忍者学校前日

忍者学校へ上がる前日になって、家の中が少しだけ落ち着かなかった。

祖母が着替えを畳み直し、持ち物をもう一度確かめ、ついでに俺の髪まで整え直そうとする。そこまでしなくても、と言いかけて、やめた。こういうのはたぶん、本人のためというより送り出す側の手順なのだ。明日から少しずつ外の時間が増える。その変化へ気持ちを合わせるための、祖母なりの支度なんだろう。

俺は邪魔にならないよう座って、手元のゴーグルをいじっていた。

馴染んだな、と思う。

最初はただ懐かしいだけだった。だが今ではもう、これがないと落ち着かない。額へ乗せた重みも、革の感触も、視界の上へ引っかかる存在感も、だいぶ身体の一部みたいになっている。

これで、本当に大丈夫か。

何度目かになる確認を、またやってしまう。

写輪眼は抑えられている。万華鏡も今は沈んでいる。意図せず浮く気配も、少なくともここ最近はかなり減った。けれど、学校へ入れば人の目が増える。子ども同士の距離も近くなる。予想外のことも起きるだろう。

だから最後に、もう一度だけ確かめたかった。

その夜、祖母が寝静まったあとで外へ出る。

空気は冷えていたが、春前の匂いが少し混ざっていた。夜風の中を歩いて、いつもの外れまで行く。人目がないことを確かめて、呼吸を整えたところで、気配が落ちてきた。

「……来ると思っておった」

六道仙人だった。

白い衣を夜気へ滲ませながら、いつものように少しだけ距離を取って立っている。もう驚かない。驚かないが、やはり妙な存在感ではある。

俺が肩を竦めると、老人はわずかに目を細めた。

「退く前の見納め、というやつじゃ」

退く前。

ああ、そうか。明日からだ。

忍者学校へ入る頃には一度退く、と前に言っていた。なら今日が、その境目になるのだろう。

六道仙人はしばらく俺を見てから、ふと視線をずらした。

「ただ見ておるだけでは、つまらぬな」

嫌な予感がした。

本当に、こういう前置きのあとでろくなことにならない。

その瞬間、空気が変わる。

夜の静けさに、ひどく場違いな、軽い声が落ちた。

「え、なに。つまんないの? じゃあ僕呼ぶしかなくない?」

背筋がぞくりとした。

振り向くより先に分かる。

この声音、この軽さ、このふざけた調子のくせに、立った瞬間に場そのものを塗り替える感じ。

五条悟だ。

「……は?」

思わず素で声が出た。

そこにいたのは、背の高い男だった。長い手足。立っているだけで絵になるくせに、気配の置き方が軽すぎる。目隠しの代わりに、今は目元が見えている。夜なのに、その存在だけ妙に明るい。

いや待て。

何でいる。

というか、仮想とはいえ、この呼ばれ方あるか?

「ちょっとー、その反応ひどくない?」

肩をすくめながら、五条は笑う。

「久しぶりに会えたのにさ」

久しぶり、なんてもんじゃない。

前世が遠く沈んでいたはずのところから、急に本人が立ち上がってきたような感覚だった。記憶の中の人のはずなのに、そこにいる。しかも相変わらず、空気の掻き回し方が自由すぎる。

六道仙人は少し離れたまま、何も言わない。

あ、この人、完全に観測モードだな。

面白がってるとまでは言わないが、少なくとも止める気はない。つまり俺がやるしかない。

「術式抜きじゃよ」

六道仙人が静かに言った。

「体術だけで見せてみよ」

体術だけ。

俺は五条を見る。

五条はにこりと笑った。

「だってさ。よかったね、サービスだよ」

何がサービスだ。

いや、分かる。術式抜きならまだ勝負になる余地がある。無下限込みだったら、今の俺ではそもそも触れない。だが、だからといって楽になるわけでもない。

相手は五条悟だ。

術式抜きでも、身体能力と間合いだけで十分すぎるほど厄介なんだよ、この人。

「じゃ、来なよ」

軽い。

軽いのに、立ち方に隙がない。

俺は小さく息を吐いて、ゴーグルの位置を直した。それから、地を蹴る。

一歩。

二歩。

間合いへ入る前に、もう分かる。

長い。

リーチが長すぎる。

前世でも思ってたけど、改めて今の身体で向き合うと本当に卑怯だ。こっちはまだ少年手前の体格で、向こうは一九〇を超える大人の骨格である。手も脚も長い。しかも本人がそれを軽々と使う。

最初の踏み込みを、紙一重でいなされる。

「遅い」

軽い声。

分かってるよ!

内心で毒づきながら、体を流して二手目へ繋げる。足払い気味に崩して、そのまま懐へ潜る。だが読まれている。肘で軌道をずらされ、逆に肩を押される。距離が開く。

また長い脚が来る。

避ける。

踏み込む。

拳を打つ。

腕で流される。

「うわ、ちゃんと考えてる」

煽り文句まで軽い。

「えらいえらい」

腹立つな、この人!

だが腹が立つのと同時に、身体は喜んでいた。

知っている。この感覚を。

ただ強い相手とやるだけじゃない。相手の癖を読み、こちらの組み立てを一手先へずらし、それでもなお上を取られる。そのたびに、もっと考えろ、もっと見ろ、と全身が研ぎ澄まされる感じ。

前世で何度もやった。

組手とも実戦とも違う、でも確かに生きたやり取り。

悔しい。

悔しいのに、楽しい。

もう一度、低く潜る。今度は真っ直ぐ入らない。外から見せて、途中で角度を変え、足の内側を狙う。重心がわずかに動いた瞬間、肩から当たって――

「お」

初めて、少しだけ崩れた。

いける。

そう思った瞬間には、もう遅い。

五条の体が滑るみたいに離れて、次の瞬間には視界の上から足が降ってきていた。

速い。

認識した時には、もう躱しきれない位置だ。

蹴りが一本、きれいに入った。

衝撃。

息が飛ぶ。

景色がひっくり返る。

そのまま、俺は地面へ倒れていた。

「っ、は……」

声にならない息を吐く。

大の字で夜空を見上げると、星が少し揺れて見えた。胸が上下する。息が上がっている。仮想。そう分かっていても、負けは負けだ。ちゃんと悔しい。

くそ、やっぱ強ぇな……。

でも。

口元が少しだけ緩んだ。

楽しかった。

本当に。

地面に倒れたままそう思っていると、頭上から影が差した。

五条だ。

見下ろしてきた顔は、相変わらず軽いのに、目だけは少し違った。ふざけ半分の色が抜けて、静かにこちらを見ている。

「やっぱ良いね、その目」

一瞬、思考が止まる。

え?

その目。

今、何て。

「写輪眼」

さらっと言った。

「それ、すごくいい」

「……ふぇ!?」

間抜けな声が出た。

いや待て。

待て待て待て。

何でそこでそこ拾うの!?

俺はほとんど反射で飛び起きて、額のゴーグルへ手をやった。ずれてる。ちょっとずれてる! 組手の途中で上がったのか!? 見えてた!? どの程度!? 黒目? 赤? 模様まで!?

うわあああ、やっぱ最終確認必要じゃねぇか!

心の中で騒ぎながら、ぐいっと位置を直す。五条はそれを見て、楽しそうに肩を揺らした。

「今さら隠す?」

「隠すだろ、普通!」

思わず返した。

……しまった、普通に返してしまった。

いやでもこの流れで黙ってる方が無理だろ。

五条は笑う。ひどく楽しそうに。

「うんうん、そういうとこも含めていい感じ」

何がだ。

何もかもふわっとしてるな、この人は!

だが、その軽さの奥にあるものも、俺は知っている。見た目のままに流してはいけない人だ。だからこそ、今の一言が妙に胸へ残る。

その目がいい。

そう言われると、不意打ちみたいに効く。

前々世では呪いの象徴みたいに思った時もあった。この目のせいで見えたものもある。この目で壊したものもある。だが前世のこの人は、その力をまるごと見たうえで、なおそう言うのだ。

面倒くさいくらい真っ直ぐで、困る。

少し黙った俺を見て、五条はそれ以上は何も言わなかった。ただ、ふっと一歩下がる。そこで初めて、この場が組手の後だという現実へ戻る。

六道仙人が近くでこちらを見ていた。

その目には、いつもの困惑だけではなく、もっと静かなものがある。

俺の実力。

今の立ち方。

術式抜きの体術でも、どこまで考え、どこまで崩れ、どこまで楽しめるか。

たぶん、この人はそれを見ていたのだろう。

五条の姿は、そこで少しずつ薄れていった。

ああ、仮想か。

分かっていたはずなのに、最後まで普通にそこにいたせいで変な感じだ。

消える直前、五条はひらひらと片手を振った。

「じゃ、あとはそっちで頑張って」

本当に最後まで軽い。

でも、その軽さに救われたことも、何度もあった。

姿が消える。

夜の外れには、俺と六道仙人だけが残った。

しばらく沈黙があった。

俺はもう一度、ゴーグルの位置を直す。念入りに。かなり念入りに。上から、横から、ずれ具合を確かめる。最終確認である。これ大事。明日から学校なんだから本当に大事。

そんな俺を見て、六道仙人が低く息を吐いた。

「……生き様、か」

ぽつりと落ちた声は、独り言みたいだった。

俺は手を止めて、そちらを見る。

老人は庭のない夜の地面を見つめるように、少しだけ目を細めていた。何を思っているのかまでは分からない。だが、今の仮想組手も、その前に交わした言葉も、たぶん全部ひっくるめて見ているのだろう。

それから、六道仙人は俺へ向き直った。

「ここから先は、姿を消して観測させてもらおう」

静かな声だった。

決別でも、別れでもない。

ただ一歩、距離を取る宣言。

前に言っていた通りだ。忍者学校へ入る頃には一度退く。姿は消す。だが、見届けることはやめない。

俺は小さく頷いた。

「……うん」

それで十分だった。

六道仙人は、いつものように少しだけ困ったような、少しだけ呆れたような顔をした。その表情を見ていると、この人なりに本当に長く付き合ってくれたんだな、と思う。

理解者ではなかった。

最後まで、事情の全部を知ることもなかった。

それでも観測者として、困惑しながらも、見続けてくれた。

そのことは、案外大きかったのかもしれない。

「お主の行末、期待しておる」

六道仙人はそう言った。

期待。

妙に重い言葉だ。

でも、嫌じゃなかった。

俺は夜気を吸い込み、ゆっくり吐く。明日から忍者学校だ。普通の子どもとして見せる努力も、たぶんまた盛大に失敗するんだろう。カカシもいる。新しい接触も増える。隠したいものも、抱えたまま進まないといけない。

面倒だな、と思う。

面倒だけど、嫌ではない。

それが今の俺の答えだった。

六道仙人の姿が、少しずつ薄れていく。

最後に見えたのは、やはり静かな顔だった。

それが完全に夜へ溶けるまで見届けてから、俺はもう一度だけゴーグルへ触れた。

よし。

大丈夫、たぶん。

たぶん、というのがだいぶ不安だが、やるしかない。

俺は家の方へ歩き出した。

忍者学校前日。

仮想とはいえ五条悟に蹴り飛ばされ、六道仙人は退き、ゴーグルの最終確認も済んだ。

情報量が多い。

でも、悪くない締めだ。

明日から、また少し前へ進む。

そう思いながら、夜の道を帰っていった。


〆栞
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