何でも屋再開

家へ帰った瞬間、オビトはようやく息を吐いた。

病院の白い空気も、火影塔へ向かう自来也の背中も、イトハとハヤトを見送った廊下の静けさも、まだ身体の奥に残っている。けれど玄関をくぐると、まず土間の匂いがした。磨かれた木の匂い。奥から漂う出汁の香り。祖母ちゃんが朝のうちに干していた布の、日の匂い。

帰ってきた。

その感覚が、膝から力を抜いていく。

祖母は先に上がりながら、振り返らずに言った。

「まず手を洗いなさい。それから着替え。食べられるなら少し食べて、すぐ寝る」

「……はい」

返事は素直に出た。

逆らう気力がないというのもあるが、逆らう理由もなかった。身体の傷はもうない。左腕も腹も、昨夜の損傷が嘘のように元通りだ。けれど、血の足りなさと疲労は残っている。足元が少しだけ浮くような感覚もある。

それでも、家の中はあたたかかった。

湯を張った桶に手を入れると、指先の冷えが少しずつ解けていく。袖口を濡らさないようにしながら血と土の残りを落とし、顔を洗う。鏡代わりの磨かれた金属板に映る顔は、やはりひどく疲れていた。

七歳。

器が七歳。

大事なので何度でも思う。

病院では貧血患者扱いで済んだが、昨夜の実態を知っている自分としては、よく立っている方だと思う。特級呪霊とやり合って、左腕を持っていかれて、腹も貫かれ、黒閃に竈開まで重ねたのだ。

普通に休暇の範囲を超えている。

休暇とは何だ。

考えると負ける気がした。

着替えて居間へ行くと、祖母が粥と味噌汁を出してくれた。身体に負担の少ない、やわらかく温かい食事だった。匙を持つ手が少し重い。それでも口へ運べば、米の甘みが舌に広がる。

「あまり急いで食べるんじゃないよ」

「分かってる」

「分かっている顔じゃない」

「……ゆっくり食べます」

祖母の目は鋭い。

昨夜のことを今すぐ根掘り葉掘り聞かない代わりに、日常の世話の中で逃げ道を塞いでくる。これはこれで効く。

食べ終え、布団に入れられる頃には、オビトはさすがに抵抗できなかった。

横になると、天井が見える。

いつもの天井。

見慣れた木目。

外からは里の生活音が聞こえる。人の声。水桶を置く音。遠くの犬の鳴き声。昨夜の山村の静けさとは違う。死に呑まれた沈黙ではない、生きている者たちの日常の音だ。

イトハとハヤトも、今頃は新しい保護先へ向かっている。

あの家が、二人にとって帰る場所になるのだろうか。

最初は怖いだろう。

知らない大人。知らない家。知らない匂い。弟を守らなければという緊張も、すぐには消えない。けれど、あの夫婦がきちんと二人を受け止めてくれたら、いつかあの子たちは帰る場所を覚える。

玄関の音。

飯の匂い。

布団のあたたかさ。

誰かが「おかえり」と言ってくれる感覚。

オビトは目を閉じた。

家へ帰るというのは、ただ場所へ戻ることではないのだと思う。

迎える人がいて、待っている手があって、帰ってこないことを心配して怒ってくれる人がいる。イトハとハヤトにも、そういう場所ができればいい。

壊滅した村の中で拾われた命が、次の家へ繋がっていく。

家のあたたかさと、病院で見送った姉弟の行き先が重なり、胸の奥に静かに残った。

そのまま眠りへ沈む直前、祖母の声が聞こえた。

「今日は何もしないで寝るんだよ」

「……うん」

返事は半分眠りの中だった。

何もしない。

たぶん、できる。

たぶん。

翌日、休暇は終わった。

正確に言うなら、休暇と呼ばれていた二日間のうち、片方は老人介護と茶会と特級呪霊で消し飛び、もう片方は病院と保護手続きと説教延期で消し飛んだ。

つまり休暇明けである。

休暇とは。

オビトは火影塔へ向かいながら、心の底からその単語を疑った。

身体はだいぶ戻っている。増血丸と食事と睡眠のおかげで、顔色も昨日よりはましになった。とはいえ、完全ではない。自分の身体の中で血が巡る感覚に、まだ少しだけ頼りなさがある。

それでも任務はある。

何でも屋再開である。

火影塔の受付を通り、指定された部屋へ向かうと、ヒルゼンが書類から顔を上げた。

「来たか、オビト」

「来ました」

ヒルゼンはオビトの顔を見るなり、眉尻を少し下げた。

「休暇明けなのに、ずいぶん疲れた顔をしておるの」

「……休暇とは?」

思わず漏れた。

ヒルゼンが煙管を持つ手を止める。

「何じゃ、その深い問いは」

「火影様が休めって言った二日間、体感だと任務三つ分くらいあったんですけど」

「お主、休めと言うた日に何をしておった」

「俺のせいじゃないことも多いです」

これは本当だ。

老人に捕まるのは、まあ半分くらい自分のせいかもしれない。クシナと茶会で弟扱いされた件は事故だ。特級呪霊は完全に自分のせいではない。

いや、飛び出したのは自分だが。

ヒルゼンはじっとオビトを見た。

その目の奥に、何かを測る色がある。

村落壊滅の報告。

自来也の不自然な偶然。

病院にいたオビトの貧血。

この三つを並べれば、何かを察しない方がおかしい。

だが、この時点の公式情報では村落壊滅とオビトは結びついていない。自来也が伏せた以上、ヒルゼンもここで表立って問うことはしなかった。

「無理はするな」

代わりに、そう言った。

「任務は軽めにしておく」

「本当ですか?」

「疑うでない」

「火影様の軽めって、たまに信用ならないんで」

「ホッホッホ」

笑って誤魔化された。

信用ならない。

結局、オビトへ渡された配属先は、里内の巡回補助と雑務処理を含む小規模任務だった。人手の足りない班に一日だけ混ざり、荷の確認、通達の配達、迷子対応、境界近くの見回りを行う。戦闘想定は低い。

確かに軽い。

少なくとも書類上は。

任務自体は順調だった。

何でも屋配属にも慣れてきた。固定班ではない分、その日ごとに顔ぶれは変わる。相手の癖を読み、邪魔にならない位置を取り、足りない部分へ入る。連携の型はないが、その場で合わせる練習にはなる。

午前中は荷の確認。

昼前に通達。

午後に里内の見回り。

途中で低級の呪霊を二体見つけ、誰にも気づかれないように指先で祓った。見えないものの始末を忍の任務に混ぜ込むのも、もはや慣れつつある。

慣れたくはないが。

任務が終わった頃には、日は傾き始めていた。

「今日はまっすぐ帰る」

オビトは自分へ言い聞かせる。

「祖母ちゃんにも言われてる。まっすぐ帰る。余計なことはしない。低級は帰り道に見つけたら祓うとして、寄り道はしない」

言い聞かせた。

その直後、道端で荷車の車輪が外れて困っている老人を見つけた。

足が止まった。

見なかったことにはできない。

「……これは寄り道じゃない。帰り道上の障害物除去」

自分へ言い訳しながら、影分身を一体出した。

車輪を直し、荷を持ち上げ、ついでに荷物を家まで運ぶことになった。その途中で別の老婆に薬屋への使いを頼まれ、さらに曲がり角で腰を痛めた爺さんを見つける。

影分身が二体に増えた。

三体になった。

気づけば、里の一角に小規模な介護サポート網が展開されていた。

「オビトちゃん、こっちの棚もお願いできるかい」

「はいはい」

「この前のお茶のお礼に饅頭をね」

「ありがとうございます、でも任務帰りなんで一個だけで」

「遠慮しなくていいんだよ」

「遠慮じゃなくて祖母ちゃんに怒られるんです」

影分身が薬を届け、別の影分身が布団を干し、本体は荷車を押す。

もはや影分身による介護サポート事業である。

何でも屋とは。

いや、これは何でも屋の範囲に含まれるのかもしれない。

火影直轄・里内老人生活支援部門。

絶対に報告書へ書きたくない。

任務より疲れた気がしながら、オビトは影分身を解除した。流れ込んできた記憶の中に、老人たちの感謝と、お茶請けの味と、低級呪霊をこっそり祓った感覚が混ざる。

頭が少し重い。

「……休暇明けとは?」

同じ問いがまた出た。

だが、昨夜の村に比べれば、これは穏やかな疲労だった。

誰かの生活が続いているからこその面倒。

生きている人たちが今日も困り、頼み、笑い、礼を言う。その中で疲れるのは、悪いことではない。

そう思うと、少しだけ気が抜けた。

それでも、村で特級を祓った夜のことは、身体の奥に残っていた。

あの戦いで、器の限界を思い知らされた。

呪力量はある。

経験もある。

術も覚えている。

だが、出力と耐久が追いつかない。

七歳の身体が、無意識に制限をかけている。無理に突破すれば、身体の方が壊れる。反転術式で治せるとはいえ、血液量や消耗まではすぐ戻らない。あんな戦い方を続ければ、いつか本当に詰む。

前世の身体が恋しい。

裏葉オビトとしての身体。

父さんの禪院の血筋による素体の強さと運動神経。呪術師として鍛えた肉体。成長した骨格。無茶な出力にも耐えられる筋肉と内臓。

今の自分には、それがない。

「早く戻さないとな」

小さく呟く。

もちろん、前世そのものへ戻るわけではない。

今世の自分は、うちはオビトだ。

父さんはマヒトで、母さんはツムギで、祖母ちゃんが待つ家がある。

それは変わらない。

けれど、前世特級呪術師だった裏葉オビトの水準へ、少しでも早く身体を近づけたい。

意識を変える必要がある。

術の訓練だけでは足りない。

壊れない身体づくり。

出力に耐える器。

呪力とチャクラを流しても軋まない筋肉。

黒閃の反動を受けても崩れない体幹。

竈開の焔を拳へ絞っても焼け落ちない肉体。

脳裏に、真希先輩が浮かんだ。

巨大な武器を振り回し、呪霊を叩き潰し、理不尽な速度で距離を詰めてくる姿。

あのフィジカル。

あの圧。

あの「術とか関係なく殴れば死ぬ」感じ。

「フィジカルギフテッドは無理でも……」

オビトは拳を握った。

「それに近いぐらいのフィジカルが欲しい!」

切実だった。

本当に切実だった。

前世でさんざん化け物じみた連中を見てきたせいで、基準が狂っている自覚はある。だが、特級相手に身体の出力不足を突きつけられた後では、欲しくなるものは仕方ない。

まずは基礎。

走り込み。

体幹。

柔軟。

筋力。

年齢に合った範囲で、けれど甘くしすぎない。成長を阻害しないように、でも器を強くする。赤血操術のために血液の扱いと回復効率も見直す。無理な出力で壊すのではなく、少しずつ耐性を上げる。

課題が増えた。

増えすぎている。

「俺、火影になる前に介護事業と身体改造計画と呪霊祓除で一生終わらない?」

笑えない。

だが、気を取り直す。

穏やかな日常だ。

今日は任務も終わった。老人支援も終わった。軽く身体づくりの方針も考えた。あとは飯を食って帰ればいい。

そう思ったのが間違いだったのかもしれない。

夕方の一楽は、湯気と出汁の匂いで満ちていた。

暖簾をくぐると、手打が顔を上げる。

「いらっしゃい」

「味噌一つ」

「はいよ」

空いている席へ座る。

腹は減っている。貧血気味の身体に、温かいものはありがたい。ここで静かにラーメンを食べて帰る。完璧な流れだ。

穏やかな日常。

そう、穏やかな日常。

暖簾が揺れた。

「お、オビトくん」

左側から、明るい声。

オビトの肩がわずかに跳ねる。

波風ミナトだった。

その反対側から、赤い髪が覗く。

「オビト! また会ったってばね!」

うずまきクシナだった。

何故。

何故このタイミングで。

いや、ラーメン屋だから会うこと自体は不自然ではない。前にも会った。二人とも一楽へ来る。分かる。分かるが、なぜ自分を挟むように座る。

クシナが右へ。

ミナトが左へ。

前回と同じく、自然な流れで挟まれた。

オビトは箸を持つ前から遠い目になる。

「……何で俺、真ん中なんですか」

クシナが当然のように言った。

「子どもは真ん中ってばね」

「その理屈、前も聞いた気がする」

ミナトが穏やかに笑う。

「今日は疲れてるみたいだね」

「火影様にも言われました」

「休暇明けじゃなかった?」

「休暇とは?」

ミナトが少し困ったように笑い、クシナが首を傾げた。

「また変なことに巻き込まれたの?」

「変なことというか……いろいろ」

「いろいろって何だってばね」

「老人介護と任務と人生についての考察」

「最後が重い!」

手打が味噌ラーメンを置く。

湯気が上がる。

オビトは箸を割り、ひとまず麺を啜った。

温かい。

うまい。

胃に染みる。

クシナが横から卵を一つ追加注文し、当然のようにオビトの丼へ入れようとする。

「ちょ、俺頼んでない」

「顔色悪いんだから食べるってばね」

「ラーメンに卵足したら貧血が治る理論?」

「治る気がする!」

「気合いの医学だ」

ミナトが苦笑しながら、自分の丼から海苔を一枚差し出してくる。

「じゃあ、僕からはこれを」

「何で増えるんですか」

「クシナに合わせた方がいいかなって」

「ミナトさんまで?」

挟まれている。

物理的にも、精神的にも。

穏やかな日常とは。

オビトは湯気の向こうで、少し泣きそうな顔になった。

だが、悪くはない。

うるさい。

近い。

世話焼きが強い。

正直、精神的に疲れる。

それでも、温かかった。

昨夜、血の村で失われたもの。

今日、病院で繋がった命。

家へ帰った時の祖母の声。

そして今、左右から遠慮なく構ってくる二人。

帰る場所も、繋がる命も、生きている日常も、全部がこうして続いている。

オビトは卵の沈んだ味噌ラーメンを見下ろし、小さく息を吐いた。

「……いただきます」

「ちゃんと食べるってばね」

「はいはい」

「一回」

「はい」

クシナの声に、反射で言い直す。

ミナトが楽しそうに笑った。

オビトは麺を啜りながら、心の中で思う。

穏やかな日常とは、たぶんこういうものだ。

平穏ではない。

静かでもない。

想定通りにもいかない。

休暇は潰れるし、任務は再開するし、老人には捕まるし、ラーメン屋では黄色と赤に挟まれる。

それでも、血の臭いより出汁の匂いがして、悲鳴より笑い声が近い。

なら、まあ。

悪くはないのかもしれない。


〆栞
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