って聞いていた。

やがて、自来也へ向き直る。

「この子は、無茶をします」

「見た」

「人を助けることを、悪いとは思っていません。けれど、自分がどれだけ心配されているかを忘れます」

「それも見た」

「師になるなら、そこも叱ってください」

自来也は、深く頷いた。

「約束する。師として責任を持つ」

祖母は長く息を吐いた。

完全に安心した顔ではない。

不安は残っている。

だが、それでも認める顔だった。

「十歳からの話なら、それまでにまた何度も話し合いましょう。火影様にも、うちはにも、通すべき筋があるでしょう」

「ああ」

「今この場で、すべてを許したわけではありません」

「分かっとる」

「けれど、師事すること自体は認めます」

オビトは少し目を見開いた。

「祖母ちゃん」

「ただし」

祖母の声が低くなる。

「この子をただの道具として扱うなら、三忍だろうと許しません」

自来也は真顔で頷いた。

「扱わん」

「なら、お願いします」

祖母は頭を下げた。

自来也は慌てたように手を振る。

「いや、頭を下げるのはこっちじゃ。預かる側になるんじゃからの」

そのやり取りを見て、オビトは何とも言えない気持ちになった。

弟子入り。

自来也の弟子。

仙術。

螺旋丸。

十歳からの旅。

遠いようで、きっとすぐ来る未来。

考えることは山ほどある。

だが、その前に、今日は別れがあった。

イトハとハヤトの引き取り先は、昼前にはひとまず決まった。

正式な手続きはこれからだが、子どものいない夫婦が以前から保護児童の受け入れを希望しており、医療忍を通して火影へ話が上がっていたらしい。夫婦は村落の被害を聞き、すぐに一時保護を申し出た。

病院の面談室で会った二人は、穏やかな人たちだった。

夫は少し不器用そうで、赤ん坊の抱き方を医療忍に何度も確認していた。妻はイトハの前にしゃがみ、急に触れようとはせず、「一緒に帰ってもいいかな」と静かに聞いた。

イトハはすぐには頷かなかった。

視線は何度もオビトへ向く。

オビトは少し離れた場所にいた。

近すぎれば、イトハは離れられない。

遠すぎれば、不安になる。

だから見える位置で、けれど手を伸ばさない距離を選んだ。

ハヤトは医療忍に包まれ、眠っている。

イトハは小さな手で、弟の布を抱えるように触れていた。

「おにいちゃん」

かすれた声だった。

昨夜からほとんど声を出していなかったイトハの、初めてに近い呼びかけ。

オビトは膝をついた。

「うん」

「また会える?」

約束は重い。

子どもにとっての「また」は、大人が思うよりずっと切実だ。

簡単に「いつでも」と言ってはいけない。任務がある。里の都合がある。新しい家での生活もある。イトハがオビトに縋り続ければ、新しい保護先へ馴染むのを妨げるかもしれない。

それでも、切り捨てるような言い方はできなかった。

「会えるよ」

オビトは静かに答えた。

「毎日じゃないし、すぐじゃないかもしれない。でも、木ノ葉にいるなら、また会える」

イトハの目が揺れる。

「ほんと?」

「うん。俺も、会いに行ける時は行く」

約束しすぎない。

けれど、嘘にはしない。

イトハは小さく頷いた。

それからハヤトを抱くように布へ手を添え、新しい保護先の夫婦の方へ歩いた。妻がそっと手を差し出す。イトハは少し迷い、その手を握った。

ハヤトは夫の腕の中で、何も知らずに眠っている。

姉弟が病院の廊下を進んでいく。

イトハは一度だけ振り返った。

オビトは手を振った。

イトハも、小さく手を振り返す。

その姿が角を曲がって見えなくなった時、オビトの胸の奥に、ほっとしたものと、少し寂しいものが同時に残った。

守れた。

繋がった。

それでも、見送る側は少し寂しい。

自来也は、少し離れてその背中を見ていた。

血に濡れた村で、見えない化物へ殴りかかった少年。

その同じ少年が今、二人の幼い命を見送っている。

目元は柔らかく、けれどどこか寂しそうだった。

自来也は思う。

弟子にすると決めた判断は、間違っていなかった。

この少年を強くするだけでは足りない。

この少年が守ろうとするものを、失いすぎないようにしてやらねばならない。

そして、守った命が次へ繋がるところを、ちゃんと見せてやらねばならない。

壊滅した村の中で拾われた命が、次の家へ繋がっていく。

オビトは廊下の先を見つめたまま、小さく息を吐いた。

これも繋げるうちの一つ――だよな、五条先生。

声には出さない。

けれど、胸の奥でそう呟いた。

強いから助ける。

手が届くなら拾う。

救えなかった命は消えない。

それでも、引き継がれる命がある。

その事実だけは、今のオビトを少しだけ支えてくれた。

「オビト」

祖母の声がした。

振り返ると、祖母が立っていた。

「今日は帰って休むのが先だよ」

「……うん」

「話は後で聞く」

その言い方に、オビトは背筋を伸ばした。

終わっていない。

説教は延期されただけだ。

祖母は静かに続ける。

「ただし、次に連絡もなく戻らないようなことをしたら、ただでは済まないよ」

声は大きくない。

怒鳴ってもいない。

だが、昨夜の無堕より別方向に怖い。

オビトは真剣に頷いた。

「はい」

長々と叱られるより怖い。

確実に怖い。

自来也が横で少し笑いを噛み殺していたが、祖母が視線を向けるとすぐに咳払いした。

「自来也様も」

「はい」

「今後は、連絡を」

「必ず」

三忍が完全に締められている。

オビトは笑いそうになったが、笑ったら自分にも飛び火するので黙った。

病院を出る頃には、朝の光がすっかり里を照らしていた。

木ノ葉の通りには人が行き交い始めている。店を開ける音。水を撒く音。遠くで子どもが走る声。昨夜の山間部の村とは違う、日常の音だった。

祖母と並んで歩く。

自来也は病院に残り、手続きや調査隊の件でまた火影塔へ戻るらしい。

オビトはゆっくり歩いた。

身体の傷はない。

左腕も腹部も元通りだ。

だが、疲労と貧血は残っている。祖母はそれを分かっているのか、歩幅を少しだけ落としてくれていた。

何も言わない。

ただ隣を歩いている。

その沈黙が、責めるものではなく、帰るためのものだと気づいた時、オビトの肩からようやく少しだけ力が抜けた。

「祖母ちゃん」

「何だい」

「……ただいま」

祖母は前を見たまま、少しだけ目元を和らげた。

「おかえり」

その一言で、昨夜から張り詰めていたものが、ほんの少しほどけた。

オビトは祖母の隣で、朝の木ノ葉を歩いて帰った。


〆栞
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