赤ん坊
目が覚めるたびに、まだ少しだけ確認してしまう。
本当に赤ん坊なのか、と。
いや、確認したところで現実は変わらない。短い手足。低い視界。思うように動かない身体。眠気にも空腹にも容赦なく振り回される未成熟な肉体。どう見ても、誰がどう見ても、赤ん坊である。
しかも一度ならず二度目だ。
一度目は、カグヤ戦のあと。二度目は、呪詛師の自爆法術のあと。
普通の人間なら一回で十分混乱するところを、俺は二回も赤ん坊をやらされている。いい加減、人生というやつに文句の一つも言いたくなる。
それでも、目覚めたばかりの意識で最初に耳へ届いた男の声を、俺はもう覚えていた。
うちはマヒト。
父の名だ。
最初にその名を聞いた時は、さすがに一瞬、固まった。
……マヒト?
頭の奥で、嫌な記憶がひやりと撫でていった。人のかたちを弄び、魂を捻じ曲げ、笑いながら踏みにじった、前世の悪夢の一角。あの名と同じ音を持つ響きに、条件反射みたいに意識がざわついたのだ。
だが、すぐに打ち消した。
いや、同じ音なだけだ。
そもそも、あんなものとこの人を一緒にするのは失礼にもほどがある。
抱き上げる手つきが、もう違う。声の温度も違う。視線の置き方も違う。穏やかで、人当たりがよくて、必要以上に踏み込まず、それでいてちゃんと見ている。忍らしい芯の固さはあるのに、どこか空気がやわらかい。
同じ名でも、中身はまるで別物だった。
母は、うちはツムギ。
こちらも静かで、やさしい人だった。
父ほど表に出すタイプではないが、そのぶん眼差しと手つきに温度がある。言葉少なでも、こちらを見つめる目の中に、確かに愛情があるのが分かる。抱かれていると、妙に落ち着く。赤ん坊の本能のせいだけじゃない。前々世でも前世でも、俺はこういう“ちゃんとした母の温度”に飢えていたのかもしれない。
家はうちは集落の外れにあった。
中心から少し離れた位置。人の出入りもそこまで多くない。息苦しさが薄い。うちは一族特有の、あの張り詰めた空気――目に見えない癖に妙に肌へ貼りつくような、血と誇りと閉鎖性の混じった圧が、この家には薄かった。
妙に、呼吸がしやすい。
前々世では、気づかなかった。
いや、正確には、子どもだった俺には比べる基準がなかったのだろう。うちはとはそういうものだと思っていた。集落とはそういうものだと、息苦しさ込みで受け入れていた。
けれど今の俺は違う。
一度木の葉を壊す側へ回り、一度まるで別の世界で家族を得た。そのうえで戻ってきたからこそ分かる。この家の空気は、うちはの中ではたぶん珍しい。
穏やかだ。
静かで、あたたかい。
前世の両親――宗一郎さんと綾乃さんほど、全力で親バカを発揮するわけじゃない。あの二人はちょっと、いやかなり極端だった。寝返り一つで大騒ぎし、笑えば天才だと盛り上がり、泣けば世界の終わりみたいな顔をする。正直、あれはあれで圧がすごかった。
だが、この家のあたたかさは、もっと静かだ。
大仰ではない。押しつけがましくもない。ただ、きちんとここにある。食卓の気配みたいに、火の入った部屋みたいに、当たり前の顔をしてそこにある。
前々世にはなかった“あたたかい家”だった。
それを知った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
嬉しいような、寂しいような、どうにも言葉にしづらい痛みだ。俺は前々世でこれを知らなかった。知らないまま、ずいぶん遠くまで行ってしまった。前世でようやく別のかたちの家を知って、そして今、またここでそれに触れている。
なら今度は、失くしたくないと思う。
まだ首もろくに座りきっていない身体で、そんなことを思うのだから笑える。だが、思ってしまったものは仕方がない。
はっきりした意識で赤ん坊をやるのは、これで二回目だ。
前々世を終えた時、俺は三十一歳だった。前世を終えた時は二十一歳。合わせて五十二歳。中身だけで言えば、もう立派に大人の男である。
舐めんなよ、と思う。
赤ん坊の身体だからって、こっちは伊達に二回死んでない。人生の密度だけならだいぶ濃い。忍の世界も呪いの世界も見てきた。戦争も、喪失も、最強の背中も、どうしようもない別れも知っている。多少のことじゃ狼狽えない。
――そう思っていた瞬間が、俺にもありました。
現実は甘くなかった。
まず、乳だ。
乳を飲まないといけない。
いや、分かっている。生きるためだ。赤ん坊なのだから当然だ。栄養を摂らねば死ぬ。そんなことは分かっている。理屈では分かっているのだが、問題は理屈じゃない。
大人の意識で、これをやるのか……?
最初の数回は、かなり本気で葛藤した。
いやいやいや、待て待て待て。これは違う。違うからな。やましい心じゃない。断じて違う。これは生存行為だ。飯だ。食事だ。水分補給だ。人間は食わねば死ぬ。それだけのことだ。そう、これは仕方のない――
「ふふ」
頭上でツムギが小さく笑う気配がした。
たぶん、俺の顔が妙なことになっていたのだろう。
やめてくれ。そんな優しく笑わないでくれ。余計に気まずい。
内心で必死に言い訳を並べながら、それでも飲まなければならないのが本当に最悪だった。大人の尊厳とか、そういうものは赤ん坊生活において真っ先に踏み潰されるらしい。
オムツ替えは、言うまでもなく最悪である。
前世でも思ったが、これは何度やっても慣れない。慣れたくもない。しかも自分ではどうにもできないのが厄介だ。逃げることも、誤魔化すこともできず、ただ天を仰ぐしかない。忍としての誇りも、特級としての矜持も、この瞬間ばかりは何の役にも立たない。
人生、時々どうしようもなく無力だ。
とはいえ、ずっと無力でいるつもりもなかった。
寝返り、ハイハイ、その程度で手こずる俺じゃない。
何しろ経験者である。赤ん坊の身体の癖も、重心の取り方も、首が据わる感覚も、一度やっているぶん把握が早い。加えて中身は五十二歳だ。身体の成長速度に合わせてやれることを試していけば、当然、周囲が思うよりずっと早く動けるようになる。
生後半年の頃には、我ながらだいぶ仕上がっていた。
寝返りなど造作もない。這うのも早い。手を伸ばして掴む、立ち上がろうとする、視線を追う、そういったことへの反応速度もかなり良かったらしい。マヒトが「この子、しっかりしてるな」と静かに目を細め、ツムギが少し驚いたように俺を見ることが増えた。
前世の両親ならこの段階で祭りだっただろうが、この二人はそこまで騒がない。
ただ、嬉しそうにする。
その控えめな喜び方が、逆に胸へ沁みた。
そんなふうに家の中でぬくもりを知りながらも、俺は早い段階で、この世界にも“いる”ことに気づいていた。
呪霊だ。
最初に見た時は、少しだけ懐かしいと思った。
前世の赤ん坊の頃は、あれが何か分からず、虫みたいなものだと思っていた。部屋の隅にいる黒い淀み、天井の角にへばりつく気配、庭先に滲む悪意のようなもの。知識がなかったから、ただの気味の悪い虫扱いをして、気づけば潰していた。
今は違う。
何なのかを知っている。
人の澱みがかたちになったもの。感情の腐れが溜まって生まれるもの。放っておけば害をなす、人ならざる呪い。
忍の世界に、本来こんなふうに馴染んでいいものではない。にもかかわらず、いる。
まだ低級だ。人を喰うような段階には遠い。小さく、形も曖昧で、視認できる者がいなければそのまま澱みとして漂っている程度の存在だ。
だが、いるものはいずれ増える。
戦があり、死があり、恨みがあり、閉鎖的な里社会がある。条件だけで言えば、この世界は呪いの発生源に困らない。前世より体系化されていないぶん、むしろ質が悪い可能性すらあった。
だから、見つけたものから祓った。
とはいえ、赤ん坊の身だ。大技など使えない。目立つわけにもいかない。となるとやることは限られる。
指先へ意識を寄せる。
呪力を練る。細く、細く。ぶれず、漏らさず。針ほどに絞る。
血の針。
久しぶりだな、と少しだけ思った。
ほんの微量、肌の内側から滲ませた血を、呪力で硬化させて撃ち出す。音もなく、痕跡も薄い、低級相手なら十分な一刺し。部屋の隅で蠢いていた小さな呪いは、ぴくりと震えたあと、泡が弾けるみたいに霧散した。
……うん、鈍ってはない。
少し安堵した。
前世で鍛えた感覚は、ちゃんと魂の側へ残っている。身体が赤ん坊でも、操作精度そのものは消えていない。ただ出力と器が追いついていないだけだ。なら時間の問題である。
そんなことを考えながら、ふと別のものへ意識を向けた時だった。
この世界は、前世と違って呪力だけではない。
ある。
身体の内側に、別の流れが。
チャクラ。
気づいた瞬間、懐かしさと違和感が同時にきた。
ああ、そうだ。この感覚だ。身体の中を巡る力の流れ。呪力のように腹の底で練り上げるものとも違う、もっと全身へ馴染んだ、生体の一部みたいな巡り。前々世で当たり前に使っていたはずなのに、前世の二十一年を挟んだせいか、一瞬だけ遠いものみたいに思えた。
だが、思い出せば早い。
今の俺の中には、呪力もあれば、チャクラの器もある。両方ある。しかも喧嘩していない。妙に自然に、同じ身体の中へ収まっている。
本当に、とんでもないな俺の魂。
そんなことを考えつつ、気配の流れに沿って視線を向けた、その時だった。
そこに、いた。
白い衣。
杖。
額の輪紋めいた意匠。
妙に枯れているくせに、存在の格だけがおかしい老人。
六道仙人が、いた。
いや何で?
視線が合った。
向こうも固まった。
その顔が、はっきり言っていた。
え? 見えてる?
って。
いや、こっちが聞きたい。
何で見えてるんだ俺。
自分でも分からん。
前世では、死の間際だとか、魂が揺れているようなタイミングでならまだしも、こんなふうに日常の延長でひょっこり視認した覚えはない。今の俺はただの赤ん坊だ。いや、ただの赤ん坊ではないが、それでも肉体としてはただの乳児である。そんなものが、何であんたを普通に見てるんだ。
六道仙人は、しばらく黙っていた。
本当に、ただただ困惑している顔だった。
仙人のくせに、そんな顔するんだな……と、どうでもいい感想がよぎるくらいには、場の空気が妙だった。
じいっとこちらを見てくる。
俺も見返す。
赤ん坊と始祖級の存在が無言で見つめ合う光景、冷静に考えるとだいぶ変だ。
沈黙に耐えかねたのは、たぶん向こうの方が先だった。
しかし六道仙人は口を開きかけて、やめた。
何をどう説明すればいいのか、あちらも測りかねているのだろう。無理もない。俺だって説明できない。何なら赤ん坊の状態で説明されても困る。内容によっては理解はできるが、声帯が追いつかない。
「……」
「……」
気まずい。
いや、何で赤ん坊の俺が気まずくなってるんだ。
だが本当に、そんな空気だった。
結局、その日は何も起きなかった。六道仙人はしばらく困惑した顔のままそこに立ち、俺を見て、何かを考え込むように目を細め、それからふっと気配を薄くした。
消えた、というより、距離を取ったのだろう。
向こうも様子見に入ったらしい。
こっちとしても助かる。今の段階で神話級存在に詰められても、さすがに情報量が多い。乳を飲むので精一杯の赤ん坊へ背負わせるには、いろいろと重すぎる。
ただ、一つだけ分かったことがある。
この生は、やはりただのやり直しじゃない。
前々世と同じ時代、同じ一族、同じ木ノ葉。けれど何もかもがそのままではない。俺が前世を挟んだことで持ち込んだものがある。逆に、前々世の残滓として引っかかっているものもある。呪いも、チャクラも、六道仙人すら視界へかかるこの状態は、どう考えても穏やかな一本道では終わらない。
それでも、不思議と、絶望はなかった。
揺り籠の中で小さく息を吐く。
居間の向こうでは、マヒトとツムギが静かな声で何かを話している。祖母の足音もする。家の中には生活の音があった。誰かが生きている音だ。
それを聞きながら、俺は目を閉じる。
前々世にはなかった家がある。
前世で知ったあたたかさに似たものが、ここにもある。
なら、今度こそ。
ちゃんと守ろう。
守れるものから、一つずつ。
赤ん坊の小さな手が、布をきゅっと握る。
その指先を見つめながら、俺は胸の奥で静かに息を整えた。
人生三周目。
しかも、赤ん坊二回目。
本当に、どうかしてる。
どうかしてるが――悪くない始まりだ、と。
今はまだ、それくらいに思っておくことにした。
本当に赤ん坊なのか、と。
いや、確認したところで現実は変わらない。短い手足。低い視界。思うように動かない身体。眠気にも空腹にも容赦なく振り回される未成熟な肉体。どう見ても、誰がどう見ても、赤ん坊である。
しかも一度ならず二度目だ。
一度目は、カグヤ戦のあと。二度目は、呪詛師の自爆法術のあと。
普通の人間なら一回で十分混乱するところを、俺は二回も赤ん坊をやらされている。いい加減、人生というやつに文句の一つも言いたくなる。
それでも、目覚めたばかりの意識で最初に耳へ届いた男の声を、俺はもう覚えていた。
うちはマヒト。
父の名だ。
最初にその名を聞いた時は、さすがに一瞬、固まった。
……マヒト?
頭の奥で、嫌な記憶がひやりと撫でていった。人のかたちを弄び、魂を捻じ曲げ、笑いながら踏みにじった、前世の悪夢の一角。あの名と同じ音を持つ響きに、条件反射みたいに意識がざわついたのだ。
だが、すぐに打ち消した。
いや、同じ音なだけだ。
そもそも、あんなものとこの人を一緒にするのは失礼にもほどがある。
抱き上げる手つきが、もう違う。声の温度も違う。視線の置き方も違う。穏やかで、人当たりがよくて、必要以上に踏み込まず、それでいてちゃんと見ている。忍らしい芯の固さはあるのに、どこか空気がやわらかい。
同じ名でも、中身はまるで別物だった。
母は、うちはツムギ。
こちらも静かで、やさしい人だった。
父ほど表に出すタイプではないが、そのぶん眼差しと手つきに温度がある。言葉少なでも、こちらを見つめる目の中に、確かに愛情があるのが分かる。抱かれていると、妙に落ち着く。赤ん坊の本能のせいだけじゃない。前々世でも前世でも、俺はこういう“ちゃんとした母の温度”に飢えていたのかもしれない。
家はうちは集落の外れにあった。
中心から少し離れた位置。人の出入りもそこまで多くない。息苦しさが薄い。うちは一族特有の、あの張り詰めた空気――目に見えない癖に妙に肌へ貼りつくような、血と誇りと閉鎖性の混じった圧が、この家には薄かった。
妙に、呼吸がしやすい。
前々世では、気づかなかった。
いや、正確には、子どもだった俺には比べる基準がなかったのだろう。うちはとはそういうものだと思っていた。集落とはそういうものだと、息苦しさ込みで受け入れていた。
けれど今の俺は違う。
一度木の葉を壊す側へ回り、一度まるで別の世界で家族を得た。そのうえで戻ってきたからこそ分かる。この家の空気は、うちはの中ではたぶん珍しい。
穏やかだ。
静かで、あたたかい。
前世の両親――宗一郎さんと綾乃さんほど、全力で親バカを発揮するわけじゃない。あの二人はちょっと、いやかなり極端だった。寝返り一つで大騒ぎし、笑えば天才だと盛り上がり、泣けば世界の終わりみたいな顔をする。正直、あれはあれで圧がすごかった。
だが、この家のあたたかさは、もっと静かだ。
大仰ではない。押しつけがましくもない。ただ、きちんとここにある。食卓の気配みたいに、火の入った部屋みたいに、当たり前の顔をしてそこにある。
前々世にはなかった“あたたかい家”だった。
それを知った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
嬉しいような、寂しいような、どうにも言葉にしづらい痛みだ。俺は前々世でこれを知らなかった。知らないまま、ずいぶん遠くまで行ってしまった。前世でようやく別のかたちの家を知って、そして今、またここでそれに触れている。
なら今度は、失くしたくないと思う。
まだ首もろくに座りきっていない身体で、そんなことを思うのだから笑える。だが、思ってしまったものは仕方がない。
はっきりした意識で赤ん坊をやるのは、これで二回目だ。
前々世を終えた時、俺は三十一歳だった。前世を終えた時は二十一歳。合わせて五十二歳。中身だけで言えば、もう立派に大人の男である。
舐めんなよ、と思う。
赤ん坊の身体だからって、こっちは伊達に二回死んでない。人生の密度だけならだいぶ濃い。忍の世界も呪いの世界も見てきた。戦争も、喪失も、最強の背中も、どうしようもない別れも知っている。多少のことじゃ狼狽えない。
――そう思っていた瞬間が、俺にもありました。
現実は甘くなかった。
まず、乳だ。
乳を飲まないといけない。
いや、分かっている。生きるためだ。赤ん坊なのだから当然だ。栄養を摂らねば死ぬ。そんなことは分かっている。理屈では分かっているのだが、問題は理屈じゃない。
大人の意識で、これをやるのか……?
最初の数回は、かなり本気で葛藤した。
いやいやいや、待て待て待て。これは違う。違うからな。やましい心じゃない。断じて違う。これは生存行為だ。飯だ。食事だ。水分補給だ。人間は食わねば死ぬ。それだけのことだ。そう、これは仕方のない――
「ふふ」
頭上でツムギが小さく笑う気配がした。
たぶん、俺の顔が妙なことになっていたのだろう。
やめてくれ。そんな優しく笑わないでくれ。余計に気まずい。
内心で必死に言い訳を並べながら、それでも飲まなければならないのが本当に最悪だった。大人の尊厳とか、そういうものは赤ん坊生活において真っ先に踏み潰されるらしい。
オムツ替えは、言うまでもなく最悪である。
前世でも思ったが、これは何度やっても慣れない。慣れたくもない。しかも自分ではどうにもできないのが厄介だ。逃げることも、誤魔化すこともできず、ただ天を仰ぐしかない。忍としての誇りも、特級としての矜持も、この瞬間ばかりは何の役にも立たない。
人生、時々どうしようもなく無力だ。
とはいえ、ずっと無力でいるつもりもなかった。
寝返り、ハイハイ、その程度で手こずる俺じゃない。
何しろ経験者である。赤ん坊の身体の癖も、重心の取り方も、首が据わる感覚も、一度やっているぶん把握が早い。加えて中身は五十二歳だ。身体の成長速度に合わせてやれることを試していけば、当然、周囲が思うよりずっと早く動けるようになる。
生後半年の頃には、我ながらだいぶ仕上がっていた。
寝返りなど造作もない。這うのも早い。手を伸ばして掴む、立ち上がろうとする、視線を追う、そういったことへの反応速度もかなり良かったらしい。マヒトが「この子、しっかりしてるな」と静かに目を細め、ツムギが少し驚いたように俺を見ることが増えた。
前世の両親ならこの段階で祭りだっただろうが、この二人はそこまで騒がない。
ただ、嬉しそうにする。
その控えめな喜び方が、逆に胸へ沁みた。
そんなふうに家の中でぬくもりを知りながらも、俺は早い段階で、この世界にも“いる”ことに気づいていた。
呪霊だ。
最初に見た時は、少しだけ懐かしいと思った。
前世の赤ん坊の頃は、あれが何か分からず、虫みたいなものだと思っていた。部屋の隅にいる黒い淀み、天井の角にへばりつく気配、庭先に滲む悪意のようなもの。知識がなかったから、ただの気味の悪い虫扱いをして、気づけば潰していた。
今は違う。
何なのかを知っている。
人の澱みがかたちになったもの。感情の腐れが溜まって生まれるもの。放っておけば害をなす、人ならざる呪い。
忍の世界に、本来こんなふうに馴染んでいいものではない。にもかかわらず、いる。
まだ低級だ。人を喰うような段階には遠い。小さく、形も曖昧で、視認できる者がいなければそのまま澱みとして漂っている程度の存在だ。
だが、いるものはいずれ増える。
戦があり、死があり、恨みがあり、閉鎖的な里社会がある。条件だけで言えば、この世界は呪いの発生源に困らない。前世より体系化されていないぶん、むしろ質が悪い可能性すらあった。
だから、見つけたものから祓った。
とはいえ、赤ん坊の身だ。大技など使えない。目立つわけにもいかない。となるとやることは限られる。
指先へ意識を寄せる。
呪力を練る。細く、細く。ぶれず、漏らさず。針ほどに絞る。
血の針。
久しぶりだな、と少しだけ思った。
ほんの微量、肌の内側から滲ませた血を、呪力で硬化させて撃ち出す。音もなく、痕跡も薄い、低級相手なら十分な一刺し。部屋の隅で蠢いていた小さな呪いは、ぴくりと震えたあと、泡が弾けるみたいに霧散した。
……うん、鈍ってはない。
少し安堵した。
前世で鍛えた感覚は、ちゃんと魂の側へ残っている。身体が赤ん坊でも、操作精度そのものは消えていない。ただ出力と器が追いついていないだけだ。なら時間の問題である。
そんなことを考えながら、ふと別のものへ意識を向けた時だった。
この世界は、前世と違って呪力だけではない。
ある。
身体の内側に、別の流れが。
チャクラ。
気づいた瞬間、懐かしさと違和感が同時にきた。
ああ、そうだ。この感覚だ。身体の中を巡る力の流れ。呪力のように腹の底で練り上げるものとも違う、もっと全身へ馴染んだ、生体の一部みたいな巡り。前々世で当たり前に使っていたはずなのに、前世の二十一年を挟んだせいか、一瞬だけ遠いものみたいに思えた。
だが、思い出せば早い。
今の俺の中には、呪力もあれば、チャクラの器もある。両方ある。しかも喧嘩していない。妙に自然に、同じ身体の中へ収まっている。
本当に、とんでもないな俺の魂。
そんなことを考えつつ、気配の流れに沿って視線を向けた、その時だった。
そこに、いた。
白い衣。
杖。
額の輪紋めいた意匠。
妙に枯れているくせに、存在の格だけがおかしい老人。
六道仙人が、いた。
いや何で?
視線が合った。
向こうも固まった。
その顔が、はっきり言っていた。
え? 見えてる?
って。
いや、こっちが聞きたい。
何で見えてるんだ俺。
自分でも分からん。
前世では、死の間際だとか、魂が揺れているようなタイミングでならまだしも、こんなふうに日常の延長でひょっこり視認した覚えはない。今の俺はただの赤ん坊だ。いや、ただの赤ん坊ではないが、それでも肉体としてはただの乳児である。そんなものが、何であんたを普通に見てるんだ。
六道仙人は、しばらく黙っていた。
本当に、ただただ困惑している顔だった。
仙人のくせに、そんな顔するんだな……と、どうでもいい感想がよぎるくらいには、場の空気が妙だった。
じいっとこちらを見てくる。
俺も見返す。
赤ん坊と始祖級の存在が無言で見つめ合う光景、冷静に考えるとだいぶ変だ。
沈黙に耐えかねたのは、たぶん向こうの方が先だった。
しかし六道仙人は口を開きかけて、やめた。
何をどう説明すればいいのか、あちらも測りかねているのだろう。無理もない。俺だって説明できない。何なら赤ん坊の状態で説明されても困る。内容によっては理解はできるが、声帯が追いつかない。
「……」
「……」
気まずい。
いや、何で赤ん坊の俺が気まずくなってるんだ。
だが本当に、そんな空気だった。
結局、その日は何も起きなかった。六道仙人はしばらく困惑した顔のままそこに立ち、俺を見て、何かを考え込むように目を細め、それからふっと気配を薄くした。
消えた、というより、距離を取ったのだろう。
向こうも様子見に入ったらしい。
こっちとしても助かる。今の段階で神話級存在に詰められても、さすがに情報量が多い。乳を飲むので精一杯の赤ん坊へ背負わせるには、いろいろと重すぎる。
ただ、一つだけ分かったことがある。
この生は、やはりただのやり直しじゃない。
前々世と同じ時代、同じ一族、同じ木ノ葉。けれど何もかもがそのままではない。俺が前世を挟んだことで持ち込んだものがある。逆に、前々世の残滓として引っかかっているものもある。呪いも、チャクラも、六道仙人すら視界へかかるこの状態は、どう考えても穏やかな一本道では終わらない。
それでも、不思議と、絶望はなかった。
揺り籠の中で小さく息を吐く。
居間の向こうでは、マヒトとツムギが静かな声で何かを話している。祖母の足音もする。家の中には生活の音があった。誰かが生きている音だ。
それを聞きながら、俺は目を閉じる。
前々世にはなかった家がある。
前世で知ったあたたかさに似たものが、ここにもある。
なら、今度こそ。
ちゃんと守ろう。
守れるものから、一つずつ。
赤ん坊の小さな手が、布をきゅっと握る。
その指先を見つめながら、俺は胸の奥で静かに息を整えた。
人生三周目。
しかも、赤ん坊二回目。
本当に、どうかしてる。
どうかしてるが――悪くない始まりだ、と。
今はまだ、それくらいに思っておくことにした。
【〆栞】