昂る焔

相手は火影だった。

それだけで、本来なら十分すぎるほどの理由になる。

五歳児がまともに向き合うには、あまりにも大きい相手。立っているだけで場の芯を取るような、里の頂点にいる男。柔らかく笑っていても、そこへ積み上がったものの重さは隠れない。

だからこそ、最初の一歩は慎重だった。

やりすぎるな。
出しすぎるな。
普通の五歳児から外れるな。

頭のどこかで、ずっとそう言っていた。

地を蹴って前へ出る。

小さい身体で、届く距離まで詰める。その一歩を、ヒルゼンはほとんど動かずに見ていた。こちらの重心、呼吸、目の置き方。全部まとめて測っているのが分かる。

嫌だな、この人。

いや、嫌というより、やりにくい。

見えている。見られている。しかもそれを表へ出しすぎない。こういう相手が一番誤魔化しづらい。

俺は右から入るふりをして、途中で角度を変えた。正面ではなく、相手の足の外へずらす。五歳児の体格差では真正面から押し切れない。なら横から崩す。そういう組み立て自体は間違っていない。

だが、ヒルゼンは一歩、ほんのわずかに重心を引いただけで、それを消した。

浅い。

それだけのことを、身体で言われる。

俺は歯を食いしばって二手目へ繋げた。肩を入れ、脚を払う。払う直前で読まれて、逆に手首へ軽く触れられる。そのまま流されれば転ぶ。だから地面へ手をついて体勢を戻す。

周囲が息を呑む気配がした。

いや、そりゃそうか。

五歳児の組手にしては、だいぶ細かい。

でも、まだ抑えている。

まだ、普通の範囲へ寄せようとしている。

そう思っていたはずなのに、数手重ねた頃から、少しずつ加減の調整がずれ始めた。

原因は簡単だ。

楽しい。

やば、楽しくなってきた。

目の前の相手が強いと、身体の奥が勝手に熱を持つ。前々世でもそうだった。前世でもそうだ。届かない相手へどう届くかを考える時、俺はどうしても、頭より先に火がつく。

足りない。
まだ届かない。
じゃあどう詰める。

その思考が回り始めると、五歳児らしさだの、自然に見せるだの、そういう細かい調整が後ろへ押しやられる。危ないな、と思う間もなく、戦い方が本格的に変わり始めていた。

本格化する体術。

拳の打ち方が変わる。

子どもの力任せではなく、崩す位置を先に作る。脚の運びも、ただ速く動くのではなく、次に入る場所を一拍先で空ける。五歳の身体でできる範囲は限られている。限られているが、だからこそ無駄を消す。

ヒルゼンの目が少しだけ細くなった。

あ、今、拾ったな。

分かる。

こっちの中で何かが切り替わったのを、あの人は見ている。

でも止まれなかった。

だって、相手は火影だ。

加減したまま終わるには、あまりにももったいない。

それに――俺はもう、命懸けの戦い方を知っている。

知っているというだけで、構えも、呼吸も、迷いの置き方も、普通の子どもとは変わってしまう。死線をくぐったことがある人間は、相手の重さに対する勘定が違う。五歳の身体でも、それだけは消せない。

だから、踏み込む。

足裏へチャクラを流す。

ほんのわずか。

でも十分だ。

地面を掴む感覚が変わる。次の瞬間、身体が一気に前へ滑った。

俊足の縮地。

五歳児の授業でやる動きじゃないな、とどこかで思いながら、それでも止まらない。縮めた距離のまま、懐へ入る。ヒルゼンの肩口、そこへ拳を打ち込むように見せて――

ずらす。

逕庭拳。

最初の打撃は浅い。

だが、遅れて二段目の衝撃が走る。

ヒルゼンの目が、そこで初めて大きく動いた。

驚いた。

それが分かるくらいには、相手の表情が変わった。

それでも火影は火影だ。

完全には入らない。二段目の衝撃を受けた瞬間には、もう重心をずらし切っている。だが、だからこそ分かる。今の一手は、ちゃんと“通った”。

楽しい。

本当に。

口元が勝手に上がりそうになるのを、ぎりぎりで噛み殺す。まずい。まずいけど、止まれない。火がついた時の自分が、いちばん厄介なのはよく知っている。

拳を重ねる。
脚を払う。
崩して、詰める。
離される。
また詰める。

動きの芯は忍だ。足裏へチャクラを流し、地を噛み、間合いを食う。だが、組み立ての呼吸はもっと別のところに寄っている。相手の隙を見て、そこへ最小限で差し込む感覚。理屈の組み方。崩し方のしつこさ。

本質は、忍より呪術師なんだろうな、と、そんな場違いな考えが一瞬だけ頭をよぎった。

前世で染みついた戦い方は、どうしたってそこへ滲む。

拳の置き方も。
相手を見る角度も。
一撃の中へ何を仕込むかも。

全部、もう向こう側を経ている。

ヒルゼンはそれを受けながら、ふ、と笑った。

驚きながら笑う、というのはこういう顔かと思った。

強く笑うわけではない。穏やかなままだ。だが、明らかに今の一手を面白がっている。予想外のものを見た時の、あの人なりの笑い方だ。

「ほう」

短く、それだけが落ちる。

次の瞬間には、景色が揺れた。

俺の踏み込みを誘って、そこへ合わせてきたのだと気づいた時には、もう遅い。肩口を取られ、回される。受け身を取る。地面へ手をついたところへ、次の一手が来る。

速い。

俺も咄嗟に身体を沈めるが、読み負けた。足が払われる。重心が浮く。そのまま、仰向けに近いかたちで倒れかけて、ぎりぎりで肘を入れる。

土が跳ねる。

息が上がる。

でも、目はまだ離せない。

昂っていた。

焔みたいに。

別に、炎を使っているわけじゃない。けれど胸の奥で燃えるように、前へ出ろ、届け、まだ終わるなと叫ぶ何かがある。

火影はそれを見たのだろう。

ただ小さな子どもが無茶に向かってくるのとは違う、もっと芯のある、燃え方を。

俺は息を整えきる前に、また地を蹴った。

さすがに今度は教師たちの方がざわついた気配がした。五歳児の組手にしては、もう少しばかり熱量が高すぎる。だがそんなことは知ったことじゃない。今は、目の前の相手へもう一手届くかどうかだけだ。

ヒルゼンはその踏み込みを受けながら、今度は柔らかく流した。

拳を絡め取るように受けて、体勢を崩し、最後に額へ軽く指を当てる。

「そこまでじゃ」

静かな声だった。

それで終わりだと分かる。

俺はようやく力を抜いて、その場で膝をついた。肩で息をする。土の匂いが近い。頬が少し熱い。悔しい、というより、まだやれた、と思ってしまうあたりが自分でも駄目だ。

やり過ぎたな、と遅れて思う。

だいぶやった。

かなりやった。

普通の五歳児は、火影相手にあそこまで楽しくならない。

周囲の空気がしんとしているのが、それを物語っていた。

しまった、と思いながら顔を上げると、ヒルゼンがこちらを見下ろしていた。その目には、先ほどまでの穏やかさに加えて、少しばかり別の色があった。

ただ優秀な子どもを見る目ではない。

もっと深いものを、測る目。

「お主」

ヒルゼンが言う。

声は静かだ。

「なかなか昂るものを持っておるの」

答えに困った。

昂る焔、なんて、自分で言われると少し気恥ずかしい。しかも今の俺は、ただ楽しくなって調整を忘れかけただけだ。いや、それを焔と呼ぶのならそうなのかもしれないけど。

俺が黙っていると、ヒルゼンはほんのわずかに目を細めた。

「無理に抑え込めば、歪むこともある」

胸の奥が、少しだけ動く。

それは慰めではない。
褒め言葉でもない。
ただ見て、触って、出した言葉だ。

この人はたぶん、今の組手の中で、俺の“加減が途中からずれた”ことまで見ている。そのうえで、抑えようとする癖と、昂った時の素の差まで拾っている。

やりにくいな、本当に。

でも、嫌いじゃない。

俺は小さく息を吐いてから、どうにか五歳児らしい短さで答えた。

「……うん」

ヒルゼンはそれ以上は何も言わなかった。

手を差し出される。

俺はその手を取って立ち上がった。火影の手は、老人のものらしく節が立っているのに、妙に強かった。

周囲へ向き直ると、視線が一斉に刺さる。

ガイは目を輝かせていた。
アスマは口を半開きにしている。
紅は驚いたまま、少しだけ頬を強張らせている。
リンは息を呑んだ顔で、でも途中から目を逸らしていない。
カカシは――

カカシは、黙ったままだった。

だが、その目はもう完全に変わっていた。

違和感とか、引っかかりとか、そういう段階ではない。さっきまでの組手で、何かが一段深く刺さったのだろう。悔しさもある。不満もある。認めたくない気持ちもある。けれど、それでも目を離せない。

そういう顔だった。

うわ、面倒くさいなこれ。

いや前々世から知ってるけど。

でも今の段階でそれやられると、かなり困る。

教師が慌てて次の指示を飛ばし、特別授業はそこで一区切りになった。子どもたちが引き上げ始める中、俺は一人だけまだ胸の奥の熱が引ききらないまま立っていた。

やらかした。

盛大にやらかした。

でも、妙な後悔はなかった。

相手が火影だったからか。
ちゃんと戦えたからか。
あるいは、あの人が最後に笑ったからか。

どれかは分からない。

ただ、自分の奥底にある火を、少しだけ覗かれた気がした。

家へ帰るまでには、ちゃんといつもの顔へ戻さないとな。

そう思いながら、俺はゴーグルの位置を直した。


〆栞
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