噂
噂というものは、広がる時に音を立てない。
静かに、だが確実に、人の口から口へ移っていく。誰かが見たもの、誰かが聞いたもの、誰かが勝手に盛ったもの。そこへ立場や思惑が混ざると、噂はただの話ではなく、少しずつ形を持ち始める。
火影の特別授業のあと、忍者学校ではしばらく妙な熱が残った。
上の学年の話題も混じっていたはずなのに、一年目の子どもたちの間では、やはりあの日の火影との組手が強く残っていたらしい。誰がどこまでやれたか。誰が転ばされたか。誰が褒められたか。子どもらしい興味は、放課後になればすぐ別の遊びへ流れるものだが、それでも消え切らないものがある。
うちはオビト。
その名が、思っていた以上に残った。
学校の中では、もう“落ちこぼれ”という言葉は前ほど気軽に使われなくなっていた。代わりに、妙にできる、変に強い、何かおかしい、そういう曖昧な認識が増えていく。まだ幼い子どもたちにとって、実力差を言葉へするのは難しい。だから、“変”という便利な一語へ落ちる。
だが、大人たちの間では違った。
うちは一族の上の方へ、その話が届くのに大した時間はかからなかった。
忍者学校から戻った子の親が話す。教師から聞いた断片が混ざる。特別授業で火影相手に一歩も引かなかった子がいるらしい。その子は、うちは集落の外れの家の、マヒトの息子だという。
逸脱した実力。
そんな言い方をする者もいた。
もちろん、全員がその言葉を真に受けたわけではない。子どもの話だ、と流す者もいる。誇張だと鼻で笑う者もいる。だが、火影の特別授業という事実がある以上、完全に無視もできない。
うちはの中には、才能へ敏い者も多い。
同時に、それが危うさへ繋がることを知る者もいる。
外れの家の子。
だが、マヒトの子。
しかも、予想よりずっとできる。
その情報は、穏やかなままでは済まなかった。
一方、里の別の場所では、もっと冷たい形でその名が処理されていた。
志村ダンゾウの手元へ届いたのは、火影直属の暗部から上がった短い報告だ。
子どもの評価としては異例なほど簡潔で、だが十分な内容だった。うちはオビト。五歳。忍者学校一年。基礎能力は高く、特別授業においても年齢不相応の反応を示す。火影との組手では、通常の幼子には見られぬ組み立てと踏み込みが確認された。
ダンゾウは紙を黙って読み終えた。
五歳児とは到底思えない。
その一文に、視線がわずかに止まる。
うちは。
幼い。
しかも、外れの家。
立場が弱く、親もいない。祖母との二人暮らし。色のつく前ならば、まだ染めやすい。根の色に染めてしまえば、里にとって有用な刃にもなり得る。
ダンゾウの指先が、机の上を一度だけ叩いた。
根が動く。
そう決めるには、まだ情報が足りない。だが、“目を向ける価値がある”段階にはもう入っていた。
もし本当に逸脱しているなら、遅いより早い方がいい。
幼いほど、折り方も矯め方も選べる。
その発想へ、躊躇はなかった。
はたけ家では、別種の重さが生まれていた。
その日の夕餉の席で、カカシはいつも以上に無口だった。
サクモはすぐに気づいたが、あえて何も言わずにいた。味噌汁の湯気が静かに上がり、箸の音だけが時々小さく鳴る。普段から口数の多い子ではない。それでも今日は、黙り方の質が違っていた。
組手のあとからずっとだ。
火影相手に一歩も引かなかったうちはオビトの姿が、カカシの中に残っている。
何が違うのか。
何故、あんなに強いのか。
悔しい。
その感情を、カカシはまだうまく言葉へできない。単純に負けた、という話ではない。火影に敵わないのは分かっている。分かっているが、オビトの“届き方”が引っかかって離れないのだ。
自分より年上とはいえ、まだ五歳。
落ちこぼれと呼ばれていた子。
そのはずなのに、火影の前で見せたものは、ただの優秀さではなかった。あれは、もっと厄介な何かだ。できるとか、賢いとか、そういう言葉では足りない。何かを知っているような、死線の匂いに近いものがある。
カカシはそれを、言葉にはできないまま抱えていた。
悔しいけど、認めざるを得ない。
そんな種類の沈黙が、幼い横顔に滲んでいる。
サクモは茶碗を置いてから、ようやく口を開いた。
「まだ気になるかい」
カカシは一度だけ目を上げ、すぐに逸らした。
否定しない。
それで十分だった。
サクモは責めるでもなく、穏やかな声で言う。
「自分と違う強さを見るのは、悪いことじゃない」
カカシは黙る。
だが、その言葉が耳へ残ったことは、表情のわずかな動きで分かった。
また別の場所では、もう一人、あの名へ目を留める者がいた。
波風ミナト。
その名前が、うちはオビトと初めて並んだのは、火影の執務からではない。もっと自然な、そして少し曖昧なかたちだった。
特別授業のあとに上がった生徒所見の束へ、一人の教師が口にした断片が重なったのだ。
「外れの家の、マヒトさんの子です」
「うちはオビトという名でして」
「火影様の前でも、不思議と怯まない子でした」
その程度だ。
だが、ミナトはそういう断片を軽く流す人ではない。
マヒトの子。
外れの家。
五歳でそこまで。
情報は少ない。けれど少ないからこそ、逆に印象へ残ることもある。
ミナトは柔らかく頷きながら、その名を頭のどこかへ置いた。
うちはオビト。
まだ、それだけだ。
顔も知らぬ。声も知らぬ。ただ、名前だけが静かに記憶へ置かれる。だが、この段階のミナトは、そうした小さな引っかかりを忘れない。
それが後で繋がることもあると、知っているからだ。
そんな状況を露とも知らず、俺は今日も禖除に精を出していた。
いや、正確には、反省にも精を出していた。
あー、だとしてもまずかったよなぁ、やり過ぎたよなぁ。
心の中で何度目か分からないため息をつきながら、夕暮れの路地を歩く。人通りの薄い角を選び、買い物袋を片手に、視線の端で澱みを拾う。
いた。
低級。
人の背へまとわりつき始めている。放置すれば悪化する。
解。
細い一閃。
消える。
歩く。
また見つける。
解。
消える。
その繰り返しの中で、俺はひたすら反省していた。
やり過ぎた。
あれはやり過ぎた。
火影相手に楽しくなってる場合じゃなかった。
いや、相手が火影だったからってのもあるけどさ。
でもあの昂り方は、どう考えても五歳児じゃない。
解。
また一つ、消える。
「……はァ」
ため息が漏れる。
その吐息と一緒に、少し濃いのが目に入った。
今度は迷わず、捌。
空気を薄く裂くように走らせると、黒ずんだ塊が斜めに断たれてほどけた。細かい残滓が霧みたいに散る。やっぱりこの辺の低級相手だと、便利なんだよな。最小限で済むし、目立たないし、速い。
宿儺の術式、有能過ぎて草なんだが。
そう心の中でぼやいたところで、少しだけ肩の力が抜けた。
結局、今の俺にできるのは、こういうことだ。
反省しつつ、祓う。
家へ帰りつつ、手を貸す。
余計な視線が増えたと知りもせず、いつものようにやれることをやる。
それでも、ふとした瞬間に気配が変わったことには、ちゃんと気づいた。
ん?
足を止める。
今のは低級ではない。
濃度が違う。形が違う。人の澱みが溜まっただけのものとも少し違う。路地の奥、屋根と壁の隙間へ一瞬だけ走った気配は、すぐに消えた。だが、確かに何かがいた。
俺は黙ってそちらを見る。
追うか。
いや、今は買い物袋がある。
祖母を待たせるのもよくない。
数拍考えたあと、今日は諦めた。
その代わり、目印のように空気の流れを頭へ刻む。次に同じ気配がしたら、もっと深く追えるように。
噂が広がる。
視線が増える。
知らないところで名前が動く。
その全部を知らぬまま、俺の足元だけはちゃんと次へ進んでいた。
家へ帰ると、祖母が戸を開けて待っている。
その顔を見た瞬間、さっきまでの余計なものが少しだけ遠のいた。
今はまず、ここだ。
そう思いながら、俺は買い物袋を差し出した。
静かに、だが確実に、人の口から口へ移っていく。誰かが見たもの、誰かが聞いたもの、誰かが勝手に盛ったもの。そこへ立場や思惑が混ざると、噂はただの話ではなく、少しずつ形を持ち始める。
火影の特別授業のあと、忍者学校ではしばらく妙な熱が残った。
上の学年の話題も混じっていたはずなのに、一年目の子どもたちの間では、やはりあの日の火影との組手が強く残っていたらしい。誰がどこまでやれたか。誰が転ばされたか。誰が褒められたか。子どもらしい興味は、放課後になればすぐ別の遊びへ流れるものだが、それでも消え切らないものがある。
うちはオビト。
その名が、思っていた以上に残った。
学校の中では、もう“落ちこぼれ”という言葉は前ほど気軽に使われなくなっていた。代わりに、妙にできる、変に強い、何かおかしい、そういう曖昧な認識が増えていく。まだ幼い子どもたちにとって、実力差を言葉へするのは難しい。だから、“変”という便利な一語へ落ちる。
だが、大人たちの間では違った。
うちは一族の上の方へ、その話が届くのに大した時間はかからなかった。
忍者学校から戻った子の親が話す。教師から聞いた断片が混ざる。特別授業で火影相手に一歩も引かなかった子がいるらしい。その子は、うちは集落の外れの家の、マヒトの息子だという。
逸脱した実力。
そんな言い方をする者もいた。
もちろん、全員がその言葉を真に受けたわけではない。子どもの話だ、と流す者もいる。誇張だと鼻で笑う者もいる。だが、火影の特別授業という事実がある以上、完全に無視もできない。
うちはの中には、才能へ敏い者も多い。
同時に、それが危うさへ繋がることを知る者もいる。
外れの家の子。
だが、マヒトの子。
しかも、予想よりずっとできる。
その情報は、穏やかなままでは済まなかった。
一方、里の別の場所では、もっと冷たい形でその名が処理されていた。
志村ダンゾウの手元へ届いたのは、火影直属の暗部から上がった短い報告だ。
子どもの評価としては異例なほど簡潔で、だが十分な内容だった。うちはオビト。五歳。忍者学校一年。基礎能力は高く、特別授業においても年齢不相応の反応を示す。火影との組手では、通常の幼子には見られぬ組み立てと踏み込みが確認された。
ダンゾウは紙を黙って読み終えた。
五歳児とは到底思えない。
その一文に、視線がわずかに止まる。
うちは。
幼い。
しかも、外れの家。
立場が弱く、親もいない。祖母との二人暮らし。色のつく前ならば、まだ染めやすい。根の色に染めてしまえば、里にとって有用な刃にもなり得る。
ダンゾウの指先が、机の上を一度だけ叩いた。
根が動く。
そう決めるには、まだ情報が足りない。だが、“目を向ける価値がある”段階にはもう入っていた。
もし本当に逸脱しているなら、遅いより早い方がいい。
幼いほど、折り方も矯め方も選べる。
その発想へ、躊躇はなかった。
はたけ家では、別種の重さが生まれていた。
その日の夕餉の席で、カカシはいつも以上に無口だった。
サクモはすぐに気づいたが、あえて何も言わずにいた。味噌汁の湯気が静かに上がり、箸の音だけが時々小さく鳴る。普段から口数の多い子ではない。それでも今日は、黙り方の質が違っていた。
組手のあとからずっとだ。
火影相手に一歩も引かなかったうちはオビトの姿が、カカシの中に残っている。
何が違うのか。
何故、あんなに強いのか。
悔しい。
その感情を、カカシはまだうまく言葉へできない。単純に負けた、という話ではない。火影に敵わないのは分かっている。分かっているが、オビトの“届き方”が引っかかって離れないのだ。
自分より年上とはいえ、まだ五歳。
落ちこぼれと呼ばれていた子。
そのはずなのに、火影の前で見せたものは、ただの優秀さではなかった。あれは、もっと厄介な何かだ。できるとか、賢いとか、そういう言葉では足りない。何かを知っているような、死線の匂いに近いものがある。
カカシはそれを、言葉にはできないまま抱えていた。
悔しいけど、認めざるを得ない。
そんな種類の沈黙が、幼い横顔に滲んでいる。
サクモは茶碗を置いてから、ようやく口を開いた。
「まだ気になるかい」
カカシは一度だけ目を上げ、すぐに逸らした。
否定しない。
それで十分だった。
サクモは責めるでもなく、穏やかな声で言う。
「自分と違う強さを見るのは、悪いことじゃない」
カカシは黙る。
だが、その言葉が耳へ残ったことは、表情のわずかな動きで分かった。
また別の場所では、もう一人、あの名へ目を留める者がいた。
波風ミナト。
その名前が、うちはオビトと初めて並んだのは、火影の執務からではない。もっと自然な、そして少し曖昧なかたちだった。
特別授業のあとに上がった生徒所見の束へ、一人の教師が口にした断片が重なったのだ。
「外れの家の、マヒトさんの子です」
「うちはオビトという名でして」
「火影様の前でも、不思議と怯まない子でした」
その程度だ。
だが、ミナトはそういう断片を軽く流す人ではない。
マヒトの子。
外れの家。
五歳でそこまで。
情報は少ない。けれど少ないからこそ、逆に印象へ残ることもある。
ミナトは柔らかく頷きながら、その名を頭のどこかへ置いた。
うちはオビト。
まだ、それだけだ。
顔も知らぬ。声も知らぬ。ただ、名前だけが静かに記憶へ置かれる。だが、この段階のミナトは、そうした小さな引っかかりを忘れない。
それが後で繋がることもあると、知っているからだ。
そんな状況を露とも知らず、俺は今日も禖除に精を出していた。
いや、正確には、反省にも精を出していた。
あー、だとしてもまずかったよなぁ、やり過ぎたよなぁ。
心の中で何度目か分からないため息をつきながら、夕暮れの路地を歩く。人通りの薄い角を選び、買い物袋を片手に、視線の端で澱みを拾う。
いた。
低級。
人の背へまとわりつき始めている。放置すれば悪化する。
解。
細い一閃。
消える。
歩く。
また見つける。
解。
消える。
その繰り返しの中で、俺はひたすら反省していた。
やり過ぎた。
あれはやり過ぎた。
火影相手に楽しくなってる場合じゃなかった。
いや、相手が火影だったからってのもあるけどさ。
でもあの昂り方は、どう考えても五歳児じゃない。
解。
また一つ、消える。
「……はァ」
ため息が漏れる。
その吐息と一緒に、少し濃いのが目に入った。
今度は迷わず、捌。
空気を薄く裂くように走らせると、黒ずんだ塊が斜めに断たれてほどけた。細かい残滓が霧みたいに散る。やっぱりこの辺の低級相手だと、便利なんだよな。最小限で済むし、目立たないし、速い。
宿儺の術式、有能過ぎて草なんだが。
そう心の中でぼやいたところで、少しだけ肩の力が抜けた。
結局、今の俺にできるのは、こういうことだ。
反省しつつ、祓う。
家へ帰りつつ、手を貸す。
余計な視線が増えたと知りもせず、いつものようにやれることをやる。
それでも、ふとした瞬間に気配が変わったことには、ちゃんと気づいた。
ん?
足を止める。
今のは低級ではない。
濃度が違う。形が違う。人の澱みが溜まっただけのものとも少し違う。路地の奥、屋根と壁の隙間へ一瞬だけ走った気配は、すぐに消えた。だが、確かに何かがいた。
俺は黙ってそちらを見る。
追うか。
いや、今は買い物袋がある。
祖母を待たせるのもよくない。
数拍考えたあと、今日は諦めた。
その代わり、目印のように空気の流れを頭へ刻む。次に同じ気配がしたら、もっと深く追えるように。
噂が広がる。
視線が増える。
知らないところで名前が動く。
その全部を知らぬまま、俺の足元だけはちゃんと次へ進んでいた。
家へ帰ると、祖母が戸を開けて待っている。
その顔を見た瞬間、さっきまでの余計なものが少しだけ遠のいた。
今はまず、ここだ。
そう思いながら、俺は買い物袋を差し出した。
【〆栞】