止める時
噂は、雨よりもしつこく里に染み込んでいった。
最初は小さな囁きだった。
はたけサクモが任務に失敗したらしい。
仲間を助けるために、任務を放棄したらしい。
里に大きな損害が出たらしい。
木ノ葉の白い牙ともあろう者が。
誰かが言った。
誰かが聞いた。
誰かが尾ひれをつけた。
数日もしないうちに、噂は通りの端から端まで広がっていた。商店街の軒下で、任務受付近くの廊下で、忍具屋の前で、病院の待合で、飲食店の隅で。声はいつも少し低く、けれど本人に聞こえない距離を選んでいるようで、実際には聞こえるような場所で落とされた。
「英雄だ何だと言っても、結局あれか」
「任務を捨てたんだろ」
「助かった仲間も、今じゃ肩身が狭いらしいぞ」
「白い牙が聞いて呆れる」
批判。
悪意。
暴言。
それらは一つひとつなら、ただの言葉だった。
けれど何度も重なれば、刃になる。
里の空気が変わっていくのを、オビトは肌で感じていた。
はたけサクモという名が出た瞬間、場の温度が下がる。かつて尊敬や羨望を込めて語られていたはずの「木ノ葉の白い牙」が、今では責めるための呼び名に変わりつつあった。
英雄の失墜。
それは、派手な崩壊ではなかった。
誰かが石を投げる。
誰かが背を向ける。
誰かが溜息をつく。
誰かが、本人に届く距離で失望を口にする。
その繰り返しだった。
オビトは何でも屋の任務をこなしながら、里の空気を拾い続けた。
通達を届けに行った先で、聞こえてくる声。
荷運びを手伝った帰りに、ふと途切れる会話。
任務帰りの忍が、疲れた顔で吐き捨てる言葉。
それらの中に、サクモの名が混ざるたび、胸の奥が冷えていった。
止めるべきか。
今か。
まだか。
早すぎる介入は、かえって流れを歪めるかもしれない。サクモが自分の行動と向き合う時間を奪ってしまうかもしれない。周囲の批判がどの程度まで進んでいるのか、本人がどこまで追い詰められているのか、見極めなければならない。
そう思っていた。
思っていたが、里の空気は、想像より早く濁っていった。
噂から生まれる呪いもあった。
人の悪意は、薄くても数が集まれば形を取る。
任務受付の裏手で、黒い靄のような低級呪霊がへばりついていた。道端で吐き捨てられた言葉に寄り、怒りと失望と優越感を啜っている。サクモ本人を襲えるほどの力はない。だが、里のあちこちにそんな澱みが増えていくのが気に入らなかった。
オビトは誰にも気づかれないように、それらを祓った。
指先に薄く呪力を通し、低級を潰す。
時には水気を針のように伸ばし、軒下に溜まった呪いを貫く。
時にはすれ違いざまに、視線だけで位置を定めて消す。
祓っても、また生まれる。
悪意の源がそこにある限り、呪いは湧いた。
まったく、面倒くさい。
そう思うのに、放置する気にはなれなかった。
はたけ家の周りにも、少しずつ陰が増えていた。
家そのものは、木ノ葉の中でも落ち着いた区画にある。古いが手入れの行き届いた家で、塀も門も整っている。庭木も伸びすぎず、窓もきれいに保たれていた。暮らしが荒れているわけではない。
けれど、人の足が遠のいていた。
以前なら、サクモへ挨拶する者もいた。カカシの才能を褒める声もあった。任務帰りに声をかける忍もいた。
今は、違う。
通りかかった者が、家の前で少しだけ足を速める。
顔見知りが目を逸らす。
子どもが何か言いかけ、大人に袖を引かれる。
そこから生まれる沈黙の方が、露骨な悪口よりも重いことがあった。
カカシは、硬くなっていった。
任務帰りに見かけた時、白い髪の少年は以前よりもさらに言葉が少なくなっていた。もともと愛想のいい方ではない。無駄を嫌い、距離を取り、年齢に似合わぬ冷静さを持っている。
だが、それとは違う硬さがあった。
肩に力が入っている。
視線が鋭すぎる。
周囲の声を聞かないようにしているのに、すべて聞こえてしまっている顔だった。
カカシは前々世と同じく、六歳で中忍になっている。
昇格の早さそのものは変わらない。
けれど、今世のカカシには、先に進んだオビトへの対抗心があった。悔しさも、焦りも、燃えるような負けず嫌いもあった。その分だけ、任務へ向かう姿勢はさらに研ぎ澄まされているように見える。
そこへ父の失墜が重なった。
父を信じたい気持ち。
里の評価に傷つく心。
忍として任務を重んじる理屈。
それらが、まだ七歳の少年の中で無理に押し込められている。
オビトは何度か声をかけようとした。
だが、そのたびに踏み止まった。
カカシへ言葉をかけるだけでは足りない。
サクモを止めなければ意味がない。
ここで間違えば、同じ結末へ向かう。
いや、もしかすると別の形でもっと悪くなる。
だから、待った。
待ちながら、見た。
見ながら、祓った。
祓いながら、機会を探った。
里は日ごとに冷たくなり、はたけ家は少しずつ追い詰められていった。
そして今日、朝から雨が降っていた。
細い雨ではなかった。
屋根を叩き、路地に薄い水の筋を作り、店先の布看板を重く濡らす雨だった。火影塔へ続く広い通りも、普段より人影が少ない。商店街の軒下には荷物を寄せる人の姿があるが、会話は短く、足早だった。
雨の日の木ノ葉は、音が変わる。
屋根を打つ水音。
排水溝へ流れ込む濁った水。
濡れた忍靴が床を踏む音。
いつもなら聞こえる子どもの声も、今日は建物の中へ引っ込んでいた。
昼間はまだ、人の声があった。
任務の連絡。
通りすがりの挨拶。
雨具を買う客と店主のやり取り。
それらも、夕方を過ぎる頃には薄れていった。
夜に近づくほど、里は静まり返っていく。
オビトは濡れた路地を歩きながら、上着のフードを深く被った。黒のジップアップパーカーに落ちる雨粒が、肩から袖へ流れていく。橙のラインも、雨に濡れて鈍く見えた。
今日は、カカシが任務で不在だった。
朝、任務受付の近くで確認した。小規模な護衛任務。戻りは明日以降。サクモは家にいる。
それを知った瞬間、胸の奥で何かが決まった。
今日だ。
今日、この日。
はたけ家へ行く。
足が重い。
だが、止まらない。
夜の雨は、里の悪意を一時的に黙らせていた。人々は家へ入り、通りから声が消え、噂も軒下に沈んでいる。だが、消えたわけではない。雨が止めば、また湧く。明日になれば、また誰かが言う。
その前に。
サクモが一人でいる今日のうちに。
オビトは通りを曲がった。
はたけ家へ続く道は、いつもより暗かった。街灯の灯りが雨に滲み、濡れた石畳にぼんやりと反射している。水たまりを踏むたび、小さな音がした。
周囲に人影はない。
軒下の影に、薄い呪いの残りが一つ揺れていた。サクモへの悪意から生まれたものか、それとも雨の日の沈んだ空気に寄ったものか。低級にも届かないほど弱い。
オビトは歩きながら、それを指先で祓った。
立ち止まらない。
はたけ家の灯りが見えた。
雨の向こうで、ぼんやりと滲んでいる。
明るすぎない、けれど消えてはいない灯り。
誰かがそこにいる証だった。
オビトの喉が少し乾いた。
この先で何を言うか。
何を言えるか。
前々世を知っているとは言えない。
自殺するな、とそのまま言えば意味が分からない。
任務失敗の理由も、里の批判も、軽く扱ってはいけない。サクモは弱い人ではない。誇りも責任もある。仲間を助けたことを、単純に正しいと言い切るだけでは届かないかもしれない。
けれど、死なせない。
それだけは決まっている。
オビトは門の前で足を止めた。
雨が肩を打つ。
額のゴーグルにも水滴が溜まり、頬へ伝った。
塀の向こうからは、家の中の音はほとんど聞こえない。ただ、灯りだけが雨に滲んでいる。
はたけ家の門前。
運命を変えるべき最初の人が、この先にいる。
オビトは拳を握り、深く息を吸った。
そして、門へ手を伸ばした。
最初は小さな囁きだった。
はたけサクモが任務に失敗したらしい。
仲間を助けるために、任務を放棄したらしい。
里に大きな損害が出たらしい。
木ノ葉の白い牙ともあろう者が。
誰かが言った。
誰かが聞いた。
誰かが尾ひれをつけた。
数日もしないうちに、噂は通りの端から端まで広がっていた。商店街の軒下で、任務受付近くの廊下で、忍具屋の前で、病院の待合で、飲食店の隅で。声はいつも少し低く、けれど本人に聞こえない距離を選んでいるようで、実際には聞こえるような場所で落とされた。
「英雄だ何だと言っても、結局あれか」
「任務を捨てたんだろ」
「助かった仲間も、今じゃ肩身が狭いらしいぞ」
「白い牙が聞いて呆れる」
批判。
悪意。
暴言。
それらは一つひとつなら、ただの言葉だった。
けれど何度も重なれば、刃になる。
里の空気が変わっていくのを、オビトは肌で感じていた。
はたけサクモという名が出た瞬間、場の温度が下がる。かつて尊敬や羨望を込めて語られていたはずの「木ノ葉の白い牙」が、今では責めるための呼び名に変わりつつあった。
英雄の失墜。
それは、派手な崩壊ではなかった。
誰かが石を投げる。
誰かが背を向ける。
誰かが溜息をつく。
誰かが、本人に届く距離で失望を口にする。
その繰り返しだった。
オビトは何でも屋の任務をこなしながら、里の空気を拾い続けた。
通達を届けに行った先で、聞こえてくる声。
荷運びを手伝った帰りに、ふと途切れる会話。
任務帰りの忍が、疲れた顔で吐き捨てる言葉。
それらの中に、サクモの名が混ざるたび、胸の奥が冷えていった。
止めるべきか。
今か。
まだか。
早すぎる介入は、かえって流れを歪めるかもしれない。サクモが自分の行動と向き合う時間を奪ってしまうかもしれない。周囲の批判がどの程度まで進んでいるのか、本人がどこまで追い詰められているのか、見極めなければならない。
そう思っていた。
思っていたが、里の空気は、想像より早く濁っていった。
噂から生まれる呪いもあった。
人の悪意は、薄くても数が集まれば形を取る。
任務受付の裏手で、黒い靄のような低級呪霊がへばりついていた。道端で吐き捨てられた言葉に寄り、怒りと失望と優越感を啜っている。サクモ本人を襲えるほどの力はない。だが、里のあちこちにそんな澱みが増えていくのが気に入らなかった。
オビトは誰にも気づかれないように、それらを祓った。
指先に薄く呪力を通し、低級を潰す。
時には水気を針のように伸ばし、軒下に溜まった呪いを貫く。
時にはすれ違いざまに、視線だけで位置を定めて消す。
祓っても、また生まれる。
悪意の源がそこにある限り、呪いは湧いた。
まったく、面倒くさい。
そう思うのに、放置する気にはなれなかった。
はたけ家の周りにも、少しずつ陰が増えていた。
家そのものは、木ノ葉の中でも落ち着いた区画にある。古いが手入れの行き届いた家で、塀も門も整っている。庭木も伸びすぎず、窓もきれいに保たれていた。暮らしが荒れているわけではない。
けれど、人の足が遠のいていた。
以前なら、サクモへ挨拶する者もいた。カカシの才能を褒める声もあった。任務帰りに声をかける忍もいた。
今は、違う。
通りかかった者が、家の前で少しだけ足を速める。
顔見知りが目を逸らす。
子どもが何か言いかけ、大人に袖を引かれる。
そこから生まれる沈黙の方が、露骨な悪口よりも重いことがあった。
カカシは、硬くなっていった。
任務帰りに見かけた時、白い髪の少年は以前よりもさらに言葉が少なくなっていた。もともと愛想のいい方ではない。無駄を嫌い、距離を取り、年齢に似合わぬ冷静さを持っている。
だが、それとは違う硬さがあった。
肩に力が入っている。
視線が鋭すぎる。
周囲の声を聞かないようにしているのに、すべて聞こえてしまっている顔だった。
カカシは前々世と同じく、六歳で中忍になっている。
昇格の早さそのものは変わらない。
けれど、今世のカカシには、先に進んだオビトへの対抗心があった。悔しさも、焦りも、燃えるような負けず嫌いもあった。その分だけ、任務へ向かう姿勢はさらに研ぎ澄まされているように見える。
そこへ父の失墜が重なった。
父を信じたい気持ち。
里の評価に傷つく心。
忍として任務を重んじる理屈。
それらが、まだ七歳の少年の中で無理に押し込められている。
オビトは何度か声をかけようとした。
だが、そのたびに踏み止まった。
カカシへ言葉をかけるだけでは足りない。
サクモを止めなければ意味がない。
ここで間違えば、同じ結末へ向かう。
いや、もしかすると別の形でもっと悪くなる。
だから、待った。
待ちながら、見た。
見ながら、祓った。
祓いながら、機会を探った。
里は日ごとに冷たくなり、はたけ家は少しずつ追い詰められていった。
そして今日、朝から雨が降っていた。
細い雨ではなかった。
屋根を叩き、路地に薄い水の筋を作り、店先の布看板を重く濡らす雨だった。火影塔へ続く広い通りも、普段より人影が少ない。商店街の軒下には荷物を寄せる人の姿があるが、会話は短く、足早だった。
雨の日の木ノ葉は、音が変わる。
屋根を打つ水音。
排水溝へ流れ込む濁った水。
濡れた忍靴が床を踏む音。
いつもなら聞こえる子どもの声も、今日は建物の中へ引っ込んでいた。
昼間はまだ、人の声があった。
任務の連絡。
通りすがりの挨拶。
雨具を買う客と店主のやり取り。
それらも、夕方を過ぎる頃には薄れていった。
夜に近づくほど、里は静まり返っていく。
オビトは濡れた路地を歩きながら、上着のフードを深く被った。黒のジップアップパーカーに落ちる雨粒が、肩から袖へ流れていく。橙のラインも、雨に濡れて鈍く見えた。
今日は、カカシが任務で不在だった。
朝、任務受付の近くで確認した。小規模な護衛任務。戻りは明日以降。サクモは家にいる。
それを知った瞬間、胸の奥で何かが決まった。
今日だ。
今日、この日。
はたけ家へ行く。
足が重い。
だが、止まらない。
夜の雨は、里の悪意を一時的に黙らせていた。人々は家へ入り、通りから声が消え、噂も軒下に沈んでいる。だが、消えたわけではない。雨が止めば、また湧く。明日になれば、また誰かが言う。
その前に。
サクモが一人でいる今日のうちに。
オビトは通りを曲がった。
はたけ家へ続く道は、いつもより暗かった。街灯の灯りが雨に滲み、濡れた石畳にぼんやりと反射している。水たまりを踏むたび、小さな音がした。
周囲に人影はない。
軒下の影に、薄い呪いの残りが一つ揺れていた。サクモへの悪意から生まれたものか、それとも雨の日の沈んだ空気に寄ったものか。低級にも届かないほど弱い。
オビトは歩きながら、それを指先で祓った。
立ち止まらない。
はたけ家の灯りが見えた。
雨の向こうで、ぼんやりと滲んでいる。
明るすぎない、けれど消えてはいない灯り。
誰かがそこにいる証だった。
オビトの喉が少し乾いた。
この先で何を言うか。
何を言えるか。
前々世を知っているとは言えない。
自殺するな、とそのまま言えば意味が分からない。
任務失敗の理由も、里の批判も、軽く扱ってはいけない。サクモは弱い人ではない。誇りも責任もある。仲間を助けたことを、単純に正しいと言い切るだけでは届かないかもしれない。
けれど、死なせない。
それだけは決まっている。
オビトは門の前で足を止めた。
雨が肩を打つ。
額のゴーグルにも水滴が溜まり、頬へ伝った。
塀の向こうからは、家の中の音はほとんど聞こえない。ただ、灯りだけが雨に滲んでいる。
はたけ家の門前。
運命を変えるべき最初の人が、この先にいる。
オビトは拳を握り、深く息を吸った。
そして、門へ手を伸ばした。
【〆栞】