万華鏡

三歳になった。

この世界での三年は、体感としては妙に長かった。赤ん坊としての不自由さを耐え、二歳児としての不自由さを耐え、ようやく三歳である。歩くのはだいぶ安定した。言葉もそれなりに話せる。祖母の手伝いをしようとして止められることも減った。

減っただけで、なくなってはいない。

「オビト、そっちは重いから置いておきなさい」

「これくらい平気だって」

「三歳の子が言う台詞じゃないよ」

祖母にぴしゃりと言われ、オビトは小さな桶に手をかけたまま黙った。

たしかに三歳児の台詞ではない。だが、中身は三十一年と二十一年と、さらにこの三年を足している。合計五十五年である。五十五歳。節目と言えば節目だ。人によってはそこそこの年季を感じる年齢だろう。

その五十五歳が、祖母に桶を持つなと叱られている。

人生とは本当にままならない。

オビトは大人しく桶から手を離した。祖母は満足げに頷き、代わりに小さな布を渡してくる。

「こっちを畳んでおくれ」

「うん」

布巾を畳むくらいなら、三歳児としても不自然ではない。たぶん。オビトは縁側に腰を下ろし、祖母の目が届く範囲で手を動かした。外はよく晴れていて、庭の草に光が落ちている。家は静かだった。父と母がいた頃より、音が少ない。けれど、その静けさにも少しずつ慣れてしまった。

慣れるのは、少し嫌だ。

そう思うこともあったが、人は慣れなければ生きていけない。前世でも前々世でも、嫌というほど知っている。だから今は、この静かな家で祖母と暮らし、できることを増やし、できないふりも覚え、呪霊を見つければこっそり祓い、写輪眼は決して見られないようにする。

写輪眼の制御は、かなり安定してきた。

三つ巴そのものは身体によく馴染んでいる。馴染みすぎて怖いくらいだ。二歳児の赤い瞳を鏡で見た時の衝撃は、今でも忘れられない。あれは普通に怖かった。夜中に会ったら泣く。いや、泣くのは相手かもしれないが、とにかく怖い。

だから、普段は黒目。

絶対に黒目。

祖母の前では当然、集落の者の前でも当然、井戸の水面を見る時ですら気をつける。赤い瞳は力であり、火種でもある。六道仙人に言われるまでもなく、その意味は分かっていた。

うちはの中で、早すぎる開眼は目を引く。

まして三つ巴など論外だ。

そんなふうに気を張っていたせいか、オビトは小さな異変に気づくのが遅れた。

最初は、視界の端が妙に深くなった気がした。

庭の草が揺れる。風の向きが見える。葉の重なりの奥にある小さな虫の動きまで、過剰に拾える。写輪眼を出しているつもりはなかった。黒目のままのはずだ。けれど、情報の密度が一瞬だけ増えた。

あれ。

なんか視界が変だ。

オビトは畳みかけていた布巾を止めた。まばたきをする。普通に戻る。もう一度、意識を落ち着ける。問題ない。たぶん疲れだ。三歳児の身体で、夜中に低級呪霊を祓い、昼間は普通の子どもを演じているのだから、疲れてもおかしくない。

そう思った次の瞬間、視界が赤く染まった。

「……っ」

声を飲み込んだのは、ほとんど反射だった。祖母は奥の部屋にいる。今こちらを見てはいない。よかった。いや、よくない。全然よくない。

三つ巴が回っている感覚がある。

まずい。すぐ戻せ。

オビトは目を閉じ、呼吸を整えた。黒目へ戻す。戻せる。いつも通りだ。焦るな。三歳児の身体だろうと、ここまで何度も制御してきた。写輪眼くらい、閉じられる。

閉じたはずだった。

けれど、まぶたの裏で何かが軋んだ。

痛みというより、古い扉が勝手に開くような感覚だった。魂の奥に刻まれた形が、幼い肉体の制限を無視して表へ出てくる。前々世で開いたもの。前世でも持ち越したもの。死を、喪失を、戦場を、呪いを、何度も見続けた瞳。

写輪眼の、さらに向こう側。

オビトは跳ねるように立ち上がった。

「か、鏡……!」

小さな声で呟き、慌てて部屋の隅へ向かう。鏡は祖母の裁縫箱の近くに置かれていた。普段はあまり覗かないようにしている。赤い瞳が映ると心臓に悪いからだ。だが今は確認しない方がもっと怖い。

鏡を手に取る。

幼い顔が映る。

赤い瞳。

その中に、三つ巴ではない模様が浮かんでいた。

「ええと」

言葉が止まる。

万華鏡写輪眼。

「ふぁっ!?」

思わず変な声が出た。

待って。

早い。

あまりにも早い。

三歳で万華鏡は早い。早すぎる。三つ巴の時点で十分おかしかったのに、その向こう側へ行くのはさすがにいけない。いや、理屈としては分からないでもない。前々世で開いている。死ぬ時には両目も揃っていた。前世でも魂にその形を抱えたまま生きた。人生のあれこれを経験しすぎた賜物と言えば、まあ、そうなのかもしれない。

そうなのかもしれないが、三歳児の顔に万華鏡はやめろ。

ホラーが過ぎる。

鏡の中の自分は、頬も丸く、髪もまだ幼く、どう見ても小さな子どもだった。なのに瞳だけが異様だった。赤い色の奥に、成熟しすぎた力が宿っている。戦場の死と喪失と、選び直した生の全部が、幼い顔の中で浮いていた。

「怖っ……」

素直な感想が漏れた。

やっぱり怖い。三つ巴も怖かったが、万華鏡はさらに怖い。夜中に廊下で出会ったら、間違いなく二度見する。いや、二度見できればまだいい。相手によっては腰を抜かす。自分が相手でもたぶん引く。

オビトは慌てて目を閉じた。

戻せ。

戻せるはずだ。

意識を沈め、瞳の奥にある形を畳む。万華鏡の模様が、ゆっくりと閉じていく感覚があった。次いで三つ巴も沈める。赤が消え、視界が黒へ戻る。鏡をもう一度見ると、そこには普通の黒目の三歳児がいた。

普通。

たぶん普通。

いや、普通の三歳児は自分の目を見てこんな確認をしない。

オビトは鏡を置こうとして、ふと背後の気配に気づいた。

古く、深く、この世界の根に近いチャクラ。

嫌な予感がした。

ゆっくり振り返る。

六道仙人がいた。

完全に見ていた。

老人は固まっていた。二歳の時、三つ巴を見られた時にも驚いていたが、今回はその比ではない。口を開きかけたまま止まり、目は鏡からオビトへ、オビトから鏡へ、そしてもう一度オビトへと戻る。

その顔には、はっきりと衝撃が浮かんでいた。

「……怖っ」

六道仙人が言った。

言った。

六道仙人が。

オビトは目を見開いた。

お前もかブルータス。

いや、ブルータスって誰だったか。前世の学校で習った。たしかローマのカエサルだったか。暗殺の場面で出てきた名前だった気がする。五条先生の授業ではない。あの人は世界史をまともに教えない。たぶん通常の学校の授業だ。高専に入る前の、まだ比較的普通の学生をしていた頃の記憶。

こんなところで世界史を思い出すとは思わなかった。

いや、現実逃避している場合ではない。

六道仙人に「怖っ」と言われた。

三歳児として、いや、うちはオビトとしても、なかなか得難い経験である。得たくはなかった。

「怖いって……」

小さく呟いてしまってから、オビトはしまったと思った。三歳児が六道仙人の発言に突っ込むのは不自然すぎる。だがもう遅い。老人は老人で、今さらそこには驚かなかった。どうやら会話が成立することより、三歳児の万華鏡の方がよほど衝撃らしい。

「お主、今の瞳は」

「……見た?」

「見た」

正直だな。

オビトは頭を抱えたくなった。実際には小さな手で額を押さえるだけになった。三歳児の手は小さい。深刻な仕草をしても、あまり格好がつかない。

六道仙人は、困惑と警戒と不可解さを混ぜた顔で近づいてきた。近づくといっても、実体が床を踏むわけではない。そこに在るようで、在らない。祖母が部屋へ入ってきたら何も見えないのだろう。だがオビトにははっきり見えている。

「万華鏡……いや、その形は、魂に刻まれたものが先に表へ出たのか」

「たぶん」

「たぶん、で済むものではない」

それはそう。

オビトは反論できなかった。

「三つ巴ですら早すぎる。まして、その先の瞳は本来、深い喪失と強い情の果てに開くもの。幼子が持つべきものではない」

幼子ではある。

身体は。

中身は五十五歳だが。

「いろいろ、あったから」

言ってから、少しだけ視線を落とした。軽く言ったつもりだった。実際、毎回沈むつもりはない。前々世の罪も喪失も、前世の痛みも、今の自分を全部支配しているわけではない。だが、万華鏡という瞳がある以上、そこに何もなかったとは言えない。

六道仙人は黙った。

いつものように見透かすのではなく、分からないものを前に沈黙している。三歳児の身体に、死と戦の記憶を抱えた魂が入っている。その上、別の理で鍛えられ、呪いの王の術式まで写し取った。六道仙人から見ても、まともな説明がつかないのだろう。

「お主は、己の瞳を恐れるか」

静かに問われた。

オビトは少し考えた。

鏡の中の万華鏡は、確かに怖かった。赤い瞳をした三歳児はかなり怖い。六道仙人まで怖がった。そこはもう認めるしかない。

だが、瞳そのものを恐れるかと言われると、少し違う。

前々世では、この瞳で多くを見た。多くを誤った。神威で逃げ、奪い、閉じこもり、仮面の向こうから世界を壊した。けれど最後には、この瞳でナルトを守った。カカシへ届くはずだった死を飛ばし、自分へ向かった死を受けた。

前世では、この瞳で呪いを見た。術式を捉え、宿儺の御厨子すら写し取った。無茶な戦場で、それでも誰かを助けるために使った。

瞳が悪いわけではない。

使う自分が、何を見るかだ。

「怖いのは、使い方を間違えることだと思う」

舌足らずな声では、どうしても重さが抜ける。三歳児の声で言う台詞ではなかった。だが六道仙人は笑わなかった。

「瞳自体は、力だ。火種でもあるけど」

六道仙人が目を細める。

「誰かを守れるなら、使う。でも、見せびらかす気はない。うちはの中でこの目がどう見られるかは、少しは分かってる」

「……幼子の言葉ではないな」

「三歳です」

「なおさらじゃ」

それはそう。

オビトは少し気まずくなり、鏡を裏返した。もう黒目へ戻しているとはいえ、あの万華鏡を思い出すと落ち着かない。

六道仙人は深く息を吐いた。

「お主の魂は、過ぎた年月を抱えておる。肉体は幼くとも、瞳はそれに引かれる。だが、力が先に育てば、人の目は必ずそこへ向く」

「分かってる」

「ならば隠せ。少なくとも、己で守れる歳になるまでは」

その言葉は、意外なほど現実的だった。

六道仙人が、隠すことを否定しない。力を持つなら使え、宿命を受け入れろ、といった話ではない。三歳児の身体では守れないものがあるから、隠せと言う。その判断は、妙に忍の世界に馴染んでいた。

オビトは小さく頷いた。

今度は、わざとだ。

「うん」

六道仙人はその頷きを見て、しばらく黙っていた。やがて、少しだけ視線を和らげる。

「お主は、何度も問うても答えぬ。答えられぬのか、答えぬのか、わしにはまだ測れぬ。だが一つだけ分かった」

「何が?」

「三歳児としては、だいぶ怖い」

「そこ?」

思わず突っ込んだ。

六道仙人は真面目な顔だった。真面目な顔で言うことではない。いや、三歳児の万華鏡は実際怖いのだが、そこを神格めいた存在に改めて言われると、どう反応していいか分からない。

お前もかブルータス。

やはり内心でそう呟くしかなかった。

その時、廊下の奥で祖母の足音がした。

オビトは瞬時に鏡を元の位置へ戻し、布巾のところへ戻ろうとした。戻ろうとして、足がもつれた。三歳児の身体で急ぎすぎた。転ぶ。

本能的に受け身を取りかけて、慌ててやめる。

結果、普通に尻餅をついた。

痛い。

かなり痛い。

「オビト?」

祖母が顔を出した。オビトは尻餅をついたまま、何事もなかった顔を作る。たぶん作れていない。六道仙人はすでに姿を薄くしていた。逃げ足が早い。

「転んだのかい」

「……うん」

「急に走るからだよ。怪我は?」

「ない」

祖母は近づいて、オビトの頭を撫でた。その手は少し乾いていて、温かかった。オビトは大人しく撫でられながら、黒目を保っているか何度も意識の奥で確認した。

大丈夫。

黒目。

普通の三歳児。

たぶん。

祖母は裏返った鏡にちらりと目をやったが、特に気にした様子はなかった。ほっとする。万華鏡を見られたら、説明どころではない。祖母の心臓にも悪いし、こちらの心臓にも悪い。

「布巾は終わったかい」

「もうちょっと」

「なら、終わったらおやつにしよう」

「うん」

おやつ。

その言葉に、赤ん坊ではなく三歳児の身体が素直に反応した。腹が少し鳴る。祖母が笑う。オビトは何とも言えない顔で布巾の前に座り直した。

万華鏡写輪眼が開いた。

六道仙人に怖がられた。

自分でも怖かった。

だが、その直後に布巾を畳み、おやつを待っている。人生の落差がひどい。前世の高専でも、戦闘直後に飯の話をしていたことはある。虎杖なら普通に「腹減った」くらい言っただろう。伏黒は呆れ、釘崎は文句を言いながら食べ、五条先生は勝手に甘いものを出してきたに違いない。

少し笑いそうになった。

重いものはある。

でも、ずっとそこに沈んでいるわけではない。

今は、祖母の家で、三歳の身体で、布巾を畳んでいる。目の奥には赤い万華鏡が眠っている。使い方を間違えれば、また何かを壊すかもしれない。けれど、正しく使えば、きっと守れるものもある。

オビトは最後の布巾を畳み終えた。

「婆ちゃん、できた」

「はいはい。上手にできたねえ」

五十五歳、布巾畳みで褒められる。

まあ、悪くないか。

そう思ってしまった自分に、オビトは少しだけ肩の力を抜いた。


〆栞
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