下忍昇格

火影室の空気は、朝から少しだけ硬かった。

うたたねコハルが机の上の書類へ目を落とし、眉を寄せる。水戸門ホムラは腕を組んだまま黙っていたが、その沈黙は同意ではなく、まだ言葉を選んでいる時のものだった。志村ダンゾウだけは最初から表情が変わらない。

その三人を前にして、猿飛ヒルゼンは穏やかな顔を崩さずに言った。

「本気か?」

最初に口を開いたのはコハルだった。

「ついこの間、アカデミーへ入学したばかりではないか」

「せめて一年は通わせるべきじゃろう」

ホムラも低く続ける。

その言い分は、常識としてはもっともだ。子どもを早くに前へ出しすぎれば、育つべきものが歪む。特に戦時下は、その歪みを“必要な早熟”とすり替えがちだ。コハルもホムラも、そこへの危惧を口にしていた。

だが、ヒルゼンは首を横に振る。

「あれは、アカデミーでは収まらん」

穏やかな声だった。

けれど、その言葉には既に結論があった。

ダンゾウの片目がわずかに細まる。

「……しかし」

コハルがなおも言い募ろうとしたところで、ヒルゼンは静かに紙を置いた。

「直接手合わせをして分かるんじゃよ」

その声の調子が、少しだけ変わる。

柔らかいままで、だが軽くはない。

「あれは――もう既に下忍、いや中忍か、それ以上。上忍の域に届いておるかもしれん」

火影室が、ほんの一瞬だけ沈黙した。

コハルが目を見開く。
ホムラが息を止める。
ダンゾウだけが、感情を表に出さぬまま、指先を机へ一つ落とした。

五歳の子どもへ向ける言葉としては、あまりにも重い。

だからこそ、軽々しく口にはできない類の評価だ。ヒルゼンはそのことを分かった上で、なおそう言った。

コハルは、しばし黙ってから低く言う。

「……ならばなおさら、扱いを誤るべきではない」

「うむ」

ヒルゼンは頷く。

「ゆえに、ただの子どもとして置いて腐らせる方が危うい。段階は要る。じゃが、今の場へ縛っておく意味もまた薄い」

ダンゾウはそこで初めて口を開いた。

「班編成はどうする」

「それは追って決める」

ヒルゼンの返答は短い。

「今日のところは、昇格のみ伝える。卒業扱いとし、待機じゃ」

火影としての決定が、静かに下りた。

その頃、忍者アカデミーでは、俺が眠気と戦っていた。

正直に言うと、今日の授業内容はだいぶきつい意味で眠い。基礎中の基礎。子どもたちには大事だ。大事なのは分かる。分かるけど、前々世と前世を通った頭には、さすがに退屈が勝つ。いや退屈というのも違うか。知っていることを“初めて学ぶ顔で受ける”のが地味に消耗するのだ。

だから、教師が「うちはオビト」と呼んだ時、最初は普通に追加の指名かと思った。

「はい」

立つ。

教師の顔が妙に真面目だった。

何だろうな、と一瞬だけ首を傾げる。

すると、教室全体が静かになった。

「通達だ」

うわ、嫌な予感。

教師は紙を一枚開き、形式張った声で読み上げた。

「本日付で、うちはオビトを下忍へ昇格とする」

……早っ。

思わずそう出かかったのを、ぎりぎり飲み込む。

いや、待て待て待て。

早い。

早すぎるだろ。

前々世では、カカシが先に下忍になったよな。しかもあいつは五歳で卒業、六歳で中忍だ。だからこの辺の前倒し自体は知っている。知っているが、まさか今世で自分がこのタイミングを食らうとは思わない。

教室の空気が止まった。

ガイが口を半開きにしている。
アスマが「は?」って顔をしている。
紅は息を呑み、イビキは無言のまま目だけが動いた。
リンがびっくりした顔で俺を見る。

そしてカカシは、黙っていた。

黙って、ただ俺を見ていた。

その目の奥で、何かが切り替わるのが分かった。

オビトは一つ年上。

でも、直ぐに追いついてやる。

必ずオビトより早く、それで超える。

言葉になっていなくても、そういう火が灯ったのが見える。悔しさもある。違和感もある。認めざるを得ない現実もある。その全部が、静かにライバル心の芽へ変わっていく。

ああ、来たな、と思う。

これだ。

こうやって、あいつは俺を追う側へ回る。

ただ――

歴史がズレるのは、避けたい。

胸の奥で、そんな考えも同時に浮かぶ。

カカシが早熟であること。
白い牙の息子として先へ進むこと。
その流れ自体は、出来るだけ壊したくない。だが今、もう自分が先に下忍へ出ることで、綺麗に同じとはいかなくなった。

面倒だな、本当に。

教師はざわめきを抑えるように続けた。

「所属は後日、追って伝える」

そこで一呼吸置く。

「本日の授業は基礎中の基礎だ。下忍に昇格したお前には物足りないだろう。帰って良いぞ」

お、おう。

いや、そうなのか。

そんな雑な放り出し方ある?

「本日をもって卒業。以後は班編成が決まるまで待機とする」

あー……はい。

反射的に返事はしたが、頭の中ではまだ整理がついていない。

……卒業?

え、早くない?

早いだろ、どう考えても。

いや前々世のカカシを見てるから“あり得る範囲”ではある。でも自分に来ると話が違う。何だこの感覚。急に教室から切り離されると、妙な置いていかれ方をした気分になる。

教室の中に残る視線が痛い。

ガイはもう立ち上がりそうな勢いだし、アスマは納得いかなさそうだし、リンは驚きと心配が混ざった顔をしている。カカシだけは、座ったまま俺を見ていた。

まっすぐに。

その視線を受けながら、俺は席から荷物を持った。

立つ。

一礼する。

それしかできなかった。

教室を出たあと、廊下で大きくため息が出た。

何だそれ。
何だよそれ本当に。

早い。

いや、実力だけ見ればそうなんだろう。火影相手にもやらかしたし、一族の組手でもやらかしたし、学校の授業ではやらかし継続中だった。だから“下忍にしてしまえ”という判断が来ても理屈は分かる。

分かるけど、気持ちは別だ。

家に帰ってもな……。

そう思った。

祖母に言えば驚くだろう。喜ぶかもしれない。心配もするだろう。俺としても、いったん頭を冷やしたかった。急に卒業です、待機です、と言われても、家でじっとしていられる気がしない。

演習場で体を動かすか。

結局そういう結論になるあたり、まあ俺らしい。

荷物を抱えたまま、俺は演習場の方へ向けて歩き出した。

その途中で、案の定、発動した。

お年寄り高確率遭遇演算である。

本当に何なんだろうなこれ。

曲がり角を一つ曲がっただけで、荷車の車輪が溝にはまって困っている爺さん。少し先には荷物を抱えた婆さん。さらにその向こうで、段差を前に足を止めている別の年配者。

おい。

待て。

違う、そうじゃない。

いや、これも手の届く範囲で、助けてる!

助けてるんだけどさ!

今の俺、下忍に昇格して、卒業して、班編成待機とかいう妙な状態になったばっかりなんだけど! そこへこの介護ヘルパースキルアップタイムを差し込まれると、感情が追いつかないんだよ!

でも放っておけない。

放っておけるわけがない。

「大丈夫?」

「おお、すまんのう」
「これ、こうやって……」
「ゆっくりでいいよ」

結局、俺は荷車を押し、荷物を持ち、段差の手前で手を貸した。

特級お年寄りキラーは、今日もまた介護ヘルパースキルアップに勤しむ羽目になる。

違う、そうじゃない。

いや、分かってる。

これも俺のやることだ。
手の届く範囲で助けるって、そういうことだ。

でも、違う、そうじゃない!

と心の中で何度も叫びながら、俺は今日も年配者たちに囲まれていた。

下忍昇格の日の感慨が、全部そっちへ持っていかれていく。

ひどい話だ。

でも、ちょっとだけ笑いそうにもなった。

結局、そういうところから離れられないんだよな、俺は。

演習場へ着く頃には、空が少し傾いていた。

荷物を置いて、深く息を吐く。

下忍か。

早い。

でも、止まる気もしない。

胸の奥でそんなことを思いながら、俺は土の上へ立った。


〆栞
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