残った影

しばらくして、サクモはゆっくりと顔を上げた。

雨音はまだ続いている。軒を叩く音が、途切れず部屋の外から流れ込んでいた。室内の灯りは弱く、濡れた廊下の向こうまで明るく照らすほどではない。それでも、さっきまで床に沈み込んでいた影が、ほんの少しだけ薄くなったように見えた。

サクモの目元は赤かった。

泣いたわけではない。少なくとも、涙が頬を伝った跡はなかった。けれど、乾ききった痛みを長く抱えていた目だった。

それでも、その目はもう、死へ向いてはいなかった。

「……ありがとう」

かすれた声だった。

その一言を聞いた瞬間、オビトは全身の力が抜けそうになった。

間に合った。

ちゃんと、間に合った。

胸の奥で張り詰めていたものが、一気にほどけていく。膝が笑いかけたのを、奥歯を噛んで堪えた。ここで崩れるわけにはいかない。まだサクモは立ち直ったわけじゃない。ただ、今夜死なないところまで引き戻しただけだ。

それでも、その「だけ」が、どれほど大きいか。

オビトはようやく息を吐いた。

「……よかった」

声に出たかどうか、自分でも分からないくらい小さかった。

サクモは、その吐息のような言葉に目を伏せる。それから、ふとオビトの手へ視線を落とした。

「手……」

刃を掴んだ右手。

皮膚はすでに塞がっている。反転術式で傷は消した。血も止まっている。だが、袖口や指の間に残った赤までは完全には拭えていなかった。

オビトは手を軽く握って開く。

「平気」

「いや、平気ではないだろう」

その返しに、オビトは少しだけ目を瞬いた。

そこへ突っ込む余裕が戻っているなら、大丈夫そうだ。

もちろん、本当に大丈夫という意味ではない。サクモの心はまだ傷だらけだ。里の視線も、任務失敗の責任も、明日になればまた重くのしかかる。それでも、言葉を返せるだけの呼吸が戻った。

オビトは肩を竦めた。

「命に比べりゃ安い」

その言葉に、サクモは今度こそ小さく笑った。

本当に、わずかな笑みだった。

ひどく弱っている。

傷ついてもいる。

けれど、それは生きている人の笑いだった。

オビトはその顔を見て、もう一度胸の奥で息を吐く。

サクモは少し黙り、それからぽつりと呟いた。

「カカシには」

名前が落ちた瞬間、部屋の空気が静かに揺れた。

「何と言えばいいかな」

その問いに、オビトは少しだけ考えた。

カカシは簡単には受け取らないだろう。きっと怒る。硬くなる。任務を捨てた父を責めるかもしれない。忍としての正しさを突きつけるかもしれない。

それを止める言葉を、今ここで用意することはできない。

そもそも、完璧な言葉なんてない。

「すぐ全部うまく言えなくてもいいと思う」

答えながら、オビトは自分でも少し驚いた。

自然に出た。

自分が前に言われたようでもあり、誰かに言いたかったようでもある言葉だった。

「でも、生きて帰ってきたら、ちゃんと家にいてやれ。たぶん、それが一番大事だ」

サクモは静かに頷いた。

「……そうだね」

それだけだった。

それだけでよかった。

部屋の空気が、ほんの少しだけ変わっていた。噂も、悪意も、失ったものも消えない。任務失敗の責任も、里の損害も、明日になればまた人々の口に上る。

けれど、今ここで死なないと決まっただけで、世界の形は確かに変わった。

最初の改変。

その重みが、遅れて胸へ落ちてくる。

オビトは掌へ目を落として、小さく息を吐いた。

やった。

やってしまった。

でも、これでよかった。

きっと。

そう思うしかなかった。

「じゃあ」

オビトはわざとそっけなく言った。

「飯、食えよ」

サクモが目を瞬く。

「……いきなり現実的だね」

「現実だろ」

オビトは濡れた袖を軽く絞りながら、部屋の中を見た。整いすぎた室内。片付けられた机。冷えた空気。生活の音が止まりかけていた家。

まず、それを戻さなければならない。

「死なないって決めたなら、まず食え。風呂も入れ。そんでもって寝ろ」

サクモは本当に少しだけ困ったように笑った。

「はいはい」

その返事が、妙にありがたかった。

軽い返事。

生きている人間が、今夜を越えるためにする返事。

オビトは刃を完全に手の届かない場所へ寄せ、部屋の戸口へ向かった。玄関へ戻る頃には、家の静けさが少しだけ違って聞こえた。まだ寂しい。まだ重い。けれど、さっきまでのような底なしの沈黙ではなかった。

家を出た時、雨は止んでいた。

濡れた通りに、街灯の光が細く反射している。空気は冷えていた。けれど、刺すような不吉さはもうない。息を吸えば、肺がちゃんと動くような、澄んだ冷たさだった。

オビトは一度だけ空を見上げる。

雲は厚い。

星は見えない。

それでも、雨は止んだ。

最初の改変は終わった。

でも、救済ってのはたぶん、ここから先の方が長い。

そう思いながら、それでも胸の奥には、確かな安堵があった。

翌日、サクモは里内を歩いていた。

雨は上がっていたが、通りの端にはまだ湿り気が残っていた。商店街の軒先では布が干され、店主が濡れた板を拭いている。忍たちが任務受付へ向かい、子どもたちが水たまりを避けながら走っていく。

日常が戻っている。

だが、サクモへ向けられる空気は戻らなかった。

視線が避ける。

声が落ちる。

人の流れが、不自然に少しだけ割れる。

「……白い牙が」

「まだ普通に歩いてるのか」

「任務を失敗したのに」

小さな声は、聞こえないふりをするには近すぎた。

サクモは足を止めなかった。

責任を否定するつもりはなかった。自分の判断で里が損害を受けた。それは事実だ。批判される理由もある。失ったものは戻らない。誰かが怒ることも、失望することも、止められない。

けれど、昨夜の刃の冷たさはもう手元にない。

死へ戻ろうとは思わなかった。

迷っても、感謝されなくても、とにかく助けてやれ。

少年の声が、雨音と一緒に胸の底へ残っている。

助けた仲間の命まで、間違いにしないために。

サクモは生きる方へ足を向けた。

通りの向こうに、白い髪が見えた。

カカシだった。

任務帰りなのだろう。装備は少し汚れ、肩には雨上がりの湿気が残っている。疲れを顔に出さないようにしているが、歩き方にはわずかな硬さがあった。

カカシも、サクモに気づいた。

足が止まる。

周囲の空気が、さらに細く張り詰めた。

通りを歩いていた者たちが、声を落とす。店先の大人が手を止める。数人の忍が、見ないふりをしながら視線だけを向ける。

カカシの目が、それを感じ取ってさらに硬くなった。

「父さん」

声は平らだった。

けれど、奥に押し込めたものがある。

怒り。

失望。

戸惑い。

そして、傷ついた子どもの心。

サクモは穏やかに返した。

「おかえり、カカシ」

その言葉に、カカシの眉がわずかに動く。

ただいま、とは言わなかった。

「任務は絶対だ」

代わりに、そう言った。

周囲の沈黙が深くなる。

「忍なら、任務を果たすべきだ。仲間を助けたとしても、そのせいで里に損害を出したなら、失敗は失敗だ」

正論だった。

幼い声でありながら、刃のように硬い言葉だった。

「オレは間違えない」

サクモは黙って受け止めた。

忍としては、カカシの言葉は正しい。

任務を軽んじる者に、里は命を預けられない。個人の情で判断を歪めれば、多くの人間が危険にさらされる。それは、サクモ自身が誰より知っている。

けれど、自分が選んだものも、間違いではなかった。

サクモは人を選んだ。

カカシは忍を選んだ。

今は、それだけだった。

「そうだね」

サクモは静かに言った。

「私の任務は失敗だった」

カカシの目が揺れた。

認められたことで、かえって言葉の行き場を失ったように。

「けれど、助けた命まで失敗だったとは、もう思わない」

その声は、強くはなかった。

だが、昨夜より少しだけ芯があった。

カカシの口元が固く結ばれる。

「……甘い」

「そうかもしれない」

「忍は、甘さで人を守れない」

「うん」

サクモは頷いた。

「それでも私は、あの時あの人たちを見捨てられなかった」

周囲の誰かが息を呑んだ。

カカシの肩に力が入る。

通りの端で、リンが立ち止まっていた。

買い物帰りだったのか、小さな袋を手にしている。声をかけようと、一歩だけ踏み出しかけて、止まる。今の二人の間へ入っていいのか分からない顔だった。

リンはカカシを冷たい子だとは思わなかった。

ただ、ひどく固くなっている子だと思った。

何かを守るために、全部を刃みたいに尖らせている。そうしなければ、立っていられないみたいに。

少し離れた建物の陰で、オビトもその場面を見ていた。

表へ出るつもりはなかった。

カカシが戻る時間を見計らって、はたけ家の周辺へ来ていた。サクモが本当に家を出て、人の目の中を歩いていることを確認したかった。カカシがどう反応するのかも、見ておきたかった。

サクモは生きている。

それは確かだった。

カカシは、まだ変わっていない。

それも確かだった。

どちらも嘘ではないから、今は踏み込まない。

ここでオビトが割って入れば、カカシは余計に硬くなるかもしれない。サクモの言葉も、父子の間に落ちる前に別のものへ変わってしまう。

カカシが変わるには、まだ時間がいる。

神無毘橋だな。

オビトは胸の中で思う。

あと六年。

遠いようで、きっと近い。

その前に、自来也の弟子か。

仙術。

螺旋丸。

特別上忍の任務。

何でも屋。

器の鍛え直し。

サクモを生かしたことで変わる流れ。

全部が頭の中で一瞬にして積み上がる。

「あれ……」

オビトは小さく呟いた。

「俺、無事にミナト班に入れる?」

思わず出た疑問は、雨上がりの空気に小さく消えた。

真面目な場面だ。

分かっている。

けれど、今さらながら自分の進路がとんでもなく混線していることに気づいてしまった。

通りでは、サクモとカカシが向き合ったままだった。

リンは遠巻きに見ている。

周囲の視線はまだ冷たい。

誰も救われきってはいない。

けれど、サクモは死へ戻らなかった。

カカシは父と向き合う場所に立っている。

リンはその硬さを見て、言葉を探している。

オビトは踏み込まない選択をしている。

昨日までならなかった景色が、そこにあった。

最初の改変の影は、まだ残っている。

けれど、その影の中にも、生きている人間の足音があった。


〆栞
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