目撃

下忍になったからといって、急に日々の手触りが変わるわけじゃない。

朝起きて、飯を食って、祖母の声を聞いて、外へ出る。足が向く場所が学校ではなくなっただけで、身体の奥にある落ち着かなさは、むしろ少し増した気がした。班編成が決まるまで待機と言われても、じゃあその間どうしていろというのか。じっとしているには、頭も身体も余計なことを考えすぎる。

結局、俺は演習場へ来ていた。

人の少ない時間帯を選んで、外れ寄りの訓練場へ入る。まずは軽く肩を回し、足首をほぐし、腰を落として重心の位置を確かめる。五歳の身体は軽い。軽いが、まだ頼りない。出力の通し方を少しでも雑にすると、すぐに土台からぶれる。

準備運動を終えて、さて何をするかと考えた、その時だった。

森の影に、淀んだものが見えた。

ああ、いるな。

わざわざ近寄るまでもない。俺は足元のクナイを一本拾い上げ、指先で重さを確かめる。そこへ呪力を薄く纏わせる。ほんの少しでいい。低級を裂くには、それで十分だ。

振りかぶるでもなく、肩の力を抜いたまま投げる。

クナイは吸い込まれるように影へ走り、次の瞬間、くぐもった嫌な気配が霧みたいに散った。

よし。

歩いて回収し、血もついていない刃を見下ろしながら、俺は小さく唸る。

「うーん……」

やっぱり、重い。

いやクナイがじゃない。

俺の方がだ。

呪力量も、前世通り乙骨先輩と同等レベル。身体の小ささに合わせて表へ出る量は絞れているが、それでも底に沈んでいる総量そのものは誤魔化せない。どんなに努力して五歳レベルに落とそうとしても、無理なものは無理だと、こういう時に改めて思い知らされる。

五歳児になる。

それは間違いなく、全人生をひっくるめて最も過酷な任務だった。

いや、待て。

赤ん坊よりはマシか。

その瞬間、乳とオムツと発声能力不足に苦しんだ地獄の記憶が走馬灯みたいに蘇って、思わず遠い目になる。

……うん、あれよりはマシだな。

たぶん。

クナイをくるりと指先で回して、俺は演習場の中央へ戻った。

さて、どうするか。

ただ身体を動かすだけじゃつまらない。下忍昇格のあとで、妙に身体の奥が熱を持ったままだ。火影相手に昂った火が、まだ少し残っている。だったら、何か仮想の相手を置いた方がいい。

誰にする。

頭の中で記憶を探る。

虎杖は、違う。
恵も違う。
乙骨先輩だと少し重すぎる。
真依は――いや、今の気分じゃない。

真希さんにするか。

そう決めた瞬間、身体の芯が少しだけ引き締まった。

術式も何もいらない、フィジカルギフテッド。

純粋な肉弾戦。
武器を使った戦い。
あの人の間合いと踏み込みは、考えるだけでこっちの背筋が伸びる。前世で何度も見た。何なら近くでぶん投げられたことすらある。雑に見えて雑じゃない。力任せに見えて、軸が徹底的に整っている。

いい。

今日の相手は、それだ。

前世では主要武器ってわけじゃないけど、何かと便利だったサバイバルナイフ型の呪具ナイフを、俺はよく使っていた。取り回しがよくて、距離の詰め方に噛み合う。ここにはそんな気の利いたものはないが、クナイで十分代用できる。

一周目で慣れてるしな。

俺はクナイを軽く放った。

くるくる回転しながら落ちてくるそれを、足の甲で受け止める。そのまま、ぽんと軽く上へ蹴り上げた。

もう一度。

受ける。
蹴り上げる。
角度を変える。
また受ける。

サッカーのリフティングみたいに、クナイを落とさず蹴り続ける。最初は腰の高さ、次に胸の高さ、それから少しずつ上へ。刃の軌道を見て、落ちる位置を足裏で拾う。回転と重さがある分、ただの球より厄介だが、だからこそいい。

高く。
もっと高く。

最後は頭上よりさらに上まで上げて、俺も地を蹴った。

跳ぶ。

空中で体をひねる。

そして、その軌道の先にいた呪霊へ向けて、クナイを蹴り飛ばす。

低級の一体が、木の枝の陰で口を開けていた。気づいていたのか、たまたまそこにいただけなのかは知らない。どっちでもいい。蹴り出した一閃は、空気を裂いてその額へ突き刺さり、気配ごと散らした。

威力は上々。

着地して、飛んでいったクナイを拾いに行く。

土を払って指でなぞると、刃先はまだ十分使えた。

「んじゃあ」

小さく呟く。

「目の前に真希さんがいると思って、やるか」

そこで、意識の置き方を変える。

ただの演習場じゃない。
ここは高専の運動場。
乾いた地面の匂い。
遠くで誰かが騒いでる気配。
空の広さ。
その中へ、あの人が立つ。

黒い影みたいに真っ直ぐで、容赦なくて、気配を殺すつもりもないくせに、気づいた時には懐へ入っているような人。

イメージを膨らませて、俺は身構えた。

右手にクナイ。
足裏に少しだけチャクラ。
肩の力を抜いて、目線を落としすぎず、でも上げすぎず。

すると、頭のどこかで、のんびりした声がした。

仮想パンダ先輩だ。

始め!

その一言で、世界が変わる。

真希さんが来る。

そう思った瞬間には、もう身体が動いていた。

踏み込む。
違う、早い。真希さんはそこにいない。
軸をずらす。
横から来る。
クナイを上げる。
叩き落とされる。
蹴りが来る。
避ける。
いや避けきれない、肩で受ける。
痛い。
でも止まるな。

頭の中にいるだけの相手なのに、動きはやけに鮮明だった。あの人はたぶん、こういう位置へ立つ。ここで無理に打たない。そう見せて、次の次で折りに来る。だから一手目から読み合っても意味がない。こっちが先に崩される。

ならどうする。

足を使う。

五歳の身体は軽い。真っ向勝負じゃ勝てない。なら、下を食う。クナイを手の中で回し、外へ見せて、そこで切る。半歩ずつ、半歩ずつ、近づいて、離れて、また入る。

ああ、強い。

仮想のくせに、やっぱり強い。

真希先輩、やっぱり強い!

内心でほとんど叫びながら、俺は夢中になっていた。

どこから見られているかも知らずに。

演習場の少し離れた木立の向こうで、波風ミナトは足を止めていた。

隣には自来也がいる。

本来なら軽く演習場を覗いて終わるつもりだったのだろう。だが、そこで動いていた小さな影に、二人とも足を止めざるを得なかった。

「……おいおい」

自来也が低く漏らす。

五歳かそこらの子どもだ。だが、動きが違う。ただ上手いだけではない。相手の位置を空想しているはずなのに、その仮想の間合いが生きている。踏み込みに迷いがなく、しかも一手ごとに修正が入る。失敗を失敗のまま流さない。

ミナトは黙って見ていた。

金の髪が、枝の隙間から落ちる光を受けて静かに揺れる。

うちはオビト。

火影室で名だけは聞いた子だ。

だが、こうして実際に目へすると、話は違う。子どもの体格で、あそこまで“見えない相手”と渡り合える動きは、普通ではない。しかも楽しんでいる。恐れではなく、純粋に、強い相手と手を合わせることへ熱が入っている。

「面白ぇガキだな」

自来也が言う。

だがミナトは、面白いだけでは済ませなかった。

あの火は何だろう、と静かに思う。

子どもらしい無邪気さだけではない。何かを越えたあとに残る種類の昂りだ。まだ名も顔も知らぬ少年なのに、妙に目が離せない。

また別の角度から、その演習を見ている者もいた。

はたけサクモだ。

たまたま通りかかった、と言うには足の止め方が静かすぎた。彼もまた、最初はただ、訓練している子どもがいると気づいただけだったのだろう。だが一度見てしまえば、それで終わるような動きではなかった。

クナイを扱う手。
踏み込み。
間合いの食い方。
空へ上げた刃を、呪霊ごと蹴り抜いた一手。

サクモの目が、わずかに細くなる。

あの子は本当に、落ちこぼれではない。

そういう再確認よりも先に、別のことが胸へ引っかかった。できるのに前へ出たがらない。けれど、夢中になった瞬間には、周囲を忘れるほど深く入る。その切り替わり方が、少し危うく見えた。

強い子だ。

だが、強い子ほど、時に一人で入り込みすぎる。

サクモはそれを知っている。

当の俺は、そんなことに気づきもしなかった。

ただ純粋に、夢中だった。

クナイを握り直す。

打つ。
払う。
捌く。
足を滑らせる。
受ける。
蹴る。
離れる。
また入る。

真希さんならここで容赦なく来る。
じゃあ一手早く。
でも読まれてる。
なら逆へ。

息が上がる。
肩が熱い。
足が少し重い。

でも、楽しい。

こんなふうに何かを考えず、ただ強い相手を仮想して、土の上で身体を回すのは久しぶりだった。学校での窮屈さも、一族の視線も、火影の前でやらかしたことも、今は少しだけ遠い。

最後にもう一度だけ、大きく踏み込んで、クナイを振るう。

仮想の真希さんはたぶん、それをいなして膝を入れてくる。

分かってる。

分かってるから、半歩引いて、逆に足を払う。

空を切るはずのその動きが、自分の中ではきちんと相手へ届いた気がした。

そこでようやく、俺は止まった。

「……っは」

息が乱れている。

胸が上下する。

額へ張りついた髪をかき上げて、呼吸を整える。喉の奥が少し乾いている。土の匂いが濃い。腕も脚も熱い。

でも、満足した。

ちゃんと動けた。
まだやれる。
もっと詰められる。

そういう感覚が、身体の中に残っている。

「よし」

小さく呟いて、クナイを腰へ戻す。

そのまま俺は満足した顔を浮かべ、演習場を後にした。

背中へ向けられていた三つの視線に、最後まで気づかないまま。


〆栞
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