一人で死ぬな

はたけ家の門前で、オビトは一度だけ息を止めた。

雨は止まない。

屋根を叩き、軒を伝い、庭木の葉を重く濡らし続けている。通りに人影はなく、里のざわめきも雨音に沈んでいた。はたけ家の灯りだけが、雨の向こうでぼんやりと滲んでいる。

その灯りが、あまりにも静かだった。

人がいる。

けれど、生活の気配が薄い。

食器の音も、足音も、誰かが椅子を引く音もない。雨音の奥にあるはずの家の呼吸が、ほとんど感じられなかった。

オビトの背筋に、冷たいものが走った。

考えるより先に、身体が動いた。

門を押し開ける。濡れた靴が石の上を滑りかけたが、構わず踏み込む。玄関先に立って名を呼ぶ余裕すらなかった。戸に手をかけ、強く押し開ける。

「サクモさん!」

声が、家の中へ飛び込んだ。

返事はない。

だが、奥に気配がある。

あまりにも静かで、あまりにも沈んだ気配。

オビトは床へ上がった。雨に濡れた足元が板張りの床で滑りかける。だが、止まらない。廊下を駆ける。家の中は整っていた。整いすぎていた。物が片付けられ、生活の乱れがなく、まるで誰かが最後に余計なものを残さないようにしたみたいに。

嫌な想像が、喉元までせり上がる。

やめろ。

まだ間に合う。

部屋の戸が半分開いていた。

オビトはそこへ飛び込んだ。

刃が、喉元へ向かっていた。

銀色の光が、雨に濡れた夜の中で鈍く光る。

持っているのは、はたけサクモだった。

木ノ葉の白い牙と呼ばれた男は、もう任務服すら着ていなかった。薄い部屋着の袖が、雨の湿気を吸ったように重く垂れている。髪は乱れていない。姿勢も崩れていない。けれど、その静けさが逆に異様だった。

決意した人間の静けさではない。

すべてを諦めた人間の静けさだった。

オビトは床を蹴った。

「――っ!」

刃が喉へ届く寸前、右手で掴む。

手のひらが裂けた。

熱い痛みと血が走る。

それでも離さない。

刃を握り込み、力ずくで押し止めた。

サクモの目が、ようやくオビトを捉えた。

驚き。

困惑。

そして、深い疲労。

「オビトくん……」

かすれた声だった。

まるで、ここへ誰かが来るなど考えていなかった声。

オビトは刃を握ったまま、息を荒くした。

雨に濡れた髪から水が滴る。ゴーグルにも雫が落ち、頬を伝っていった。手のひらから流れる血が、刃を濡らす。

「何、してんだよ」

声が震えた。

怒りか、恐怖か、安堵か、自分でも分からない。

サクモは答えなかった。

刃を握る手に、もう力はほとんどない。それなのに、離すこともできずにいる。オビトはその手首を掴み、もう片方の手で刃をさらに遠ざけた。

「カカシはどうなる」

その名を出した瞬間、サクモの瞳が揺れた。

「父として……あいつを一人にするつもりかよ」

サクモの喉が動いた。

何か言おうとしたのかもしれない。

けれど、声にならなかった。

オビトは踏み込んだ。

ここで遠慮したら駄目だ。

ここで言葉を選びすぎたら、届かない。

「死ぬつもりだろう」

部屋の中は静まり返った。

雨音だけが、家の外から絶え間なく聞こえている。

サクモは目を伏せた。

その仕草だけで、答えは充分だった。

オビトは奥歯を噛み締める。

間に合った。

まだ、間に合っている。

だから、止める。

「任務失敗の責任は消えない」

サクモの肩がわずかに震えた。

「里が失ったものも戻らない。失敗した事実も、批判される現実も、なかったことにはできない」

それは、慰めではなかった。

優しいだけの言葉では届かない。

サクモは強い忍だ。

任務の重さを知っている。

自分の判断が何を招いたのか、誰よりも分かっている。

だからこそ、否定しすぎてはいけない。

「でも」

オビトは刃を握る手に力を込めた。

手のひらの傷が深くなる。

血が指の間から落ちる。

「仲間を助けた判断まで、間違いにするな」

サクモの目が、ゆっくりと上がった。

「損失は取り戻せる。時間がかかっても、痛みが残っても、里が失ったものは、皆で背負って取り戻していける」

声が低くなる。

「でも、命は取り戻せない」

部屋の空気が重い。

サクモは何も言わない。

けれど、オビトの言葉は止まらなかった。

前世で根付いた言葉が、胸の奥から浮かび上がる。

宗一郎の厳しさ。

綾乃の手の温度。

虎杖の真っ直ぐさ。

伏黒の沈黙。

釘崎の強さ。

五条先生の背中。

いくつもの声が、形を変えてオビトの中に残っている。

「強いなら人を助けろ」

サクモの瞳が揺れる。

「手の届く範囲でいい。救える奴は救っとけ」

それは、オビト自身が何度も縋ってきた言葉でもあった。

「迷っても、感謝されなくても、責められても」

言葉の途中で、昨夜の村が脳裏を掠めた。

助けられなかった人たち。

守れた姉弟。

血の中で拾った命。

「とにかく助けてやれ」

サクモの手から、力が抜けていく。

「それを選んだ人間が、最後に自分の選択を否定して死ぬなよ」

オビトの声が、わずかに震えた。

「死ぬ時は、大勢に囲まれて死ね」

サクモは息を呑んだ。

その言葉の意味が、今この場にあまりにも重く落ちる。

「……一人で死ぬな」

刃が、サクモの手から落ちた。

乾いた音がするはずだった。

けれど、刃はオビトの血に濡れて、床に鈍い音を立てただけだった。

部屋の中は静かだった。

聞こえるのは雨音だけ。

軒を打つ雨。

庭の土を叩く雨。

窓を伝う雨。

サクモは泣かなかった。

泣けなかったのかもしれない。

長く張り詰めすぎて、涙を流す場所すら失っていたのかもしれない。

ただ、崩れるように膝をついた。

その姿は、木ノ葉の白い牙という名からは遠かった。

英雄でもなく。

失墜した忍でもなく。

ひとりの父親で。

ひとりの人間だった。

オビトは刃を遠ざけ、血の滴る手を押さえた。反転術式を回せば、すぐに塞げる。けれど今は、ほんの少しだけその痛みを残したままにした。

自分がここに踏み込んだ証のように。

サクモがまだここにいる証のように。

「カカシは」

サクモの声が、かすかに落ちた。

「カカシは、私を恨むかもしれない」

「恨むかもしれない」

オビトは否定しなかった。

サクモが顔を上げる。

「でも、生きていれば話せる。喧嘩もできる。間違えたなら謝れる。分かり合えなくても、そばにいることはできる」

雨音が続く。

「死んだら、それもできない」

サクモの顔が歪んだ。

それでも涙は出なかった。

「私は……父としても、忍としても」

「間違えたかどうかを、今ここで全部決めなくていい」

オビトは言った。

「少なくとも俺は、仲間を助けたサクモさんを弱いとは思わない」

サクモの瞳が、わずかに揺れた。

「本当に強い人は、任務だけを見て人を捨てる人じゃない。人を助けた後で、その結果を背負って生きる人だろ」

強いとは何か。

オビトは何度も間違えた。

前々世では、力を持っていたのに何も守れず、壊す方へ進んだ。大切なものを失った痛みに呑まれて、自分以外の世界まで巻き込もうとした。

前世では、強い人たちを見た。

理不尽に笑う最強もいた。

死ぬほど真っ直ぐな同級生もいた。

誰かを助けることを、当たり前みたいに選ぶ人たちがいた。

そして、その誰もが完璧ではなかった。

迷った。

怒った。

間違えた。

失った。

それでも、生きて、選び続けた。

強さとは、折れないことだけではない。

折れたあと、誰かの手を掴んででも立つことだ。

「サクモさん」

オビトは膝をついたサクモの前に立ったまま、真っ直ぐ見た。

「生きてくれ」

命令ではない。

懇願でもない。

それは、オビトの生き様そのものから出た言葉だった。

「カカシの父親として。仲間を助けた忍として。白い牙って呼ばれた人としてじゃなくてもいい。はたけサクモとして、生きてくれ」

サクモは何も言わなかった。

ただ、肩が震えた。

雨が強くなる。

軒を打つ音が、部屋の沈黙を埋めていく。

まるで、サクモの代わりに夜を濡らしているようだった。

オビトは床に落ちた刃を拾い、部屋の隅へ遠ざけた。それから、手のひらの傷へそっと力を回す。血が止まり、裂けた皮膚が閉じていく。今のサクモに見せる必要はない。袖で隠すようにして、静かに治した。

戻る。

消えたわけではない。

けれど、傷は塞がった。

部屋の中に、少しずつ呼吸が戻ってきた。

サクモが深く息を吸う。

それだけの動作に、ひどく時間がかかった。

「……オビトくん」

「はい」

「私は、取り返しのつかないことをしたと思っていた」

オビトは黙って聞いた。

「今も、それは変わらない。里が失ったものは重い。私の判断で、多くの者に迷惑をかけた」

「うん」

「だが」

サクモの視線が、床に落ちていた刃のあった場所へ向く。

そこにはもう何もない。

「ここで死ぬこともまた、取り返しのつかないことだったのだな」

オビトは小さく頷いた。

「そうだよ」

サクモは目を閉じた。

泣かなかった。

けれど、その顔から、ほんの少しだけ力が抜けた。

絶望の底に張りついていた静けさが、雨音にほどけていく。

完全に救えたわけではない。

噂は消えない。

批判も明日にはまた始まる。

里の損失も戻らない。

カカシの心も、簡単には晴れない。

けれど、今この瞬間、サクモは死んでいない。

それだけで、運命は変わった。

オビトは濡れた服のまま、その場に立ち尽くした。

寒い。

雨に濡れたせいで、身体が冷えている。

それでも、胸の奥は熱かった。

本当の強さ。

それはたぶん、誰にも責められない道を選ぶことではない。

傷つきながら、責められながら、それでも生きて、次の命へ手を伸ばすことだ。

サクモはその言葉に触れた。

うちはオビトという少年の生き様に触れた。

そして、死の一歩手前で、踏みとどまった。

雨はまだ降っている。

夜はまだ明けない。

けれど、はたけ家の灯りは消えなかった。


〆栞
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